雪 圍 -yukigakoi- 五
梅が終わり櫻が咲くまでにはまだ間がある。
愛でるものが無いこんな季節の狭間は、何処と無く寂しげではあるが、心惑わすものが無い分穏やかなものなのかもしれない。
堀内左近の話を聞きながら、土方はそんな詮の無い事をも思っている。
堀内は護っている筈だった自分が、その実護られていたのだと言った。
それが土方の胸の一処を、先程から妙に落ち着かなくさせている。
「佳予は私にとっては儚く愛しい存在だった。護ってやらねばと・・・ただそれだけを思っていた。が、亡くしてみて知れば、私はいつも佳予に護られていた。宗次郎殿の瞳を見た時、再び佳予に出逢えた気がした。いや、魅入られたという方が正しいのだろう」
「それで自分の手元に置きたいと?」
「左様。・・勝手な事を言ったのだろうな」
「勝手すぎるっ」
迸った勢いの先にあるものは、宗次郎の心の闇をどうにもしてやることのできない、自分自身に向けられた土方の憤りだったのかもしれない。
「すまぬと、詫びて済むものでもないのだろうが・・・。だが己の都合であの少年に要らぬ心労を掛けただけで終わった事を思えば、まして病床についていると聞けば、顔を見て全ては元の通りに戻ったのだと、私の口から告げ安堵させてやりたい」
それは確かに堀内という人間の真実の言葉なのだろう。
精悍な面に広がったのは、やりきれぬ悔恨の色だった。
十分に分かっていながら、しかし今はまだ、土方はその堀内の心情を汲んでやることはできなかった。
宗次郎を護ると決めた、それが己の決断でもあった。
「宗次郎殿は、何を護ろうとしていたのか・・・私は今もそれを考える」
会わせる事は出来ないのだと、そう告げるよりも早く堀内がふいに呟いた。
「・・・宗次郎が、護る?」
「そう、あれは自分以外の何かを護る為の、激しく強い色だった。見るからに頼りなげな少年が、そこまで己を変えても護ろうとするものが、きっとあの道場にはあるのだろう。だから不意の侵入者に牙向くように、隠しもせずあの瞳を私に向けた」
それに未だ心奪われ続けているのだと、浮かべた穏やかな笑みを消さず、堀内は土方に告げた。
「試衛館という道場は、宗次郎殿にとって自分よりも大切なものを仕舞ってある処なのだろう。例え無頼の道場破りであっても、一瞬たりともその生活を脅かすものは敵と、そこまで宗次郎殿に思い込ませるような何かが、あそこにあるらしい・・」
それが師である近藤を始めとする者達との暮らしなのか、はたまた他に別の何かがあるのかと本人に問うても、応えは戻らぬ筈を知りながら、それでも自分は一度聞いてみたいのだと、大人気ない好奇心を自嘲するように低く声を漏らして笑った。
いつの間にかそれまで時折聞えていた人声が止んでいたが、やがて庭を回って此方にやって来る足音が聞こえてきた。
「旦那さま・・」
「終わったか、松五郎」
座敷にいる客に気を止め、躊躇うように小さく掛かった声に堀内が応えた。
「へい、今しがた・・・それで」
土方に非礼を詫びるように一度頭を下げると、松五郎と呼ばれた小柄な男は申し訳無さそうに、少し身体を前に倒しながら堀内に向き直った。
「終わりましたんで、本当に申し訳ないことですが、あっしはこれで・・・」
「それはすまなかった。今日は別の仕事が入っていた処を無理を言ったのは私だ。礼を言う。このとおりだ」
頭を下げた堀内に、松五郎は慌てて首を振った。
「とんでもねぇ。旦那さまに頭を下げられちゃぁ罰が当たります。本当なら冬が来る前に、あっしがちゃんとして置かなければならなかったのに、去年はとんだことで旦那さまにもご迷惑をおかけしちまって・・」
