雪圍U (十) 霜の季節が終わり、雪の季節を迎えようとしている頃合の冷気は、研ぎ澄まされている分、ものの像を、色彩を、よりくっきりと映し出す。 いずこからか聞こえてくる鋏の音が、その潔さと、不思議に相性の良いのは、共に余計なものの一切を削ぎ落とす、強さ揺ぎ無さの所為なのかもしれないと、開け放たれた障子の向こうに開ける中庭に目を遣り、八郎はそんな事を思っていた。 「植木屋さん、松五郎さんと云うのです」 そんな埒も無い黙考を見透かせたように、不意に背後からから掛かった屈託の無い声に、ゆるりと振り返った八郎の視線が、くくり枕の上から此方を見ていた瞳と絡んだ。 「お前も、あちこちに知り合いの多い事だな」 うんざりと漏れた声に、宗次郎は嬉しそうに笑う。 「けれど八郎さん、気になっていたのでしょう?あの鋏の音」 「腕の良い職人だとは、分かるさ」 それは嘘では無かった。 時折止まりはするが、しかしその空白とて不自然なものとは感じさせぬ鋏の音は、緩急強弱を自在のままにしながらも、常に一定に調子を保ち、聞く耳に大層小気味の良いものだった。 それは又この職人の腕の良さが、如何ほどのものであるかを、知らしめる証でもあった。 「今日は裏庭の櫻の木に、雪圍をするのです」 が、宗次郎はその事を一番に話したかったらしく、珍しく急(せ)いた物言いには、更に本当を云えば、それを見たいとのだとの好奇心を隠しきれない。 「そう云えばそんな事を、以前来た時に堀内さんが云っていたな」 ゆっくりと視線を庭に戻した八郎の脳裏に、佐瀬圭吾の姉の行方について、吉原で知りえた詳細を伝えにこの屋敷を訪れた時、堀内と宗次郎が、雪圍を話題に楽しげに談笑していた姿が鮮明に蘇る。 だがあの日から、まだ十日も経てはいないと云うのに、その間の事情は何と目まぐるしく移り過ぎた事か。 それでも地に根付く木々も、射す陽が地に落とす陰影も、如何に人が嘆き、苦しもうが、少しも変わらず其処にある。 そして其処まで思いを馳せれば、八郎の裡に、新たな理不尽に対する憤りが湧き起こる。 何故。 何故天は、その勁さの僅かでも、この者の身に与えてはくれなかったのかと――。 その憂憤を胸に仕舞い見る宗次郎の面輪は、相変わらず透けるように蒼い。 「日当たりが悪い所為なのか、他の櫻よりもずっと遅れて咲くのです。枝も細いし、花も小さいけれど、淡い色がとても綺麗だった・・」 だがその八郎の思いを知らずして、半年前に脳裏に刻んだ光景を、ひとつひとつ丁寧に思い起こして語る宗次郎の声音は屈託が無い。 「見せてやろうか?」 「・・え?」 あまりに唐突な言葉に、云わんとしているその意図を判じかねた宗次郎が、不思議そうに八郎を仰ぎ見た。 「その櫻に雪圍をする処、見たいのだろう?」 揶揄とも気紛れともつかぬ調子ではあったが、しかし己の言動は、宗次郎の胸の裡にある図星をついた筈で、その確かな手ごたえに、八郎の唇の端には既に薄い笑みすら浮んでいる。 「けれど・・」 が、宗次郎は宗次郎で、いざ現実となれば戸惑が生じるのか、面輪からは、それまであった邪気の無い笑みが引き、その代わりのように瞳は躊躇いに揺れる。 臥せて五日。 宗次郎の受けた傷は、脆弱な身には激しい負担となり、中々引かない熱に、医師はまだ身体を動かす事を禁じていた。 だが早くに試衛館に戻りたいと、どうしても譲らぬ当人の頑固には、流石に周囲の誰もが手を焼き、それを漸く近藤の叱咤が封じ込めたのだと――。 その事を八郎が土方から聞いたのは、つい昨日の事だった。 相変わらずの素っ気無い物云いで語りながら、しかしほんの一瞬、土方の横顔に浮んだ、何とも言い難い表情を、八郎は見逃さなかった。 初めて見せたと云って良いそれは、宗次郎を説き伏せるのに、らしくも無い苦労を強いられた、この男の困惑の名残なのだと知るのは容易な事だった。 そしてそれが、土方の感情のどの部分から来ているのかを知るのは、今は自分だけであり、尚且つ土方自身が、未来永劫その事に気づかねば良いと念じる己の業の深さを、八郎は胸の裡で自嘲した。 