淵にありて沈まず・・・ H さま ひのよぉーじぃーん… 拍子木の音と共に声が遠くから聞こえる。 灯りの無い部屋。 陰間茶屋の一室には二人の男がいた。その内の一人が窓から差し込む僅かな月明かりを頼りに身を起こした。 灯を点けると薄暗い明かりが部屋を浮き上がらせる。閨事をする為のみに存在するその場所は情事が済めばみすぼらしい一室だった。 一人の男は蒲団から抜け出すと、着物を手早く纏う。 灯りの元で体がぼんやりと照らされた。その人物は若い男だった。 やや痩せ気味の薄い胸板。手足は細いが若い敏捷性を秘めた白い肢体だ。男はまだ二十歳に満たない少年だった。 「もう行くのか」 蒲団にまだ寝ていた少年の情事の相手は問い掛けた。 少年はちらりと視線を床に落とした。 其処にいたのは三十路も半ばの男だった。優顔だが男の渋みがある中々の美形だ。だがさりげなさを装いながら未練がましく見てくる目が少年は気に入らなかった。 口元に薄い笑いを浮かべて帯をつける。 「もう時間だから」 「まだ九ツまで一刻以上あるというのに」 「貴方は此処に残ればいい。僕はもう帰るよ」 淡々と男の未練を交わす少年。 先ほどまで己の腕の中で甘い吐息を漏らし善がっていただけにその姿が男には憎らしく感じた。 男も身を起こし、盆を引き寄せて煙管に火を点ける。ゆっくりと煙を吐く。 白い煙が裸の男と袴をつけようとしている少年の間をゆらゆらと彷徨い、そして消える。 袴を穿き終えて着物の乱れを直す。激しい情事の為に髪が乱れていたのに気付き手で解れを直そうとする。 だが彼の黒髪は重く量が多いので言う事をきかない。苛立たしげに舌打ちをし、意味を成さなくなった元結を小柄で切る。艶やかな髪が生き物のように流れた。 少年は短くなった元結を使って再び髪を項の辺りで結い直す。 男は色香を増した姿に目を細めた。口を開けば憎たらしい小僧で有りながら、稚児にも負けぬ男を蕩かす色香と、髪型一つで印象が直に変わる類稀な容貌。 男は告げる。 「私にはお前が分からないよ」 少年は冷ややかな目で男を見た。口元には相変わらず不思議な微笑を浮かべたままである。 「僕の事は何も聞かないのが約束だったでしょう?」 「残酷だな、お前は」 「それを承知で僕を抱いたはずだ」 「ああ。そうだったな…」 男は手を伸ばし、少年の手を取る。 「どうして私に抱かれるのだ?」 「・・・・さぁね」 「私は似ているのか?」 誰に、とは男は言わない。 しかし二人にはそれが誰を指すのかは分かっていた。男は未だ見ぬ少年の片恋の相手に嫉妬する。 少年は口元の笑みを消し、手をそっと外した。男の問いには答えずに襖に向かう。 そのまま廊下に出ようとした少年の背中を男は再び呼び止めた。 「…せめてお前の名前だけでも良いから教えてくれ」 「霞桜」 「それはお前が名を明かしてくれぬから勝手に私が呼んでいるだけだ」 「―――互いに詮索をしないのが約束だったはずだ」 少年は背中を向けたまま苛立たしげに告げた。 「約束が守れないのならば今宵限りにしてもらう」 「済まなかった。だからそのような事を言わないでくれ」 「―――ならばまた明後日にこの部屋で」 少年は肩越しに部屋を一瞥すると襖を閉めた。 <2> 勇さんよ、と歳三は声をかける。 書を読んでいた近藤勇は顔を上げ長年の親友である義兄弟を見た。歳三はチラリと視線を背後に動かし、障子の向こうに人がいないのを確認してから普段よりも小さな声で話し掛けた。 「最近の宗次郎の奴は一体どうなってんだよ」 近藤は一瞬歳三に視線を向け、そして顎に手を当てて視線を伏せる。 「お前も気付いていたか」 「気付かねぇも何も、此処に居る奴等は皆気付いているぜ」 ただそれを口にしねぇだけだよ、と付け加える歳三。 二人の間に沈黙が流れた。 近藤の弟子であり、誠衛館に住む人間では最年少の沖田宗次郎は彼らにとっては歳の離れた弟のような存在であった。 