花  鏡 (下)




五条の通りを西に向かい南北に走る大路を幾つか越えれば、都も賑わいを外れ、少しづつ田舎景色になる。
この天候では流石に往来に人の姿もまばらで、雨の飛沫で視界の悪いのさえ気をつければ、総司の姿を見つけるのはそう難しい事でも無いように思えた。

土方は、田坂の言葉を己のそれとして信じている。
この通りをまっすぐに総司は屯所へと向かったのだと、そう告げた若い医師の目は確信に満ちていた。
一縷の希を託して、藁をも掴む思いで縋ったのではない。
総司は必ず自分の元へと還って来る、それは土方の信念だった。
だが歩を進める先に望む姿は見つけられず、脇に軒を連ねる民家の数も次第に途切れがちになって来る。
じきに東本願寺の威容も見えてくるだろう。
そうすれば屯所のある西本願寺は目と鼻の先だ。
此処まで来て、初めて土方の胸に一抹の不安が過ぎった。

見つける事が出来ないのは、もう屯所に戻っているからなのでは無いか・・・
否、きっとそうに違いない。
総司が田坂の診療所を辞したのは、自分が尋ねる一刻も前の事だったという。
その間に屯所に着いていると考えるのが自然だった。
一体自分は何を根拠に、総司がまだこの道の何処かにいると信じたのか。
己の思い込みの激しさには、呆れを通り越して自嘲の笑みすら浮かぶ。
それでもまだ辺りに注意を払っている諦めの悪さを振り切るように、土方は足早に次の辻を左へ折れようとした。
だが心の何処かで捨てきれない願望が、大路に背を向ける寸座、更に遠く前方へと土方に視線を投げかけさせた。
が、その寸座、それまで落ち着かなかった双眸が、一瞬鋭い光を宿し一点を凝視したまま見開かれた。
煙る氷雨の中で軒下に蹲る人影がある。
決して違える事の無いその背こそは・・・・

――心の臓の打つ音はこれ程大きなものだったのか。
今己を支配する唯一の音の中で、とっくに駆け出した心に追いつかないのを苛立たしげに、足は確実にかの想い人へと近づく。
やはり総司は自分の思う先に居た。
それが土方を、狂おしいまでの悦びの中に誘う。
飛沫の帳を、踏み出す歩の力強さで押し退けるように、土方は進む。


気配に気づいて振り向いた面輪は、目線があまりに下に置かれすぎていたせいで分かり辛いのか、自分に寄って来る影を、初め瞳を細めて見極めようとしたが、すぐにそれは驚愕に大きく瞠られた。
声も出せず、見上げる瞳は凍てついたかのように瞬きすらしない。
唇は何かを言いかけようとし、言葉を形作る前に止ったまま動かない。

「・・・昔、そんな葉を探した事があったな」
蹲る足元に、枯れ掛けた雑草がある。
総司は、それを見ていたに違いない。
下に屈む者の為に差し掛けた傘から左の肩が出て、土方の衣が濡れる。
外に向けている総司の半身にも、強(したた)か雨が染み込んでいる。
だが土方の声にも挙措にも、総司は呆然と、ただ見上げるばかりで応えない。


あれはいつの頃の事だったのだろうか。
江戸にいた時、同じような葉をの在処を、総司が酷く気に止めて二人で探した事があった。
まだ己の裡に確かに在るものが、総司への恋情だと知る前の出来事だった。
だが総司はすでにあの時、自分への想いを胸に秘していたのだという。
叶うことならば―――
時を遡り、その苦しい日々の中で懊悩の闇にいた魂を救い上げ、お前と同じなのだと言葉に刻み、胸に抱き、温もりを分かちあいたい。
知らずして過ぎ行きてしまった季節の数を手に掴み、ある限りの力で手繰り寄せ、今一度共に歩みたい。
出来ぬ事と承知しながら、それでも土方はそう願う。

「あの時のに、似ているな」
悔恨と、焦燥と、贖罪と・・・
それ等を超えて、唯一無二の者に今土方は語りかける。


声音は雨の膜を透して、現のものとして耳に届く。
土方は怒っても、呆れてもいない。
二つの瞳に映るのは、酷く寂しそうに自分を見ている顔だった。
土方は、確かにここに居るのだ。
けれど手を伸ばした途端に、幻だと消えてしまうのではないか・・・
それを恐れるように、総司はゆっくりと立ち上がった。