「背負ってやるよ」 未だ躊躇いにいる宗次郎の様子など気にかける風も無く、八郎は、床の脇に畳まれていた綿入れを無造作に掴むと、それを引き寄せた。 「自分で歩いて行ける」 「堀内さんに、叱られるぞ」 何気ない一言は、かの人に散々迷惑を掛けてきた身には酷く効いたらしく、その一瞬、深い色の瞳が狼狽に揺れた。 「鋏の音が止んだ。さっさとしないと見られなくなるぞ」 しかしそう意地悪く告げる八郎の腕は、いらえなど待たず、強引に床と薄い背の間に差し込まれ、驚きに瞳を見開いた宗次郎が何を云う間もなく、仰臥していた身は丁寧な動きで起こされた。 更に逡巡から抜け出せずに無言でいる宗次郎は放っておき、八郎は手にしていた綿入れを夜着の上から羽織らせると、今度は己の背を向けた。 「終わってしまうぞ」 それでも中々動こうとしない宗次郎に、顔だけ振り向き促す八郎の声には、段々に苛立ちが籠もる。 「・・甘えて、いいのかな」 「さんざ甘えといた奴が、今更何の殊勝を云うのやら」 流石に予期せぬ言葉だったのか、八郎の唇から失笑が漏れた。 が、逆にそれは、宗次郎には踏ん切りとなったようで、か細い腕が遠慮がちに首筋に回されるや、まるでひとつ肌のように己の背を覆った温もりに、八郎は少しだけ目を細めた。 「落ちるなよ」 たったそれだけの些細を切ない恋情に変えて、さらりと告げた声に、背にあって遠い想い人は、頑是無く頷き返す。 そうしてゆっくりと立ち上がった動きは、しかし人ひとり背負ってのものとは到底思えぬ軽やかなもので、その刹那、八郎の胸の裡を、耀かるい陽が不意に翳るような、暗澹たる思いが襲った。 もしも人の命数が、その重みと対を為すものならば、今己の背にあるそれは、何と儚く、何と頼りなく、ただただ自分を不安に陥れるだけに、存在するものである事か――。 だが八郎は、己の裡を一瞬にして捲いたこの禍々しい不吉を、庭に目を遣り、降り注ぐ晩秋の光りの眩さで、視界の全てを塗り潰す事で討ち捨てた。 「佐瀬さんは、早くに出たのかえ?」 「夜明けと、一緒の頃だったかな」 それでも中々消え去らぬ暗雲を、更に振り払うかのように、敢えて衒いの無い調子で、八郎は背中の主に問う。 「佐瀬さんの先生から、昼前には板橋宿に入ると文が届いたのです。だからその前に着いていて出迎えなければと、・・・佐瀬さん、昨日は一日中何を聞いても上の空で、夜も眠ることなど出来ないみたいだった」 圭吾の様子を思い起こし語る声は、邪気の無い笑いすら含んで楽しげだった。 「佐瀬さんの師?」 「学問の先生で、その方が藩校に推挙してくれたそうなのです。佐瀬さんは、もう二度と帰る事は出来ない覚悟で、長岡を飛び出したと云っていたけれど、その話をしていた時はとても寂しそうだった。けれど堀内さまが、此処に佐瀬さんが居る事を教える文を出すや、直ぐにその先生から迎えに行くとの返事があって・・・お国元を発たれたのが五日前の事で、今日ようやく・・」 「学問の師匠ねぇ・・」 「その先生と云う方も堀内さまの弟子なのだけれど、剣術よりも、西洋の武器の方がずっと詳しくて、とても変わっていると云っていた」 「堀内さんがかえ?」 背中で頷く面輪には、きっと小さな笑みが浮かんでいるのだろうと、そう思わせるような和やかな気配に苦笑しながら、八郎も、明るい陽射しに彩られた先へと進める足が軽い。 「佐瀬さんが江戸の町に不案内だから、板橋宿まで平治さんが一緒に付いて行ったのです。それで朝餉は二人きりだからと、堀内さまが私の部屋で一緒に食べる事になって、・・・その時に色々話しをして下さったのです」 それは宗次郎にとっても楽しい一時だったらしく、背中から伝わる声が明るい。 「そりゃ、お前も好き嫌いの駄々を捏ねられず、良いことだったな」 だがそれに返るいらえは、含み笑いの揶揄だった。 「・・・今日は松五郎さんのお弟子さんが、他所の手伝いでいないので、堀内さまが、代わりに手伝うのだと云っていた」 「それで、余計に見たかったのか」 一瞬空いた間は、宗次郎の不満の表われだったらしいが、そんな事は気の端にも掛ける様子は無く、八郎は、沓脱ぎ石の上にあった下駄を無造作に突っ掛けると、霜が湿らせた地を踏んだ。 