藤色戀歌 -fujiirorenka- (四)




「お疲れにならはったと、違いますか?」
「いいえ、少しも。それよりも、こたびはキヨさまにもご迷惑をお掛けし、申し訳ございませんでした」
新しい茶を運んできたキヨに、桂穣尼は静かな声で詫びると、頭巾にくるんだ頭(こうべ)を下げた。
「とんでもありまへん、うちは楽しゅうお芝居を見せて貰ろうたと、ほんま、感謝してますのや」
そう告げるや否や、先ほどの出来事が思い起こされたのか、零れかけた笑いを慌てて掬うように、キヨはふっくらとした手を口元に当た。


――あらかじめ控えさせていた者達と、鳴滝が栗谷を藩邸に同道してから、早四半刻が経ようとしていた。
そして今桂穣尼は、仮の住まいとしている庵から、帰りの駕籠が遣わされて来るのを待っていた。


「けど栗谷はんが桂穣尼さまをお連れするゆうんは、鳴滝さまからもお伺いしてませんことで、どないしよっと、うちは不安でたまらなくなりました」
部屋の壁に柔らかく跳ねる、春も終わりの光の長閑さと、女二人と云う安堵感が、キヨの心を正直にする。
「それは・・、キヨさまには、要らぬご心痛をかけてしまい、どのように詫びたらお許し頂けましょう・・」
「うちが勝手に心細うなりましただけですのや、桂穣尼さまはなんも悪いことあらしまへん。それに桂穣尼さまのお顔を見た時、ああこのお方はきっとお味方やて、何故かうちはそないに思いました」
心底申し訳無さそうな声に、今度はキヨが慌てた。
「そのように云って頂ければ、安堵いたします。実は私がここに来る事は、鳴滝様にもお伝えしてございませんでした」
「鳴滝さまにも?」
「私に、こたびの場に同席せよと仰られたのは、殿でございました」
「お殿さまが・・」
「はい」
驚きに目を瞠ったキヨを見詰める面が、ゆっくりと頷いた。

「殿は、鳴滝様からのご報告で、今回のお見合いの事をお知りになりました。そして、もしも鳴滝様が、栗谷の姦計の証を掴むに苦心されるご様子であれば、殿の名をお出ししお役に立てと、私に命じたのでございます。世に空蝉のごとき尼なれば、栗谷も油断するとお考えになられたのでしょう。ですが・・」
時折、頬に触れるか触れまいかの際で過ぎ行く風の他、静かな語りを邪魔するものは何も無い。
その心地よさに遊ぶように、桂穣尼はうっすらと笑みを浮かべた。
「殿の本当のお心は、他にあったのです」
「お殿さまの、ほんとうのお心?」
「はい、本当のお心です。殿は、杉浦様のご子息であられる俊介様が、何故ご典医のお話をお受けにならないのか、その真意をお知りになりたかったのでございます。今でも殿は、杉浦様のご最期に、お心を痛めておられます。何故あの時もう少し早く、内野佐左衛門の陰謀が分からなかったのか・・。さすれば、あのように辛い結果にはならなかったと、そう悔やんでおられるのです」
「若せんせいは、決して昔の事を、増してお殿さまを恨みに思うて、鳴滝さまのお話を受けんのと違います」
「その事は、私にもよう分かりました」
康穣の胸の痛みに触れ、つと沈んだ面持ちとなったキヨに、静かな微笑が返った。
「俊介様は、真(まこと)、町のお医者さまであられる事を誇りに思うておられます。・・・それに・・」
慰撫する言葉がつと止まり、それと同時に、桂穣尼の眼差しが楽しげに和んだ。
「無理強いをすれば、今度こそ、殿も私も、俊介様とみつ様に恨まれてしまいます」
「そうですのや、若せんせいとみつはんの縁(えにし)は、とうに神さまが決められはった事で、たとえ膳所のお殿さまかて、切ることはできませんのや」
漸く得た安堵に後押しされ、弾んだ声と共に、キヨのふくよかな頬に、波のような笑みが広がった。
それに深く頷くと、桂穣尼は、庭のひと処に小さく拵えてある藤棚へ視線を向けた。

