煙雨U (八) 自分の肺腑は、既に鉛と化し、僅かの収縮すら拒んでいるのか――。 荒い息を繰り返すたび、胸を襲う痛みと、意のままに動かぬ足への苛立ちが、総司を激しい焦燥へ駆り立てる。 やがて闇の狭間を抜けるようにして辿りついた廃屋は、中昔前には名の知れた公卿の後盾の下、絢爛と隆盛を極めた寺院であった事など、今は露ほどの痕跡も残さず、孤影悄然と荒れ果てた姿を晒している。 その内部の、嘗ては其処が本堂であったらしい、広い空間を支える柱のひとつに背をもたらせ、総司の神経は、どんな僅かな音すら逃すまいと、極限まで研ぎ澄まされている。 だが聞こえて来るのは、吐く息に混じり己の喉を不吉に鳴らす、笛を吹くような細い音と、額に滲む冷たい汗が頬を伝わる、不快な感触だけだった。 賭場として使っていた一箇所に浪士達を閉じ込め、そして参次は我が身を挺してその入り口の楔になっているのだと、山崎は云った。 だとしたら、檻に入れられた者達の、獣が唸るにも似た、尋常では無い殺気が感じられてもおかしくは無い筈だった。 そして総司の五感は、鎮まらない息を幾つか吐く間に、それを正確に掴み取った。 ――閉じていた瞳が不意に見開かれ、鋭く向けられた視線の先には、褪せかけた金色を闇に沈め、婉曲な線だけを仄かに浮かび上がらせている仏像あがる。 そしてその脇に、まるで其処へと吸い込むかのように、ぽかりと口を開けている漆黒の掃き溜りがあった。 向かう先には何が潜み、何が攻撃の牙を砥いでいるの、そんな事は分からない。 だがその事を探る一時も惜しむかのように、総司の足は床を蹴っていた。 幅の狭い廊下は際限無く続くが、時折、此処が行き止まりかと思われる程に余裕を持つ。 しかし直ぐにその僥倖は残酷な錯覚でしか無いのだと嘲笑うかのように、闇への道標は又果ての無い先へと伸び行く。 「参次さんっ」 その中を走り抜けながら、総司はあらん限りの声で叫ぶ。 それは総司なりの計算でもあった。 一箇所に封じ込めているとは云え、外に潜んでいる敵がいる可能性を捨て切れぬのならば、今ここに自分が居る事を相手に知らしめ、身の内に残っている力が尽きる前に襲わせて決着をつけた方が得策だった。 そして一か八かのその勝負運は、総司にあった。 いらえを求め、走り続けていた足が突然止まり、その刹那、闇を裂くように突き出た鈍い閃光を、一瞬すら敵わぬ素早さで身を引いてかわすや、次ぎの瞬間、総司の刃は水平に相手の胴を払っていた。 「参次さんっ」 呻き声さえ立てる事無く背から倒れる相手には目もくれず、総司は今一度その名を呼ぶ。 しかし探し求める者から返るいらえは無い。 だがその代わりのように、総司の五感が捉えたのは、此方へと走り来る数多(あまた)の人の気配と、そしてもうひとつ、自分へ向けられている激しい殺気だった。 ――土方の到着と、見えぬ敵と。 安堵と緊張の均衡が張り詰めた静謐を織り成す中、気と気の激しい競り合いが続けば、今は少しでも体力を温存しておきたい総司にとって、それは不利な条件を齎すだけだった。 だとしたら此方から仕掛け、一刻も早く行く手を阻む者を倒さねばならない。 そう計った瞬間、華奢な身が、疾風と見紛う素早さで闇に呑まれ、柱の陰に潜んでいた敵に交わす間も与えず、返した刃を浴びせていた。 「総司っ」 だが相手が床に崩れるのを最後まで見ずして、再び奥へ走りだそうとしたその背を止めたのは、後ろから発せられた、強く険しい声だった。 「・・土方さん」 それが誰のものか、知りすぎる程知って振り返った面輪が、掲げられた提灯の灯りを透かせて硬い。 「勝手は許さんっ」 「でも参次さんがっ・・」 「それはお前の仕事では無い」 冷淡に云いきる端正な顔(かんばせ)を見上げた瞳が、一瞬勝気な色を湛えたが、それを土方の双眸は更に強く弾き返すや、総司の懇願を切り捨てるかの如く、背後に構えていた山崎に視線を移した。 