「いや、ひと冬越す位は自分たちの手でできるだろうと、とんだ素人判断が招いた結果だ。だが助かった。松五郎は次の仕事に行ってくれ」
顔を上げて労をねぎらう堀内に、ほっとした表情を隠しもせず、松五郎はもう一度深く頭を下げると、道具を片付けに行くと言ってまた庭の奥に消えて行った。
「話の中途で無礼をしてすまぬ。あれは当家に出入りしている植木職人だが、昨年秋に腰を痛めこの冬は思うに動けずにいた」
詫びながら、又語り始めて土方を見た堀内の目が笑っていた。
「家の裏庭に一本の櫻の木がある。日当たりが悪く、木自体も痩せており、全ての花が散った頃に漸く蕾を綻ばせる。色もごく淡く、白と云うに近い。それでも昔から変わること無く、春になれば几帳面に花を咲かせる。いつもは松五郎がその木に冬を越す準備をしてくれるのだが、今回はそんな訳で私と家人が二人がかりで見よう見真似の雪圍を施した。だがやはり素人のやる事。先日の積もった雪の重みで、上の方にあった細い枝の一本が折れかかってしまった。それで慌てて今日松五郎に木を繋ぎに来て貰った」
言葉の終わらぬうちにその松五郎が手伝いの者だろうか、もう一人自分よりもずっと若い男を連れて庭から姿を見せた。
其処にいる堀内にも土方にも深く頭を下げ、会話の邪魔にならぬように二人は静かに引き上げて行った。
「・・・どうやら今年も又、あの櫻の木にある蕾が全て綻び、花を咲かせるのを見ることができるようだ」
松五郎に目線だけで会釈を返し、その後姿を送っていた堀内が、安堵まじりの声を漏らした。
「ひ弱な木ゆえ、掌(て)の内に包み込むように気を配り護ってやらねばと、常に案じていたつもりが又も油断した」
「油断?」
「そう油断した」
怪訝に問うた土方に、堀内が向けた視線が和んだ。
「妻の時に身に刻んだものを、愚かにも私は忘れてしまっていた。・・・護ろうとするものが生あるものならば、それは己の意志で息吹そして散る。どんなに堅固に圍ってやったつもりでも、心のままに、ふいの隙間を縫ってわが手から零れ落ちようとする・・。だから幾ら心を砕いても砕きすぎることは無いのだと、又も同じ事を教えられた」
櫻を語りながら堀内の言葉の裏にあるものはしかし、亡き妻女の心を救う事ができなかった己への憤りだった。
「土方殿、宗次郎殿に伝えて下され」
堀内は、更に土方を捉えていた双眸を緩めた。
「宗次郎殿は確かに自分の護るべきものを護ったのだと。そして私はその気迫に負けたと。・・敵となったのが自分であれば辛いところだが、これも我が身の勝手から出たものと思えば致し方のないこと」
ゆったりと穏やかな風情を崩すことなく、しかし一分の隙も作らない目の前の人間が、一体どれほどの技量の持ち主なのか・・・想像することは容易だった。
だがその堀内に対し、宗次郎は全身全霊で己の護るべきものの為に、一瞬でも威嚇する瞳を向けたのだという。
そこまでして護るものが試衛館にあった・・・・
そしてそれを知り、抑えきれずに次第に泡立つ胸の裡は一体何なのか。
堀内の言葉を耳にしながら土方は今、理由が見つからない苛立ちに酷く揺れ動く己の心を持て余していた。
微かな物音ひとつ立てるのすら憚り、神経を凝らして開けたつもりが、病人の勘には何の役にも立たなかったようで、宗次郎は待っていたように閉じていた瞳をあけ、枕に乗せていた頭だけを動かして薄闇の中に立つ人影を捉えようとした。
「起こしてしまったか?」
「・・・寝ていなかった」
盥(たらい)を抱えたまま枕辺まで来ると、其処に腰を下ろし苦笑する土方に、宗次郎は微かに頬に笑みを浮かべた。