年長者の中で幼い頃から育ってきたせいか、子供っぽい仕草をするが心は成長が早く、また剣術に関しては天賦の才があった。 そのせいか彼には何処か近藤や歳三であっても掴み所の無い妙な性格を一端に潜めている。しかし彼は真面目な少年で近藤達の導くままに育っていた。 だが、二月ほど前から彼の様子が変わってきた。 ある日、無断で外泊をしたのが発端だった。 近藤は無断で外泊した彼を責めなかった。己の目から見ればまだまだ子供の様に見えるが、宗次郎はもう十八歳である。惚れた女の一人でも出来たのであろうと思い、寛大に処した。 歳三や誠衛館に住む食客達も最初は宗次郎を冷やかしもしたが、彼は曖昧な笑みを浮かべただけで如何なる詮索にも応じなかった。 それ以来、宗次郎は夕暮れ時になると誠衛館を抜け出すようになる。 最初は十日に一度ほどだったのだが、最近では日をろくに空けずに出掛けている。足しげく通うわりにはいつも決まって宗次郎は乱れ髪をしておきながら気だるい冷めた表情をして帰って来ていた。 次第にからかい半分に宗次郎を見ていた一同にも疑惑が広がる。 言葉には出さないが、彼らは無言の内に彼の関係に何かが潜んでいる事を察知していた。そしてそれは気まずさへと変化してゆく。宗次郎はそれを敏感に察知すると、誰とも言葉を交わさなくなってしまった。 道場にいる以外は終始部屋に引きこもるか庭を一人眺め、そして夕方には着替えて裏口からそっと家を出る。 そんな日々がもう既に十日以上経っていた。 「自慢じゃねぇが人より少しは遊んだ俺が言うから間違いねぇよ。 なあ勇さん。宗次郎が通っている奴は堅気の娘じゃねぇ。ありゃ相当な毒婦だぜ。 考えてみろよ、俺達があいつくらいの頃って言えば抱いた女の事なんざぁ聞かれなくても自慢していたもんだぜ?男って言うのはそんなもんだ。 ところがあいつと来たら何も言やしねぇ。…マトモじゃねえのは間違いないな」 近藤の口元が強張る。歳三はやはり近藤に言うべきではなかったのではなかろうかと思いながら目を伏せた。 「・・・・折を見てあいつに聞いてみる」 歳三は内心近藤は甘いと思った。今すぐにでも宗次郎を呼び出して問い詰めるべきだと思っていたが、親友の顔を見ているとこれ以上彼を追い詰める気にはならなかった。 「なるべく早くしたほうがいいと思うぜ」 <3> 「あ…あっ、あっ」 男が霞桜の内壁の最奥に己で突く度にしどけなく開いた唇からは嬌声が洩れる。 眉間に皺を寄せ、仰け反らせた顎は細い。 白く細い胸は弓形にしなって汗で輝いている。 男を受け入れている其処は貪欲に男自身を締め付けまた霞桜自身も男の手によって体液を止まる事無く溢れさせている。 足を限界まで開かされ、卑猥な体位を取らされていながら霞桜は恥ずかしがる事無く男を受け入れている。男は己の腕の下で淫らに動く白い身体に導かれるままに腰を動かし続けた。繋がったそこが卑猥な音をだす。 「ああ…ああ」 女の蜜壺よりも更に締め付ける霞桜の菊座に男は脳を痺れさせられるような快感を覚える。 本能のままに霞桜を善がらせて霞桜自身を握る手に力を込める。 霞桜は出口を失った快楽に暴れた。一際甲高い声を上げて身体を痙攣させる。強く瞑った双眸から生理的な涙が流れた。 「・・・・っしさんっ」 男の表情が変わるのと、霞桜の内壁が男自身を締め付けて男を果てさせたのと、男の手が止まった事で霞桜自身が果てたのはほぼ同時だった。 荒い息をしながら霞桜がうっすらと目を開ければ、果てたばかりとは思えない表情をした男がいた。 血走った目。嫉妬に醜く歪んだ男の顔。 ぼんやりとそれを見ていると男の両手が細い喉を締め付けた。 「ぐっ…」 「今、男の名を言ったな…?」 霞桜の眉間に深い皺が寄り、男の手を剥がそうと無意識に手を動かす。 だが平静を失った男は構わず首を締める手に力を込める。髪を振り乱し、苦しみ歪む顔に迫る。 「言えっ、誰だ!お前の求める男は誰だ!」 霞桜は指に渾身の力を込めて男の指を僅かに剥がす。