「意地をして、悪かったな」
視線が、漸く向けられている眼差しを近い位置で捉えた時、降る雨の音よりも柔らかく静かな声が聞えて来た。
いらえを言葉に変えて応えられる筈も無く、せめて笑いかけようとした顔は途中で強張り、それが歪んで目から熱いものが頬に伝わる前に、総司は慌てて俯いた。
「すまなかった」
下を向いたまま、幾度も幾度も首を振る想い人の仕草を、土方は胸に込み上げるどうしようも無いいとおしさの中で見ていた。





朧な灯りの輪に、白を、朱鷺色よりも淡く染めた障子を、総司は息を詰めて見ている。

あれから雨の中を、土方とふたりで屯所に戻ってきた。
そう長い距離では無い帰路、ぽつりぽつりと会話はあったが、それもぎこちなく途切れ、仕舞には交わす言葉すらなくなり、止まない雫の音だけを耳に刻んで進む道は、だが総司にとっては限りなく心安らぐものだった
土方が横にいる。
ただそれだけで、瞳から零れ落ちそうになるものがある自分を、差す傘を深く傾けて隠した。
屯所に着くと、土方は濡れた身を風呂で温めるように言い置き、帰りを待っていたとばかりにやって来た呼び出しで近藤の元へと向かった。
その後も一度顔を覗かせはしたが、直ぐに叉慌しく副長室に籠もってしまった。

けれど土方は来る。
きっともう一度来る。
そう信じる身に、時は恐ろしくゆったりと、その存在を誇示して流れる。
耳を澄ませ、視線を投げかけては戻し、それを数えて幾つ目かに、総司の腰が不意に浮いた。
気配は―――
確かに土方のものだ。
立ち上がりざま障子に向かった足は、急(せ)く心に追いつかずにもつれる。
僅か数歩、たった数歩。
手を伸ばせば難なく触れることができそうな距離が、総司には長くもどかしい。
漸く桟に指が届いたよりも一瞬早く、無慈悲な紙の砦は外から開かれた。


「休んでいろと、言った筈だぞ」
其処に総司が立っているものと、まるで承知していたように、土方の声は憎らしい程に落ち着いている。
「何故言う事を聞かない?」
一歩踏み出して室に身を滑り入れ、後ろ手で障子を閉めながら問う声は、決して厳しいものではないが、何か望むものでもあるかのように、応えを求める強引さがあった。

ひとつ足を進める土方に、ひとつ後ろにさがりながら、総司の心の臓の音は、今にも胸を破らんばかりに高鳴っている。
もしも声を発したら、きっとそれは震えてみっとも無いものになるだろう。
けれど伝えなければならない言葉がある。
知って欲しい事がある。
待っていたのだと、来るのを待って眠る事など出来はしなかったのだと、想いの丈を、有るがままにぶつけなければ、いつか土方は自分の元を去って行ってしまう。
その恐怖が、総司の躊躇いを凌駕した。
見上げたまま、きつく結ばれていた唇が、呪縛を解かれたように微かに動いた。

「・・・待っていた」
声音は張り詰められた神経が漸く形作ったように、聞くものが切なくなる程に硬く細く、語尾は瞬く間に薄い闇に消えた。
だがそれに返る言葉は無い。
沈黙だけが、室を支配する。

胸の鼓動の煩さが耳に障る。
こんなにも求めているのに、土方はただ見つめて物言わない。
どうして応えてくれないのか―――
これが素直になれなかった自分への仕置きなのだろうか。
だとしたら、この音無い静寂の時はあまりに辛い。
戻らぬいらえを待つ身に過ぎる束の間の時すら、修羅に堕とされた苦しさにも似て、遂に総司の心に限界の悲鳴を上げさせた。
「待っていたっ・・・」
顔を上げて叫んだ声が、途中で戦慄き掠れた。
瞳に映る土方の双眸は、自分を捉え微塵も揺るがない。
その顔が、視界の中でみるみる滲む。
「・・・待って・・いたっ・・・」
繰り返し訴える間にも、瞳は次から次へと新しい露を溢れさせる。
情けなさと、哀しみと・・・もうそのどれが本当なのか分らない。
こんな事で泣く自分を、総司は罵倒したい思いだった。


