春  雷  (参)





もしかしたら自分は此処で死んでしまうのかもしれない。

微かに戻る意識は総司にぼんやりとそんなことを考えさせる。
今が昼なのか、夜なのか、一体自分はどれ程の時をここで過ごしているのか、それすらも考えることができない。
もう脚も腕も痛みを感じない。
苦痛を感じる知覚はとうに失われているのかもしれない。
今はただ高い熱にうなされて、苦しい呼吸だけがすべてを支配している。
時折うっすらと瞳を開ければ、そこに必ず自分を心配気に覗きこむ人の影があった。
だがそれは求めている土方のものではない。
目覚めてその姿を探し、求められずに失望のうちにまた深い闇の淵に浚われてゆく。
その繰り返しだった。


「水が欲しいのか?」

吉住の耳元で囁く声でいま少し意識がはっきりとした。
確かに口の中も喉も酷く渇いている。
それでも頷くことすら今は大儀だった。
自分の身体を苛むすべての苦痛をやりすごすために瞳を閉じた時に、唇に何かが触れた。
それが吉住の唇と気が付いた時には、冷たい水が流し込まれた。
口移しで水を与えられたのだ。
これで息絶えても良いと思う力の限りで覆いかぶさっている吉住の胸を押し返そうとした刹那、右手首に息が止まる程の痛みが走った。

「無理はするな。折れてはいない筈だが、ひび位は入っているかもしれん・・・足の方は可哀想だが折れているだろう。だがそうしなければ兵馬はひとりでどこかに行ってしまう」
漸く総司の唇を離して、吉住が笑った。

「右の手が利かねば俺がお前の手になってやる。歩くことが叶わなければ俺がお前の脚になって昔のように背に負ってやる。安心するがいい」

満足げな笑みを自分に向けて浮かべる吉住に、総司の中で激しい怒りが弾けた。

「貴方の言いなりなどなりはしない」
激痛と高熱に苛まれふらつく身体を起したが、それは吉住の腕で難なく遮られた。

「この唇がそのような憎くい言葉を言わせるのか」
頤(おとがいに)手を掛け、無理やり顔を自分に向けさせ、抗い背けようとするのを許さず、再び吉住は総司に覆いかぶさり唇を塞いだ。
吉住のそれは堅く拒む唇を割り、更に奥深く犯そうとする。
その一瞬、総司は目を瞑り思い切り侵入者の舌先を噛んだ。


「・・・っ」

吉住の顔が歪められ、思わず離した唇から朱い血が滲んで滴った。
総司は両肘を立てて、漸くそれで支えるように身体を起し、荒い息を繰り返して吉住を睨みつけている。


「兵馬・・・」

吉住の眸が淀んだ光を放った。
肘だけを動かし、上半身を後ずさりさせるようにして逃れるより早く、吉住の腕が総司の肩を掴んで頬を張った。

瞬間意識は遠くに飛び、身体は夜具を大きく離れて畳の上に放り出された。
衝撃から立ち直る間もなく、朦朧とした頭のまま束ねて結い上げていた髪を鷲掴みにされて仰け反らされた。

「兵馬、何故俺を怒らせるっ」

元結が外れ、髻(もとどり)も切れて艶のある総司の黒髪が肩から背に滑った。
その髪を己の手指で更に掴みなおすと、吉住は半ば意識の無い顔を今一度自分に向かせた。
己が手折ろうとした右の手首を持ち上げると、五本の華奢な指先が散る間際の桜花のように力なく開いている。
が、握った手は驚く程熱い。
真中の指の白い皮膚にほんの微かに残る噛み傷は、紛れも無く自分以外の誰かと睦いだ時にできたものだ。

「・・・兵馬は嘘ばかりを俺についている」
薄い傷跡に視線を縫いとめたまま独り呟く吉住の声は、むしろ哀しい響をもって闇に消えた。
総司の全てが確かに自分の腕にあるのを確かめるように、指のひとつひとつに唇を寄せると、身じろぎしなくなった身体を静かに夜具の上に戻した。

そっと総司の唇に頬を寄せると、息はすでに絶えそうに微弱なものになっていた。
顔の色は血が通わぬと思える程に蒼白なのに、額にあてた掌からは尋常でない熱さが伝わる。
見れば左の足首は右のそれの倍程も腫れあがり、袖を捲れば掴んだままの右の手首は肘の上までも足と同じように腫れが来ている。

