月華に眠らず 下
叉雪が降り始めた。
一度止んだと思った白い破片は、先ほどよりも一層激しく闇に舞い、時折風に攪拌され、地に着く前に再び天に向かって巻き上がる。
土方は先程から身じろぎしない。
どんな微かな気配も逃すまいと、あらゆる神経を扉の向こうに集めている。
今宵も来ると、総司はそう言った。
だがそれは約束とは言えない。
否、もともと約束など何の役にも立ちはしない。
唯一確かなものになるのは、己のこの腕に抱きしめる温もりに触れた時だけだ。
大鳥から告げられた真実が、土方を不安の坩堝に陥れる。
その淵に底は無い。
決して総司に気付かれてはならない。
姿を見られた人間に、更に総司自身が一番怯えている事柄まで知られているという事実を。
知れば想い人はもう二度と自分の前に現れなくなる。
「・・・来いっ」
とっくに捨てた神仏に今更縋ったところで都合の良い勝手だとは重々承知で、それでも土方は今祈らずにはいられない。
吐く息すら殺すようにして、どのくらい待ったのか・・・
寝台に腰を掛け、突き出した膝の上に肘を置き、そうして両手の中に伏せていた顔が突然上げられた。
咄嗟に扉に駆け寄り、人の気配を確かめるよりも早く開らいた其処に、驚いたように瞳を瞠って立ち尽くす姿を眼(まなこ)に刻んだとき、初めて土方の体一杯に張り詰められていた力が抜けた。
「遅かったな・・総司」
焦燥も、苛立ちも、恐れとも違(たが)えぬ不安も、全てを一言に籠めて、土方は漸くその名を呼んだ。
「雪が・・」
ひどく降っていて此処に辿り着くのに難儀したのだと言いたげに、見上げた瞳が笑っていた。
見れば髪にも肩にも、まだ消えやらぬ白いものがある。
それを室に入る前に払おうとする手すら止めさせて、土方は強引とも言える所作で腕に浚った。
あまりの性急さに、咄嗟に広い胸に手のひらを当てた抗いを、強い力で容易く封じ込め、まるで自分以外の全てから総司を隠すように、土方は空いていたもう片方の手で乱暴に扉を閉めた。
木枠に打ち付けられた扉の軋んだ木の音だけが、深閑と静まり返る廊下に木霊して響く。
見上げた深い色の瞳が、その遠慮の無い音に過敏に反応して怯えた。
だがそれすら見ようとせず土方は、腕に抱きしめる者の項(うなじ)で幾多の髪をひとつに束ねてあった結わえを素早く解き放った。
瞬間肩から背に沿ってしなる様に滑り流れる感覚に、総司が更に大きく瞳を見開いた。
「何を・・」
驚きはそのまま恐れに変わったようで、わなないた唇から紡がれた言葉はそれ以上続かなかった。
「昨夜、これが無ければ帰ることができないと、お前はそう言ったな」
頷く事で是と応えることを拒んで、総司は沈黙の中に己を潜めた。
掌に乗せた白い紐が、まるで想い人の息の緒だとでも言うように、土方は双眸を細めて一瞬其方を見たが、すぐに愛しげにそれを内に包み込んだ。
「帰さない」
再び見据えた視線の射るような激しさに、端麗な面差しが、まだ髪にあって解けぬ雪よりも白く凍りついた。
「もう帰さない」
身体に回されていた腕に篭る力が更に強くなり、総司が身を捩るようにして抗った。
「どうして逃げようとするっ」
足掻く腕の中の者に問う言葉は、征する者のそれでは無く、悲痛とも聞こえる懇願だった。
「どうして俺の傍らから離れようとする・・・」
もう身じろぎもできずに拘束され、押さえつけられた胸が苦しい。
だがそれよりも土方の声にある哀しい響に、総司の動きが止まった。
「・・・何か、あったのですか」
外に降る雪は音すらさせず、ただ深々と降り積もっているのだろうか・・・
互いの肌に触れる温もりだけを感じながら、暫しそのままの姿勢で抱かれていた総司が小さく呟いた。
「何も無い」
「嘘だ」
はっきりと一言告げて見上げた瞳が、土方の偽りを見破っていた。
「嘘ではない、何も無い」
