君の涙が見たものは (下)




気がつくと、そこにはもの言わぬ、兄とも思えた人の亡骸。
静かに涙を流す仲間たち。
総司は大きく呼吸を繰り返し、右手に握った刀を見つめる。
血に濡れた刃は行灯の灯りに煌く光芒を放ち、魅入る総司を引き込もうとする。
「っ!!」
まるで投げ捨てるように落とした重い刀が響かせる音。



総司は後ろも見ずに部屋を後にした。




「待て!総司っ!!」
いつの間に追って来たのか、背後から土方の声がかかる。
「待てって!!」
ぐい、と肩を掴まれ振り向かされる総司。
ふいに崩れる身体。
その身体を土方は抱きよせて支えた。
土方の胸に顔を埋めて肩を震わせる。その肩だけで総司は泣いていた。
「泣けばいいんだよ」
「…っ」
「泣けば楽になる」
腕の中に閉じこめて土方は静かに語りかける。
「でも…私がここで泣いたら、土方さんの泣く場所が…なくなっちゃう……」
「…総司…」
抱きしめているつもりの土方の身体は、いつの間にか総司の細い腕の中に包まれていた。
隊にあっては非情であり続けることを己に課している、子どものように感情を表さない土方が哀しくて愛しかった。
気丈に一人で強くなければならないと思い込み、自分の傷にさえ気付かぬふりをして心から血を滴らせる危うさや脆さを、全てこの腕の中に抱き締めてやりたいと思う。
「…今夜だけは…」
“鬼”の仮面を外せ、と。
感情の迸るに任せ、声を上げ、すべてを曝け出せ、と。
言葉にせずに、いつもより多弁な瞳が言っていた。
「…総司…」
この想い人はどこまで優しいのだろう、とふいに目頭が熱くなる。
声を上げて泣きたいのは、目の前で悲しみと苦しみに耐えている、この想い人の方なのに…。
「……」
土方の眦から一筋の雫が零れ落ちた。
「…土方さん…」
満足気に微笑む総司の唇に己の唇を重ねると、口づけしたまま抱き上げ自室へと入って行った。




「は…ん…。ぁ……」
行灯の灯りに浮かび上がる白い肌に散る花びらは、昨夜、山南が散らしていったものだ。
その赤い跡を消すように口づけの雨を降らせる。
すべて自分のものにするために。
這い回る感触に総司は敏感な反応をしめす。
そんなものに突き動かされて、土方は熱く悶える内部に己が欲望を突きつけた。
「っ…!」
まるで身体を二つに裂かれるような痛みに、放たれるはずの声は唇の中で言葉にはならなかった。
「う…」
くぐもるような土方の呻きが嗚咽に変わるのに時間はかからなかった。
「…馬鹿野郎…」
小さく放たれた呟きだった。
きょとんと見上げる総司に気づかず、土方は激しい突き上げを繰り返しながら、頬を伝う雫を止めることができなかった。
「俺だって……を、死なせ…なんか、なかった…んだ」
この二年、被り続けてきた“鬼”の仮面が剥がされた瞬間だった。
「…土方さん…」
総司は突き上げられ快楽に流されそうになりながら、目の前にある不器用で繊細な男の頭を引きよせた。
「んぁ…っ」
勢いで土方の欲望が最奥を突く。
それでも土方の頭を胸に招き子どもをあやすように撫でる。
「もっと…泣いたら、いいんですよ…。多摩の、頃のように……」
呼吸が苦しいのは総司自身も泣いているからなのか、それとも抱きよせた胸に巣食う業病ゆえか。
その胸が激しく痛みだした。
なくしてしまったものを、失ってしまったものを掻き集めるような土方の求めに、総司は胸の痛みを堪えながら応じた。
そんな総司に気づくこともなく、土方は熱い迸りを放った。
「…やま…の、馬鹿が…」
吐き出す息と共に呟き、覆い被さるように総司の上に突っ伏した。
土方は総司の胸に顔を埋め、止まらない涙を懸命に止めようとした。
後から後から溢れ来る涙は、今まで彼が負ってきた心の傷の深さを物語るには十分だった。
そんな土方を抱きしめる総司の表情は慈愛に満ちていた。
「……」
言葉にせずに、総司は土方を力一杯に抱きしめた。
ふいに意識が遠くなる。
“待って!…まだ…全部、受け止めて…ない…”
いま自分が意識を失えば、土方は悲しみの捌け口を失う。
“それだけは…”
どうしても避けたい。
土方の心の叫びを受け止めてやりたい。
他の誰でもない自分が。
「土方さん、土方さん」
何かに縋っていないと手放してしまいそうな意識を、土方の名を呼ぶことで繋ぎ止めておこうとした。
涙に暮れる土方はそんな総司に気づかず、痩身を抱きしめたまま動かない。
総司は抱きしめる腕の強さを感じながら、深い息を吐いた。