辛うじて空気を吸い込むと唇を動かした。 「知って・・・どう、するっ」 苦しみながら、顔の血が行き場を失い赤くなりながらも、霞桜の目は鋭い。生理的に浮かんだ涙の向こうから冷たく男を見ていた。 男の目が途端に戸惑い、勢いを失う。体重をかけて締めていた手を緩める。霞桜は男の手を剥がすと咳き込みながらも口を開き空気を求めた。 途端に深い後悔の念に襲われた男は、身を丸くして肩を上下させている少年を呆然と見る。 「私は…」 手に未だ残っている感触が恐ろしいと感じた。 自分でも計り知れない衝動に男は混乱する。たった今まで自分がした事と、そして霞桜に放たれた容赦無い拒絶に男の心は傷ついた。 次第に悲しみが男を襲う。霞桜から身体を動かすと蒲団の上に呆然と座った。 「許してくれ…私は、決して殺めるつもりは…」 「もう良いよ」 息を整えた霞桜は少し掠れた声で応える。蒲団に横たわったまま男を見ずに部屋の端の灯に視線を向ける。 「どうすれば良いのか分からないのだ。 お前が愛しくて、愛しくて仕方ないのに、お前を捕まえる事が出来ない…」 「こうして何度も寝ている」 「私はお前の心が欲しいのだ」 「無理な事を言いますね」 霞桜はまだ痛みを覚える喉を押えながら起き上がる。 白い肢体には先ほどまでの激しい情交の最中に着けられた紅い痣が扇情的に浮かび上がっていた。 その未だ成熟しきっていない横顔は静かに強張っていた。 「もう、止しましょう。貴方には僕を捕まえる事は出来ないし、僕も貴方の物になるつもりは無いから」 「私から逃げるのか」 「そうじゃない。だがこれ以上僕達が関係を続けていても何の得もないでしょ?」 「私は・・・・」 霞桜は身を起こし、襦袢を引き寄せて着替え始める。 男を一切無視した、まるでこの場には自分一人だけがいるような動作に男は言葉を失った。 灯りの無い部屋で沈黙が続く。 一人だけの衣擦れの音だけが響いた。 「どうしても、駄目なのか」 「そんなに僕を独り占めしたいの?・・・・つづらの箱にでも閉じ込めるんですか?」 薄暗がりの中で霞桜の唇は歪められ、辛うじて笑みを作っているのだと男には見分けられた。 <4> 闇の中から微かな足音が聞こえる。 近藤は顔を上げ、障子を開けた。そして裏口へ向かう。 「先生…」 「宗次」 また夕暮れと共に誠衛館を抜け出た宗次郎は寝静まった夜半にひっそりと帰ってきた。 髪は乱れ、着崩れもしている。明らかに誰かと肌を重ねてきたのは夜目でも近藤に見て取れた。 宗次郎は少し表情を変えたが、顔を伏せて近藤が立つ廊下に上がる。 そのまま近藤の横を通り過ぎようとしたが彼の力強い手が宗次郎の手首を押えた。 「何だそれは」 怒りを押えた硬い声色。 宗次郎は身を固くした。首を捻って若い師匠を見る。 「その首は何だ…?」 細い首には赤い痣がはっきりと残っていた。 宗次郎はとっさに開いている手で首を隠す。近藤は周りに気遣って小さいが低く迫力ある声で詰め寄った。 「誰にやられたのだ?いや、お前は何をしてきたのだ?」 「・・・・・」 顔を背け近藤の視線から逃れる宗次郎。 「一体何をしているのだ?お前くらいの年頃ならば女に夢中になるのも当然だと思って何も言わなかったが、最近のお前はおかしいぞ。 宗次。お前は一体どんな女と・・・・いや女にそんな痕を着ける事など」 表情が次第に変わる近藤。宗次郎は近藤の手を振り払った。頭を激しく揺らす。 「大丈夫です」 「宗次」 背中を向けて宗次郎は近藤の横をすり抜ける。 「もう終ったから。もう大丈夫ですっ」 「待て、待つんだっ」 近藤の制止を振り切り、宗次郎は足早に廊下を歩き、己の部屋に引き篭もる。 後ろ手で障子をしっかりと閉ざしたまま立ち尽くす宗次郎。 近藤は廊下側から空けようと手をかけるが硬く閉ざされ、微かな物音を立てただけだった。暫く近藤はそのまま宗次郎の影を見ていたが、溜息と共に立ち去った。 