断言する言葉に首を振り、そのまま何かを思案するかのように視線を逸らせた総司が、何かに思いあたったのか、弾かれたように今一度土方を見た。
「誰かに・・・知られたのですか・・私が此処に来ている事を・・だからもう来ないと・・」
「誰にも知られてなどいない」
瞬時に返った応えに懐疑する心は騙されず、すぐに面は絶望の色に染まった。
「・・・一度姿を見られたことがあった・・あの時の・・」
「お前の事を知るのは俺だけだっ」
肩を掴んで否と拒む土方の叫びは、総司の耳に届かない。
「あの時の人に・・知られてしまった・・」
虚ろに視線を彷徨わせながら、心此処に無いように呟いた声が、全てが終りを迎えたのだと土方に告げていた。
「・・どうして、・・どうしてあの時、見られるような事をしてしまったのだろう・・」
己の愚かさを土方に問いかける瞳に、みるみる覆うものがあった。
それが堪えきれずに、ひとつ溢れ出て頬を伝わった。
「誰に見られても関係ない。お前は俺の傍らにいろ」
だがその強さに抗うように、総司は再び強く唇を結び首だけを横に振った。
「何故っ」
決して戒めの腕を解こうとはせず、土方は抱きこんだ身体を更に揺らして応えを求める。
「総司っ」
室の壁に当り跳ね返るような強い呼びかけに、漸く総司が伏せていた面を上げた。
「本当は、一度だけ・・一度だけの筈だった」
「何がだ?」
「・・土方さんに、一度だけ逢って、伝えたいことがあった」
「俺は聞かん、一度だけの言葉など要らない」
勝手とも聞き分けの無い駄々のようにも思える強引さに、総司が初めて微かに笑った。
「土方さんはいつもそうだ」
零れ落ちるものを拭わず、浮かべた笑みはそのままに、言葉だけが土方を咎めていた。
「いつも私の言うことなど聞いてはくれない・・」
笑ったつもりの顔が、頬に流れるものに邪魔されて泣き笑いになった。
「意地が悪くて、・・いつもひとりで行ってしまう・・・」
責める言葉は尽きぬ筈なのに、これ以上続かないのはどうしてなのか。
それ程に・・・・
身も心も情念の焔に焼き尽くされる程に恋しいから此処に来たのだと、その一言が言えないもどかしさに、総司は瞳を伏せて唇を噛んだ。
そうでもしなければ、堪え切れずに嗚咽が漏れそうだった。
「・・・明日の夜、必ず来るから・・だからその紐を・・」
視線を合わせず、どうにか紡いだ声が震えた。
「約束など信じない」
低く耳朶に触れて囁かれた声に、総司の瞳がやっと真っ直ぐに土方を捉えた。
「どうしても・・・帰らねばならないのです」
籠められた哀しみが、聞く者の心を震わすような切ない響だった。
痛々しくも思わせる想い人の心情に触れて、一瞬緩んだ力の加減を見逃さず、総司が土方の腕をすり抜け距離を置いた。
「返してくれないのならばこうして・・・」
あまりに衒(てら)いの無い所作に、動けず見ていた土方の眸が驚愕に見開かれた時、総司の首筋に刃の持つ独特の鈍い光が走った。
骨ばった細い指が握り締めていたものは、鋭い切先を持つ小柄だった。
人のものとは思えぬ、透けるような白い首筋に横一文字にできた線から、朱い色が玉のように膨れ上がり、すぐに幾筋かが滴り襟をも染めた。
「総司っ」
咄嗟に伸ばした手を交して、総司はまだ凶器を己の首筋に当てたそのままに、一歩退いた。
「帰らなければならないのです・・」
瞳にあった露がまたひとつ零れ落ちた。
「だから・・・その紐を・・」
片方の手だけで指差して、土方の掌にある紐を総司は望んだ。
「・・・返してくれなければ、こうするほかないのです」
「ばかな事を言うなっ」
激したまま前に出る土方を制するように、更に切先を上に上げ、総司は皮膚を裂こうとする。
「やめろっ」
「・・・返して下さい」
脅しではないことは、滲んで自分を映している瞳の奥に宿る強い色で知れる。
「明日・・必ず来ると?」
