煙 雨 -enu- (五)




「こいつが京に上ると言った時、止める俺に、土方さんの元にいられないならば端(はな)から命なんぞいらないと、面と向かって言いやがった」
未だ八郎にとって、過去にはできない出来事なのか・・・
面白がる風な声音の主が想い人に注ぐ眼差しは、それを許してしまった己への遣りきれぬ痛恨に一瞬細められた。
「行かせるんじゃなかったとでも言うのか?」
応えを返しながら、しかし田坂は別の事を思っていた。

京に来なければ総司の命数が先に延びると知り得て、では果たして自分はこの想い人と見(まみ)える運命(さだめ)を捨て去る事ができたのだろうか・・・
できる筈が無い。
こうして蒼白な頬をして、ようよう細い息を繋げている様を目の当たりにしているだけで、胸を掻きむしられる苦しさにあると言うのに、それでも自分は総司に巡り逢う事の無い、来し方行く末を望みはしない。
江戸に帰すべきだとの一言を躊躇して、悪戯に時を費やし、今この災禍をもたらしたのは自分なのだ。
そう承知しながら、尚帰せとは言いたく無い。
真実人を想うとき、人はすでに人の心をかなぐり捨てるのかもしれない。
残酷な答えを胸に秘し、田坂は今一度想い人の面輪に目を遣った。


「どんな事をしても、こいつは此処へ・・・、土方さんの元へと来ただろう」
そんな田坂の思考を断つように、向けられた八郎の目が笑っていた。
「言葉どおり、現せ身でなくなって、魂ばかりになってもな」
「それに負けて、あんたは諦めたのか?」
恋敵を揶揄しながら、田坂も叉苦笑した。
「諦めることなどしやしないさ。こいつが俺の言う事を聞かないのならば、聞くまで追うと決めたまでさ」
「それで上洛か?お上もとんだ迷惑だな」
「いらなきゃ捨ててくれるだろうよ」
さらりと流れた言葉には、だがきっと己の恋情の滾るままに、すでに手段というものは選ばないのだと決めた八郎の、強靭な信念があった。

「馬鹿も半端じゃ気に入らないから、困ったものさ」
更に続く言葉は、とことんこの想いと心中するつもりなのだと、田坂の耳にはそう聞えた。
そしてそれは己の心そのものなのだとも、天は容赦無く指し示していた。
恋敵の言葉ひとつひとつに過敏に反応する自分こそ、もう逃げる事の出来ない瀬戸にまで押しやられているのだと、田坂は改めて知った。


何を排しても、何を差し出しても厭わないと渇望していた吉兆は、そんな会話がふと途切れた狭間に、些かの衒いも無く突然に現(うつつ)となった。
それを最初に知ったのは、病人の面に目を止めていた八郎だった。

凍てた瞼が見落とすかと思う程微かに動き、深い翳を落としていた睫がそれに呼応して震えたのを見たとき、八郎の眸が一瞬険しく細められ、次にはそれが幻でないと確かめる為に見開かれた。
その挙措を、脈を診ていた田坂が気配で察し、思わず其方へ視線を送ると、一度は開きかけて、だがすぐに力尽きたように、瞼は再び閉じられようとしているところだった。

「総司っ」
耳元で掛ける声は、昂ぶり高い。
その必死を、八郎は隠そうともしない。
この者を、此方の世へと引き戻せるのは自分しかいないのだと、それが今八郎を占めている全てだった。
喉の付け根、鎖骨と鎖骨の間の少し上に気付けの泉がある。
咄嗟に襟元を緩めると、其処を躊躇い無く田坂は押さえた。
一瞬苦しげに眉根を寄せた総司が、その辛さから逃れるようにうっすらと瞼を開けたのを、今度は二人の眸が紛う事無く見届けた。
「総司っ」
だが間を置かず続けざまに名を呼ぶ声に、反応は酷く鈍い。
夜具の中に仕舞われていた手を取り出し、握り締める八郎の掌に、かの指の存在は心細くなる程に頼りない。
白蝋の如き爪の先の、血の通わぬ冷たさを、籠めた力で補うかのように今一度握りなおすと、その強さ痛みが、まだ大方闇あった総司の意識を此方に呼び戻したようだった。