そしてそれに呼応するように、山崎の口が開いた。 「遅れて来、外にいた浪士で、沖田さんに倒された者の他はいないようです。例え万が一逃したとしても、建物を囲んでいる二番隊が捕らえている筈です。・・・ですが浪士等の封じ込められている場の入り口は、決して広くはありません。尚且つ天井の低さを考慮すれば、乱闘になった時、此方にも不利が生じます。それは同時に相手にも云える事で、我々が踏み込むや、観念し、自ら腹を切る者も出ましょう」 この男の言葉は、命令系統の先の先を、冷静且つ迅速に読み取り、有り得る事実だけを正確に繋げて憶測する。 「中に居る者は、生きたまま捕縛する」 だがその山崎の語尾を捉えて返した土方のいらえは、確固として強いものだった。 「副長」 誰もが言葉を呑み、一瞬出来た空白のしじまを、奥を探って来た伝吉の、低く押し殺した声が破った。 「見つけたか」 「へい」 全てを省いた短いいらえに、総司の面輪が強張った。 「ここから数間も行かぬ処です。頑丈な板戸に、内からは開けられぬように太い竹で支(つか)え棒をして、更にその上から釘を数本打ち込んでありやした。遅れてきた奴等はその有様を見て、何とか戸に仕掛けた囲いを外そうとしていたのでしょうが・・」 「伝吉さんっ、参次さんは・・」 言葉の中に、その人の名の無い事が、既に参次の身の上に起った忌むべき出来事を物語っているのだと一瞬の内に察し、総司は伝吉に詰め寄る。 だが返らぬいらえは、ただ酷な現実だけを突き付ける。 「総司っ」 沈黙に焦れ、走り出そうとした肩を、土方の手が鷲掴んで止めた。 「勝手は許さんと、云った筈だ」 容赦の無い声は、総司の面輪を凍てつかせ言葉を奪う。 「山崎」 深い色の瞳がどのような瞋恚の眼差しを向けようと、そんな事には目もくれず、土方は更なる指示を下す。 「斎藤の隊と原田の隊を呼び、原田の隊には、この廊下の出口を塞がせろ。それから伝吉・・」 其処で初めて土方は言葉を止め、堅く唇を結び自分を凝視している総司に一瞬だけ視線を送ったが、直ぐに其れを伝吉へと据えた。 「案内しろ」 無言で頷き身を翻した伝吉の後を、しかし土方よりも先に追ったのは総司だった。 そしてその薄い背を、己の視野から逃すまいと土方が続く。 ――ひっそりと、物音ひとつせぬ闇の中。 荒ぐ息を押し殺し、もう苦痛と云う知覚すら無くなった、鉛のように重い身を走らせる総司の耳に、今だからこそ、あの時の土方の胸の裡が分かるのだと告げた、参次の声音が蘇っていた。 戸に背を凭れさせるようにして座り込んでいる人の影は、視界の利かぬ暗さの中であっても、だらりと床に垂れた両の腕と、微かにも動かぬ様が、すでに生ある者のそれでは無いと知らしめる。 その参次の姿を瞳に捉えた刹那、声を発しかけた総司の唇を、後ろから咄嗟に塞いだのは土方の手だった。 「今参次を動かせば、その気配で中の奴等に俺達が来た事が知れる」 口元を覆われたまま、耳元近くで告げられた低い声にも振り向かず、総司の双つの瞳は動かぬ影を凝視し、身じろぎしない。 「奴の死を、無駄にするな」 だがひと呼吸置いて付け加えられたその一言だけが、それまでの怜悧な物言いから一瞬離れ、己の腕にある強張った身を包み込むような、静かな囁きだった。 「斎藤先生の隊が、いらしたようです」 そしてその二人の後ろから、吐く息だけで告げた伝吉の声が重く空(くう)に溶けるや、眸を細くして振り返った土方の視線の先に、音を殺して此方にやって来る、山崎と斎藤隊の姿があった。 やがて間近までやって来た山崎が、己の身で板戸を封じるようにして息絶えている参次の姿を見止めた寸座、微かに眉根を寄せたが、直ぐにその姿を凝視したまま動かぬ総司へ視線を移した。 「中の奴等はまだ俺達に気付いてはいない。