堪え切れずに、叉俯いてしまった項を、土方は黙って見ている。
どうして―――
この想いを伝えたら良いのか、分からない。
愛しいと、大切なのだと、お前を欲して我が身を投げ打つ事など何も惜しくは無いのだと・・・
そんな言葉の一体何処に、今胸にある想いの丈を籠める事ができると云うのか。
否、少しも出来はしない。
言葉など、いざとなればどれ程の役にも立ちはしない。

それでも時折しゃくりあげる薄い肩の持ち主に、待っていたのは自分なのだと、自分こそがお前を待ち続けていたのだと、そう教えなければならない。
滾る想いをぶつけ伝えなければ、いつか自分は、このひとつ魂を分かち合った者を失う事になる。
その戦慄が、土方を突き動かした。
伸ばした手が総司の二の腕を掴んだ時、項垂れていた身がびくりと動き引き下がろうとした。
それをものとのせず、一瞬構えて硬くした身体を強引に胸に浚うと、微かな抗いをも許さず、抱く力で動きの全てを封じ込めた。


「待っていた」
声は、俯いたままの頭上から聞えた。
不意に発せられたそれが何を意味しているのか分からず、土方を視界に捉え様にも戒めの腕の中では身動きすら侭ならない。
「お前を待っていたのは・・・俺だ」
静かに響く声は、強い拘束の代償のように、優しすぎて哀しくなる響きを含んで総司の耳に届く。
「・・・俺だ」
衣の向こうから、土方の温もりが伝わってくる。
それに触れれば、どんなに唇を噛み締めても、僅かな隙を縫って湿った声が漏れそうになる。
「俺が、待っていた・・・」
今一度耳朶に触れ囁かれ、手の平で後ろ首を支えられ、それで更に深く胸の内に抱かれた時、総司の唇から堪えきれない嗚咽が細く零れ落ちた。

きっと自分の元へ戻って来ると信じながらも、身を焼かれるような焦燥の中に置かれた数刻は、猛る想いで狂い出しそうに残酷な時だった。
だが必ず総司は還って来ると、それだけを唯一の信念に、待つ時を刻んできた。
待っていたと、告げる言葉は真実であって、真実でない。
そんな風に終えてしまえる程、優しいものではなかった。
待っていたのではない。
還って来いと、懇願していたのだ。
だから待つなどという行儀の良さは、かなぐり捨てて走り出していた。
これほどまでに傷つけ苦しみ、だが尚自分はこの先も、嫉妬の焔の燃え盛る侭に、この愛しい者を追い詰めてしまうのだろうか。
唯一の者だけに、誰にも渡せぬが故に、我を失いきっとそうしてしまうだろう。
そしてそれを止める術を、自分は持たない。

「馬鹿は俺だ」
自嘲して呟いた声が、遣る瀬無い吐息と共にくぐもった。




「辛いのならば正直に言え」
そう労わりながらも、否と応えが戻った処で、もう情火の焔が増す勢いは止まらぬ事を承知して、土方は胸の裡で苦く笑った。
組み伏され、微かに首を振る仕草で、その思いは杞憂のものだと告げる総司の瞳には、微かにだが揺れるものがある。
だがそれは、今から己の身に為される行為を厭うというものなのでは無い。
土方には総司の心にあるものが痛い程に分かる。
経験の浅すぎる身体は、まだ悦びよりも激しい苦痛を優先させる。
その時の記憶が、総司の本能として、意識の外で臆させるものを作らせてしまうのだろう。

肌を重ねるのは二度目だった。
一度目は、ただ総司が欲しかった。
恋情と情欲とが交互に織り成す秘めやかな時の中で、迸る想いを激しくぶつけるだけが精一杯だった。
余裕の欠片とて持てず、共に高みに昇り詰め、己の腕の中で堕ちる身体の重みを受け止めた時、この者を失うことを恐怖する背中合わせの至福の中に自分はいた。
だが今はそれよりも違う感情が、土方の裡に滾る。
慈しんでやりたいと思う。
愛しいのだと、だからお前が欲しいのだと、そう教えてやりたいと思う。
だが果たして、それも何時まで続く辛抱か・・・
其処を突かれれば、又も激情の侭に己を止める事は出来ないだろう自分に辿り着き、土方は今度こそ低い笑い声を漏らした。