像としては未だ何ものをも捉えられぬ中で、それはきっと無意識のさせた技だったに違いない。
視線は定まる処を知らず、動くと言い現すに難しい唇の僅かばかりの震えは、長い間ひとりであった孤独への慄きにも似て、誰かを探し求め呼んでいた。
「土方さんは護り袋を返しに行った」
言葉の意味を分かった訳では無いのだろうが、八郎の声に、ともすれば再び闇の淵へと帰って行きそうだった総司の瞳が、僅かに力のある光を湛えた。

総司の魂を揺さぶるものが、どの一言だったのかに辿り着けば、この場に臨んで尚胸の片隅に刺す小さな棘が疼く。
それを疎ましく思いながらも、だが八郎はその名を今一度繰り返した。
「じき、土方さんが帰ってくる」
声のする方へと瞳を向けはしたが、力戻らぬ身体は何も形にすることは出来ず、総司は八郎を視界に入れるだけが精一杯のようだった。

希(こいねが)っていた僥倖は、薄紙の一枚一枚を重ねるように、現のものになってゆく。
やっと掴んだ息の緒を、二度と逃さぬ決意で、手の内にある指を、八郎は更に強く包み込んだ。

「護り袋を返しに行った」
遠い記憶を少しづつ手繰り寄せるように自分を見つめる黒曜石に似た深い色の瞳に、再び見(まみ)える事が出来た、この震えるような思いを、己が掌中に確かに納める為に、恋敵の名を告げ励ますのを、八郎は最早躊躇わなかった。

暫し、まだ光弱い瞳は思い出すのに難儀しているのか、瞬きすらせずにいたが、やがて微かに頷く仕草をすると、それが限界だったらしく、そのまま又眠りの淵に吸い込まれるように、静かに瞼は閉じられた。
咄嗟に顔を向けた八郎に、田坂が目だけで案ずるなと伝えた。
決して強いとは言いがたいが、微弱に打ち続ける脈は、途切れることなく綿々と田坂の指に触れる。

「峠はひとつ越えたばかりだ」
望むべく応えを得るまで、視線を逸らそうとしない八郎に告げた声はまだ厳しいものだったが、田坂自身もそれに安堵の色を隠す事は出来ない。
「幾つも幾つも、きっと越える・・・越えるさ」
そう信じているのだと、再び眠りについた白い面輪に目を遣って、自分自身にこそ言い聞かせるような八郎の独り語りだった。


「雨、上がったみたいだな」
いつの間にか、外にあった雫の跳ねる音がきえている。
その代わりに一段と冷え込んだ空気が、すでに夕刻が近いと気配で伝え、雨の帳(とばり)の向こうでは、止ることなく時は刻まれ続けていたのだと知らしめる。

「土方さん、さっさと帰ってくれば良いものを」
「そして言うのか?確かに先駆けたと」
「言うね」
あっさり返った応えは、だがきっとそうするのだろうと田坂には届いた。
「見てみたいものだな。その時の顔を」
「じき見られるさ」
言い切って視線を向けた想い人の息づかいは、まだ細く時折不安に乱れる。
手に触れる指の冷たさは、血潮の通う人のそれとは到底思えない。
それでも先程よりもずっと静かに瞼閉じている面輪は、見守る者を安堵の内に包み込む。

次にこの瞳が開かれたとき映し出すのは、想い人の目覚めたのを知らず、その願いを成就させる為に奔走している恋敵の姿なのだろうか。
土方は、もう護り袋の持ち主との邂逅を果たす事ができたのか・・・

「・・・叶えてやりたし、それも憎し」
軽い風を装った呟きには、きっと助かるのだという希への、確かな糸の端を掴み、漸く心に余裕が出来た途端に生まれた嫉妬という感情があった。
それをどうしようもない己の業だと、八郎は心裡で苦笑した。




おゑいの家を出た時には細い雫となっていた雨だったが、走り出して暫くもせぬうちにそれも止み、ふと気がつけば、急速に流れる雲の隙間からは明るい空すら見え隠れする。
それがもうすでに黄昏の色を帯びている事に、土方の心は抑え様の無い焦燥に乱れる。