近藤の気配がなくなったのを感じた宗次郎はずるずるとそのままの姿勢で崩れ落ちる。ゆっくりと両手で顔を覆う。 「ご免なさい…」 涙は出なかった。だが声は掠れて震えていた。 「・・・・っしさん・・・・」 宗次郎は己がとてつもなく惨めに感じられた。 灯りの中部屋で宗次郎の両手は昂ぶる感情で震えていた。 <5> 近くの寺院から聞こえてくる鐘の音に反応して宗次郎は顔を上げた。 日は沈もうとしていており、東の空は黒い闇が迫り始めている。気付けば一日があっと言う間に過ぎてしまったものだと宗次郎は感じた。 一人道場で稽古をしていた宗次郎は汗を拭い木刀を掛けた。白の胴着に濃紺の袴を着た彼の姿は薄暗いその空間から精錬に浮き上がっていた。 「お前さんまだ稽古していたのかい?」 入り口から西日を背後に若い男の声が宗次郎にかけられる。 「八郎さん」 「灯りくらいつけたらどうだい?」 「いや。もう上がるところだったから」 宗次郎は八郎が立つ出入り口に向かう。 八郎と宗次郎は廊下を並んで歩く。八郎はさりげない口調で宗次郎に問い掛けた。 「今日も泊まるのか?」 「…出来ればそうしたいな」 「あー…お前さんが考えている様なことじゃないぜ。客の一人や二人増えたところでどうってことないからな」 伊庭八郎は江戸屈指の剣術道場である心形刀流の嗣子だ。誠衛館と違って名実共々世間に知られており、住み込みの門下生も少なくない。 三日前にふらりと現れて暫く厄介になりたいと宗次郎が言ってきてもさして驚かずに事情も聞かずに受け入れた。八郎は宗次郎と年齢も近く、また互いに天才肌の剣豪である。性格は違っていたが互いに気心の通じるところが多く何も事情を説明せずに門下生と剣を交える宗次郎を黙って見守っていた。 しかしその内話し出すだろうと思っていたが宗次郎は一言も事情を言おうとしない。 「ただな、お前さんがこんなに長い間此処に居座るのが珍しいと思ったのさ。…近藤さん達と何かあったのかい?」 優しく話し掛ける八郎に宗次郎は頭を左右に振る。 「大した事無いから。ただ、ちょっとね」 「お前さんの首に薄っすらと残るその痕を見ると『一寸』の事とは思えないぜ」 「・・・・・」 八郎は少し間を置いてから再び口を開いた。 「この前、上野で土方さんに会ったんだが…お前さん通っている奴がいるそうだな? しかも随分と入れ込んでいるようだが。それと此処に来たのは何か関係が有るのかい…?」 「・・・・それは」 宗次郎は言葉を慎重に選ぶ。視線が不安定に揺れた。 「もう終った事だから。ただ若先生と顔を会わせる勇気が無くて…」 八郎の眉間に皺がより、歯切れの悪い宗次郎を問い詰めようとした時だった。 何時の間にか足を止めて廊下に立っていた二人の下に若い門下生が小走りに歩み寄ってきた。溝口という八郎や宗次郎よりも少し年上の男だった。 「お話中のところ申し訳御座いませせんが、火急の件が御座います」 内心八郎は宗次郎との会話を続けたいと思っていたが、溝口の固い表情を見て気持ちを切り替えた。背筋をすっと伸ばして彼を見返す。 「どうしたのだ」 「牧野殿が、脱藩いたしました」 「何だと」 八郎は表情を崩した。 「本当に牧野殿が脱藩しただと?あの牧野兵九郎に間違いないのか?」 「間違い御座いません、先ほど同藩の柘植が伝えにきました」 溝口の顔は強張っていて、そのために唇は言葉を時折もつれさせた。 宗次郎は牧野兵九郎、という名前が誰であったかを思い出した。無数にある門下生名を記した木札の師範代達の次に掛かっていた名前だ。 八郎は瞬時に思考を巡らせる。若年者でありながらも威厳をもって溝口に話し掛ける。 「親父殿は知っているのか?」 「いえ。今日は外出なさっておられまして」 「そうだ、そうだったな」 「八郎殿、牧野殿は家に戻っておらぬそうです」 「戻っておらぬとは?」 「はい、昨夜内儀に離縁を申し付けてそのまま消えてしまったとの事で御座います」 八郎は腕を組み俯く。