「兵馬、・・・兵馬・・・」
いくら呼びかけても応えは無い。


「・・・病だったのだ・・兵馬は」

それは突然呼び戻された記憶だった。
吉住の内で、この者が田坂の患者であることが思い起こされた。
狂気を彷徨う狭間で一時戻った吉住の正気だった。
が、自分の前で横たわる若者が杉浦兵馬ではなく、沖田総司であるという認識までには到達しない。
二つの世界のひとつにあって、ふいに忘れかけていたもうひとつの世界に記憶が戻る。
それは心を現(うつつ)から離してしまった人間には良くある現象だった。



総司の呼吸は弱々しいながらも時折酷く乱れる。

「兵馬が死んでしまう・・・」
恐怖が吉住を捉えた。

「兵馬、兵馬、しっかりしろ。死ぬな。俺を置いて死ぬな・・」
必死に語りかけても総司の瞳は閉じられたまま微かにも動かない。


「・・・医者を・・・いや、俊介は駄目だ。あいつに知られればまた兵馬が連れ去られてしまう・・」
混濁した記憶は更に吉住の判断を迷わせる。

「兵馬、まっていろ。薬を買ってきてやる。必ずお前を助けてやる。死なせなどしない・・・」
汗で額に絡みつくようにはりついた総司の前髪を掻き揚げると、流れる黒髪を指で梳いた。

「今度こそ助けてやる・・・俺の命に代えても、きっと助けてやる。二度と死なせはしない」
それだけを聞こえぬ総司の耳元で囁くと、吉住は立ち上がった。








朗報は総司の行方が分からなくなり、眠れぬ夜を三度迎えようとした雨の日の夕刻に伝吉からもたらされた。
山崎に連れられて副長室にやってきた伝吉は決して室の中には入ろうとせず、いつものとおり廊下の板張りにきっちりと膝を付く形で土方に調べた限りを伝えた。


「それは本当に吉住に間違いは無いのか」
土方の性急な問いに伝吉は鋭い眼差しを逸らさずに無言で頷いた。

「年恰好、背格好、間違いは無いと思われます」
伝吉の代わりに応えたのは山崎だった。

「・・・ただ薬種問屋で姿を見たと言うのが気になります」

薬種問屋に居たという吉住のことを聞いて、土方はすぐに総司の胸の病を思ったはずだ。
その土方の心を思えばそれを言うか言うまいか迷いはしたが、山崎は敢えて言葉に出した。
土方は何かを考えるように宙を睨んでいる。
その姿には他人が声を掛けるのを躊躇させる厳しさがあった。


「土方先生、一刻の猶予もなりません」

山崎の言葉は土方に確かに届いた筈だ。だが土方は動かない。
「土方先生、沖田さんは・・・」

「分かっているっ」
まるで獣の咆哮を無理矢理殺したような、土方の唸り声だった。






結局今日も何の手がかりも得ることができなかった絶望感と焦燥が、田坂の全てを支配していた。
春にありがちな煙るような雨は昨日から降り始めて、少しも止む気配が無い。
加茂川に掛かる五条の橋の欄干に手を掛けて、もう片方の手に持って差していた傘を下に落とした。
まだ季節の変わりきらぬこの氷雨に、今は全身を浸してみたい誘惑に駆られた。



「また酔狂なことをなさる」
笑いを含んだ声は斜め後ろから突然に掛かった。
振り返るのも億劫に思ったが、その声には確かに聞き覚えがあった。

「小川屋さんか・・」
「これはとんだご挨拶で」
薬種問屋の主、小川屋左衛門は慇懃に頭を下げた。

「田坂先生が珍しいことをなさっていると暫く遠目で見ておりました」
「人の悪いことを」
「めったに見られぬ風景ゆえ、つい・・・ご無礼を致しました」
苦笑した田坂に小川屋はふくよかな相好を崩した。