元来た道を五町も戻らぬ処に、探していた神社は見えてきた。
見上げて尚余りある高い木々は、季節が変われば枝の隅々まで青々とした葉をつけ、今は北風が吹きぬける境内を、鬱蒼とした景色に変えるのだろうと予感させる。
横に薙ぎれば幾多の年輪を刻んでいるに違いない幹は、人が姿を隠すのに十分な太さを呈している。
その何処かに潜むはずの男の姿を、土方は息を殺して探る。

参次は、必ず此処に来る。
おゑいの言葉は信じている。
だが土方を根本で支えているのは、どんな事をしても必ずや勝たなければならない勝負に出た、後に引けない悲愴な覚悟だけだった。
総司の命脈は自分が護る。
息の緒は自分こそが繋ぎ止める。
ただそれだけの為に土方の五感は、どんな小さな影も見落とすまいと、今鋭利に研ぎ澄まされる。


ふいに頭上で鳥が飛び立った。
咄嗟に近くの木の陰に身を隠した土方の視界に、境内の奥にある祠の、更にその向こうから、此方に足を急がせて来る人影が飛び込んできた。
それに焦点を合わせる様に細めた双眸が、痩身の男を映し出した。
小川屋から聞いていた人相風体、間違いは無い。
あれがおゑいの言っていた男、そして自分の唯一の者を救う為に必要な男。
ただひたすらに探し求めていた男が、今目の前にいる。
右の足が一歩、前に踏み出された。
「・・・総司」
我知らず漏れたのは、想い人の名だった。

だが一度声にして呼んでしまえば、もう堪えることはできない。
逢いたい、否、自分は総司の元へと還るのだ。
そう思った時には体は木から離れ、落ち着かなげに辺りを見回しながらやって来る男の前に立ちはだかっていた。


突然視界を塞いだ人間に、男の顔は驚愕に蒼ざめ、だがすぐに身を翻して逃げ去ろうとしたのを、一瞬早く伸ばした土方の腕が肩を鷲掴んで止めた。
「参次だな」
振り向かせざまに掛けた声が逸ったのは、限界にまで追い込まれていた土方の焦りが形為したものだった。
怯えの中にいる男が、応えを戻す事のできないこの一時の間が、土方の苛立ちを怒りに変える。
「応えろっ」
荒げた声は、まだ高い梢に残っていた鳥たちの憩いを無遠慮に断ち、一斉に羽ばたく音が宙に木霊した。
その勢いに慄き唾を呑み込んだ男が、辛うじて頷くのを見ると、漸く土方の顔からそれまであった強張りが緩んだ。

この男に、護り袋を返せば総司は助かる。
今は誰に狂信と侮られようと、例えそれが神仏であっても、自分を邪魔する者は許さない。
微塵にも譲れない決意の果てには、生きるも死すも同じと承知し、還る処はただ総司の傍らと決めた土方の揺るぎない信念があった。


「これはお前のものか」
やっと巡り会えた男は、ひたすらに自分を襲っている恐怖の中にいる。
その目の前に、護り袋を乗せた手のひらが突き出された。
戦慄の中で、不意に起こった異な風景に、参次がうろたえて土方を見上げた。
「お前のものだな」
念を押されて大きく頷いた様を見届けた土方の、見る者によっては冷たくすら思える、整いすぎた面が一瞬安堵の色に染まった。

「・・・どうして・・これを」
やっと口を開いた参次の声は、緊張の際に未だ囚われ続け、ひどく上ずっていた。
「拾った者がお前に返したいと、そう言っていた」
「では、もしや・・あの時の若い人が・・」

おずおずと手を伸ばし、護り袋を己の手の内に仕舞いながら呟いた参次には、すぐに拾った者が総司だと分かったようだった。
それはそのまま、落としたと気づいた時から、護り袋を気懸かりにしていた事を意味する。
総司の思いは外れる事無く、参次は大切にしていた物を失くした事を憂いていた。
そしてこうして再び戻ったことに喜びを隠さない。
それが土方の胸を、重く金縛っていた枷をひとつ外す。