彼には何故牧野が全てを捨てたのか理解出来なかった。 牧野はさして大きくは無いがそれなりに安定した藩の江戸詰であり禄高は悪くなかった。誠実で実直な性格は皆から好かれ、剣術の腕もさることながら学術も優れていて道場に通う若い侍達に漢詩を教えていた。妻も子もおり、何一つ不満など無いはずである。 そこで八郎はある事に気付いた。 「そう言えば牧野殿は此処一月ほど道場に姿を見せておらぬように感じたが」 「はい一月半ほど前から次第に足が遠のいておりました」 「何か有ったのか…?」 八郎はほぼ独り言のように呟いた。 宗次郎は八郎と溝口を交互に見ながらそのやり取りを聞いている。 「まあいい。兎に角牧野殿を探す事が先決だ。道場としても彼のような優秀な男が抜けられては困る。溝口、お前は心当たり無いか?牧野殿が行きそうな場所とか」 「それが…」 溝口は歯切れ悪く言葉を途切れさせた。 視線を床に落とし、それから宗次郎を見た。八郎はその視線の意味に直ぐ気付き頷いた。 「こいつのことなら気にするな。口は堅いし俺の身内同然の仲間だ」 「は・・・」 「遠慮するな。心当たりがあるんだろ?」 「ええ。実は五日ほど前に葭町のとある茶屋で見かけたというものが居りまして」 「牧野をか?」 八郎は怪訝な顔をした。牧野は妻以外の女性には一切目を向けないほどの潔癖な男であった。それが陰間に溺れるとは想像もつかなかったのである。 溝口はその者に(恐らくは門下生の一人であろう)に遠慮して『その者が言うには』と付け加えてから話す。 「最初は何かの間違いかと思ったようですが…笹竹の文様が入った大刀を差しており、背格好も違いないと言っております」 「そうか。陰間にな…。で、何処の店に入ったのかまで分かるか?」 「はい寿々屋という店で」 「案内出来るか?」 「その者に聞いてまいりましょう」 溝口は頭を下げてその場を足早に去る。 それを見送ってから八郎は宗次郎を見た。宗次郎は目線で彼を促していた。 だが八郎は宗次郎の手首を掴むと厳しい目で問い詰めた。 「お前、何かを隠しているな?」 宗次郎の顔に一気に動揺が見えた。身体を強張らせる。 「今、寿々屋という名に反応したな?」 無言で頭を振る宗次郎。八郎は何かを直感した。 「知らないというか?ならば良い。お前も俺と一緒に来い。此処まで話を聞いたならばお前も当事者の一人だ」 <6> 芯を切った薄暗い灯りの元で、男は一人酒を飲んでいた。 部屋には誰も入れず一人分の膳を前に料理には一切手をつけずひたすらに酒を飲んでいる。 無精髭が伸び、月代も剃らずにいた男は数日前までの凛とした武士の姿と一変していた。彼を良く知る者が今の男を見ても見分けがつくか分からぬほどのやつれた姿である。 「君と寝ようか…五千石取ろうか…何の五千石君と寝よう…」 男は常磐津を掠れた声で口ずさむ。 瞳は遠くを見つめ、暗い。 廊下から力強い足音が響いてきても男は反応せず、ぼんやりと手元に残った酒を唇に運ぶ。 襖が開いた。光が廊下から差し込む。影が男の視線の先に映った。 「牧野殿」 名を呼ばれ、男は視線を上げた。襖に手をかけた伊庭八郎が自分を見ていた。 「八郎殿…」 「やっと見つけたぞ。本当にこの様な場所に居られるとは」 「意外で御座いますか」 「ああ意外だ。貴殿が家も藩も捨てたのも意外すぎて俺には分からないよ」 牧野は力なく自嘲する。 「私もですよ。何だってこんなにあの少年に狂わされたのか、自分でも分かりません…」 「惚れた稚児でもいるのかい?」 「…いいえ。彼は稚児では無い。武家の者です。偶然、日本橋の辺りにいるのを見つけて余りにその背中が寂しげだったので声をかけたまで」 男の視線は遠くなり、今では遠い過去のように感じる出会いを思い出す。 藩の仲間と酒を飲んで帰宅する途中だった。月夜の下で少年がぽつんと立っていた。まるで失恋をしたような寂しい顔をして川を眺めていたので、つい声をかけたのだった。 