断 つ 参 「すんませんなぁ。沖田はんにこないなことをさせてしもうて」 「何もやることが無いから」 総司は恐縮そうに笑いかけた。 師走も二十日を過ぎた。 冬の井戸水は肌に突き刺すように冷たい。 怪我をした患者に使う晒(さらし)を洗うキヨの横で、 総司も先程からその作業を一緒に手伝っている。 「けど、若せんせいに見つかったら叱られますわ」 「キヨさんが叱られることはない。私が勝手にやっているのだから」 「まぁ、若せんせいが沖田はんを叱る時には、 キヨが若せんせいを叱りますよって」 安心しときなはれ、と言うキヨは真顔だ。 それに今度は声にだして、総司は笑った。 「田坂さんもキヨさんには弱いんだ」 「へえ。せんせいの悪さの後始末を、たんとさせて貰いましたからなぁ。 言うべきことは言わせてもらいます」 「悪さの後始末?」 「せんせい、あれで不良でしたんえ」 「田坂さんが?」 瞳を大きく瞠った若者に、キヨは楽しそうに頷いた。 「せんせいがちゃんと腰を据えはって、 お医者さんのお勉強され始めはったのは 大せんせいがご病気にならはってからですわ」 「それまでは・・?」 総司の表情に隠せぬ好奇心がある。 「毎日のように遊んではりましたぇ。 白粉の匂いをつけて帰ってきはる若せんせいを、 大せんせいや、奥様と合わせんようにするのが、キヨの朝一番の仕事どしたんえ」 「知らなかったな。田坂さんにそんな時があったなど」 「江戸から来はったのは、辛いことがあらはったからで、 あの頃は忘れたいことが多かったのかもしれまへんなぁ」 その『辛いこと』がどういう事だったのかを知っているだけに、総司も沈黙した。 「遊びは大せんせいが倒れはった時までやから、 二十歳ちょっとすぎ位まで続いたはずですわ。 大せんせいは、若せんせいに、決して小言を言わはりませんでした。 いつかきっと立ち直るからと、黙ってみてはりました」 「そのお養父上(ちちうえ)がご病気に?」 「大先生がご病気になられはって、あかんと言う間になって、 若せんせいは大せんせいの情の深さが分かりはったんですやろ。 人が変わらはったように、熱心に勉強を始めはったんですわ」 キヨの目が少しだけ遠くを見た。 「沖田はん」 冷たい水の中で、晒しを洗う手を無意識に動かしながら、 自分の話を伏目がちに聞いていた総司に、ふいにキヨが声をかけた。 「キヨにはどうして沖田はんが薬を飲まはらんへのか、その理由までは分かりまへん。 せやけどそれを黙って見てくれてはるお人を、大事にせなあきまへんえ」 それをこの若者は誰のことと受け取るのだろうか。 聞けば自分の望む人とは違う名を答えるだろう。 それでもいいと思った。 見守ってくれる人間を大事に思えば、 その人間もきっとこの若者を大切にしてくれるだろう。 自分の目を見つめて、確かに頷く総司が、 ひとつでも辛い思いをせぬようにと、キヨはそんな風に願った。 流石にかじかんだ指に、時折息を吹きかけて擦りながら、 自室に当てられた部屋まで廊下を渡った。 この家の造りも、京の町屋にはありがちな奥に長いもので、 途中田坂の診察室の前をとおる。 他の患者の診療の邪魔にならぬように、 足音をしのばせて行きすぎようとすると、 すっと障子が開いて、田坂が顔だけをだした。 「土方さんからの伝言だ」 「土方さん?」 鸚鵡(おうむ)返しのように言った声が、思わず上ずった。 「明日、大坂に近藤さん達が入るそうだ」 「近藤先生が・・・」 ぼんやりと呟いて、そこに突っ立ったままの総司に田坂が笑った。 「明後日には新撰組に戻るだろうと、 土方さんからそう君に伝えるようにと言う事だ」 「土方さん、ここに来たのですか」 その名を聞いて我に返った。 「ついさっき来た。仕事の途中に寄ったと言っていた」 近藤の帰京の報に言い表せぬ安堵に包まれながら、 だが自分に会わずに帰った土方を思い、総司の瞳が微かに翳った。 「土方さんからはそれだけだ。袂、濡れているぞ」 乾かせよ、という言葉と共に、 総司の憂慮など知らぬとでも言うように、障子は閉じられた。 室の真中に置かれた火鉢には、先にキヨが火を熾こしておいてくれたらしい。 