ようよう問うた声が、掠れて上ずった。
だがそれが、これ以上は一歩も引けぬ譲歩だった。
「・・必ず、・・必ず来ます。だから・・」
その後を続けさせる前に、土方が握り締めていた左の掌を開いた。
長い指の付け根に絡まるようにしてあった白い紐を、緩慢な動作で差し出すと、漸く総司の凍てた面が僅かに緩んだ。
紐を、己の元へと手繰る為に触れられた想い人の指先は、恐ろしいほどの冷たさだった。
それすら心の外で感じているように微動だにせず、土方はただ目の前の総司に視線を縫い止めている。
「・・・明日の夜、来ます。必ず・・・来るから」
凝視したまま、ひと言も発しない土方を慰撫するように笑いかけた瞳が微かに揺れた。
むしろ己の躊躇いを捨てるように向けた薄い背に、一瞬の内に手を伸ばし抱きしめたのは、もう堪えきれない土方の恋慕の迸りがさせた、止めようの無い衝動だった。
「少しだけ・・もう少しだけこうしていたい」
耳に届くのは、残される者の切ない身勝手だった。
だがそれを知ってしまえば、もう応える術を知らない。
傷のついた左の首筋に唇を這わせ、籠めた力の限りで自分を引きとめようとする土方の腕の中にあって、今はされるがままに、総司は滲む視界の向こうをぼんやりと見つめていた。
朝になればずいぶん積もるだろうと思われた雪は、夜更けて、粉雪が舞う程度に鎮まった。
それも半刻ほど前には全て消え、今は雲に隠れていた月が朧に雪原を照らす。
殊更寒い外を通って己の室に戻らねばならぬのは本意ではないが、人に知れてはうまくない情事を重ねる身では、忍ぶ道の茨も又仕様の無い事と、大鳥圭介は凍てついて、もうほとんど感覚の無い唇の端に己を揶揄する笑みを浮かべた。
だがもうひとつ、大鳥には妙な勘があった。
もしかしたら今一度逢えるかもしれない・・・・
それは十日程前見(まみ)えた者との邂逅だった。
不思議な予感がした。
今宵ならば逢えるかもしれない。
それが何処から湧きいずるものなのか、問われれば大鳥自身にも分かりかねる。
が、己の裡に芽生えた感情は消しようも無く、本来ならば朝まで褥を共にする筈の相手を置き去り、こうして人影の無い雪道に足跡を刻んでいる。
自分のしようとしている事に、半ば呆れ半ば諦めながら、規則正しく運ばれていた足がふいに止まった。
やはり其処に思う影があった。
立ち止まり、だが声も掛けずに、吸う息も吐く息も止めるようにして見つめる先に、ひとつ処に視線を縫いとめたまま動かぬ端正な横顔を、月華が映し出した。
深い闇から地の白さを浮かび上がらせる蒼い明かりは、現にあって見せる幻のように、過ぎ行く時すら悠久のものと錯覚させる。
どのくらいの時が流れたのか・・・・
やがて其処にいた人間の存在など、とっくに知っていたかのように、ゆっくりと振り向いた顔が大鳥を見止めて哀しげに曇った。
「土方ならいるぞ」
どうしてこんな言葉しか掛けられないのか、胸の裡で舌打ちした処で、己の口からついて出てしまったものを、もう取り返すことはできない。
だが意外にも、目の前の若者の唇が微かに笑みの形を作った。
「土方の処へ来たのではないのか?」
言葉を続けながら、掛けた問いに応えは無いだろう事は不思議に承知していた。
が、見る者の錯覚のようにも思える僅かなものだったが、少し首を傾げるようにしていた若者の面輪に浮かべられていた笑みが静かに広がった。
「あんたにもう一度逢いたいと思っていた」
それを自分への応えと受け止め、怯む心を励まし、大鳥は更に語りかける。
「あんたが何処の誰でも・・・いや、何処の世の、人であるのか無いのか、そんな事もどうでもいい。俺はもう一度だけ逢いたかった」
風も無く、音も無く、すべてが息を潜めて眠りについたかのような静寂(しじま)の中で、白い地にひっそりと立つ者の面を照らす月明かりが、細い鼻梁の反対側に蒼く影を落す。