月光の元で間近に見た少年の中性的な美しさに目を奪われ、このまま分かれるのが惜しくなり、目に付いた茶屋に彼を連れた。 少年は一瞬身体を強張らせたが直に男の胸の中に身体を委ねた。「恐くないのか」と問えば少年は寂しく微笑んで答えた。 「貴方の声と指が好きだよ」と。 「何も問わない身体だけの関係のはずと、私は理解していたはずだったのに…。 のめりこむ私に対して、彼は常に同じ態度だった。それが悔しくて憎らしくて、どうしてよいのか判らず…。 もう、私には彼のいない世界など考えられない」 長い沈黙の後、独り言のように呟く牧野を八郎は腕を組んで見る。恋に狂った男を見るその眼は複雑な気持ちを内心に抱えつつも冷静だった。 「そいつは、一体誰なのか存じておりますか」 「線の細い色白の少年で両手にはくっきりと剣胼胝が出来ています」 「…名も知らぬのか」 「何も問わぬのが約束だった」 「もう良いよ」 八郎は深い溜息をついた。顔をすっと上げ、廊下に視線を向ける。 「―――聞いたか、お前」 廊下の向こうにかけられた八郎の声に応ずる声は無い。だが気配は確実に存在していた。 酒で覚醒しきれない牧野にも八郎が何かを暴こうとしているのは漠然とながらも理解し始める。 「来いよ。何時まで隠れているつもりだ」 低く一切の抵抗を許さぬ威厳のある声。八郎は静かに怒りを発していた。 小さく息を呑む音が牧野の耳に聞こえる。そして彼からは見えぬ廊下から静かに足音が部屋に近づいた。 襖に目を向けていた牧野の表情が次第に驚愕に変化する。 硬い表情をした少年が八郎の隣に立ち、牧野を見る。 男は無意識に唇を動かした。 「霞桜…」 「・・・・・」 硬い表情のままの宗次郎と、唇を薄く開いたまま凝視している牧野を八郎は冷静な、しかし何処か怒りを秘めた目で観察する。 「やっぱり、な」 八郎は宗次郎の背中を軽く押して部屋に入れて後ろ手で襖を閉めた。 途端にこれから暴かれる現実に宗次郎は息苦しさを感じ始めた。 「どういう事か説明してもらおうか」 「…八郎さんの思っている通りだよ」 宗次郎の声は低くくぐもっていて聞き取り難い。だが二人はじっと耳を澄ます。それが宗次郎に言葉を止めさせる事を許さなかった。彼は激しい恥辱で泣きたくなる涙を必死に押えた。 「僕はこの人を利用した。けど、それはこの人だって分かっていたはずだ。だから名前も身分も聞かないと最初に約束したんだ」 「だからお前は自分に咎は一切無いと言うのか」 「そうじゃない、そうじゃないけれど」 突然牧野は立ち上がり、宗次郎の腕を掴んだ。予想外に強い腕に宗次郎は身を固まらせた。 二人を引き離そうと八郎の手が伸びる。 「霞桜、私と共に来てくれ」 牧野の強張った表情は怒りではなく緊張が原因だった。八郎は縋るような弱弱しい声音を聞き、とっさに手を止めた。 牧野は宗次郎の双眸を見つめ、傍らに八郎が居る事すら忘れていた。 「お前は言ったな?『つづらの箱にでも閉じ込めるのか』と。 ああそうだ。私はお前のいない世界など考えられぬ。お前を自分だけの者にしたい。他の物など一切要らぬ。だから家も藩も身分も全てを捨てた。 頼む…私と共に来てくれ。お前が何者でも構わない。だから…」 少年の顔が蒼白になったのは薄暗い部屋の中でも容易に見て取れた。 薄い唇が息を呑み、頬の筋肉が引きつる。 宗次郎は本能的な恐怖から牧野の腕を引き剥がした。 「止めて…恐ろしい事を言わないでくれっ」 その時の宗次郎には幾度も肌を重ねたはずの男が別の恐ろしい生き物に見えた。まるで望まない情念の奈落へ引きずり込まれる恐怖に彼は悲鳴を上げる。その時、己の為に総てを捨てた男だという事を一切忘れていた。 「僕は何も望んでいないっ、あなたが勝手に本気になって、好きだとか総てが知りたいとか言い始めてっ! 何で僕があなたの為に総てを捨てなくちゃいけないの?僕には・・・・あの人が胸の中にいるって知っているのでしょ?」 