それを聞き止めて、深い色の瞳が不安げに見上げた。
「何でもない・・・」
安堵させる言葉の最後は、ほんの少し耳朶を噛んで囁いた。
が、慣れぬ身体には、ただそれだけが突然の愛撫になるようで、肌蹴させた衣から露になった尖った肩が震えるように動いた。
そのまま首筋を伝い鎖骨をなぞり、胸にある唯一白と違(たが)う彩まで唇を這わせると、それまで息を詰めるように硬くしていた身体から一瞬力が抜け、微かに吐息が漏れた。
自分を失くし乱れる事を恐れるのか、それが切欠のように、総司が右の手の甲を唇に持って行こうとした。
だがその手首が、強い力で掴まれた。
突然戒めるような土方の挙措に、きつく閉じられていた瞼が開かれた。

「指を、どうした?」
何を問われているのか一瞬判じかね、黒曜の瞳は暫し土方を見つめていたが、やがて自分の指に細い筋を残す傷の事を言われているのだと分かると、仄かに朱に染まりかけていた頬に微かな笑みが浮かんだ。
「・・・草で、切ってしまったのです」
「草で?さっきのか?」
土方には、それが総司が見ていた、あの朽ちかけた雑草だとすぐに承知できたようだった。
下で頷いた面輪に、更に笑みが広がる。

「試衛館で・・・。もうずっと前に、土方さんに探して貰った葉に似ていた」
懐古するように、少しだけ細められた瞳の奥に秘められているものは、まだ土方には見えない。
「あの時、お前はどうしてあんな枯れかけた葉を気に止めた?」
肌と肌を合わせて、互いの温もりをひとつに分かち合いながらの昔語りは、優しくも切ない。
「・・・土方さんを、想う気持ちが苦しくて・・」
今も想い人はその渦中にあるのだろうか・・・
瞳を伏せて語り掛ける声には、そんな事を土方に思わせるような響きがあった。
そうなのかと、心にあるものを探りたい自分を抑えて、次に紡がれる言葉を待つ時は長い。

「あの枯れた葉が、風に散ってしまったのを見た時、こんなに苦しい想いなどいつかあんな風に消えてしまえば良いと・・・そう思った」
不意に沈んだ声音は、人を想う不安の時を、未だ過去にはできずにいるのだと伝えていた。
それを不憫だと思う前に土方の胸に満つるのは、腕の中にあって孤独から抜けられずにいる者への愛しさだった。
躊躇いながらおずおずと伸ばされた手を取って、黙って首筋に回してやると、総司は居場所を見つけて安堵したように強く縋り付いて来た。
「でもそんなのは嘘だった」
漸く土方を我が手で捉えて励まされたのか、言葉は途切れること無く続けられる。
「嘘?」
顔を見ず、瞳を合わせぬまま、総司は頷く仕草だけをした。
「嘘だった・・・、想い切れる筈などなかった。土方さんが恋しくて、恋しくて・・・誰にも渡したくなどなかった。・・・気がついたら、いつの間にか夜叉のように醜い心の持ち主になってしまっていた。其処から逃げ出したかった・・・・だから自分自身に嘘をついてしまった」
声は、時折拾うに難儀する程に小さくなる。
「・・・それに気づいた途端に、もしもあの最後の葉が無くなってしまっていたら、自分の想いも叶えられなくなってしまうと・・・今度は急に怖くなった」
だからあれ程必死に探したのだと、縋る腕に籠める力の強さで総司は訴えていた。

包み込んでいる儚い背の持ち主は、辛かった日々を、ふたつをひとつにして刻む心の臓の音だけを頼りに語っているのだろうか―――
目の奥が、ひどく熱い。
ゆっくりと瞼を閉じる事で、土方はそれを誤魔化した。