「確かに返した」
「・・・お武家さん」
見据えるようにして一言伝え、もうこの場に居るに用無き体で踵を返そうとした背を、戸惑いがちに掛かった声が引き止めた。
立ち止まる間すら疎ましげに振り向いた土方の視界の内に、参次のまだ蒼ざめた顔があった。

「どうして俺が此処にいると・・・」
追われる身は、ひとつ安らぎを得ても、次の瞬間には保身の為に叉怯えるのだろう。
参次に心が休まる間など、いっときも無い。
「おゑいという女に聞いた」
そっけない応えは、だがこの男を打ちのめすには十分すぎたようだった。
「・・おゑいが」
呟きはしたが、思考は十分に働かないのか、参次は土方を凝視したまま後に続ける言葉が出て来ないようだった。
「此処を通る自分を、お前が見ている筈だと。・・・今日が限りだからきっと居る筈だと、そう教えてくれた」

暫らく・・・
呆けたように土方を見ていた顔は、やがて自嘲するようにくしゃりと笑い、しかしすぐに苦悶の様を呈し、最後に遣り切れないように背けられた。
その一連の変貌が、皮肉にもこの男の来し方を物語っているように思えたのは、おゑいと重ね合わせた、己の裡に芽生えた一瞬の感傷だったのか・・・
だがその芽を、土方はすぐさま摘み取った。
今の自分に、そんな事に心移している余裕は無い。

「みんな・・」
その土方の心を知らずして、離れ行く者に追いすがるように、参次の言葉が続けられた。
「・・みんな・・あいつは、知っていたと言うんですかい・・」
横を向いたまま、力の限りに振り絞る声は途切れ、脇で握り締める両の拳が震えていた。
「自分がどうなるのか・・・知っていて・・。馬鹿だ、おゑいは馬鹿だっ」
叫んだ声は、きっと自分自身を罵倒するものだったのだろう。
愛しい女を愚かだと責めながら、参次は一度も土方を見ようとしない。

「おゑいは」
己の為してきた所業の果てない痛恨に男が浸るのを、黙って見ていた土方の低い声が遮った。
「地獄の底までお前について行くのだと決めて選んだ道の、その後始末をするのだと、そう言っていた」
「・・選んだ道の?」
参次の目が虚ろに彷徨い、形だけの笑いが顔に浮かんだ。
「・・・こんな・・・、こんな男の為に捨てた道の後始末など・・」
「自惚れるなっ」

辺りを包み始めた夕闇の寂しさ、静けさ、人恋しさ・・・
そんなものを一瞬にして破り辺りを震わせた、土方の鋭い怒声だった。


目の前で放心したように立ち竦む男が、この先どういう行動を取るのかは知らない。
否、知ろうとも思わない。
だが今参次に、こうして腹の底から憤りをぶつけることが、土方に出来る、おゑいという女への遣る瀬無い報いだった。
脳裏に、護り袋を拾った本当の主に礼を言っていたと伝えてほしいと願ったおゑいの顔が蘇る。
その言葉を、必ず自分は総司に伝えなければならない。

ぴくりとも動こうとしない参次に、今度こそ土方は後ろを向けた。
それは行く手を断つ者あるならば、容赦無く鋭く斬り捨てるだろう、一種冒し難い峻厳な背だった。


二歩、三歩自分から遠のき・・・

遂に駆け出した姿が、視界のなかでみるみる小さくなり、やがて消え行きても、其処を動かず、参次の眸は滲む視界の中で、ぼんやりと暮れ行く景色を映していた。




途中の農家で無理を強い借りた馬を駆けに駆けさせ、計れば然も無い距離を千里と思う焦燥の中で漸く辿り着き、驚く門番に無言で手綱を押し付けると、草履を脱ぐ間も厭わしく、土方はその勢いのまま廊下を走った。
乱れた息を隠しもせず、きっちりと閉じられていた障子を開け放った瞬間、昂ぶる心の臓の音だけが唯ひとつ己を支配していた。

見開いた眸が映し出したのは、瞼を閉じ、戻った自分を見ようとはしない想い人の姿だけだった。
其処に八郎も、田坂も無きように、ただ総司だけを据えて枕辺に歩み寄り、膝をついて見る面輪は、出て行った時と同じように血の色は微塵も通わない。
それでも唇の間際に持っていった指の腹に、微かに触れ、繰り返される息は、総司の命の綱は確かに繋がれていると土方に知らしめる。