いつしか刻は移ろい、夜は白々と明けはじめる。
土方は腕の中にあるはずの温もりがないことに慌てて起き上がった。
布団は今まで自分がいた所だけが暖かく、総司が随分前に布団から抜け出したことを意味していた。
「…総司」
珍しく情に流され、優しく抱くことをしなかった自分が不甲斐なかった。
「…総司…」
愛しい者の名を呼ぶ自分の声が震えていることに気づいて思わず口を覆った。
自分はこんなにも気弱かっただろうか。
すべてを自分の中に封じ込め、“鬼”を演じ続ける自信ならあったはずだ。
山南の死をも、一つの通過点にしてしまうつもりでいたのに。



こんな朝に傍らに総司がいないことがこんなにも不安にさせる。



「…総司…」
土方は持て余していた自分の腕で自分を抱きしめた。



その日、山南の葬儀が営まれた。
手の空いている隊士のほとんどが参列した。
土方は表情も姿勢も崩さずに読経を聞くともなく聞いていたが、青白い顔で俯いて座っている総司を見つめた。
この数日でまた少し痩せたように思えるのは、総司に対して少なからぬ罪悪感のせいか。
時折、隣の永倉が気遣わしげに声をかけるが、それに曖昧な笑みを向けて小さく頷いている。
気になりはじめたらどうにもできないもので、土方は誰の目も憚ることなく立ち上がると総司の横に移動した。
「総司」
肩に手を乗せ、来いと促す。
否と首を振る総司だったが、右腕を掴まれ強引に部屋の外に連れ出される。
無言で廊下を進む土方の背を見ながら、足元から掬われるような眩暈を感じていた。
「そんな青い顔して出てくるヤツがあるか」
「私が…出ないわけに、いかないでしょう…」
背中越しに投げられた不機嫌な声に返事をするが、自分でも可笑しくなるくらい弱々しいものだった。
自分には山南と最後の別れをし、それを送る義務があるのだと、ふらつく身体を叱咤して葬儀へと参列したのだ。
総司の部屋の前まで来ると静かに障子を開け、小さい肩を抱くようにして部屋に入る。
「寝ろ」
厳しい表情で命令口調の土方に総司は怯えたように立ち尽くしていたが、やがてゆっくりとその場に座った。
「おい」
俯いたまま顔を上げようとしない総司に低く声をかける。
それでも顔を上げようとしない。
「寝ろと…」
細い身体を横たえようと肩に触れながら言った言葉の続きは唇から放たれることはなかった。
ふいに倒れこんできた身体を咄嗟に支えた。
「…総司…?」
「…少しだけ…こうして、いて?」
と呟く。
甘えるような、縋りつくような、あまりに弱々しい姿に土方は支える手に力を込めた。
障子越しの冬の日差しが、身をよせあう2人に静かに降り注ぐ。



「…昨夜は悪かったな…」



「どうして、謝るんです?」



「あなたが謝ることなんかないんですよ。あれは…私が望んだことですから」
土方に“鬼”の面を外せ、と言ったのは自分だ。
山南のために涙を流し、泣き疲れるまで泣いて眠りに落ちるのを見届けた。
身体は悲鳴を上げているが、少しでも土方の心が軽くなったようで、それだけで満足だった。

「俺が他人のことで泣くのは、あれが最初で最後だ」
「近藤先生のことでは泣かないんですか?」
面白がっているのが分かる口調で聞き返す。
「ああ」
「……」
我知らず、深いため息が零れた。
微熱があるのか、身体が鉛を抱いたかのように重い。
「昨夜はちゃんと寝たのか?」
頭上から降ってくる土方の低く甘い声。
頷きながら、昨夜井戸端で見た血の色が脳裏に浮かんできた。
今はただ、土方に余計な心配をかけたくなかった。
知らぬ方がいいことだってあるのだと自分に言い聞かせる。
「今日はもう眠れ。俺たちは生きていかなきゃならねぇんだ」
気づいていないようだと感じながら、総司は土方の懐深くもぐりこんで目を閉じた。
土方の広く大きな胸に抱かれて、立ち竦んでいた心が大津の湖畔から戻って来たような気がした。








                                君の涙が見たものは   終






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