約束どおり昼前に戻ってきた土方は、一度顔を見せにこの室に来たが、すぐにまた近藤に呼ばれて出て行ったまま戻らなかった。
「日野の門弟達が用事で此方に出て来たついでと言って寄った。こんな町道場でも田舎の様子とは流石に違い、稽古をつけて行きたいと言い出した・・・煩くはなかったか?」
暗くて顔の表情が分かりずらいのか、覗き込むような問いかけに、宗次郎は小さく首を横に振って応えた。
うつらうつらしていた自分にも、何処となく道場の方が賑やかだと云う事は感じていた。
だがそれは神経に障るものではなかった。
時折聞こえる声の中に、確かに土方のものがあった。
それだけで安堵し眠りにつくことができた。
「・・又飯を食わなかったそうだな」
行灯に灯を入れながら、土方の声が低かった。
ふいに灯った明るさに、心の裡を読み取られるのを恐れるように、宗次郎は瞳を伏せた。
そんな宗次郎のささやかな抗いなど気に止める風もなく、土方は覆っていた夜具を捲ると着けているものの前を肌蹴させ、盥の湯で絞った手ぬぐいで宗次郎の身体を拭おうとした。
「・・・井上さんが、昼間拭いてくれた」
「その後また熱で汗をかいただろう?」
遠慮がちな声で告げながらも、宗次郎は土方の好意に気持ち良さそうに瞳を閉じた。
思う程、肌は湿めり気を帯びてはおらず、むしろ突くように浮き出た鎖骨の痛々しさが胸に辛い。
この今にも消え行きそうな儚い身体で、一体宗次郎の護ろうとしたものは何だったのか・・・
再び己の裡に如何ともしがたい感情が湧き上がるのを確かに意識しながら、土方は薄い皮膚を擦すり傷つけないように、ともすれば籠めがちになる力を加減し、ゆっくりと宗次郎を清めた。
「堀内左近が、お前に負けたと言っていた」
新しい夜着に替えさせる為に起こした身体を支えてやりながら、禁句としていた筈の名を敢えて土方は告げた。
それを聞いた刹那、やはり宗次郎の瞳の奥が、動揺を隠し切れずに揺らいだ。
「お前が何か大切なものを護ると決めた、その気迫に負けたと、そう言っていた」
ぼんやりと自分を見る宗次郎の胸に、去来しているものが何なのかは分からない。
「お前が護りたかったものは、この試衛館で過ごす日々の中にあるのだろうと、そうも言っていた」
そうなのかとは、今は聞かない。
それよりも先に、土方には宗次郎に言わねばならないことがあった。
「俺はお前を護ってやりたいと、そう思っていた。いやそれができるのは俺だけなのだと、そう信じていた」
あまりに突然の土方の言葉に、宗次郎は何を応えることもできず、きっと続けられるであろうその先を不安そうに待っている。
「そんな風に自惚れていた。俺の傍にはどんな時もお前がいて、俺の背中をいつもお前は追いかけて来ていた。だから振り返ればそこにお前がいるのは当たり前のことだった」
黒曜石の色に似た瞳の奥底にある感情は、是と応えているのか、それとも自分の傲慢さに憤っているのか、それすら土方には分からない。
推し量るには、宗次郎の瞳の色はあまりに深すぎる。
言葉にすればこの思いは通じるものなのだろうか・・・
果たしてそれこそ危うい。
だがどんなものにせよ、土方は今の自分の気持ちを形にして、宗次郎に伝えなければならなかった。
「俺は勝手な人間だ。だからこれからも振り返れば、お前はいつも其処にいるのだと思っている」
それは土方の内ですでに揺ぎ無いものなのだろう。
声音は否と応える全てを拒むように力強かった。
土方を凝視する宗次郎の唇が何かを告げようとわなないたと思った途端、それより早く頬にひとつ滑り落ちるものがあった。
「怒ったのか?」
初めて戸惑うような弱気な響きを声に含んだ問いかけに、違うと必死に首を振って応えるのが精一杯だった。