・・・生きて、総司は此処にいる。
体の一番芯から溶け出すように力が抜けてゆくのを感じながら、土方の指はただ想い人の冷たい頬に触れていた。


「護り袋の主、見つかったようだな」
遠慮無く掛かった声に、初めて其処に人がいたのを知ったとでも言う風に振り返った土方に、八郎が苦笑した。
「見つけた」
そう強く言葉にした言い回しは、天の残酷な気紛れから想い人を奪い返しのだと、八郎には聞えた。
「一度目が覚めた」
告げながら視線を、まだ眠りにある蒼い顔に落とした。
「癪に障ることに、あんたを探していた」
「そうか」
揶揄するような笑いを含んだ口調に、ただそれだけを、土方は返した。


苦しい闇からやっと戻った魂が、自分を探し求め、だが叶わないと知り、どれほど心細い思いをさせてしまったことか・・・。
次に目を開けたとき、護り袋を持ち主に返して来たのだと詫びても、総司はやはり自分を責めるのだろうか。
何故居なかったのだと、どうして独りにさせたのだと・・・
それを、言わせてみたい、聞いてみたい。
否、今はこの唇が紡ぐどんな言葉もいとおしい。
自分を呼ぶ声を聞きたい、映す瞳を見たい。
待っていたのかと、寂しかったのかと、二度と離れぬように腕(かいな)を回して雁字搦めにしてしまいたい。

「・・・目を覚ませ」
そんな衝動のまま耳朶に触れんばかりにして囁いたのは、我知らずして漏れた己が勝手な願いだった。
しかしそれは、霧中を彷徨っていた想い人に、確かに届いたらしい。
血管(ちくだ)の色を薄い皮膚に透かした蒼い瞼が、自分を呼ぶ声を追うように僅かに開かれた。
咄嗟に仰ぎ見た土方に、田坂は深く頷き、その目は更に呼びかけよと促していた。

「総司・・・俺だ」
声の主を探ろうと、瞳だけが動いた。
「俺だ」
土方の強い声は、まだ半分違う世に置いある魂を揺さぶる。
幾度かそうして名を呼び、やがて虚ろだった瞳に、微かに光が宿ったように見えたのは、あまりにそう望んでいたが為の錯覚ではなかった。
それが証に、色失き唇が戦慄(わなな)くように震えた。
声に出来ない必死さで呼んでいるのが自分だと、土方は瞬時に判じた。

「・・・俺だ」
堪えられず、今一度繰り返したとき、何か異質なものが皮膚を滑った。
それが愛しむように両の手で包み込んだ想い人の頬にひとつ滴り落ち、小さな水輪を作った時、初めて己の目から零れ出たものだと知った。

総司は自分の手に還り、自分は総司の元に還って来た。
当たり前の事が、当たり前に為されただけだと言うのに、どうしてか熱いものを止められぬ事に、土方は難儀していた。
みっともないと、情けないと、こんな姿を晒したくは無いと、この場においても尚そんな矜持を捨てられない自分を自嘲しながらも、滾る想いも、流れるものも、もう全てを為すがままに任せて、土方は総司を呼ぶ。

「俺だ」
長く眠りにあって、力弱く見上げてくる黒曜の瞳に、そうして呼び続けるしか、もうどんな事も出来なかった。


土方の眸から零れ落ち、自分の頬にあたり更に頤を伝って流れるものを、少しの間総司はぼんやりと見つめていたが、不意に、己の意思ではまだどうにもならぬ身体を渾身の力で動かそうとした。
「苦しいのか?」
問う声に応える言葉も返せず、必死に何かを伝えようとしている総司を、土方はどんな些細な事も見逃すまいと息を詰めて見守っている。

やがて夜具の外に出ていた左の指が、僅かに持ち上がった。
見止めた土方が、咄嗟に掴んだ冷たいそれを、更に総司は上に持ってゆこうとする。
どうしたいのかを判じかねたまま、土方は握ったその手を己の頬に寄せた。
だが総司はそうされることを望んでいたように、辛うじて動かした人差し指の先を、土方の目から流れるものに当てた。