慣れぬ水仕事を手伝いで、赤くなった総司の指先を見て、気を遣ってくれたのだろう。 それが嬉しかった。 自分の我儘を黙って見てくれている人間を、大事にしなくてはいけないと、キヨは言った。 土方は命を削るような行為をする自分に激怒した。 憤りながらも、田坂に預けることで、その我儘を受け入れてくれた。 そして顔を合わせずに、近藤の無事をわざわざ告げに来てくれた。 八郎は愚かな事だと罵倒しながらも、 それを貫き通そうとする自分の為に、田坂に頭を下げて帰って行った。 そして田坂はこの十日間、薬を服さない自分の身体の変化を、 神経を休めることなく見守ってくれていた。 火箸でつついた灰が少しだけ宙に舞った。 それが目に入った。 瞬(またた)いて出そうとして、視界が滲んだ。 目はとっくに痛くはないのに、手の甲で拭っても、拭っても、 あとからあとから溢れ出てくるものに閉口した。 「・・・土方さん、まだ怒ってるのかな・・」 呟いて、笑ったつもりが泣き笑いになった。 「いるか」 声がして障子に人影が動いた。 慌てて頬を拭きなぐるようにして、零れたものを隠した。 「何だ。土方さんに会えなかったのが寂しいのか」 田坂は返事も聞かずに入ってくると、 まだ俯き加減だった総司を見下ろした。 「せっかく良い話を持ってきてやったのにな」 その声に含み笑いがある。 「良い話?」 田坂は火鉢を挟んで向かい側に腰を下ろした。 「もう帰ってもいいぞ」 「・・・本当に?」 「近藤さんが大坂に入った。土方さんから二度目の伝言がきた。 明日の朝には屯所に戻るそうだ。 それならばもう薬も飲むことができるだろう? それにしても土方さん、一刻も早く君を戻したいらしいな」 呆れたような田坂の声に、せっかく止めていたものがひとつ頬を伝わった。 「おい、ここを離れるのが泣くほどに嬉しいのかよ」 田坂のからかうような笑い声が聞えた。 それに必死に首を振ったが、もう言葉にはならなかった。 どんなに辛くても、苦しくても、それで流れるものは堪えることができる。 けれど人の温もりにふれて零れるものは、自分の意のままには成らない。 総司は田坂に笑いかけながら、止まらないものを持て余していた。 玄関までは田坂が見送ってくれた。 キヨは丁度遣いに出ていた。 「次は・・・もう大晦日か。来られるか?」 「はい」 はっきりと頷いて、今一度田坂を見た。 「田坂さん・・」 言おうか言うまいか迷ったが、思い切って言葉にした。 「いつか田坂さんが好いた人に会いたいな」 一瞬田坂の顔に狼狽の色が浮かんだ。 それを総司は見逃さず、嬉しそうに笑った。 「田坂さんでもうろたえることがあるんだ」 「急に何を言うのかと思ったら・・・」 「すみません」 それでも浮かべた笑みは消さない。 冬の風は冷たいが、零れ落ちる陽だまりにいればその温もりは優しい。 田坂の心に在るというその女(ひと)の姿を総司は思った。 「・・・ほんとうに、いつか会いたいな」 共に幸せになって欲しいと、必ず幸せになって欲しいと、そう、願った。 瞬きも忘れたように見つめたまま、身じろぎもせずに言葉を待つこの若者に、 自分はどんな応(いら)えを返したものか・・・・ 思えば邪気の無い、しかし酷く意地悪な問い掛けに、田坂は苦笑した。 「いつかな」 「約束です」 「さて、できるかな」 「意地が悪い」 「どっちがだよ」 その言葉の意味が分からず、 不思議そうな顔をしている総司の綺麗に結った髪が、 折から吹いた北風に横に靡いた。 一瞬、その腕を掴んで引き止めたい衝動を、田坂は己で止めた。 「早く行けよ。土方さんが待っているだろう」 ようやくそれだけを告げた自分に、総司が陽の中で笑った。 その顔が眩しくて、目を細めた。 想い人の頼りない背は、幾度も振り返ってこちらを見た。 それにひとつひとつ視線を合わせてやりながら、 角を曲がって見えなくなっても、暫らく田坂は門の前に佇んでいた。 今はまだこのままでいい・・・ 情けないとも思う心の内を、声を出さずに笑った。 だが強くなった風を、不思議と冷たいとは思わなかった。 「二度とこんな馬鹿な真似をしないと誓え」 土方の自室に呼ばれて行ったのは、もう随分と夜ふけていた。 