「・・・違う・・怒ってなど・・」
怒ってなどいないと告げようとしても喉の奥からしゃくり上げるものが邪魔をし、宗次郎は慌てて顔を伏せた。
もう言葉にして応える事もできず、顔を上げることもできない。
だから掴んだ土方の袖の端を、せめて強く握り締めることで、そうだと、自分はいつもこの腕の主の傍らにいるのだと応えた。
怒ってなどいない。
怒っているのは急にそんな事を言って、こんなに自分を惑わせる土方の気紛れだ。
そう言って責めたい。
けれど今はそれよりも先に、自分の瞳から止まることを知らず零れ落ちるものを何とかしなければならない。
そうでなければみっともなくていつまでたっても土方の顔を見ることができない。
「泣くな」
耳に届くのは、殊更ぶっきら棒な声だった。
それすら宗次郎には、残酷な程に優しすぎる。
拭っても拭っても主の意思などちっとも汲んではくれず溢れ出るそれに宗次郎は閉口し、ついに両の掌を顔に押し付けた。
顔を上げない少年の肩の震えは、時折波がうねり寄せるように大きくなる。
それをどう慰撫してやって良いのか分からぬ困惑の中で、自分の伝えなければならない言葉にはまだ先があるのだと、そう告げるのを土方は一時諦めた。
今は宗次郎の心に堰していた柵が、ひとつ外れた確かな感触を、薄い背に添えた手に伝わる温もりで感じていればそれで十分だった。
風が出てきたらしく、雨戸を叩く音が次第に遠慮の無いものになってゆく。
あれから宗次郎の神経が落ち着くのを見届けると、延べられていた夜具の隣に自分の分を敷いて、土方はさっさと横になってしまった。
驚いている宗次郎に、一晩だけだと仏頂面のまま告げ横臥した。
眠れるはずも無く、後ろを向けたまま少しも動かない広い背を、宗次郎は瞬きも惜しむようにして見ている。
土方は一言も声を掛けてはくれない。
だがそれが精一杯の照れ隠しなのだと思えば、一度止ったものが再び込み上げそうな気配に慌てて目を瞬いた。
「眠れないのか?」
ふいに寝返りを打って向けられた眸に、その背だけを飽く事無く視界に入れていた宗次郎が、そんな自分の心の動きを見透かされたのかと狼狽した。
咄嗟に頭(かぶり)を振る仕草に、土方が苦笑した。
「眠って、飯を食って、早く良くなれ」
声音は物音ひとつしない深閑とした闇の中にあって、それを感じさせない程に優しい。
「じき櫻が咲くだろう、そうしたら花見に連れていってやる」
「・・・花見?」
まだとても力強いとは言えないが、寝込んでから初めて聞く宗次郎の明るい声だった。
「堀内左近の処だ」
「堀内さん・・」
同じ名を繰り返しても、もう先程までのように、聞けば怯え紡げば籠もる不安な響きは無い。
「あの家の裏庭の日陰に、櫻の木があるそうだ。細くひ弱だが、毎年必ず花を咲かせるのだと、そう言っていた。それが先日の雪で枝がひとつ折れかかり、今日俺が行ったときにはその手当てをしていた」
寝物語のように語る土方の胸に、堀内左近の言っていた言葉が叉も蘇る。
護ってやっていた筈が、その実護られていたのは我が身だったのだと・・・・
宗次郎はいつも傍らにいるものと決めて疑わなかった自分は、或いは堀内の言うように、そう己に信じ込ませていただけなのかもしれない。
あの時宗次郎の身が闇より深く暗い淵に投じられようとするのを見た刹那、何も考えずに地を蹴っていた。
今にして思えばどうして宗次郎の元まで辿り着けたのか、それすら覚えてはいない。
そしてこの手にまだ息のある身体を抱きしめた瞬間、自分を襲ったのは脳天から雷を落とされたような戦慄だった。
今もその時を思い起こせば、背に堪えようの無い震えが走るのを止められない。