拭おうとしているのだと気づいたのは、幾度か同じ仕草を繰り返された後だった。
やっと意図を捉えて見下ろす眸に、総司はまだ伝え足りないのか、今度は唇を動かそうとする。
ただその一言を聞き分けるが為に、あらゆる神経を其処に凝縮し、唇近くまで寄せた耳に、ほんの微かに漏れる息とは違う音が聞えた。
或いは。
それは土方だからこそ、聞き分けられたのかもしれなかった。
暫し、そのままの姿勢で総司を上から覆う様にしていた背が、ゆっくりと起こされた。

「・・・強いと、そう言うのか?」
頷いて応える事も出来ない代わりに、想い人はまだ拭おうとする所作を止めようとはしない。


血を吐いた日の前の夜、笑いかけながら、土方さんは強い、そう言った。
それ故に、いつもこの背を見失う事無くついて行けば良いのだと・・
闇の深淵で、次から次へと寄せる辛苦に身体を苛まれながら、総司は自分の背を探し求めていたのだろうか。
強いと、だから泣くなと、身体に残された力の限りで伝える指が濡れて震える。
それに触れられていれば、堪え様の無い愛しさだけが胸に込み上げ、これ以上隠す術を知らない。

「護り袋は参次という男のものだった・・」
更に溢れそうになるものを誤魔化しながら、土方は想い人に語りかける。
それがどういう意味なのか、今度は分かったのだろう。
一瞬瞳が見開かれ、更に何かを問いたげに唇が動いたが、しかし精魂尽きた肉体と精神はそれを許さず、細い息をつくと、総司は土方を映す瞳を閉じるを惜しむかのように、ゆっくりと瞼を下ろした。

「今の処は無理だ」
静かに告げた田坂に、一度顔を上げ、眼だけで承知したと応えはしたが、安堵の表情を浮かべて眠る想い人に視線を縫いとめたまま、土方は握り締めた手を離そうとはしなかった。


春も間近と思わせる冬の西日が暗雲を押し開き、一瞬射し込んだ残照が、落ちる間際に見せる激しさと、務めを終えた柔らかさとを交互に湛え、障子を透かせて土方の背を茜色に包み込んだ。




「世話をかけてしまったな」
一夜を過ごし、宿舎に戻るという八郎を表玄関まで送る途中、土方は短い言葉を掛けた。
持ち主に護り袋を返すことが、想い人の命脈を繋ぎとめるのだと、人が聞けば狂ったと愚弄されても仕方が無い自分の意志を貫けたのは、或いは八郎と田坂が総司の傍らにいたからこそだったのかもしれない。
土方は横に並んで廊下を渡りながら、そんなことを思っていた。

「あんたが泣いたのを初めて見た」
そんな土方への応えは別の言葉で戻ってきた。
揶揄するでもない、さりとてからかうでもない、いつもと変わらぬ八郎の物言いだった。
それに応える代わりに、土方の体がつと前に出た。
正面を見ればこの男は仏頂面を作っている事だろう。
八郎の方頬が、苦笑に緩んだ。


「田坂さんがな、総司に気付けの薬を口移しで飲ませた」
無言で歩を進める広い背に語り掛ける声は、凍てついた冬の空気を透かして小気味良い程に響く。
「俺は面白くなかった」
俄かに不機嫌の様を呈した口調が、心底そう思っているのだと言っていた。
それを後ろで聞いて、やっと歩を止めた土方が振り返った。
「妬いたのか?」
暗闇で相手の表情を読み取ろうと、細められた目が笑っていた。
「妬いたね」
応えはいっときの間も置かなかった。
それが八郎の、嘘ではない激しい想いを物語っていた。
「あの間際で、必ずそうしなければならないと承知していても、俺は嫌だったね。あの人が医者でなけりゃ許しはしないさ」
「正直なことだな」
「その場にいればあんただってそう思うさ」
「いなくて幸いだった」
一言で言い切ると、くるりと後ろを向けた土方に、叉並んで八郎も歩き出した。


