春の夜は…
追って来る足音が、いつもよりずっと急ぎ足になっているのを知りながら、土方は歩みを緩めてやろうとは思わない。いやいっそ、健気について来る分、収めようとした腹の虫が又沸き立つ。己の意地の悪さ、大人げなさに吐息しつつも土方は、 ――それもこれも、お前のせいだ。 と、後ろの総司に毒づいた。 今日土方は、総司から巡察の報告を受ける時、夜桜を見に誘うつもりだった。桜も盛りを終えつつあり、ここでひと雨くれば、花は洗い流されてしまうだろう。折しも、総司は明日非番。又と無い好機だった。だが総司が部屋へ来た時、間の悪い事に、丁度別用で山崎がいた。だから土方は便宜上、総司に自分の護衛を命じた。山崎は護衛と云う名に隠した、うたかたの逢瀬を機敏に察したようだったが、それを顔に出す男ではない。ところが総司はそうはいかない。護衛と云われれば、真に受ける。だからこれを読んでおけと、一筆したためた紙を渡した。 「春の夜はむづかしからぬ噺かな」、と。 そして。 屯所のあちこちに灯が点り始め、闇が薄く敷かれて行く頃。 緩む頬を苦虫を噛み潰したような仏頂面に隠し、土方は玄関へ向かった。だが自分を待っていた総司の姿に、浮かれた足は呆然と止まった。 総司は、浅葱の羽織を纏い、三和土から嬉しそうに笑いかけた。途端、土方の眉根が寄る。鬼の指揮官の怪しい雲行きを察したか、それまで総司と談笑していた隊士が、そそくさと去って行く。その姿を目の端で捉えながら、土方は乱暴に草履を履くと、無言で敷居を跨いだ。 ――以後二人の間に、気まずい沈黙が続いている。 |
後ろに聞こえていた下駄の音がふと遠のいたのに、漸く土方は立ち止った。振り返ると、総司は喉を突き出すようにし、天を見上げている。 場所は、先年、火災で焼失した諸殿の復興が始まりつつある、真宗大谷派の飛地境内枳殻邸(きこくてい)沿い。その塀を越え、遅咲きの桜が、今が盛りの花を枝垂れさせている。その桜の下、総司は花に心を吸われてしまったかのように、身じろぎしない。 後戻りして来たのを分かっていながら、総司は頑なに花に視線を釘付けている。どうやら謂われの無い不機嫌に付き合ってきた、堪忍袋の緒が切れたらしい。 「役に立たん護衛だな」 「用事が無いのなら、護衛は要りません」 応えた声が尖っていた。しかし不思議な事に、その総司の怒りが、土方に余裕を取り戻させた。相手の稚気が、己を大人にする皮肉に、土方は苦笑した。 「用事はあるさ」 口辺に浮かんだ笑いに、闇より深い色の瞳が怪訝に揺らいだ。 「護衛はあそこまでだ」 指差した先に、高瀬川べりに軒を連ねる舟宿の火影が見える。それは闇に浮かぶ花よりひっそりと、忍ぶように淡く、夜を彩っている。 総司の頬に、みるみる血の色が上った。咄嗟に身を翻した腕を、すかさず土方は掴んだ。 「俺は伝えた筈だぜ」 頤に指をかけ強引に顔を向かせると、総司は抗うように視線を逸らせた。だが朱に染まった耳たぶを、月あかりが意地悪く映し出す。 その耳の縁に、土方は唇を寄せた。 「春の夜はな…」 柔らかく囁いた時、 「むづかしい噺なんざ、要らねぇのさ」 細めた目の端に、手練の男の艶が走った。 |