「キヨさま・・」
咲きかけた白い花を愛でる穏やかな声が、往く風に乗る。
「私が娘の頃、稽古事への通い路に、それは見事な藤棚を持つお家がございました」
紡がれ始めた語りを、キヨは心地よい音色に浸るように、桂穣尼の横顔を見詰め聞いている。
「今頃の季節になると、花は藤色の房を艶やかにほころばせ、その美しさに、私は思わず足を止め見入ってしまったものです」

今桂穣尼の眸に映る藤棚は、記憶の中にある其れとは比べるべくも無いだろう。
だが向けた視線は、微かにも、そこから動こうとはしない。

「そんな風にして、幾度目の藤の季節を迎えた事でしょう・・・。ある日、いつものように、琴の稽古の帰りにそのお家の前で花に見とれておりますと、見知らぬ殿方・・と、申しましても、まだ元服前の、年の頃は私より少し上とお見受けしましたが、・・そのような見目形の方が、藤棚の向こうからやって来られたのです。あまりに突然の事に、私は藤に遣っていた目を慌てて逸らす事が精一杯でございました。ですがその方は、足を止める事無く、真っ直ぐに私の前まで来られると、藤を愛でるのならば、門を回って庭に来られよと仰ったのです。まさか知らぬお家にそのような不躾は出来る筈も無く、急いでお詫びを申し上げ立ち去ろうと致しましたら、今度は少し待たれよと仰られるや腕を伸ばし、目の前のひと房を手折り、其れを垣根越しに差し出されました」
「藤の花を?」
「はい。俯けた顔を上げる事の出来無い私に、雨が催おっているゆえ、激しい降りになれば、盛りを迎えたこの花も朝には散ってしまうだろうと言葉を添えられ、押し付けるようにして藤の花を差し出されました。そうして、私がようやっと手にするのを見届けると、少しだけお笑いになられたのです。ですがその笑い顔を目に出来ましたのも、あっと云う間の事でした。お礼の言葉をと、慌て探す私より早く、お屋敷の奥から掛かった声に、その方は凛としたお声で応じられるや、急ぎ踵を返してしまわれたのです。・・・残された私は、その背が見えなくなるまで、呆然とそこを動く事ができませんでした・・」
その時の光景は未だ鮮明にあるのか、藤棚を見る桂穣尼の眸が、過去を今に重ねるように、遠く視線を投げかけた。
「お祖父さまの病気お見舞いの為に、膳所に帰られていた杉浦高継様とお会いしたのは、私の生涯で、その一度きりでございました」
俊介の父の名を聞いたその刹那、桂穣尼を見詰めていたキヨの目が驚きに瞠られた。

「・・それから二月も経ぬ夏の日、私は、関白一条様の姫君裕子様の遊び相手となり、京に上ったのです。その後膳所に戻り、国元から出る事も無く齢(よわい)を重ね、江戸詰めの杉浦様とはお会いする機会もありませんでした。ですが不思議なことに、この年までに巡り合った、数多(あま)の方々のお顔を忘れる事はあっても、あの僅かな一時にまみえた杉浦様の笑い顔は、決して忘れる事はありませんでした。・・・俊介さまは、高継様に、ほんによう似ておられます・・」
一瞬にして遡った過去の煌きを拾い集めた吐息が、藤を見詰める佳人の呟きとなって零れ落ちた。
が、それも束の間の事で、桂穣尼は名残惜しげに藤棚からキヨへ視線を戻すと、たおやかに微笑んだ。
「かような年になっても、初めての恋を誰かにお話するのは、ずいぶんと、こそばゆい事でございますね」
やがて小さく告げてキヨを見た目が、いたずらげに細められた。

だがキヨは知っていた。
今優しく細められた眸に映っているのは、藤の枝を差し出され戸惑う、まだ恋と云う名も知らない少女だった頃の、桂穣尼自身なのだと・・・
そしてその淡いときめきは、このろうたけた美しい人にとって、きっと最初で最後の恋だったのだと――。
そんな自分の思い入れに、キヨは少しの疑いも持たず、桂穣尼を見詰めていた。