閉じ込められてはいるが、さっき総司を襲った仲間が外から助けるのを待っている筈だ。其処をついて、油断させる」 だが土方の低い声は、山崎が一瞬抱いた総司への杞憂を断つかのように、一時の間も与えず次なる命を下す。 「斎藤」 呼ばれるや、やはり参次に釘付けていた峻厳な双眸が、土方に向けられた。 「一気に戸を壊した直後、腕の立つ数人と踏み込め。だが最初は入り口近くで囲いを作り、かかって来る奴だけを倒せ。逃げる奴は追うな。後ろは原田、永倉が守り捕らえる。お前は中の奴等を追い詰め、外へおびき出すだけでいい。だが一人も逃すな」 敵地に踏み込む図は、その瞬間脳裏に描かれたのか、無言で頷く若い面に躊躇いは無い。 「私もっ、・・私も行きます」 そしてそれに促されるように、参次から逸らす事の無かった視線を土方に向け、見開かれた瞳が訴える。 が、その寸座、体勢を変えたほんの些細な動きで大きく揺らいだ身を、傍らの一が咄嗟に支えた。 「無理だ」 「無理じゃないっ」 返した強気は、支えられている腕を離された瞬間、呆気なく崩れ落ちてしまうだろう己の身の不甲斐なさに焦れ、一に当った、総司の苛立ちだった。 「土方さんっ」 「今の自分に残された力は、お前自身が良く分っている筈だ。これ以上邪魔する事は許さん」 だが非情とも思えるいらえは、そんな総司の焦燥を叱咤する。 「戸の隙間から、藁を燻した煙を流がす。それに中の奴等が動揺した隙をつき、一挙に戸を叩き割る。・・総司」 そのまま声の無い総司を放り置き、其処まで指示し終えると、漸く土方は声を止め、呆然と、瞬きもせずにいる深い色の瞳に向き合った。 「山崎と、参次を動かせ。それと同時に、全てを行動に移す」 ――血の通わぬ亡骸とは云わず、参次と、そう呼ぶことが、強張りを解けずに自分を凝視している想い人への、今土方が出来うる唯一の想いの丈だった。 その土方を、総司はきつく唇を噛み締めるようにして暫し見詰めていたが、やがて硬い面持ちのまま、微かに頷いた。 「すみませんでした・・」 支えてくれていた斎藤の腕を離れ、小さく頭(こうべ)を下げて詫びる声音が掠れる。 胸の裡に滾る私情に押し流され、一の掛けてくれた労わりにすら気付けなかった自分が情けなかった。 「後は案ずるなと、参次に教えてやれ」 感情と云うものを、表に出す事に長(た)けていない不器用ないらえは、しかしそれが一の、精一杯の慰撫なのだと総司に知らしめる。 そしてそれに応えるように深く頷いた時、精悍さを宿す横顔は、これから赴く戦の場へと向けられ、一瞬過った感傷の欠片すら残ってはいなかった。 「行きましょう」 戸を打ち破る為のかけやを手にした者達が立ちはだかり、そしてその後ろには、一の指揮する三番隊の数名が刀の柄に手を掛け、閧の声を待つ体勢が出来上がったのを確かめるや、山崎が総司を促した。 僅かな気配もさせず、辿りついた参次の亡骸は、触れればまだ微かな温もりを残していた。 それを山崎と二人、脇から抱えるようにして起こした寸座、無言で命ずる土方の双眸が伝吉に藁を燻らせ、同時に、頑健な体躯をした二人の隊士が、かけやで戸を打ち壊し始めた。 やがて煙と粉塵に紛れ戸が叩き割られると、それが合図のように一斉に灯りが掲げられ、動揺と混乱をなしている中へ、次々と浅葱色の羽織を翻した影が飛び込んで行った。 直後に――。 怒号と、喧騒、そして鋼と鋼の交わる、重く、乾いた音が響き渡る。 そしてそれ等から庇うようにして、柄に手を掛けたまま、総司は参次の亡骸から離れない。 更にその総司と参次の盾となり、土方が立ち塞がる。 「一人たりともっ、逃すなっ」 常に怜悧な男の、全ての音と云う音を呑み込んでしまうような大音声を全身で受け止めながら、それがもう物言わぬ参次へ報いる土方の思いなのだと、総司は瞬きもせず、振り向かぬ広い背を凝視していた。 