「昨夜、伊庭と会った」
途切れた話の後を継いで、愛しい者の耳元に土方は語り掛ける。
その瞬間、骨の形をなぞれるような薄い身体が強張った。
閨で聞くには、総司には辛い名なのかもしれない。
それを察し、宥めるようにして手のひらで背を摩ってやると、籠められていた力が少しだけ抜けた。
「お前を諦める事など決してしないと、そう俺に言った」
弾かれたように伏せていた顔を上げた瞳の奥に、大きく揺れるものがあった。
その瞳を見て、土方は続ける。
「俺は伊庭が怖い」
更に土方のものとは思えぬ言葉に、総司の面輪に驚きの色が走った。
「こんな思いは初めてだ。が、果たしてそう云う言い回しが当たっているのかどうなのか・・・俺自身にも分からない。だがあいつは俺よりも先にお前を見てきた。お前が苦しんでいた呻吟の時を、自分のものとして共に過ごしてきた」
双眸に今映し出されているのは確かに自分だ。
けれどそのもっと奥にある土方の感情が、総司にはまだ分からない。
「俺はそういう時を過去に持つあいつを憎いと、心底思う。あいつだけが知りえるお前がいる。それが許せない。いや、だからこそ怖いと思うのかもしれない。俺はあいつにお前が取られるのを恐れている。・・・そうだ、嫉妬だ」
凍りついたように瞬きもしない瞳に、土方が苦く笑いかけた。
「嫌な人間だ」
赤裸々に心の裡を吐露した言葉の最後に含むのは、自嘲を疾うに超えた己への疎ましさだった。

―――耳に聞える声は、本当に今強く抱いてくれている腕(かいな)の持ち主のものなのだろうか。
総司にはそれこそが、信ずるに値しない。
だが自分を映す眸にある、苦悶の色はどうしてなのだろう・・・
見つめていれば、心の臓を鷲掴みにされたような痛みが胸に走る。
息苦しいまでに切ないこれが現のものでなくて、一体何だというのだろう。
土方を苦しめるもの、哀しませるもの、その全てを自分は許せない。
取り去らなければと叫んだ心が選び取ったのは、言葉ではなかった。


身じろぐと云うのでは及ばない激しい動きに、拘束する力が緩んだその隙から伸びた細い腕が、渾身の力で首筋に巻きつき、ひんやりとした感触が土方の唇に触れた。
総司が唇を重ねたのだと分かった瞬間、一度は驚きに思考を奪われた土方だったが、瞬く間にそれは、獰猛ともつかぬ荒々しい悦びに変わった。
唇を、唇で塞ぐだけの想い人の拙い抱擁は、土方を再び情欲の業火の中に突き堕とすに十分過ぎた。
この愛しい者を慈しんでやりたいと、そう願ったのはつい先程のことだ。
だがもう猛り狂う自分を、土方は止められない。
人を想うとは―――
時に全てを排して、相手を欲するだけに動き出す心と肉体そのものなのかもしれない。
だがそんな事を思ったのも一時の事で、昂ぶりは、想い人の内に秘める熱を性急に求め始めた。

拒む身体に無理を承知で分け入ったとき、眉根を寄せ、きつく唇をかみ締め苦痛を堪える総司の眦から、やはりひと雫零れ落ちるものがあった。
尾を引くようにこめかみを伝わり、枕に染み込むそれを見てふと我に立ち返り、痛々しさに一瞬止めてしまった動きに、硬く閉じられていた瞼が細く開けられた。
「辛くは無いか?」
今宵二度目の労わりに、濡れた瞳の主が微かに首を振って否と告げた。
言葉の代わりのように、背に立てられた総司の指が、もっと貪欲にもっと深く自分を奪えと、動かぬ土方を責め、折れんばかりに強く食い込む。
その激しさに呑まれ堕ちるのを感じながら、土方は更に己を刻み込み、薄い胸に微かに隆起する彩に舌を這わせると、組み伏した下で総司の上半身が弓なりに撓った。
官能の火種を孕んだ身体は、少しずつ硬い強張りを解き、緩やかに侵入者の存在を許して行く。
やがて苦しい時をやり過ごす為だけに忙しなく吐かれていた息の中に、声とは云えぬまでも、それとは明らかに異質な、儚い甘美な響きが混じるようになったのを、土方は聞き逃さなかった。

