蛍 火   下

 

 

 

 

 

不動堂村の屯所を出てひたすら西に向かって歩いてゆくと、桂川の川べりに出る。

そこから田坂は川沿いに北に上れば松尾に着くと言った。

もっともそこまで行かずとも、桂川に沿って川原を歩いてゆけば

その途中で幾らでも蛍は見ることができるだろうと、そうも言っていた。

 

その川に着いた時にはもう辺りは闇に包まれていた。

 

 

 

「田坂さんの言っていた松尾という処に着く前に、蛍が光るのは終わってしまう」

「だから途中で駕籠を拾うと言ったのだ」

総司の残念そうな声に、土方が少々苛立たしげに応えた。

 

歩き始めて暫らくして総司の身体に夜の湿った空気は良くないだろうと、

土方は駕籠を拾おうとした。

それを総司が頑なに拒んだ。

二人で押し問答のような形になり、それでも結局歩いてここまで来てしまった。

 

 

「けれど、歩いて来たかった・・・」

 

小さな声ですまなさそうに告げながら、

それでも総司はどうしても自分の足でここまで来たいと言い張った。

めったにあることではないが横を並んで行く想い人が、

時折見せる頑なさを垣間見せられて、土方はひとつ諦めの息をついた。

 

 

 

「土方さん」

ふいにその名を呼んだ総司の声に緊張が走った。

 

「後ろの奴等が邪魔だな」

それに応えながら、土方は何事も無いように歩を進める。

 

西大路を過ぎて、辺りが閑散とした風景になってきた頃から、

密かに付けて来る人の影を感じていた。

それがさらに人気の無い田舎道に入ってくる頃には、数が増えていた。

そして一定に保たれていた距離が、今急速に狭まった。

敵が、仕掛ける隙を狙い始めたのだ。

 

 

 

「せっかく人がいないところまで足を伸ばしたのに・・」

総司の横顔が、心底それを惜しんでいるのか闇の中に沈んでいた。

 

「総司、提灯の灯を消せ」

 

鋭く告げた土方の言葉に、これから始まる斬り合いを総司は覚悟した。

蛍はもう見ることはできないだろう。

 

躊躇(ためら)いを断ち切るように、提灯を手元に寄せ中の灯に息を吹きかけた。

それが横に揺らいでふっと消えた刹那、手首を掴まれて強い力で引っ張られた。

 

 

「土方さんっ」

「黙っていろ」

何が起こったのか分からず、一瞬身を硬くした総司を、

土方は体ごとさらうようにして走り出した。

 

手首を掴まれたまま、その勢いについて走るのが精一杯だった。

 

 

 

土手の草を滑り、川原に下り、さらに土方は走りつづける。

上の方で矢庭(やにわ)に人が騒ぎ出したが、ものともしない。

走り過ぎたあとに遅れるようにして、

腰の辺りまで伸びた草が双方に分かれて道が開ける。

 

総司も決して走るのは遅い方ではない。

むしろ敏捷さにかけては土方を凌ぐかもしれない。

それでも体力では比べ様も無く、

次第に苦しくなってゆく息を堪えることが出来無くなってきた。

 

その様子を土方が察して、漸く立ち止まった。

 

 

「大丈夫か」

土方も叉、息を乱している。

言葉で応えることができず、荒い息を繰り返しながら、総司は目顔だけで頷いた。

 

 

「・・士道・・・・」

総司の途切れた言葉が何を意味するのか分からず、土方は訝しげに見ている。

「・・士道・・不覚悟」

まだ整わない息の下で、それだけをやっと告げると、土方に笑いかけた。

 

「ばか」

「でも・・敵前逃亡してしまいました」

「あいつらが追ってこなかっただけだ」

 

その理屈に今度こそ、総司が声を立てて笑い始めた。

笑いが誘ったのか、同じ唇から小さな咳きが零れ始めた。

 

咳き込む背を擦ってやりながら、

その骨ばった感触が、土方を恐怖にも似た不安に陥れた。

 

 

 

先日田坂から、近いうちに総司を隊務から外すように告げられた。

もう限界だと、あとは静かに終焉に向かわせてやるべきだと、田坂は言った。

 

 

田坂の声は確かに耳に届いているのに、

だがそこがまるで現(うつつ)ではないように、

一枚壁の向こうで聞いているような自分がいた。

 

目の前に現実を突きつけられて初めて、とうにしていた筈の覚悟は、

その実ひとつも出来ていなかったのだと知らされた。

 