櫻花が綻び始めても、吐く息が白く濁る花冷えの日の有るこの頃合は、芽吹く季節が再び遠のいてしまうような、そんな心許なさを覚えさせる。 「今回は、流石に大人しくしていてくれたようだな」 「・・・すみませんでした」 ――新撰組が中川宮親王襲撃を企てていた浪士等を捕縛した事件から、既に十日の余が経ていた。 だがその際、限界を超えて動き続けた無理は、総司に床に付く事を余儀無くし、多忙な田坂の足を幾度か屯所まで運ばせる結果となった。 そして今日、床を離れてから初めて、総司はこの診療所へやって来た。 そんな経緯があればこそ、詫びる声も自ずと小さくなる。 「いつもこの位に聞き分けの良い患者でいてくれると、俺も助かる」 神妙な面持ちの相手に、意地の悪い物言いで揶揄しながら立ち上がった田坂の手が、薬棚へと伸びる。 それを幾分恨めしげに見上げながら、総司は肌蹴ていた前を正した。 「・・・田坂さん」 暫し、薬を選ぶ作業を邪魔せぬよう、大人しく見ていた総司だったが、やがて遠慮がちに掛けた声に、抽斗を閉めようとしていた長身が、ゆっくりと振り向いた。 だが何かを云いかけた唇はそのまま結ばれてしまい、中々先を紡ごうとはしない。 その躊躇いの様が、今語ろうとしている事柄に、如何に総司が心揺らしているのかを、田坂に教える。 「おゑいさんの事か?」 自ら作った沈黙の長さに負け、つと伏せられかけた瞳が、先回りしたいらえに、驚いたように瞠られた。 「そんなに驚く事は無いだろう?」 あまりに予想通りの反応に、田坂の声に、苦い笑いが混じる。 「おゑいさん、キヨさんの申し出も断ってしまったと聞いて・・・」 「らしいな、キヨも気落ちしていたが、故郷へ帰ると云うのを止める訳にも行くまい」 この事件が終結を見るや、土方は即座におゑいの身を自由にすべく動き、参次との約束を果たした。 そして診療所を手伝って欲しいと申し出たキヨの願いに、おゑいは、参次と二人故郷へ帰るのだと告げ、示された好意に深く頭を下げた。 あの時、キヨを見て浮べられたおゑいの笑みは、潔さすら思わせる清いものでありながら、同時に、相手を包み込むような柔らかさもを共に有していた。 にも関わらず、何処か寂しげに思えたのは、求め続けていた者を漸く捉えられた安堵と引き換えに、もう二度と、その者の温もりには触れ得無い哀しみがさせたものだったのかもしれ無いと・・・ そんな似合わぬ感傷を抱いた自分を、暮れかけた春陽の日の所為にし、田坂は胸の裡で自嘲した。 「・・・けれど」 が、一瞬過去に引き摺られかけた田坂の思考を、再び小さな声が現に戻した。 「・・・おゑいさん・・、本当に、故郷に帰ったのだろうか」 「本当に、とは?もしや京に留まっているのではないかと云う事か?」 言葉にしたものの、それを強く云いきる程には、確かな証しを持てずにいるらしい深い色の瞳が、硬い面持ちのまま頷いた。 「何故そう思う?」 だが田坂から返ったいらえは、逆に総司自身の心裡を探ろうとするものだった。 「上手く云えないけれど・・・、おゑいさんにとって、京は、参次さんが居る場所ではないのかと思うのです」 一言一言、紡ぐ言葉を胸に刻み込むように、総司はゆっくりと語る。 ――吹きさらしの川原で、水の流れに視線を止めていたおゑいは、後ろから見つめている参次の存在を、きっと承知していた筈だった。 だが振り返る事はおろか、其れらしき素振りのひとつも見せる事をしなかった。 それでもおゑいは、己の背中全部で、参次の想いを受け止めていた。 否、おゑいが振り返らなかったのは、そうした瞬間、参次との、糸より細い絆が断ち切られてしまうのを恐れていたからかもしれない。 だとしたらおゑいにとって、参次と出会いそして過ごしたこの京は、想う人間の温もりを、永久(とこしえ)に求め得る唯一の地ではないのかと・・・ そんな寄る辺も無い思いに、総司は囚われる。 