小川屋は田坂が薬種を仕入れる唯一の問屋だった。
探している薬種が無ければ必ずどこかで調達してきてくれた。
きっと高価なものに違いない薬の根を、それが貧しい者達を救うと知って、採算のとれないであろう安価で譲ってくれる。
頭を下げる田坂に、商人をしていればいつか罰があたることも平気でする、だからこうしてたまには人の役に立つことで神仏に詫びをするのだといつも笑って応えた。
思えば豪気な気風の持ち主なのだろう。


「それはそうと、先日田坂先生の所にいらしたお武家様。お名前を忘れてしまいましたが・・・確か膳所藩のお方だとか」
小川屋は京都の膳所藩邸にも薬種を納めている。
その関係で田坂の養父の代から使っている問屋だった。
小川屋は名前を思い出そうと思案しているようだったが、田坂はいち早くその言葉に反応した。

「吉住のことかっ」
胸倉を掴みかねる勢いに、小川屋が驚いて田坂を見上げた。

「吉住さま・・・ああ、そうでした。確かそのようなお名前で、膳所のご藩邸でもお姿を一度お見かけしたことがありました」
「小川屋さん、吉住がどうした」
今度は小川屋が驚く番だった。こんなに必死の形相の田坂をかつて見た事が無い。

「その吉住様が昨日私どもの店に参られたのでございますよ」
小川屋は田坂の取り乱しようから、何か一方ならぬ事情のあるものと瞬時に察した。
「昨日のいつごろ・・・吉住は何のために」
「昨日の・・・もう店の暖簾を仕舞うころでした。来られたのは薬を買い求められる為で、熱さましの薬と、腫れに効く薬はないかと・・・」
「腫れに?」
「どなたか家人が怪我をなさったと仰っていましたが」
「小川屋、吉住の居るところは分からぬか」
今自分が小川屋の両の肩を掴んで揺すっていることすら、田坂は気付いていない。
「・・・そこまでは」
「小川屋・・・頼む。思い出してくれ。どんな些細なことでもいい」

「大事な事なのでございますね」
「今は何を退けても」

田坂の食い入るような眼差しに射抜かれて、小川屋は先ほどよりも必死にその時の情景を思い起こそうとした。


「・・・いらした時にはすでに暖簾を仕舞おうとしていた時刻で・・そうそう、お帰りになるときは雨が降り始めました。それで傘をお貸ししましょうかと申しましたら、濡れる程の距離ではないから要らぬと仰いました」
「それではこの近くか・・・」
小川屋は今いる加茂川にかかる五条の橋を渡るとすぐの、一町ほど西に行った通りに沿って店を構えている。

「・・・・そう言えばもうひとつ」
「他に何か言っていたのか」
「私どもの店(たな)の前の屋敷に桜の木があるのを覚えていらっしゃいますか」
「知っている」

それは見事なしだれ桜の大木で、季節になると板塀を越して往来にまでたわわに花を付けた枝をしならせる。

「今宵雨が降ればあれがすっかり花を落とすだろうと、ずいぶんと残念そうでした。その時に、ご自分の家の庭にある桜も行儀悪く外に枝を垂らしているが、それを愛でてくれる人もいるのだろうかと・・・ずいぶんと風流なことを言われたのを思い出しました」
「小川屋、礼を言う」

短い言葉の最後を小川屋が聞いたときには、田坂の背は雨の中に小さくなっていった。







息苦しさに吐息をひとつ漏らすと、ひんやりと何かが額にのせられた。

「兵馬・・まだ苦しいか」
霞む視界が吉住の姿を映した。
右手は痺れるようにじんじんと熱をそこから身体中に送るだけで、動かすことも敵わない。
少しでも身体の向きを変えようとすれば、左の足首と右の手首から折檻のように激痛が走る。


「熱を冷ます薬を買ってきた。さあ、飲むのだ」
首の下に腕を差し込まれて少しだけ起こされた頭を抱えるようにして、吉住が枕盆にあった湯呑みをとってひと口含むと総司の唇に重ねた。
液体は吐き出してしまいたいほど苦いものだったが、乾ききった口や喉にはそれすらも潤いになるのか、流し込まれるままに身体は抗わなかった。