目の前で土方の険しい双眸に見据えられて、総司はうな垂れた。 「お前のやったことの結果は、周りに心配をかけただけに過ぎない」 「・・分かっています」 「分かっているのならば、もう二度とするな」 「はい」 俯いたままの総司を見つめて、土方は組んでいた腕をといた。 「・・・そうは言っても、多分お前はまた同じ事をするのだろうな」 どこか諦めたような口調にやっと顔を上げると、 土方が方頬に苦笑ともとれる笑みを浮かべていた。 「もうしません」 「どうだかな」 「本当です」 「では、俺が近藤さんと同じ立場になったらどうする」 「私も一緒にゆきます」 意地悪くからかったつもりが、間髪をおかずに応(いら)えが帰ってきた。 「その時は、私も一緒にゆきます」 自分を見ている黒曜の瞳は、いつの間にか決して動ぜぬ強い色を湛えて、 微塵も揺るがず、そこにあった。 危うい色だと思う。 時に逆巻くような激しさを宿す瞳の持ち主は、 きっと自分の為に何の躊躇いも無く、 その限られた生の全てを投げ出そうとするだろう。 この瞳に捕らわれるのは、いつも自分だ。 だから自分以外の人間を、映し出す事は許さない。 「来い」 腕を掴まれ、一瞬戸惑うようにして引いた身を、土方は強引に抱きこんだ。 「・・・誰か来たら」 「誰も来ない」 抗う身体を閉じ込めて、正面から自分を映している瞳を見据えた。 「不思議なことを思った」 「不思議なこと?」 「俺にとって近藤さんは絶対だった。今でもそうだ。そしてこれからもそうだ。 あの人の為に、俺自身の為に、俺は新撰組を造って来た」 突然何を言い出すのかと、訝しげに見上げる総司に土方は苦く笑った。 「だが今回お前が近藤さんの為に身を削るようにして、 その無事を願っていると知った時、俺は近藤さんにさえ嫉妬した」 「・・・そんな」 「馬鹿なことさ」 低く笑った声音に自嘲の色が混じっていた。 「だがその馬鹿なことにすら、俺は真剣だった。 お前を想う俺の業の深さは、すでに人のそれではない。 だが呆れても情けないと嘆いても、もう止めようが無い」 総司は言葉も忘れて土方を凝視している。 「どこにもゆくな」 土方の指がその存在を確かめるように、 いとおしそうに総司の唇に触れた。 「俺からお前を奪ってゆくものは、例えそれがお前自信でも許しはしない」 ひと言ひと言、区切るようにゆっくりと伝えた。 幾度も言い聞かせてきた。 繰り返し、繰り返し、同じ事を告げてきた。 それでもこの腕の中の想い人は、 どんなに抱く腕に力を込めても、 どんなに胸の中に強く抱きしめても、 いとも簡単にそれをするりと抜けてゆこうとする。 それでも抱きしめずにはいられない。 それでも告げずにはいられない。 「俺からお前を奪うものを、俺は絶対に許しはしない」 そのまま何か言おうと開きかけた総司の唇を、 言葉にさせないうちに塞いだ。 焦燥と、苛立ちと、安堵と、そしてまた不安と・・・・ 内に滾るそんな全てをぶつけるような、土方の長い抱擁だった。 解放された総司の唇から、荒い息が漏れた。 「・・・一緒にゆきます」 「分かっている」 ゆっくりと身体を押し倒されながら、土方の背に腕を回した。 「一緒にゆきます・・・だから」 だから置いてゆかないでくれという次の言葉を、総司は堪(こら)えた。 置いてゆかないでくれと言えば、いつか土方の重荷になる。 抱きしめてくれるこの腕の持ち主のために、 天が我が身を欲しいと言うのなら、 どんな辛苦の果てに命が尽きようと喜んで放り出すことができる。 けれど負担になるのなら、それは地獄の釜で焚かれるよりも辛い。 「だから何だ?」 言葉を止めたままの総司を、土方は促した。 「薬・・・・飲みます」 額にかかった髪を掻き揚げて瞳を覗き込むようにして、 自分を見ている想い人に、総司は笑いかけた。 「ばか」 その声が耳に響いたのと、 もういちど、唇がひんやりとした感触に覆われたのとが同時だった。 土方に回した腕を、更に強く絡めた。 自分だけのもので居てくれるのならば、 それがどんな束の間の幻でも構わない。 それでも今この一瞬すら朧にきえてしまいそうで、 総司はその背に分からぬように爪を立てた。 了 きりリクの部屋 |