感情が昂ぶった宗次郎は今まで決して口にしなかった事までも叫んだが、本人はその事の重要性に気付いていない。八郎は声こそ上げなかったが表情を変えた。 激しい拒絶を受けた牧野もまた振り払われた手を握って宗次郎を食い入るように見る。 「どうしても…駄目なのか」 掠れた静かな声。 宗次郎の激情とは対照的な打ちひしがれた声だった。宗次郎は冷静さを取り戻し気まずい表情をする。 牧野の縋るような視線。 八郎の二人を交互に見る緊張した視線。 宗次郎の動揺し不安な視線。 気まずい沈黙がその部屋を支配する。 宗次郎は伏せていた視線を上げた。じっと男の顔を見ると静かに頭を下げた。 「…僕はあなたに着いていけません。 理由は…あなたはもう知っていますよね?僕はあなたと幾らでも肌を重ねる事は出来ても心を差し出す頃は出来ない」 何処からも無く三味線の音が聞こえる。 物悲しい響きがその行き詰まった空気を彼らにとって更に辛くさせた。 「ふふ…」 低い声で牧野が笑い出した。額に手をあてて泣き笑いの表情を覆う。 「駄目か。私では駄目なのか。…分かっていた筈なのだがなぁ」 牧野は背を向けて背中で泣いた。だが喉の奥からは絶えず笑い声が聞こえる。 宗次郎は居たたまれない気持ちになって八郎の脇をすり抜け、襖に手をかけた。 「おい」 八郎が批難を上げるが宗次郎は手で払い、廊下に出る。襖をぴしゃりと締めた音がやけに響いた。数歩廊下を歩いたところで再び襖が開かれた。 「おいっ!」 悲鳴にも似た逼迫した声。 八郎が自分を必死に呼びとめようとしているのは分かっていた。だが宗次郎はそれを無視した。 何か八郎が他にも叫んでいるのを宗次郎は気付いていた。 だが、足早に其処から離れれば離れるほど声は聞き取れなくなり、そして気にかからなくなった。 (僕は何も知らない。僕が悪いんじゃない) 宗次郎は心の中で何度も繰り返しその言葉を言い続けた。 <7> 一週間が経った。 宗次郎は誠衛館に居た。表面上は以前の生活を取り戻し、毎日稽古に励み、食客仲間と冗談を言ったり他愛の無い会話をしていた。 「宗次」 その日の午後は小雨がぱらつく肌寒い日だった。 原田と永倉の将棋を隣で見ていた宗次郎は近藤に名を呼ばれて顔を上げた。気付けば近藤とは誠衛館に戻ってきてからも言葉をろくに交わしていなかったと宗次郎はその時思った。 だからその時の近藤の動作がどこかいつもと違っていた事にもさして気にかけずにいた。 「何でしょうか」 「ちょっと出掛ける。一緒に着いて来い」 「かしこまりました」 「先生…此処は」 宗次郎が近藤の背中を追いかけて着いた場所は小さな寺だった。 近藤は其処に着くまで何も話し掛けなかったので宗次郎も何かを感じていたが言葉をかけられなかったのだが、着いた場所は思いがけない場所であった。 「…まあ入れ」 近藤は門をくぐり境内に入る。大小様々な墓石の間を二人は通り過ぎる。傘に当たる雨音の他には何も音が無い。 宗次郎は近藤の歩く先に若い侍の姿を見つけた。いつもならば彼が着ないような地味な色の着物を着た八郎が木の下に立っていた。 宗次郎の足が止まる。 近藤と八郎は黙礼をした。近藤は振り向き、宗次郎を視線で呼び寄せる。宗次郎は再び思い出した恐怖に足がすくんだが、ゆっくりと足を進めた。 「あれを見ろ」 近藤に顎で示された先には墓石も未だ無い卒塔婆の前で屈む武家の女と少年が居た。小雨も降っているのに傘も差さずに二人は喪服を濡らしている。 八郎が親子を見ながら小さな声で言う。 「あいつの妻と一人息子だ」 宗次郎の傘を持つ手が揺れた。 八郎の整った顔に感情は無い。ただ極めて冷静に、宗次郎を突き放すように話す。 「お前があの部屋を出てからあいつはいきなり腹を割いた。俺がお前を呼び止めた時、あいつはまだ息が有った。だがお前が俺を無視して去っていく足音をあいつは聞いて、そして腹に刺した脇差を抜いて首の脈を切った。…俺が止める暇も無かったよ。 