「お前が一度死んでしまった時に、俺はその亡骸を抱きしめた。裁たれた身体も頭も一緒に・・・。
俺はやっとお前を自分のものにできるのだと、これで俊介の処に行ってしまうことはないのだと、・・・お前が死んで初めて俺のものになったのだと、そう安堵した。
だが、いくら呼びかけてもお前は応えを返さない。瞳をひらいて俺を映さない。お前は亡骸だけを俺に寄越して俊介の元に行ってしまったのだ。
死んでしまえばまたお前は俊介の処にもどって行く。そんなことは許さぬ。
それでも兵馬は生き返った。そしてもう動けぬ。これからは俺の腕の中にずっとこうしているのだ」


総司は物言わず黙ったまま、恍惚にも似た眸で自分を見つめる吉住を凝視している。



自分を抱きながら土方は言っていた。
自分が土方の腕をすり抜けて言ってしまうような不安に勝つには、いっそ息を止めてその亡骸を腕にしていれば安堵できるのではないかと思う時があると・・・
その時に、自分は土方に縋りついて決して離れはしないと誓った。

だがもしかしたら、いつか土方が離れて行くのを恐れて、その生を共に絶ってしまいたいと願っているのは自分の方なのかもしれない。
否、きっとそうなのだ。


吉住は確かに狂っている。
だが吉住と透けるほどにぎりぎりの薄い紙一重で、自分の正気は保たれているのだ。
次の瞬間に狂うのは自分なのかもしれない。

吉住の愛しい者を包み込むような眼差しを受けながら、総司は瞼を閉じた。
それが狂気でも、心のままに行動する吉住は、心の鏡に映した己の姿だった。








探し当てた家はひっそりと静まり返っていた。
黒い板塀を超えて枝垂れる桜の花弁はもうすべて雨に散っている。

田坂はひとつ深く息を吸った。
門には内からしっかりと閂(かんぬき)がかかっている。
案内を乞うつもりは初めからなかった。そんなことをすれば吉住を逃すだけの結果に終わる。
この板塀を乗り越えてゆくしかなかろうと思案しているところに、人の気配を感じて咄嗟に身構えて振り向いた。



偶然というよりはそこに居るのが必然のように、土方がいた。

「貴方も見つけたか」
「やっと見つけた」

田坂の言葉に、雨の中やはり同じように傘も差さずに濡れたまま応えた土方の顔が、これから見なければならぬかもしれない最悪の修羅を予想して、壮絶なまでの緊張の中にあった。


土方は新撰組探索方の情報収集力の限りを尽くして、今目の前にある吉住の屋敷を突き止めた。
三日眠れぬ夜を過ごした頬は少し肉が削げて翳ができている。
それが土方の端正な顔の造作を凄みのあるものにしている。


土方は今、顔に滴る雨露を拭おうともせずに立っている。

総司が生きていることは信じて疑わない。
だがもしその瞳がもう二度と自分を映さぬように開かないとしたら・・・・
多分これから追い詰める吉住という狂人に、その時の自分はなるのだろう。
が、一瞬でも思ったその思考を、すぐに土方は固く目を瞑って打ち捨てた。

生きていることだけを信じていなければ、今己が立っているこの地すら脆く崩れ落ちてゆきそうだった。



「塀を乗り越えて行く他ない」
「先にゆく」

田坂に応えた時には土方の腕は真っ直ぐに伸ばされ、塀を越して伸びる桜の枝を力強く掴んでいた。





「兵馬、汗を拭いてやろう。あとで新しく夜着も替えてやる。手も足も動かぬのだ。これからは俺がすべてやってやる」
吉住の手が胸の袷を肌蹴させようとしたとき、渾身の力で身体を捩ってそれを拒んだ。
途端に走った焼付くような痛みに思わず呻き声が零れたが、それを必死に噛み殺し、尚吉住から逃れようとした。

「兵馬っ」

吉住の怒声が飛び、胸倉を掴まれた勢いのまま身体を起こされ、何を感ずる間もなく激しく頬を張られた。
叩きつけられるように夜具の上に身体が飛んだ。
朦朧とした意識の中で、唇の端から生暖かいものが流れるのが分かった。
口の中を切ったのだろう・・・・こんな状況でそう判断できる自分の冷静さが不思議だった。