「逢ってあんたに詫びたかった」
先程と何も変わらず淡々と語る声だったが、そう言い切った時、初めて若者の表情に変化が起こった。
怪訝に見上げる深い色の瞳に映し出されている自分こそ、果たして生きている者か、死している者か・・・
そんな不思議な思いに捉われながら、だが大鳥は己の心の動きを悟らせまいと、殊更抑揚を抑えて続ける。
「この間初めて俺が声を掛けた時、あんたは酷くうろたえていた。・・・・きっとしてはいけない事だったのだろうな」
幾分和らいだ口調が、この男の、らしくもない弱気を物語っていた。
「脅かしてしまって悪かったと、それだけを言いたかった」
告げる言葉に嘘はないのだろう。
それが証拠に自分を見て動かない男の眸には、微塵の揺るぎも無い。
ただ頑固そうに口を結び、そしてそれ以上の言葉は続けない。
悪かったと、本当にその一言だけを告げたかったのだろう。
「どうして、分かってしまったのだろう・・」
聞ける筈も無いと思っていた声は、雪を舞わせる風の気紛れのように、ふいに大鳥の耳に届いた。
「それは俺に見えたと言うことか?」
きっとそうに違いない呟きの意味を、敢えて問うたのは、もっとこの者の声を聞きたいと欲する願望だったのかもしれない。
だが若者はそれには応えず、再び沈黙の中に還ってしまったようだった。
「何も考えず、何も思わず、何も感じない・・・そういう時の人の心は一体何処に行ってしまうのだろうな」
独り語りの問い掛けは、応えを求めているのものではない。
「この世にあって、この世でない処へと、心は行っているのかもしれない。だからあの時俺も、現(うつつ)にあって、魂は他の処へと行っていたのだろうな・・・それをどうやら無心というらしい」
愛想の欠片も見せずに語りつづけていた大鳥が、初めて笑った。
「あの時俺は、無心にあんたを見ていた。だから見えた・・・多分そういう事なのだろう。だがあんたには迷惑だったのだろうな・・・。悪かった」
それが自分の責任とでも言うように、小さく頭を下げて詫び、再び上げられた視線は、己の眼(まなこ)にその姿を焼付けるように、一際激しく若者を捉えた。
だがそれもすぐに逸らすと、束の間浮かべた感情の隆起の名残も残さず、その表情は元あった侭を崩さない生真面目なものに戻った。
来た時と同じように又一歩を踏み出し、黙したまま動かぬ若者の横を通り過ぎようとしたとき、一瞬立ち止まろうかどうか迷う心を押しとどめ、やはり無言で大鳥は歩を進めた。
すれ違いざま、若者が怯むように、少しだけ身を硬くしたのが分かった。
「土方が、あんたを待っている。そんな気がする」
相手の顔を見ないで掛けた言葉に、己の不器用さをまざまざと知って、大鳥は心裡で自嘲した。
進める足は、此処に来るときよりも重い。
離れたくない思いが、言う事を聞かず主の歩に枷をかける。
あの若者はまた土方の部屋を見ているのだろうか。
きっとそうなのだろう。
振り向かない背にあるだろう情景が、何とはなしにつまらない。
土方という男、憎らしい奴かもしれないと、そう思った。
「来たのか・・・」
それは限界に来ていた焦燥と苛立ちが、安堵に変わって我知らず漏れた呟きだった。
刻む時を、際限の無いもののように待ち続けた一日だった。
「約束をしたから」
いつものように笑いかけながら、だが総司は差し出す腕をするりとかわして、届かぬ場所へ身を置いた。
結わえていない艶のある黒髪が靡き、主の動きよりもひとつ遅れて背に落ち着いた。
「どうしてっ」
自分を拒む様に、土方の声が憤りで大きくなった。
だがそれは怒りというよりも、己の胸にあった不安が的中した恐怖から発せられたものだった。
総司は今宵が限りでもう来ない・・・
想い人の挙措が、如実にそれを物語っていた。