「本当に、雪圍を見たかったのです、それにっ・・」 「あれか?」 直ぐに上がった抗議は、しかし全部を伝え終わらない内に、その矛先を軽くあしらうような調子の声に遮られた。 それに慌てて背を伸ばし、視線を遠くに投げた宗次郎の視界に、確かに見覚えのある櫻の木の幹に、松五郎が器用に藁を巻いて行く姿と、その動きを、藍の紬の着流しが、この人物の長身を一層際立たせている、堀内が見守っている光景が飛び込んで来た。 が、同時に堀内自身も此方に気づいたようで、八郎と、その背に負われている宗次郎を見て、一瞬驚きの表情を浮かべたが、それは直ぐに柔らかな笑みに変わった。 「宗次郎どのは、どうしても大人しくしていられないと見える」 立ち止まった八郎に、ゆっくりとした歩みで近づいて来る主は、いつものそれよりも厳しい声を作る。 「少しだけ、見せて頂きたいのです。・・・邪魔はしません」 「戻って寝ていろと叱り、それを大人しく聞いてくれるのならば、幾らでもそうしようが・・。どうやら其方の方が、雪圍を手ほどきされるよりも、余程に難しいらしい」 後ろめたさに後押しされた気弱な言い訳に、応える引き締まった唇からは、それとは似つかわぬ吐息が漏れる。 「ならば先に負けと認めた方が、気を揉まぬだけ得策か」 だが直ぐに含み笑いで続けられた言葉は、伏せかけていた瞳を驚きに瞠らせ、嬉しさを隠しきれずに向けた視線の先に、此方は、諦めを隠せぬ堀内の渋い顔(かんばせ)があった。 「旦那さま」 その堀内に、遠慮がちな声が掛かった。 「この位で、どんなもんでしょう」 既に庭木の剪定は終わったらしく、今は何やら一心に土を掘っていた松五郎は、八郎と、その背に負われている宗次郎を見止めると、頑固がそのまま表に出たような顔に、慕わしげな笑みを浮べ、小さく頭を下げた。 その間にも堀内は、再び櫻の根に向かい歩を進めていたが、松五郎の指す手前まで来ると、地を見下ろすようにして立ち止まった。 其処に在るのは、大きさは然程では無かったが、深さはかなりの穴だった。 暫し、その穴の深さを目で測るようにして見ていた堀内だったが、やがて松五郎に顔を向け、静かに頷いた。 「余分な手数をかけて、すまなんだな」 「いえ、こんな事は、ついでにもなりゃしやせん。それじゃ、埋めさせて頂きやす」 恐縮したように慌てて首を振ると、松五郎は、脇に置いてあった油紙の包みを手にした。 「短筒・・でしょうか?」 堀内の後に続くようにしてやって来ていた八郎が、松五郎の掌中にある其れに視線を止めたまま、低く、呟くようにして問うた。 予期せぬ言葉に、八郎の肩越しに見る宗次郎の面輪にも、緊張が走る。 「左様、圭吾から預かった、あの短筒だ」 地に方膝をつき、松五郎から包みを受け取ろうとしていた堀内が、柔らかな眼差しで、八郎と宗次郎を見上げた。 「これは既に来し方の、忘れ物。この世にあれば、人は再び其処に戻らねばならぬ。だが無念だけの過去に戻った処で、何も生まれはせぬ。・・・漸く人の記憶になろうとしているものが、再び現に姿を見せれば、人にとっては、ただ災いとなるに過ぎない」 語りながら、深く掘られた地の底に、包みを置く堀内の手の動きは優しい。 それはこの短筒が、せめて弟の行く末の糧となるようにと念じ、儚い生涯を閉じた志乃を、哀れみ慈しむ堀内の心が為せるものなのかもしれないと・・・ 松五郎が被せる土の黒が、段々に油紙の琥珀色を隠し、やがてその全てを覆ってしまう様をぼんやりと瞳に映しながら、宗次郎は、そんな事を思っていた。 「今年は松五郎が、丁寧に雪圍をしてくれたゆえ、来年も宗次郎どのに、花の咲く様を愛でて貰えそうだ。結局私はものの役に立つどころか、邪魔ばかりしておったが・・」 時に計れば僅かばかりの事ではあったが、一瞬感傷に籠もった宗次郎を現に戻したのは、堀内の、笑いを含んだ静かな声だった。 「その時は、伊庭どのも是非見てやって下され」 「白い花弁なのだと、聞きました」 「その通り、白い小さな花をつける」 八郎に向かって頷くと、土を払いながら、堀内はゆっくりと立ち上がった。 