「何故俺を嫌う。兵馬、応えろ、兵馬っ」

痛めつけた右の手首を千切れろと言わんばかりに力を込めて握り、蝋のように蒼白な顔の唇に血を滲ませ瞳を閉じかけている総司の肩を、もう片方の己の手でつかんで揺すり、吉住は応えを求め続ける。


不思議な程に総司はもうどこにも痛みを感じなかった。
視界が薄暗くなってゆくなかで、多分自分は死ぬのだと思った。

「・・ひじか・・た・・」

すべてが闇に呑まれてしまうまえに、どうしてもその名を呼びたかった。
それがこの世に止(とど)まるための唯一の糸のように、言葉にならぬとも唇はその名を形作り続けた。

吉住の声が段々遠くに聞こえてゆく。


全ての意識を手放す寸座、ふいに強く戒められていた力から解放され、支えをなくした身体はそのまま崩れ折れた。

まだ微かに視界に入るものの貌(かたち)を結ぶ瞳が、吉住の背中を映した。
それがひどく緊張している。
そう思ったのは総司の中にある剣士としての研ぎ澄まされた勘だった。


「俊介が来た」

振り返ってそう告げた吉住の顔は強張ってはいたが、どこかそれを待っていたような満足げな笑みを浮かべていた。

「俊介に教えてやるのだ。お前は俺のものなのだと。兵馬の元に先に行くのは俺なのだと」

吉住の眸には先ほどまでの暗い狂気の色はない。
むしろ淀んで流れていた濁流が、やがて淵に止められ深く澄むかのような静けさがあった。


吉住は正気なのかもしれない・・・

一瞬懐疑したその思いを確かめる間もなく、総司は今度こそ闇に呑まれた。







いくつもの襖を開け放って辿りついた、陽の全く入らぬように設(しつら)えられた一番奥の座敷の中央に、探し続けていた想い人はすでにこの世に生きてあるのではないのかと、土方の心の臓に戦慄の刃を突きつけるように、微動だにせずその身体を横たえていた。

名を呼ぶのすらもどかしく、縺(もつ)れる足で走りよって唇に己の頬をあてて、微かに繰り返される息吹を感じた時、土方の体にあった全ての力が抜け、弛緩した神経は眦から熱いものを零れさせた。


「・・・総司」

瞳を開かぬ想い人の頬に落ちた雫の一粒で、自分が涙を流しているのだと土方は知った。







土方と手分けして総司を探し続けた田坂の、最後に開けた襖の室の中央に、吉住新三郎は右手に握った抜き身の脇差をだらりと下げて立っていた。


「来たか、俊介」
吉住の声は低く静かだった。それは狂人のそれではなかった。

「沖田君をどうした」
「帰してほしいのか」
「帰さぬというのならば斬る」
「残念だがお前に斬られる訳にはゆかぬ」
吉住の顔に薄い笑みが浮かんだ。

「俺は兵馬をお前になどやらん」
「兄はお前が殺した」
「そうだ。俺が殺した。どんなに俺が心寄せても兵馬はお前だけを想っていた。だから俺が殺した。兵馬の屍を抱いて俺は死ぬつもりだった。だがあの日、兵馬の亡骸を抱いて語りかけてもあいつは返事をしなかった。首も体も一緒に抱いたのに、あいつは瞳も開けようとしなかった。俺はその時兵馬がお前の元に行ったのだと知った。あいつはそれ程俺が憎かったのか・・・」

吉住の心は狂気と正気の狭間を彷徨い、そのどちらともつかずに今ある。


「だがな、俊介。俺はお前にこれだけを教えてやる為に今まで生きてきた。俺はお前になど兵馬をやらん。先に兵馬の元に行き捉えるのは俺だ」



それはほんの一瞬の出来事だった。
吉住の右手にあった脇差が逆手に持ち帰られ、膝を折ると両の手でその腹に突き立てられた。


「寄るなっ、貴様の介錯などいらん」

咄嗟に駆け寄ろうとした田坂を憤怒の形(ぎょう)で一喝すると、真一文字に捌いた腹からやおら脇差を抜き取りそのまま心の臓に突きたてた。

呻き声ひとつ漏らさず暫くそのままの姿勢で止まっていた体は、やがてゆっくりと前のめりに倒れた。
その始終を田坂はひとつも見逃さまいと、息を殺して凝視していた。



暫しそのまま立ち尽くしていたが、血に汚れるのも厭わず、すでにこの世の者ではない吉住に近づくと田坂はそこに膝を折り、眸を見開たまま息しない男の目に己の手を翳すと静かに瞼を閉じさせた。