苛まれていた苦痛が、いつのまにか脈打つ度に脳髄までをも痺れさせ、総司を惑溺の淵へと浚う。
土方の熱で包み込まれ、我が身の熱を土方に分かち、次第に追い上げられてゆく身体はもう昂ぶりを隠す事が出来ず、足の先までを朱に染め上げられた身を捩った時・・・
「声を聞きたい・・」
土方の声が聞こえた。
「・・聞きたい、総司」
朧に霞み行く意識を必死に手繰り寄せて首を振り抗うと、今度は耳朶に触れんばかりの近さでそれは繰り返される。
「何故拒む?」
今一度、優しい声音は残酷にいらえを求める。
時に遅れて、時に荒々しく、内に潜んだ土方は、総司を己の意図するままに翻弄する。
もう欲望のままに走り出そうとする身体を抑する事すら出来ない。
そんな自分を知られる羞恥に、強く瞳を瞑り、ただひたすらに総司は首を振る。
「どうして聞かせてはくれない?」
言葉でつれない仕打ちを責め、動きを忘れたように緩慢に、しかし確かに己の存在を誇示しながら、土方は総司を追い詰める。

これほどまでに愛しい者を絡め取りながら、強いられる辛抱の時は、あまりに苦しく堪えがたい。
だがそれらを超えても尚、聞きたいものがある。
呆れる程の忍耐を己に強いている自分を、まだ土方は嘲る事が出来ない。
自分が与える熱で迸る想い人の悦びの証を、どうしても聞きたい。
今も先も、そして戻れぬ過去ですら、総司の全てを占めるものは自分でなくてはならない。
その護符のように、自分を欲する言葉が総司の唇から放たれるのを、土方は執拗に求めていた。

うっすらと開かれた瞳の奥に、恍惚にも似た鈍い光が見え隠れするのは、現と夢寐の狭間を彷徨うようになった証だろうか・・・
唇を、己のそれで覆うと、そうされるのを求めていたかのように、総司があるだけの力でしがみついてきた。
貪欲に口腔を弄りながらも、追い詰める手を土方は止めない。
吐けぬ息の苦しさに眉根を寄せるのを見届け漸く唇を離すや否や、今度は穿つように深く己を受け容れさせた。
更に分け入れられる衝撃に、掠れた細い声が零れ落ちる。
出口を塞がれたまま身体に籠もってしまった熱は、これが切欠のように官能の余波をもう隠す事無く総司の唇から解き放つ。
瞳に映るものは脳裏にまで届かず、宙に浮いた下肢が舞い、ただ揺らされるままやがて高みに昇りつき、際を越えた唇から迸った、悲鳴にも似た短い叫びが闇を裂いた刹那、土方の昂ぶりが共に弾けた。

意識は遠く離れてしまったのか・・・
全ての力を無防備に抜き、ゆっくりと堕ちてくる身体の頼りない重みを、土方は両の腕(かいな)で静かに受け止めた。



瞼を閉じた頬には、微かに上気する色が残る。
想い人はまだ夢寐にいるのだろうか。
額に乱れた髪を指に絡めて掬い、そのまま浮く汗を拭ってやっても、瞳は開かれ無い。

間際に、総司は自分を求めて呼んだ。
頤を仰け反らせ唇から迸ったのは、自分を求め欲する声だった。

愛しいと、たった一言で仕舞にしてしまえる程、この想いは容易いものではない。
離れるなと、そんな言葉で懇願すれば拭い去られてしまうほど、抱える恐怖は生易しいものではない。
できるのならば、総司の記憶にある風景の全てを、自分だけのものに置き換えてしまいたい。
唇から紡がれるものは、自分の名だけでいい。
瞳が映し出すものは、自分の姿だけでいい。
もしも誰かが総司の心をさらうと言うのなら、自分はこの細い喉首に己の手を絡め、骨を砕いて息の緒を止めてしまうだろう。
寸分の違いも無く、そうするだろう。
躊躇いも無く、慄きも無く、何も迷わずそうするだろう。
―――夜叉は
自分以外の何ものでもない。
だが身が滅びても尚、総司を己のものにして置けるのならば、異形のものに成り果てる事など些かも厭うものではない。

今己の腕にある確かな温もりを求めて、土方は更に肌を重ねる。
ふたつの鼓動が、ゆっくりと和して刻み始める。
自分たちは、別つ身でひとつの魂を持つためにこの世にあるのだと・・・
そう伝えたい。


「・・・総司」
唯一な者の耳朶に触れ、土方が囁いた。








                                 花 鏡   了





                きりリクの部屋