「・・・・この身に触れ続ければ、いつかきっと土方さんの災いになる」
告げた声音が、寂しく沈んだ。
「災いなど恐ろしくは無い」
それは真実だった。
心底恐ろしいのは、総司を失うことだけだった。
それが唯一で、他にはなかった。
「・・・本当は、私は此処に来てはいけなかった」
土方の言葉に強く首を振って告げ、すぐに俯いて噛み締めた唇が、尽きぬ後悔に苛まれるように白く血の気を失くした。
「・・・ならばお前はどうして来た?」
責めてみたかった。
逢わずにいれば、きっと見(まみ)えることができるのだと、そう信じることだけで日々を過ごすことができたものを、こうして姿を見れば二度と離すことなど出来ないと、滾る想いだけが迸り、もうそれを止める術を土方は知らない。
だからひと言の言い訳も許さず、容赦なく責めて、責め続けて、お前が悪いのだと腕に縛り付けずにはいられない。
「何故やって来た」
唸るような低い声は、土方の苦衷を隠しもしない。
「松前屋さんが此処に来て・・・」
応えは己の精神の鎮まりを願うようにゆっくりと、総司の唇から紡がれ始めた。
「土方さんに告げたことは嘘だと・・・そう言いたかった」
黒曜の瞳が一瞬揺らいだ。
偽りを言うときの総司の癖だ。
「・・・松前屋の告げたこと?」
訝しげに眉をひそめた自分に、顎だけを引いて小さく頷いた総司が云わんとしているのは、松前屋治平衛があの日知らしめた事柄なのか。
土方の胸の裡が、抑えようが無く波立つ。
総司はもう同じ世に息する者ではないのだと、確かに松前屋はこの北の果ての地まで知らせに来た。
江戸に残さなければならない総司を頼むと、下げた頭を上げられなかった自分に、松前屋はきっと最後の最後までお預かりすると、そう約束した。
だが律儀に果たされた約束は、何と残酷なものだったのか。
だから自分は瞬時にそれを切り捨てた。
そうした事に何の不思議も無い。
「松前屋から聞いたことなど、初めから俺の中には無い」
己の本当を告げて凝視した、細い線で輪郭された面輪が、見るも無残な悲嘆の色に染まった。
総司が言っているのが嘘で、松前屋が言った事が真実だと、伏せかけた瞳に、痛々しい程に浮かんだ苦悶の色があからさまに物語っていた。
「どうしてそんな顔をする」
それを承知で、それでも尚も否と言わせたくて、土方は突き動かされた衝動の侭に一歩前に進み出た。
が、更に後ろに退く総司の表情は、最早怯えと言って良かった。
「俺は松前屋の言ったことなど少しも信じていない。何も無かったのだ。最初から何も無かった・・・だからお前はこうして此処にいる」
今度こそかわす間も与えず、伸ばした腕が逃げる手を掴んだ。
「触れたら駄目だっ」
悲鳴は浚われた胸の内を壁にするように遮られ、抱き入れた腕に、これが限りと云わんばかりの力が容赦なく籠められた。
「ほらみろ・・・抱けばお前はこうして透けもせず、俺の中にいる」
胸を押さえられた苦しさに、渾身の力で身を捩り足掻く総司の抗いを容易に封じ込めて語る土方の声音には、陶酔の響きすらある。
「土方さんっ」
必死に見上げて懇願する瞳に宿ったものが頬を滑る。
少しも緩む事無い戒めに、息苦しさは更に増し、遂に総司の唇から言葉の代わりに小さな咳が零れ落ちた。
次第に強くなるそれは、総司の背を大きく波打たせ、廻していた腕に振動となって伝わり、土方の内に幾度も経験した不吉な予感を過ぎらせた。
それは愛しい者の身体を、内から崩壊させるものを目の当たりにした時に覚えた、戦慄にも似た記憶だった。
だがその感覚が、土方の正気を戻した。
慌てて籠めていた力を緩めると、漸く総司が大きく息をついた。
薄い背はまだ荒く上下し、額に浮かんだ冷たい汗は頬を滑る。
閉じた瞳はこの苦しさを遣り過ごすまで、開けることができないのだろう。
「すまなかった・・」