そしてそれは今も尚、土方の中に受け入れられずにある。

 

 

 

 

「・・・蛍だ」

 

その土方の思考を遮るように、

次第に治まりかけた咳の合間に総司が小さく呟いた。

 

総司の視線の先を辿れば、そこに闇の中に微かに光るものがある。

 

「一匹だろう」

「でも光っている」

 

 

蛍は闇を明るく照らしてはいない。

その深い色に同化するように、遠慮がちに薄く青白い光を灯している。

吸い寄せられるように、総司が土方の腕をすり抜けた。

 

「もう少し草叢(くさむら)の奥までゆけば、たくさんいるだろう」

 

淡く発光するものの手前まで来て足を止めると、

そこで食い入るようにして見ている後ろ姿に、土方が声を掛けた。

 

「この蛍きっと雄です」

土方の誘(いざな)いに、別の言葉で総司は応えた。

 

「何故分かる」

「島田さんに教えてもらったのです。

雄はこうして光って雌に自分がここにいると教えるのだそうです」

「島田君もずいぶんと物知りなことだな」

 

うんざりとした物言いに、総司は振り返って声を出さずに笑った。

 

「光っているのは本当に短い間で・・・、

光を出すには凄く力がいるそうです。

でも蛍はやっと大人になっても、たった十日程で死んでしまうのだそうです」

 

 

 

島田魁は熱心に問う総司に、嫌がりもせずに

親切に自分の知る限りの知識で答えてくれた。

 

蛍という生き物は丁度今のこの初夏の季節に産卵し、

一年という気の長い月日を経て成虫になり、

やがて生を得た季節に、親と同じように光を灯し、

雄は雌を誘い子を成し、十日程で死んでゆくのだと島田は教えてくれた。

 

 

だが語りながら蛍の淡い光から目を話さない総司が何気なく口にした

「死」というその言葉が、土方の神経をひどく刺激した。

それは今土方が、最も総司から遠ざけておきたい言葉だった。

 

 

 

「ゆくぞ」

 

強引なまでの力で総司の腕を取って振り向かせると、そのまま無言で歩き出した。

驚いて、それでもなされるまま、一緒に歩き出した総司が暫らくして小さくうめいた。

 

「どうした」

その声に気付いた土方が、足を止めて総司をみた。

 

「何でもありません」

そういって笑いかけようとした傍から、また顔に苦痛の色が走った。

 

「どこか痛むのか」

「足を、少し捻ったのかもしれません」

 

先ほど蛍に見とれていた時に、

急に姿勢を変えさせられたのがいけなかったらしい。

その時に一瞬痛みは走ったが、さして気にも止めなかった。

それが歩いている内に段々に酷くなってきた。

左足はすでに引き摺るようにするのが精一杯に成っている。

もう隠すことはできなかった。

 

それでも大丈夫ですと続けて言いかけようとした時に、土方が自分の足元に屈んだ。

 

「すぐに言え」

捻って、熱を持ってきている左の足首に触れて、顔を上げた。

「・・・すみません」

小さく呟いた総司の前に、座ったままで土方が背を向けた。

「おぶされ」

 

その突然の土方の挙措に瞳を瞠ったまま、

どうしてよいのか分からず、総司は立ち尽くしている。

 

 

「早くしろ。蛍がいなくなるぞ」

動かない総司を叱るように、土方が振り向いた。

その声の勢いに促されるように、おずおずと両の手を土方の首筋に回した。

 

「しっかりと掴まっていろよ」

 

やがて総司を背に負って、立ち上がった。

掛かる重みは己の背に何の苦もなく、その頼りなさに土方は一瞬瞑目した。

 

 

「すみません」

 

そんな土方の感傷など知るはずもなく、

後ろで総司が恥じ入るようにもう一度詫びた。

その声だけが背負っている者の確かな存在だった。

 

 

 

 

昼間の熱をまだ篭もらせて、草いきれにむせそうな闇の中には

流れる水の音だけが唯一だった。

先ほどから総司も土方も無言だった。

 

 

「どうして蛍など見なくなったのだ」

その沈黙の均衡を破るように、土方が後ろを見ずに聞いた。

 

「どうしてだろう・・・島田さんの話を聞いていたら急に見たくなって」

 

 

そんな自分を笑うように総司は言ったが、それは嘘だろう。

島田の話がどんなものかは分からない。

だがその中に何か総司を駆り立てるものがあったのだろう。

だからこそこうして憑かれたように、

こんな処まで足を延ばしても、蛍を見たかったのだ。

 