幾らもみ消そうとしても茶屋で腹と首を切って自害しちまわれちゃぁ…どう仕様も無かったぜ。 …あの親子はな、家を断絶させられて親族からは見放されて明日も知れぬ身になった。三千石の由緒ある家だったのに菩提寺では葬式も上げられずこんなちっぽけな寺でやっと経を唱えてもらったんだ」 宗次郎は女の細い背中と小さな子供の背中から顔を背けた。 「見るんだ、宗次」 無言で頭を振る宗次郎。髪を揺らすほど頭を振り、目を閉じて己を責める総てから逃げようとする。 近藤は傘を落とすと舌打ちをして宗次郎に歩み寄った。 決して大きくは無いが鈍い音が雨の中に響いた。宗次郎の手にしていた傘がゆっくりと地に落ちた。 宗次郎は殴られた頬に手を当てる。口内から鉄の味がする。ゆっくりと唇を開き指の腹で唇を撫でれば鮮血が指についた。 じっと指を見る宗次郎の肩を掴んで引き寄せると遠くに居る二人の親子の方に顔を無理やり向かせる。 「見ろ、あの親子を。あの親子が、一体何をしたというのか?何故男が死んだのか分かっているのか?」 「せん…せい…」 傷んだ口は言葉を上手く紡げない。 宗次郎は言葉を失った。近藤は総てを知っているのだ。今更ながらその事実に宗次郎は愕然とした。 視線の先では女の背中が揺れ、力なく屈んだ。覆われている顔はきっと泣いているに違いない。子供はおずおずと母親に近づき小さな手で彼女の肩を包み込んだ。 宗次郎の頬から涙が流れた。 顔が歪み、血で赤くなった唇は嗚咽を堪えて震える。 驚いた近藤の手が離れると宗次郎は地に膝を着いた。 「許してください…僕は…」 それ以上は言葉にならなかった。 宗次郎は髪を掻き毟り、涙は止まる事無く伝う。 八郎は宗次郎の足元に立ちじっと見下ろす。宗次郎の落ちた傘を拾い雨から彼を守った。 近藤は深い溜息をついた。 愛弟子を殴った右手の鈍い痛みは彼の心にも鈍い痛みを与えた。 彼もまた先ほど激情で落とした傘を拾う。 「伊庭殿。こいつを頼みます」 「かしこまりました」 二人の脇を歩き去ろうとする近藤を宗次郎の声が呼び止めた。 「先生、僕はどうすればいいんですか?」 「・・・・・お前には彼の墓前に姿を現す資格は無い。此処で懺悔して、そして戻って来い」 近藤の背中は冷たかった。だが拒絶はもう其処には無かった。 宗次郎は深々と頭を下げて若い師匠の背中を見送った。 八郎は宗次郎の薄い肩を包み、抱き寄せるようにして立たせる。 「ほら。服が汚れるだろ?」 「八郎さん…」 宗次郎は八郎の顔を見た。その落ち着いた顔は己とは同年齢とは思えないものだった。彼は八郎に向かってもまた頭を深く下げた。 「済みません…僕のせいで…」 「もういいさ。総ては取り戻しのつかねぇ事なんだからよ…」 なあ宗次、と八郎は問い掛ける。目は伏せられていて、表情は宗次からは見分けられない。 八郎はずっと気にかかっていた事が有った。 「どうしてお前は…いや、お前の本当に想っている…」 だがそれ以上を言葉にするのを八郎は躊躇い、言葉は途切れた。宗次郎は八郎の顔を見て、それから悲しく微笑んだ。 「それは…」 どうして言えようか。 僕が心の中で想っている人の名を。 あの人は僕を見てくれない。 僕は、臆病だからいう事は決して出来ない。 僕は、自分が恐ろしい。 一人男を殺したというのに。 彼に対して済まない気持ちはあっても、愛しているとは思えない自分が恐ろしい。 それでも…。 だけど…。 それでも僕はあの人への想いを消せない。 あの人以外を想う事なんて出来ない。 双眸からは涙がまた溢れ出す。 宗次郎の肩が揺れる。俯いて覗かせる襟首が酷く頼りげない。 八郎は黙って肩を抱いた。そしてそれ以上何も問わなかった。 遠くでは母と子供がゆっくりと墓前を立ち去ろうとしている。 雨は次第に粒が大きくなってきた。 少年は、己の心に潜む深く暗い情念の恐ろしさに震えた。 だが、それを知る者は誰もいない。 <了> 裏宝蔵 |