「・・参次は好いた女を、自分が堕としてしまった生地獄から、どうしても救い出したかった。そんな事はもう疾うに遅いのだと知っていながら、それでも尚、おゑいさんだけは救い出したかった。・・我が身と引き換えにしてもな」 軽く腕を組み、薬箪笥に背を預けた田坂の視線は、今日と云う日の仕舞いを茜に彩る障子へと向けられている。 しかしその双眸に映っているものまでは、総司にも判じ得ない。 「が、それで本当におゑいさんが仕合せなのかと問われれば、俺にも分からん」 「私は・・・」 幾分躊躇いながら、総司は瞳を上げ田坂を捉えた。 「・・・おゑいさんは、こんな事は望んでいなかったように思える」 「どうして分かる?」 「参次さんは、おゑいさんを助ける為に、自分の命を葬ってしまった。・・けれどその事で、おゑいさんは参次さんのいない先を、これから独りで歩んで行かねばならない・・・」 胸に有る思いを、上手く言葉に乗せられない焦燥が、総司の語りを、時に詰まらせ時に止める。 そしてその総司を、田坂は先を促す事無く、無言で見詰めている。 「置いて行かれてしまった孤独と、それでもこの世に在る限り、先を歩み続けなければならない孤独と・・・おゑいさんは、その二つを独りで背負ってしまった」 訴えようとする胸中は、必死が過ぎて、急(せ)いた声が掠れる。 だがその想い人の一途な心の吐露は、田坂にとって、切なくそして辛いだけのものであった。 見詰める総司からつと視線を逸らすと、田坂は西日に染まる庭に遣った目を、眩しげに細めた。 ――相反する、ふたつの孤独と、修羅。 それをおゑいは独りで背負ったと、総司は云った。 だがその言葉の本当の核(さね)にあるのは、自分と土方の事だったのだろう。 置いて行かれる事、残される事だけを恐怖していた総司は、その自分を置いて、先を行かねばならない土方の孤独をも、今漸く知り得た。 そして二人が一時別れなければならぬ岐路に立った時、総司は狂いそうな孤独を、浮かべた笑みの中に封じ込め、独り先を行かねばならぬ土方の心を憂え案じるのだろう。 が、今回の一件で更に深く、そしてより高まり得た総司の土方への想いの丈を、嫉妬と云う厄介な感情でしか見ることの出来ない自分を、田坂は胸の裡で苦く笑った。 「・・・残される孤独と、歩みを続けなければならぬ孤独・・・か」 やがていらえを返した声は、長い沈黙の名残か、いつものそれよりも、少しだけ低いものだった。 板敷きを踏みしめるたび足の裏に伝わるのは、身の芯まで凍てつかせるような冷たさだが、時折雲間から覗く強い天道の陽は、ここ金戒光明寺の広い廊下を並んで行く、男二人の背を直裁に射し、名のみの春を教える。 「・・総司が」 会津藩の歴々にくだん事件の報告を無事済ませ、多少気のゆとりが出来たのか、それまで厳つい口元を開こうとはしなかった近藤が、前を向いたまま、呟きにも似た声を漏らした。 剛毅なこの男らしからぬその調子に、土方も、つと横に視線を流した。 「お前の傍らに居たいと、お前を待っていたいと、だから江戸には帰らないと、・・そう言った」 いつもの豪胆な語り口とは違う、ひどく重い調子で、しかも決して自分を見ようとはしない近藤の横顔をちらりと伺いはしたが、土方も無言を通す。 だがその物言いこそが、何処にも持って行きようのない憤り、嘆き、哀しみ、そして戸惑いと困惑。・・・そう云う、少しでも気を緩めた途端に溢れ出てしまう感情を、近藤なりに必死に堪えている術なのだと察するのは、土方にとって容易な事だった。 「総司が、云ったのか」 「云った」 淡々と、構えもせず、常と全く変りの無い土方の様子に、憮然と立ち止まった近藤のいらえが、怒りの言霊(ことだま)となってぶつけられる。 