 

 

再び会話は途切れ、暫らくそのままで、総司は土方の背に揺られていた。

 

 

少年の頃、この背に負われたことがあった。

いつも自分を隠してしまう程広く、

いつも人肌の温もりがあり、

いつも強く心の臓の音が聞こえた。

 

知らぬ振りをして、静かに耳をつけるようにして顔を伏せてみた。

 

いつの間にか夜気に晒され冷たくなっていた頬に、触れた背が温かかった。

自分は又ここに戻ってきたのだ。

安堵していいはずなのに、何故だか視界が滲んで、急いで瞳を閉じた。

 

 

 

「総司、見ろ」

 

ふいに土方の声がして慌ててあげた視線の先の光景に息を呑んだ。

 

 

 

無数の淡い光が闇をぼんやりと照らし、

縦に横に、上に下に、高く低く、

綾を織り成すように時にそれらは交わり、

その跡には幾つもの曲線の帯が紡ぎ出されてゆく。

 

蛍の群集だった。

 

 

 

「どうした。これが見たかったのだろう」

無言のまま身じろぎもしない背中の想い人に、低く笑いながら問いかけた。

 

 

「・・・ここにいるって、言っている」

「誰が?」

また自分だけににしか分からぬ事を言う総司を、咎めるように土方が聞き返した。

「蛍が・・」

「わけの分かるように話せ」

 

「雌の蛍にここにいるから、自分はここにいるから見つけてほしい、

そう言って雄の蛍は力一杯光を出すのだそうです。

たった十日。それも一晩に一度か二度だけ・・・。

そうして生まれた卵は一年もかけて大人になって、

また翌年に十日間だけ強く光を放って生きるのだそうです」

 

 

繰り広げられる朧な光炎のなかに魂を持ってゆかれたかのように、

総司の声が陶酔した響きを含んでいた。

 

 

 

それを背中で聞きながら、土方は総司の気持ちがただ胸に辛かった。

 

総司は自分の身体の衰えを知っている。

短い命の限りの力を出し切り、

光を放ってその存在を誇示するという蛍の話は、

総司の中の何かを突き動かしたに違いない。

 

ここにいる、総司は蛍をそう形容した。

だがそれは総司自身の心の叫びに他ならない。

 

自分はここにいる、まだ生を得てここにいる、

それこそが総司が己に刻み込みたい言葉だったのだろう。

 

 

目の奥が熱くなった。

咄嗟に目を瞬(しばた)いてそれを誤魔化した。

 

 

 

「土方さん・・」

 

驚くほど耳の近くで囁くような声がした。

 

 

「・・・蛍」

 

下駄を持っていない総司の右の手が、柔らかく握られて目の前に差し出された。

その手のひらがそっと開かれると、

待っていたように一匹だけ小さな光が闇に舞った。

 

ゆらゆらと揺れるような細い光の線を視線で辿っていると

肩口に押し付けられるものがあった。

 

 

「・・・総司?」

 

顔を伏せたまま、総司は応えない。

土方もまた言葉を繋がなかった。

 

 

蛍だけが、短い刻(とき)を惜しむかのように、闇を行き交う。

 

 

 

 

「・・・ここにいるから」

やがて耳に聞えたのは、小さな呟きだった。

 

「知っている」

肩口に濡れるものを感じながら、土方の視界の中の光もまた滲んだ。

 

「ここにいる・・」

微かな声は淡い光に離散し、闇に呑まれるようにして儚く消えた。

 

 

「・・・俺が見つけてやる」

前を向いて振り向かず、眸を見開いたまま土方は告げた。

 

背にある想い人の温もりを確かめるように、土方が総司を揺すりあげた。

顔を伏せたままの総司が、たじろぐように僅かに震えた。

 

 

 

「必ず、見つけてやる」

 

声が掠れたかもしれない。

肩口にあった冷たいものが、更に深く染みいる。

 

声を殺した総司の慟哭だけが背に響く。

 

やがて堪え切れぬように、首筋に回された手が更に強く絡められた。

 

 

 

力抜けた左の指が、握っていた下駄の鼻緒を放した。

 

 

 

 

それが地に落ちた刹那、無数の蛍がいちどに飛んだ。

 

 

 

 

 

 

闇に織り成す光の妙が、

土方の視界の中で、

露にぼやけてただ白い世界になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

         

                          了

 

 

 

            きりリクの部屋