「陽の当らぬ処に植えられた所為もあろうが、花も遅ければ、色も透けるように白い。だが毎年、必ず実をつけ花を綻ばせる律義者。いやもしかしたら、この櫻は、どの花よりも、勁い精神を持っているのかもやしれん」 「・・勁い?」 「左様」 不審げな八郎に即座にいらえを返し、堀内は、天に向け細い枝を伸ばす櫻の木を仰ぎ見た。 「蕾を持ち、花が咲くのはこの櫻の意志。いくら懇ろに護ってやっても、或いは何故咲かぬと憤っても、それは人の采配では敵わぬこと。・・・咲かせるのだと、勁い精神がこの櫻になければ、人はそれを愛でる事は敵わぬ。櫻は、己の意志で咲き、そして散る。この理(ことわり)ばかりは、どうにもならぬ」 語り終えた時、堀内は、戻した視線を静かに八郎に据えた。 櫻になぞらえて、堀内が誰の事を云っているのか――。 それが自分と宗次郎の事であるとは、八郎にも容易に知れた。 その証に、裡に滾る激しい恋慕の情を見透かしているかのように、自分を見る堀内の眼差しは柔らかい。 花は己の意志で咲き、そして散る。 確かにそうなのだろう。 だが八郎は、その理を捻じ曲げても、宗次郎を己の掌中に捉えると決めている。 そしてそれこそが、八郎にとって、唯一の理だった。 咲かせるのは、自分なのだと――。 そう信じ、天に伸び行く櫻の枝を見上げた、八郎の端正な横顔に宿る、怯む事を知らぬ若い矜持と強さに、堀内の眸が眩しげに細められた。 そしてその八郎の背で、宗次郎は、雪圍の施された細い幹を見つめている。 咲かせるのだと・・・ 勁い意志がなければ、花は開かないのだと、堀内は云った。 では勁い想いを持ち続けていれば、いつか土方に伝わる時が来るのだろうか。 そんな日が、来る事があると云うのだろうか。 それを誰かに問い質してみたいと、どんないらえでも欲しいと、堰を切ったように溢れ出した想いを、だが宗次郎は寸での処で封じ込めた。 それは己の胸に秘め、この身が朽ち果てても、決して知られてはならない恋情だった。 そして誰にも悟られてはならない、禁忌でもあった。 だからあの短筒が土深く眠るように、少しの隙も作らず、己の裡へ閉じ込めてしまわなければならない。 咲いてしまった土方への想いは――。 宗次郎にとって、誰にも知られず悟られず、己独りの手で、静かに散らさねばならなぬ花だった。 天を仰ぎ見て背負う者と、地に瞳を止(とど)めて背負われる者。 その二人を見る堀内の眸が、僅かに細められた。 八郎と宗次郎が、どのような事を念じたのか、それは分からない。 だが今この者達が、人を想うが故に呻吟する姿を、限りなくいとおしいと思うのは、己の来し方で同じ修羅に堕ち、もがき苦しみ、そしてそれを乗り越えた者の余裕か、それとももう二度と、其処には戻れないほろ苦い寂寞か・・・ そのどちらとも決めかね、しかし敢えて答えを出さず、ただただ見護り慈しみたいと願う自分を苦く笑いつつ、堀内は僅かに感じた人の気配に、視線を遠くに移した。 宗次郎もそれは察したようで、しかも既にそれが誰かをも同時に判じ得たらしく、深い色の瞳は、ひたと遠方の一点を見つめ、瞬きすらしない。 やがて背中の動きに応えてか、八郎も、ゆっくりと其方を振り向いた。 ――中天に回った晩秋の陽が、埋め戻したばかりで、其処だけが黒い盛り上がりを見せている土の上に、まばらに射し込む。 掘り返されて出来た、僅かな傾きに当る光は、それを四方に散りばめる。 その地を踏みしめ立つ、八郎の視界の中で。 そして背に負われた、宗次郎の瞳の中で・・・ 歩み来る土方の姿が、徐々に大きくなって来る。 更に後方から、その三人を、堀内は見詰める。 誰にも知られること無く散ると、決めた花。 その花を、己が手で咲かせるのだと、決めた者。 そして・・・ 未だ一途な花の綻ぶ様を知らぬ者は、自ら散ると決めた花を、如何にして咲かせる事が出来るのか――。 らしくも無い節介に、堀内の唇の端に、自嘲の笑みが浮かぶ。 やがて二人の正面まで来、立ち止まった土方の影が、それまで辺りを彩っていた光の妙を崩し、風に揺らされた枝が、更に深い陰影を地に刻み込んだ。 雪圍U 了 |