 ほんの半刻前まで、茶番な宴が繰り広げられていた離れに差し込む陽は、いつの間にか鋭さを消し、その裾野をぼんやりと広げている。
それでも、夕暮れも近いこの頃合にあって、尚、光の勢いが衰えないのは、もうすぐ其処に足踏みしている、次の季節の強さがなせるものなのだろう。

「まだ匂うのか?」
縁に腰掛けている総司に、藤棚の下で、ほころびかけた蕾を見ていた田坂が、振り向きながら問うた。
が、その顔には含むような笑いがある。
それが癇症に触れたのか、深い色の瞳が睨むように、長身の主を見上げた。
「このままでは、屯所に帰る事ができない」
「君だけが匂うんじゃないか?」
「田坂さんの鼻が曲がっているのです」
「ついでに臍も曲がっているがな。着物に焚き染めてあった香が、それ程強かったとも思えんが・・。ま、今キヨが風呂を焚いているから、湯を浴びれば消えるだろうさ」
何を怒っても暖簾に腕押しと云った風情の、のんびりとした物言いに、紅をふき取った唇から諦めの息が漏れた。

――鳴滝が栗谷を連れ藩邸に戻り、それから少しして桂穣尼の乗った駕籠を見送ると、総司は門を入るや否や、着物を脱がせて欲しいとキヨに懇願した。
それに、キヨの態度は何故か煮え切らないものだったが、この事に関しては総司も譲らなかった。
結局の処、いつにない総司の頑固さに負けた形でキヨは望みを叶えてくれたが、帯を解き、着物を脱がせるただそれだけの間に、勿体ないと、まるで念仏を唱えるように吐いた溜息の数は分からない。
が、総司も又その理由を計りかね、キヨの溜息の分だけ首を傾げた。


 風呂が沸くまで下ろしている髪の、無造作に束ねた先が、まだ陽の温もりを芯に籠もらせた風に遊ぶ。

「田坂さんは・・」
腕組みをし、再び藤に視線を移していた着流しの背が、途切れた声につられるように、ゆっくりと振り向いた。
だが田坂は、何も聞かない。
無言のまま総司を見、続きを促す。
その静かな沈黙に後押しされるように、一旦閉じた唇が動いた。
「・・膳所に医学所が出来たら、其処に行くつもりだったのですか?」
躊躇うと云うよりは戸惑うと云うに近い、遠慮がちな物言いだったが、総司は溢れる光にも瞳を細める事無く、真っ直ぐに田坂を捉えた。
「行って、欲しかったのか?」
が、即座に返ったのは、真摯な問いを、揶揄でかわした笑いだった。
「田坂さんっ」
「怒るなよ」
詫びる声には、少しも真(まこと)が籠もっていない。
「だが本当にその話が来たのならば、果たして、どうしたものだったか・・」
それでも、もしもを語る真摯な響きは、総司から次に責める言葉を取り上げ、喉に絡みついた乾いた息が、細い線に縁取りされた面輪を強張らせる。
そしてその様を眸に映し出しながら田坂は、己の脳裏に、つい先程、医学所の一件を聞かされた時に見せた、硬質な横顔を蘇らせていた。

あの時、堅く結ばれた唇が堰してしまったのは、どんな言葉であったのか。
其れを知りたいと、否、云わせてみたいと、心は漣(さざなみ)立つ。
が、例え行くなと云う言葉が耳に届いたとて、その核(さね)に、渇望する感情の走りを見つけられない事は、誰よりも自分自身が承知している。
それでも云わせてみたいと思う。
意地の悪さの罠に掛け、行くなと、袖引く言葉を――。

「私は・・」
戸惑いを引き摺った声は、始め弱気な心を映して小さい。
が、何かを振り切るように、今一度田坂を見上げた時、茜色の光華に染まった面輪からは躊躇いの色が消えていた。
「田坂さんに、ずっと此処に居て欲しい」

――正直な心は、掛けた罠に、あまりに呆気なく嵌る。
だがそうなる事を望んで引き出した言の葉は、何と切なく、そして何と愛しく胸を刺すものか。
想い人は、こうして又、自分に憂鬱の種を植え付ける。
田坂の裡に、云わせたがゆえの後悔と、云わせたがゆえの幸いが、交互に満ち溢れる。