己の為した所業に後悔では足りない苦しい思いで、それでも今総司を苛んでいるものを和らげようと、伸ばした手が震えた。
だが触れた瞬間、その心が伝わったのかのように、総司が忙(せわ)しい息のままで土方を振り仰いだ。
「・・・もう・・、血は・・吐かない」
憂慮に顔を歪ませ自分を凝視している土方の眸に、総司は辛さを堪えて慰撫するように微かに笑いかけた。
本当はこの身はもう血は吐けないのだと、そう伝える事は躊躇われた。
土方とは違う世に棲む身なのだと、言わなければならぬ勇気が無い己の情けなさと未練を、だが総司は断ち切らねばならなかった。
例え己が六道の地獄に落とされようとも、土方の災いとなるものは全て摘み取らねばならい。
土方に仇なすものは、最早我が身さえ厭わしい。
だから真実は、語らなければならなかった。
「・・・嘘をついたのは私です」
蒼白に強張らせた面に浮かべようとした笑みは、短い言葉の終わりまでには間に合わなかった。
間を逃せばもう笑い掛けることはできない。
後は声が震えるのを隠すのに、精一杯だった。
「松前屋さんが言ったことが本当で、私が嘘をつきました」
食い入るように自分に据えて動かぬ土方の視線がある。
「・・私が・・・嘘をついたのです」
それを正面から受けて告げたあと、全てを観念したように総司は一度瞳を閉じた。
現身(うつしみ)では無いこの身には、もう吐く血も、裂いて出る血も、肉も骨も無いのだと、そう土方に告げる自分は、では一体何者なのか・・・
それは総司自身にも分からぬ、闇の淵に潜む不可思議だった。
「嘘をついたのは松前屋だ、お前は確かに此処にいる」
耳に届いた土方の声が掠れていた。
きっと苦しんでいるのは自分ではなくて、偽られた振りをしている土方なのだ。
瞳を開けたくとも、そうすれば溢れ出るものは止められない。
それでも例え針の先ほどの些細な偽りでも、もう隠す事はできなかった。
「・・・・松前屋さんがいつか此処に来る事は知っていた。・・だからその時をずっと恐れていた」
瞳を開けた途端、やはりそれを待っていたように零れ落ちるものがあった。
「何故?俺が偽りを信じる事を恐れたと言うのか・・・」
土方の視線を逸らさず、総司は小さく首を振った。
「そうじゃない・・・けれど・・」
漸く唇に結んだ笑みの形が、すぐに小刻みに震えて消えた。
「けれどどうした?」
いっそ先ほどよりもずっと強く引き寄せて、その先を紡ごうとしている唇を塞ぎ、全ては元のままなのだと、そう叫びたい己を、やっと堪えて土方は応えを待つ。
まだ戸惑いの中に居た総司が、そんな土方の激しさを、自分に向けられた射るような眼差しの中に見つけて暫し沈黙した。
自分はいつも土方のこの激しさに包まれ、慈しまれ、ここでこそ唯一安息できた。
だから失いたくはなかった。
誰にも渡したくはなかった。
自分は土方の傍らにある為に生を受けたのだと、信じて止まぬようになったのは何時の頃からだったのだろう。
そんな事すら覚えて要られぬ程に、土方は常に自分自身だった。
それだからこそ・・・
「・・・嫌われたく・・なかった」
一瞬頬を滑った露は、すぐに足元に落ちて、床に小さな雫の輪を作った。
それが堪えに堪えていた感情の堰を切ったようで、溢れるものは次から次へと間断なく続き、総司の瞳はすでに視界に入るものをきちんと像には結んでいないだろう。
「・・・土方さんが、・・死ぬなと言った・・」
言葉が途切れるのは、しゃくりあげる息が邪魔する為だった。
「死ぬ・・なっ・・と言った・・のっに・・」
それができなかったと、続けられずに俯いた総司の肩が小刻みに震える。
それを土方は言葉も失くして、呆然と見ている。
死ぬな・・・
そう言ったのは確かに自分だった。
病が篤くなって思うに侭ならぬ身を捨て行こうとした総司に、江戸には戻らぬと頑なに拒んだ総司に、或いは自分を置いてゆこうとした総司に・・・