己の内に満ちる、どうにも言い難い宗次郎への感情を、大切だというのだろうか・・・
愛しいというのだろうか・・・
それらともまだ違う。
もっと深く、もっと強い。
それをどういう風に言い表したら、自分は承知できるのか・・・
詮無き思考を繰り返し、やがて諦めの息をついた土方に唯一分かるのは、宗次郎は自分にとって失くしてはならないものだと言うことだけだった。
「・・・見せてくれるのかな」
躊躇いがちに小さく掛けられた声が、土方を現に戻した。
「何を?」
「堀内さん、櫻の花を・・」
宗次郎の憂いは、養子話を断った事にまだあるようだった。
「お前に会いたがっていたぞ。行ってやれば喜ぶさ」
枕に頭を乗せたまま、互いに向けた顔かたちの判別しにくい暗さの中で、宗次郎がやっと安堵するように笑ったのが分かった。
「あ・・・」
それは穏やかな沈黙のあと、ふいに漏らした小さな宗次郎の声だった。
「何だ?」
「何でもない」
鸚鵡返しに戻った応えが嘘だと言うことは、表情は分からずとも声音で分かる。
「隠し事をする奴は嫌いだ」
それを自分にする宗次郎が許せないのだと、一瞬でも思った己の勝手を、土方はどうにも持て余し胸の裡で自嘲して笑った。
だが宗次郎の心はその一言で、またも揺らいだようだった。
「・・・土方さんの部屋の前の・・・縁の下に」
ぽつりぽつりと語り始めた声が、自信なさそうに時折途絶える。
それを土方は促しもせず、黙ったまま待ってやっている。
「何の花だったのか分からないけれど・・・きっと種が風に飛ばされてそこに・・」
「芽を出したというのか?」
やっと会話を引き継いでくれた土方に、宗次郎が小さく頷くのが分かった。
「咲いたのはいつだったのか分からない。けれどもう大方枯れてしまっていたし、それにあれから雨も雪も沢山降ったから・・どうなってしまったかなって・・」
見つけたあの時ですら、もう形を留めておくに限界のように茎はやせ細り、色は茶色く枯れていた。
その後には強い雨が降り、大雪にもなった。
きっともうある筈が無い。
宗次郎はふいにそんなことを思い起こした自分の心の気侭を叱った。
「気になるのか?」
「気にしてなどいないけれど・・・」
続かず切れた言葉は、それが偽りだと如実に言っている。
「さっき土方さんが、堀内さんの家の櫻が日陰にあると言ったので・・・それで少し思い出したのです」
宗次郎の言い訳に、土方が苦笑した。
ふっきるように殊更明るく言い切ったのは、まだ十分にその草とも花とも思えるそれを気に留めている裏返しだろう。
「すぐに戻るから待っていろ」
何処に行くとも告げずやおら立ち上がり、不安げに見上げる瞳に笑いかけると、土方は静かに室を出て行った。
土方を待ちながら、宗次郎は畳の上に投げ出していた手の先を、ぼんやりと見つめている。
この指が触れた時、朽ちかけた細い茎は最後の葉を落とした。
それはからからに乾いていて、まるでそうなるのを望んでいたように、地に落ちた残骸はすぐに跡形も無く風が浚って行った。
その時自分は、成就する筈の無い苦しいだけの土方への想いなど、いつかこのように消えて無くなれば良いと願った。
だがそんな風に思った事を、今心は不吉と怯えている。
土方のくれるひと言ひと言が、自分を強くも弱くもし、まるで波に浮く藻屑のように意のままに動かす。
其処にまだあの草が残っていれば、願いは叶うのだろうか・・・・
そんな埒もない思いに捉われている自分を叱咤するように、宗次郎は開いていた指を掌の内に握り締めた。
障子の開く音がして慌ててそちらに目をやると、月明かりの中に立つ土方が、手に厚い掻い巻きと提灯を持っているのが分かった。