「嘘だ」
笑いにくるんで告げた嘘は、己自身についたものだと。
そうでもしなければ、この想いの丈は、今にも滾り出してしまうのだと・・・
「田坂さんっ」
秘めて云えぬ心の、せめて盾にせんと向けた背を、怒りの声が甘美に叩く。
それを己が身全てで受け止めながら田坂は、花弁の隙から零れ落ちる光に目を細めた。






 頬を撫でる風は、其処で一度くるりと回り、又いずこかへと吹き去る。
そして風が過ぎ行く毎に、陽は少しずつ傾きを低くし、足元に夕暮れを忍ばせる。
が、鳴滝は、先程から遠い一点に視線を置いたまま動かない。
見詰める先には、縁に腰掛けている若者がいる。
そして若者が何かを語りかけるたび、藤棚の下の俊介が応える。
声は届くべくも無いが、その光景を、鳴滝は微動だにせず見ている。

 栗谷を一旦藩邸に連れ行き、もしや今一度桂穣尼に挨拶が出来るかと、急ぎ戻って来た玄関先で立てたおとないに、何の返事も無かった。
珍しい事だと思いつつ、勝手知ったる家の框を踏み、廊下を行く間には、キヨか俊介が見つかるだろうと足を進めていたが、その足を突然止めさせたのが、今こうして視線を奪われている若者の姿だった。


――ひとつに束ねた髪から垣間見える横顔は、己の身を挺し、愛しい者の命脈を護ろうとした者の最後の姿を、あまりに鮮明に彷彿させる。
細身の伸びた背筋は、無念と哀れの煩悶の狭間で、伝える言葉はと問うた自分に、潔い良い笑みだけを返した、靭い心を思い起こさせる。
だが俊介に向けている笑い顔は、辛い思いだけが沈む鳴滝の胸に、ひと筋、それを救う光を射す。
 
 七夕の日、江戸藩邸へ行くのだと伝えた言葉に、夏の暑さに難儀する旅人を慰撫するつもりだったのか、じき内藤新宿だと、はにかみながら教えた少年の面影は、未だ鳴滝の裡に忘れ得ぬものとして残っている。
向かう先に、心急(せ)かせる程に慕わしい者が待っているのか、短い言葉を交わした後、少年は振り返る事無く、視界の中で小さくなって行った。
葉に当たり、弾け落ちた光が白い陰影を刻む道を行く、その背を見送りながら、亡き兵馬の分までも、どうかあの幼き者の行く末に幸いあるようにと・・・
そんな似合わぬ感傷を己に許した日は、幾つ指を折る昔だったのか。
だが綴り束ねた書物の一枚のように閉じ込めた筈の過去は、色褪せる事無く、そして絶える事無く、こうして脈々と息吹いていたのだ。


 鳴滝は、音を憚り踵を返した。
振り向いた先に、思いもかけぬ長さで己の影法師が伸びている。
そして板敷きは、まだ薄く日の温もりを残す。
その廊下に殊更ゆっくりと足を運ぶのは、今少し、天の為せる戯れに浚われていたいと捏ねる駄々なのか――。
答えを見つけられぬ曖昧すら良しとして先を踏む一歩は、離れ難い時を、再び遠いものへと変えて行く。





 静まり返った玄関は、この屋敷の何処よりも早く、宵の気配を敷いていた。
まだ灯を点す程では無い仄暗さが沈む三和土(たたき)の隅に、来た時には気付かなかった下駄が、鳴滝の視線を捉えた。
横に並ぶ、此処の主のものより小ぶりな其れは、明らかにあの若者のものなのだろう。

「・・さて、七夕の願い事は、叶えられたものか・・」
主を待つ下駄に、低く笑って掛ける呟きに、いらえは無い。
「のう、みつ殿?」

――緩やかに細めた鳴滝の双眸の中で、雑木林を抜ける風に前髪を揺らし見上げていた、淵に吸い込まれるような深い色の瞳が、今、鮮やかに蘇る。








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