俺をおいて死ぬな・・そう懇願したのは自分だった。
死ぬな・・・
そのひと言を守られなかった事で、総司は自分に嫌われると、そう怯えたのだろうか・・・。
それともそれを知った時の、自分の心を案じていたのだろうか。
来る日も来る日も、それだけを胸の重しにして、どの世にあっても安らぐことがなかったのだろうか・・・
胸に逆巻く狂おしい想いは、頭で考えるよりも先に土方の唇からついて出た。
「・・・来い」
ふいに差し出された手は、先ほどのような強引なものではなかったが、拒みきれない何かを秘めていた。
濡れたままの瞳を瞠った総司に、土方は更に手を伸ばす。
「来い」
だが総司は必死に首を振って拒む。
「・・・・・きっと災いが起こる」
この世にない己の身を不浄と決め付け、触られるのを恐れて怯む総司に、だが土方は躊躇い無く歩み寄ると、立ち竦んだまま動けぬ想い人の腕を引いた。
「どの世にあっても、お前は俺の傍らにいるのではないのか?」
見開いた瞳は、どう応えて良いのか分からぬ風に土方を映して、ただ揺れ動く。
「何処であろうとお前がいるのなら、其処は俺の還る処だ」
土方はいつものように、有無を言わせず己の胸に抱き寄せるようなことはしない。
ただ掴んだ腕に籠める力は、例え今天から裁きの雷(いかづち)を落とされても決して離すことはしないだろうと思える程に強い。
暫しその握られた腕から伝わる痛みを土方の熱さに変えるように、沈黙の中に居た総司が静かに顔を上げた。
「・・・土方さんの下げ緒を解いて・・細い糸にして・・それを繋げて毎夜此処まで来ていた」
「下げ緒を?」
頷く総司の瞳に潤んであるものは、まだ到底乾きそうにない。
「髪を束ねていた結わえはその端で、還るときはまた糸を手繰り寄せて戻っていた・・・」
だがその紐は今総司の髪に無い。
癖の無い艶やかな髪だけが肩に流れ、滑るように背にある。
それに気づいた土方の不審な視線に、総司の唇がゆっくりと開いた。
「逢えば・・ひと夜、またひと夜・・、逢わずにはいられなくなる我儘な自分を、その紐で縛らなければならなかった・・・だから昨夜はどうしても帰らなければならなかった」
笑った両の頬に、また新たな露が零れ落ちた。
「・・・本当は一度きりの筈だったのに・・・。いつか土方さんを連れて逝きたいと願うようになっている自分を知った時、もう二度と逢いには来ないと誓った。けれど幾ら駄目だと言い聞かせても、心は聞く耳を持たなくなっていて・・・・。昨夜結わえていた紐を取られて還るべき道を塞がれてしまった時、これでもう土方さんをずっと自分のものに出来ると喜ぶ自分がいた」
「俺を連れてゆけっ」
それは真実の叫びだった。
この愛しい者と堕ちる場所ならば、例え其処が修羅であろうと恐れるものではなかった。
だが総司は首を振り続ける。
「土方さんと一緒に在りたいと・・・連れ逝きたいと願う自分は魔物だ・・・」
一瞬それが巣食っているのだのだと言う風に、総司は己の胸に手を当てた。
「・・・土方さんの行く先を邪魔するものは、自分自身であっても必ず許さない」
そのまま土方が何か言葉を発するのを恐れるように、総司は切れる事無く言葉を繋げる。
「だから駄々をこねるもう一人の自分は何処へも行けないように、動くことを出来なくしてきた。・・・そうでもしなければ、もう魔物の自分を止める事はできなかった」
だがそうしなければならなかった事が哀しいのだと、総司の瞳が揺れていた。
「今あるこの身は、土方さんの心だけが見せる空蝉だから・・・どこを裂いても朱い血は出ない・・・・」
一度息を吸い込むように言葉を止めて、総司は笑いかけた。
「・・・・たった一夜、・・月華の照らす内にしかいられない」