「護り袋の主、どんな奴だった」
探し出した過程を聞く事を敢えて省いて、八郎は問うた。
聞いた処でろくな返事は戻さないだろう。
自分の恋敵はそういう男だ。
「・・・過ぎた女に惚れられた奴だった」
八郎に応えながら土方の脳裏に、護り袋の本当の拾い主は、想う人かと聞いた、おゑいの顔が浮かんだ。

あれからおゑいは参次と逢う事ができたのか・・
参次はやはり最後の賭けに打って出たのか・・・
だが一瞬過ぎった全ての思いを、土方は今一度前を見据えて断ち切った。
忘れ去る事が、自分で決めた道の後始末だと、だから同情はしてくれるなと笑った、それがおゑいという女の矜持を傷つけない事だとそう思った。


「伊庭、俺は持ち主を探している間中、総司の身に異変など起きる筈が無いと信じて、露程も疑わなかった」
突然語り始めた土方を、八郎は促すでも無く、さりとて次の言葉を待つでも無く、少し遅れて歩きながら聞いている。
「だが護り袋を持ち主に返せば総司は目覚めると、そう信じ込んだのは、己の弱気から逃げ出す為だったのかもしれない・・」
言葉尻が、この男にしては珍しく呟くように低かった。
安堵した心が許した、土方の心の本当を、八郎もまた己と重ね合わせて思っていた。

「・・俺は」
言葉と共に八郎の唇から漏れた息が、凍てた闇に白く濁る。
「あいつの顔だけを見ていた。苦しげに上下する胸から目を逸らせなかった・・。だがそれだけが、唯一あいつが生きている証のように思えた」
月明かりだけが頼りの暗さでは、顔に浮かんだ表情も判別できないが、互いに横を向いたまま続ける会話はこれでよかった。
「あんたは信じ込むことで弱気を封じ込め、俺は生きているあいつを見つづけることで自分の弱気を見ぬ振りをし、そして田坂さんも叉医者でいることで、弱気に傾く心を律していた・・・みな、同じさ」

一度言葉を止めて、吸い込んだ空気の冷たさが、ようやく八郎に現に戻ったような錯覚を起こさせる。
それが今の今まで、まだ緊張に縛られていたからだと知れば、己の不甲斐なさに苦笑のひとつも漏れる。

「どうした?」
聞きとめて、土方が横の八郎を見た。
「いや・・案外に知らぬ顔をして意地を張るのも難儀なものだと思ったまでさ」
「意地だの、強がりだの、面倒なものだな」
「なけりゃつまらないだろうよ」
面白そうに応える八郎の声が、微かに笑いを含んで中天に散らばり消えた。

「それにしても、こっちは冷え込むな」
それが江戸と比らべているのだと、昔馴染には容易に察せられる。
「嫌ならば帰れ」
「言っただろ、意地もなけりゃつまらないと・・。俺の馬鹿はまだ中途だぜ」
それが総司への恋慕のことだとは、語らずとも知れる。
「諦めの悪い奴だな」
「生まれた時からさ」
「好きにしろ」

凡そ愛想の無い物言いに、この男にいつもの強気が帰ったのだと思いながら、八郎もまた、天空を見上げ、漸く月の冴え冴えと蒼いのに気付いた。
心に、余裕というものが戻ったのだろう。

「とんと意気地の無い話だねぇ」
それを確かに認めて、一歩先ん出た背を見ながら独り呟いた声が、自嘲するように笑っていた。





「・・・護り袋の人、もう二人で国に着いたのかな」
身体を土方に向け横臥したままで、邪気無く見つめる瞳は、更に応えを求めて問い掛けるを止めない。
「京よりも北と言ったら、雪道になるだろうから、難儀をしていなければ良いけれど・・」
「どうだかな」
素っ気無い応えの主は、枕辺にあった蜜柑の山から一つを手に取ると、皮をむき始めた。
一刻程前に見舞いに来た小川屋左衛門が、手土産に持ってきたものだった。
それ以上物言わない土方の、器用に皮と実を分かつてゆく手元を見ていた総司の目の前に、ひとつ房が差し出された。