黙って行灯のある処まで足を運び屈みこんで灯を入れ、そのまま提灯の中にもそれを移すと、室の中を二重に照らし出した明るい輪の中で怪訝に見つめる宗次郎に視線を移した。
「少し風が冷たいかもしれないが、これだけ厚ければ大丈夫だろう」
言うなり夜具と背の間に手を差し入れ、横臥していた宗次郎をいとも簡単に抱き起こすと、掻い巻きで覆うようにして骨ばった身体を包み込んだ。
「提灯を持って負ぶされ」
突然向けられた広い背に、戸惑う宗次郎の心を見透かしたように、土方が顔だけを後ろに回した。
「その草だか花だか、気になるのならば見に行けばいい」
いつにも増して低い声は、必死に優しさを隠しているからに違いない。
もう前を向いてしまった広い背の主は、自分が負ぶさるまできっと二度と振り向かないつもりだろう。
おずおずと掻い巻きの間から両手を伸ばし、片方の手で提灯の柄を持ち、もう片方の手で縋るように首筋にしがみ付いた途端、ふいに身体が宙に浮いた。
「しっかりと掴まっていろよ」
「・・・重く・・ありませんか?」
厚い掻い巻きと共に自分を背負った土方の負担を、宗次郎の声は案じていた。
「心配する気があったら、人の背に頼るより早く良くなれ」
憎まれ口を返しながらも土方は、今確かめる重みのあまりの頼りなさが宗次郎だけのもので無い事に、胸の裡が俄かに耐え難い不安に覆われた。
それはあの篠突くような豪雨の中で、宗次郎の命脈を繋ぎとめた時に感じたものと同じ類ものだった。
宗次郎が自分の傍らからいなくなる・・・
思いもよらない事だった。
一度たりとも考えたことなどなかった。
ふいに襲われた如何ともしがたい慄きを打ち捨てる様に、一度瞑った目を開くと、一枚だけ開けた雨戸から滑るように土方は庭に降り立った。
夜更けた風は思ったよりも冷たくは無く、むしろ来る季節を彷彿させるかのように、どこか浮かれたぬるさがあった。
ものを映すのならそれだけで十分な月明かりだが、流石に縁の下までは届かない。
縁に座らせた宗次郎が躊躇いがちに教えた其処を、土方は提灯の灯を頼りに念入りに探っている。
その上から身体を一杯に折り曲げて、宗次郎もやはり覗き込むようにしている。
項のあたりでひとつに結わえられていた髪が首筋から横に流れ落ち、時折それをゆるやかな風が浚って毛先を乱れさせる。
幾ばくか、月明かりの中で言葉語らぬ沈黙の時が流れ、やがて土方の眸が、ひと吹き息をかければ途端に散ってしまいそうな葉の無い茎を捉えた。
それはかつて花をつけていたとは到底思えぬものだったが、確かに茎は残り、きっと地には根が生きている筈だった。
「お前が言っていたのはこれか?」
頭上を仰ぐようにして向けられた眸が笑っていた。
言葉の終わるのももどかしそうに、宗次郎は身をくるんでいた掻き巻を外すと、素足で地を踏み土方の指差す先に目を凝らした。
漸く灯りの届く際に、それは姿を晒すのを恥じるようにひっそりとあった。
やっと見つけたその像を映そうとする瞳が、滲ますものに遮られる。
「あれだろう?」
念を押す土方の声が耳に届く。
視界を邪魔するものを乱暴に手の甲で拭いながら、宗次郎は視線を葉も無き茎に縫いとめたまま、幾度も幾度も頷いた。
「暖かくなれば、もう少しまともな姿になるのかもしれんな。根は以外にしぶとそうだ」
素っ気無い言葉の裏には、しかし土方の安堵が籠められていた。
誰の目にも留まらないだろうこの生き物の、一体何が宗次郎の心を動かしているのかは分からない。
だがもしも其処に無かったら、宗次郎は落胆しただろう。
それを見るのが辛い。
たったそれだけの事で胸を撫で下ろしている自分に、土方は心裡で苦笑した。