残る時には限りがあるのだと、最後のひと言を言い切ったとき、全てを語り終えた潔さが、総司の声から湿り気を消し、凍てた空(くう)に冴え冴えと張り渡った。
胸を鷲掴みにされるような想い人の哀しい語りを、今一言一句も聞き逃すまいとしている自分に今正気はあるのか・・・
目の前の総司を狂おしく求めながら立ち尽くすその自分に、かの想い人は必死に笑いかけようとしている。
いとおしいと、いじらしいと・・・・
そんな言葉では覆い切れない想いが、土方の胸に滾る。
「・・辛い思いをさせてしまったのは俺か」
やがて溢れるもので何も見えぬ視界の先に、ぼんやりと映る土方の声が、総司の耳に朧に届いた。
掴まれた侭の腕を引かれ、ゆっくりと胸に抱かれ行く予感に、もう逆らうことはせず総司はたゆたうように身を任せた。
「俺が辛い思いをさせてしまったのか・・」
死ぬなとそう告げた懇願を胸に刻み、心休まる処を見つけられず、未だ自分を求めて彷徨い続ける魂は何と愛しいものか。
この腕に抱く総司が例え温もりを持たなくても、もう良いと思った。
唯一無二の者の元へ、自分は必ず還るのだから。
其処が自分の戻る処であり、総司の居る処でもあると知れば・・・
例え別つ時が訪れても、最早何も恐怖するものはなかった。
「お前が愛しい・・・」
我知らず漏れた声に、抱かれている総司の身体が一瞬みじろぎした。
「お前だけが愛しい」
違う言葉を以って、この心を伝える事はもうできなかった。
ただただ、どうしようもなくいとおしく、そして切ない。
それは決して胸の裡を掻き乱すような激しいものではない。
むしろ水面に広がる輪が、やがて又静かに水に還るかのように、幾重にも浮かんでは消え、浮かんでは消え、土方の心にしみいる。
きっと自分はこの者を失うことは無いのだ。
どの世にあってもこの愛しい者の傍らに、自分は在るのだ。
「・・・お前だけだ」
据えられたまま動かぬ土方の眼差しを感じ、総司がおずおずと瞳を上げた。
笑おうとしたつもりが其のまま泣き顔になり、堪えきれないように広い胸元に顔を伏せると、やがて微かに漏れる嗚咽が土方の耳に届いた。
「お前の居る処が、俺の還るところだ」
眸を滲ますものを、土方も堪えようとは思わなかった。
想い人の温もりも、くぐもる泣き声も、全てを両の手に包み込んで、漸く閉じた目の奥が熱い。
・・・・・土方さん
幾ばくか・・・・
凍てた身体を抱きしめて物語らず、二人でひとつの息をするように、互いの存在だけを感じて時を経、そうして過ごしていた静寂(しじま)に、ふと囁くような柔らかな声音が響いた。
呼応するように、腕に抱く質感がふいに軽くなった。
それは胸を騒がす不安な予感が、確信に変わった瞬間だった。
きっと・・・
目を開ければ其処に総司はいないのだろう。
だがそれを恐れる自分はもういない。
静かに開いた瞼の奥の眸が映し出す視界の中に、少し高めの窓から差し込む蒼い明かりが仄かに床を照らしている。
あとは自分の影だけが、蜀台の焔の気紛れに揺れる。
「還ったのか?」
宙に呑まれて消えた問いかけに、幾ら待っても応えは無い。
想い人が何処に還ったのかは分からない。
だがその場所こそが、また自分の還る処でもある。
木の窓枠と納まりの悪い硝子との間から、肌を刺すような隙間風が忍び込む。
ゆっくりと歩を進めて、窓際まで来ると土方は立ち止まった。
天空には月がある。
「月明かりは、まだ十分にあるじゃないか」
責める言葉にすら愛しさはつのる。
「連れて行ってくれるのではなかったのか・・・?」
一瞬閉じた瞼も頬に伝わる熱いものを止めるに敵わず、土方は手にある想い人の名残を包み込むように、両の掌(てのひら)をそっと握った。
・・・・・・土方さん
声音は今も木霊する
月華に眠らず 了
きりリクの部屋
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