そうなれば流石に土方も足を止め、動かぬ友を顧みざるを得ない。 「総司は江戸には行かない、俺はあんたにそう云った筈だ。そして俺も、手放すつもりは無い」 真正面から見据え応える土方に、近藤の顔(かんばせ)も強張りを崩さない。 どう切り出すべきか・・・ 嫌と言う程重ねた懊悩に、この竹馬の友はあまりに呆気なく、そして少しの揺るぎも無く、それがあたかも当然の事のように言い放った。 総司は、常に己の傍らにあるのだと――。 その傲慢にすら思える自信が、近藤に言葉を詰まらせる。 だがあの時総司も叉、土方の傍らに在りたいのだと、魂魄が悲鳴を上げているような、痛々しい程に硬く蒼い顔で訴えた。 思えば――。 自分を出すのに不器用すぎる総司が、その核に宿した、己すら知らぬのであろう激しさを、唯一土方にだけ向けるようになったのは、もう遡るのも難しい昔の事だった。 時折見せる憂い顔に、この日を予想しながら、しかし自分はその日の来る事に、知らぬ振りをし続けてきた。 そして突き付けられた現実に、是ほどまでに動揺している。 二人が魂を分かち合う存在であると云う事は、頭では分かる。 だが自らがその剣の才を開花させながら、業病によって命脈を限られてしまった愛弟子は、近藤の中で、生涯に渡り羽化する事の無い蝶のような存在としてある。 だからこそ、自分の掌中から羽ばたかせる事に、揺れ動く心は隠せない。 「俺は総司を離さない。例え、握るあいつの手が屍の其れになろうともな」 その近藤の憂苦を知ってか知らずか、射竦めるような眸で捉え言い放たれた酷な言葉は、それが土方の、総司に対する想いの丈なのだろう。 そして総司も又、決して土方の手を離しはしないのだろう。 二人の絆は、最早どう自分が足掻いた処で、断ち切れるものでは無いのだと――。 近藤の胸の裡に、諦めねばならない寂しさと、そして諦めきれない焦燥が、二つ渦を巻く。 だが今はうねりを高くするその流れも、いつかは諦観の吐息と共に、沈めなければならない時が来るのだろう。 それでも今は、諦めるには早すぎる。 そんな駄々を己に許し、近藤は深い息をひとつ吐くと、止めていた足を荒々しく踏み出した。 「お前は俺の頭を悩ませる事しかせんっ」 通りすぎる寸座、癇癪を音にしたような太い声がぶつけられた。 「今更でも、無かろう」 もう振り向かない友の厳つい背が、確かに怒っているその事に、端正な面を少しばかり歪めて苦笑しながら、土方が、更なる苛立ちの種を返した。 この川が、北山颪の通り道となっているのか、時折、川原の葦を薙倒すように強く吹く風は、それを橋の上から眼(まなこ)に捉えている総司の、袴も袖も髪すら乱れさせる。 あの日、辺りが茜色に暮れなずむ夕景の中、川原に蹲り水の流れに視線を落としていたおゑいの背を、遠く離れた葦の隙から、参次は見詰めていた。 そして参次が見ていたその事を、おゑいは知っていた。 だから愛しい者の視線が無くなるまで、おゑいは其処を動かなかった。 その時おゑいの胸中に去来していたものと、参次の其れは、ただただ相手を想う愛しさと、互いの温もりを求める切なさだけだったのかもしれない。 そんな感傷を、時に渦巻き、そして直ぐに叉小さなせせらぎを作る流れと重ね合わせながら、総司は飽く事無く川を見ていた。 そうしてどれ程の時を費えた事か――。 川に視線を止めていた深い色の瞳が不意に上げられ、橋の東側から此方にやって来る人の姿を映した途端、其れは過ぎた驚きで、時を止めてしまったかのように大きく瞠られた。 「莫迦がっ、こんな処で何をしている」 すぐ間際までやって来、そして立ちはだかるようにして叱咤する声に、何を応えて良いのか分からず、総司はただ呆然と土方を見上げる。 「・・・土方さん」 「田坂さんの処に寄り、もうずいぶん前に帰ったとキヨさんに云われ、此処まで来てみればこのざまだっ。