「口を開けろ」
「・・・土方さんは?」
てっきり土方が食べるのだと思っていた総司の瞳が瞠られ、驚いたように見上げた。
「食うさ」
それを聞くと、嬉しそうに形の良い唇が小さく開かれた。
するりと滑り込んだ豊穣な実は、まだ微熱の引かない身の舌には酸味が苦く残るのか、総司の顔が少しばかりしかめられた。
その様子に苦笑しながら、だがこんな仕草のひとつが、土方にとっては何ものにも代え難い。


総司の血潮が全て流れ出してしまったような、あの悪夢のような日から十日が経とうとしていた。
今回の喀血は、流石に身体の細部までを弱らせてしまったようで、どうやら身体を起こして見舞ってくれる客の相手ができるようになったのは、つい二、三日前のことだ。
それも半刻もすれば疲れが出るようで、今日も小川屋が帰ったあと暫し眠りについていた。

護り袋の持ち主の事を、見つけた時はその妻と二人で京を離れ国に戻る処だったと、土方は総司に話していた。
妻のおゑいが礼を言っていたと、そう告げたとき、総司は心底嬉しそうに笑った。
それ以上話す必要はなかった。
それでいいと、土方は思った。


「きっと大切なものだったんだ・・」
ふいに掛けられた声に現に戻されて見下ろすと、総司が笑っていた。
「あの護り袋・・」
連脈無く突然に問われ、何を言い始めたのかと怪訝に見る土方に、更に総司が言葉の不足を補った。
「俺はもうあんな人探しは御免だ」
呟いた口調が、如何にもうんざりと不機嫌だった。
だが間髪を置かず、忍ぶに耐え切れないような、小さな笑い声が響いた。


そのまま開け放った障子の向こうに視線を遣ってしまった背を、総司は飽きもせず見ている。
護り袋を、持ち主の元へと土方が届けてくれたことが、今何よりも胸の裡を満たしている。

殊更ぶっきら棒に言う、その裏にあるもの・・・
目覚めた自分の頬に、熱い雫を落とした、その裡に秘めるもの・・
それらの残す隈無い全てが、自分を包み安堵させてくれる。
此処だけが、自分の居場所なのだと教える。
そして、唯一この背だけに、自分はついて行けばよいのだ。


「・・・総司」
土方と、声に出さずに唇だけでその名を形作ろうとした時、それを見透かされたかのように、庭に目を止めたままの背の主が、此方を見ないで声を掛けた。
一瞬息を呑んだ気配を察した筈が、土方はそんなものなど意に介さない風に淡々と続ける。

「お前がいれば、俺は幾らでも強くいられる」
己の心を知られるのを恥じて、慌てて固く唇を閉じた総司の耳に、思いも寄らない言葉が届く。
何を言って良いのか分からぬ躊躇いに、心はたじろぎ揺れる。
「・・俺を不安にさせるな」
あまりに突然に胸掻き乱すその声に、応えは未だ戸惑いにあって返せない。
身じろぎせず更に次の言葉を待つ一瞬は、終わりのない遥かな時にすら思える。
やがて・・・

「決して傍を離れるな」
向けた背のまま、唯一無二の人は命じた。



小春日和にも似た穏やかな日中の陽射しに、土方はつと目を細めた。
後ろで想い人はどんな顔をしているのだろう。
勝手を言うなと、怒っているのだろうか・・
それとも諦めの吐息をついているのだろうか・・・

物言う気配の無い様に痺れを切らして、ゆっくりと振り向いた土方の視界に、大きく瞠られたそれから、零れ落ちるものを拭いもせずに此方を見る、黒曜石の深い色に似た瞳があった。
総司は幾度か目を瞬いて、必死に堪えようとしていたが、それも敵わず、遂に肘で折って交わした両の腕で顔を覆ってしまった。
「ばか、泣くやつがあるか」
叱る言葉には愛しさだけが募る。


「・・もう、いい加減にしろ」
微かな抗いを封じて自分から総司を隠すもの全てを除け、それでも瞳から流れるを止らないものを目にすれば、どうにも切ない胸の裡を、溜息混じりのそんな言葉で土方は誤魔化した。







                     煙 雨     了





           きりリクの部屋