「本当に・・生き返ったように叉花がつくかな・・?」
否と応えられる事を、怯えるような瞳だった。
「お前がそう思っていれば、きっとそうなるさ」
一時凌ぎの慰めとは思わなかった。
宗次郎と共に、今本当にそうなる事を願っている自分を、土方は感じていた。
「そろそろ戻るぞ」
そんな己の心の不思議が何処から湧きいずるものなのか・・・
土方は自分でも訳の分からない感情から敢えて目を逸らすように、放っておけばいつまでも其処を動きそうも無い宗次郎に告げた。
背に負って行くのは、すでに見えている処までのほんの束の間の時だ。
それでも何故かこの温もりを離すことを嫌う自分がいる。
振り返れば必ず其処に宗次郎がいると微塵も疑わない自分は、もしかしたらそう信じきっていることで揺らぐ事無く正面を向いていられたのかもしれない。
頼りない身を護ってやっている筈が、いつの間にかその精神の強さに支えられていたのは自分だったのか。
「・・・護られていたのかもな」
立ち止まり、ふいに漏れたものは、呟きにもならぬ低いものだったが、宗次郎は敏(さと)くそれを聞きとめたようで、背後で不審気に顔を上げた気配がした。
「何でもない」
少しだけ顔を傾けて応えてやってもまだ不安は消えぬのか、首筋に回した手に更に強く力を籠めて縋ってきた。
朧な月が照らし出す輪の中は、現に在る人の心を遠い先へとも過去へとも誘う。
いつまでも宗次郎が己の手のうちにある訳が無い。
自分とて先はどうなるのか、それすら定かではない。
だが今背にあるこの確かなものを、土方は失いたく無いと思う。
否、失くすことは有り得ないだろう。
己の強引な思い込みに又しても苦く笑った土方を、今度こそ宗次郎の瞳が不安そうに後ろから覗き込んだ。
それに首を捻って視線を向けると、黒曜の瞳が微かに揺らいだ。
「いつも傍にいろ」
その瞳に合ったとき、先ほど伝えねばならなかったまま途中になっていた言葉が、何を思うより先に口をついて出た。
きっとそうあることを望むのは自分の真実なのだろう。
告げるに少しの躊躇いも無かった。
だが合わせ鏡のように其処にあって土方を映し出していた瞳は、一瞬大きく瞠られ、次にはみるみる露が表面を覆い、瞬く間もなくひとつ零れ落ちた。。
それを隠すように宗次郎が慌てて顔を伏せた。
「今日はよく泣くな」
からかうように言いながら、背にあって嗚咽を堪える少年が無性にいじらしい。
護ってやるはずが、護られていたのだと、堀内左近は言っていた。
だがそれを承知で、やはり自分は護ってやりたい。
護られる思いを、更に包み込むように護ってやりたい。
全てを凍てつかせる雪から圍い、打ちつける雨を凌ぎ、吹く風を除けてやり、少しでも、ひとつでもこの身に幸いがあるように、我が身を超えて願わずにはいられない。
そしてそれが終焉を迎える日が来る事を、微塵も思わない自分の心を、何故か土方は不思議とは感じなかった。
宗次郎の瞳から滑り落ち、肩に染み入る冷たいものはまだ止むには時がかかりそうだった。
「・・・もう泣くな」
背後に告げた一言は、儚く消えゆくように時折耳に届く声を聞けば、妙に切ない己の心に言い聞かせたものかもしれなかった。
だがそれが少年の心の何処かに触れたらしく、ついに耐え切れないすすり泣きが蒼い闇に細く棚引いた。
宗次郎が、今誰よりもいとおしい。
そんな思いを自分自身からも誤魔化すように月輪を見上げると、土方は遣る瀬無い息をひとつ吐いた。
雪 圍 了
きりリクの部屋
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