お前はどこまで俺を怒らせれば気が済む」 寒さで色を失くした唇から、ようよう零れた落ちた声を、怒気を含んだ其れが封じ込める。 ――田坂の診療所からこの五条の橋までは、然も無い距離だった。 遮るものの無い吹きさらしの中、身じろぎもせず川を見詰め佇んでいたのであろう総司の行動は、手に取るように分かる。 だが風邪ひとつが命取りになる宿痾を抱えた身でありながら、想い人の、こうした頓着の無さが、土方には許せない。 「帰るぞっ」 一旦言葉にすれば最早止める事の出来そうに無い憤りを、ようやっと不機嫌な声で押し止め、踵を返そうとしたその寸座――。 「土方さんっ・・」 呼びとめると云うよりも、縋るような声に、広い背が訝しげに振り向いた。 「・・・あの」 が、咄嗟にその名を呼んだものの、先を紡ぐには躊躇いの方が遥かに勝るのか、総司は暫し沈黙に籠もっていたが、やがて先を促す無言に負け、己を鼓舞するようにゆっくりと土方を見上げた。 「・・初めてあった時、おゑいさんは、あの川原で蹲るようにして、川の流れを見ていたのです。・・・そしてその姿を、参次さんは、葦の陰からずっと見ていた」 何を云わんとしているのか・・・ それを計りかね、土方は総司の語りを邪魔する事無く見詰める。 「おゑいさんは、参次さんを失くしてしまった。それでも、先を生きて行かねばならない・・・でも参次さんは、おゑいさんの傍らにいると思うのです・・・きっと、おゑいさんと一緒にいると思うのです」 深い色の瞳を逸らす事無く続けられる言の葉は、おゑいの心情を語りながら、いつか総司を置き、独り行かねばならぬ己の孤独を案じているのだと察した刹那、土方の裡を、うねるような激しい感情の波が襲った。 それはどうしようも無く切なく、そしてどうしようも無く愛しく、止める事の出来ない千波万波となって、狂うが如く打ち寄せる。 「だから・・・」 稜線に沈みかけた残照が、ものの形を捉えるのを邪魔するのか、総司の瞳が眩しげに細められた。 「・・・私も、ずっと土方さんの傍らにいる」 やがてたったそれだけの言葉を、長い時をかけて伝え終えた硬い面輪は、土方を凝視したまま瞬きもしない。 だがその白い頬に、金色の光の礫が射すのを見詰めながら、土方は困惑の極みにある。 この愛しい者の、あまりに切ない訴えは、何処まで自分を追い詰めてくれるものか・・・。 いっそ今此処で、募る想いのまま、誰憚る事無く胸の内に浚ってしまいたい衝動を堪えるには限りがある。 「私は、ずっと土方さんの傍らにいる」 その土方の胸中を知らずして、一途な想いの吐露が止む事は無い。 「・・・傍らに・・」 いらえを貰えぬ声音が、やがて少しずつ小さくなって行く。 「そうか・・」 だが同時に重ねた土方のそれが、堰を切った愛しさを抑えて掠れた。 その声に思わず上げた瞳が、自分を見つめている双眸に宿る、柔らかな、しかし激しい恋情の色を捉えた刹那、凍ててもう感覚すら無い頬に何かが滑り落ちた。 突然零れた雫は、総司自身にも思いがけぬものであったようで、不甲斐無い自分を叱り、骨ばった手の甲が慌てて其れを拭う。 が、その手首を、温く(ぬく)く大きな手の平が、ゆっくりと掴んだ。 ――通りぬける颪は、容赦無く吹きつけ、其れから愛しい者を庇うように、土方は風上に背を向け立ちはだかる。 「私は・・土方さんと・・」 「・・・そうか」 包み込むかのような低い声が耳に届くたび、叱っても叱っても、零れるものは止まらなくなる。 それ以上、土方は言葉にしない。 だが捉えられた手首に籠もる力は、その代わりのように強くなる。 「・・きっと・・土方さんと・・」 今一度伝えた声が、もうどんなにしても震えを止められないのを知った時、唯一の人の像しか結べなくなった瞳を隠すように、総司は静かに面輪を伏せた。 |