「・・・一緒だろう、あの世でもこの世でも。人を想う限り修羅の中にあるというのは」

絶えて応えることのない男に語りかけながら、だが田坂はあるいは自分こそが次の日の狂い人ではないのかと思った。

目を閉じた吉住は今穏やかに眠るように見える。
否、それはそうあって欲しいと願う自分の心が見せる幻影なのかもしれない。




遠くで春雷の鳴る音がした。









「思ったより右手は早く治りそうだな」
言いながら田坂は総司の右の腕に巻いていた晒しの端を止めた。
「こんな怪我、江戸に居た頃は道場で毎日のようにしていた」
患部を固定するために厚く巻かれた白い晒しは痛々しいが、総司の笑い顔に翳は無い。
それが田坂の心を軽くする。

「だが足はもう少しかかるだろう。骨が折れている。手首の方も折れてはいなかったがやはり骨までやられている」
「昔ならひびが入った位では稽古は休めなかった」
その頃を思い出したように、総司が懐かしそうに目を細めた。

海に凪ぐような穏やかな温(ぬる)い春の風が、時折室の中に遊ぶように入り込む。



「すまなかった」

そんな総司の様子を静かな双眸で見ていた田坂が、突然頭をさげた。
総司は訳が分からず、戸惑うように瞳を瞠って床の中から田坂を見上げた。


「田坂さん・・・何故謝るのか分からない」
「俺の勝手な事情に君を巻き込んでしまった上に、こんな目にまで会わせてしまった」
「田坂さんには関係がない。むしろその逆です。自分の油断で田坂さんに迷惑をかけてしまいました。・・・言葉で詫びて済むものではありません」

総司の瞳が田坂を映して苦しげに揺れた。
田坂は確かに自分が吉住と接触することを警戒してくれていた。それを感じながらうかうかと吉住に付いて行った挙句に拉致されてしまった。
田坂を触れられたくはないだろう昔に戻してしまった己の軽率さを、総司は悔やんでも悔やみきれなかった。


「ただあの人・・・。正気だったのかもしれない」
それは自分でも知らずに零れ落ちた、ふいに胸を過ぎった思いだった。

自分の最後の記憶の中にある吉住の言葉は、兵馬の元にゆくと言っていた。
吉住は田坂の兄はすでに死んで、自分が兵馬ではない人間であることを、あの時すでに分かっていたのではないのか。
自分の想い人を死にやった自責の念に耐え切れない吉住の心はこの世で狂気に逃れ、己の死によってやっと正気に戻ろうとしたのかもしれない。
だとしたら、その魂はあまりにも哀しい。



「そうだったのかもしれないな」
半ば予期した応えが、少し間を置いて田坂から返ってきた。

「正気と狂気の境というのは、どこにあるのだろうな・・・」
ふと目を外して呟いた田坂の視線が捉える先がどこなのか、それを総司は問おうとは思わなかった。


狂気は正しく紙一重の差で自分の内にある。
土方とこの世で別れねばならぬ日が来たときに、きっと自分は土方の手に縋り共に連れ行きたいと願うだろう。
たとえ土方が冷たい骸であってもいい。
その腕の中に、いつの時も一瞬の間も離れずにありたい。
そんなことを思う自分こそ、すでに狂気の中にあるのかもしれない。



「俺も狂人なのだろうな」
田坂が声に自嘲を含んで低く笑った。

「どうして・・そんなこと」
思いもよらない言葉に、総司は暫し逸らしていた瞳を上げて田坂を見た。

「いや、他意はない。人の心の奥には常にそれと違わぬものがあると思っただけだ」

不安そうに見る総司を穏やかに見下ろしながら、田坂は吉住の最後の時を思い出していた。



自分が腹に脇差しを突き立てた吉住に走りよろうとしたのは、介錯によってその苦痛から解放してやるためではなかった。
それは憎悪という感情がそうさせた、自分でも予期せぬ本能の行動だった。
自分は吉住を殺す為に、その最後の息を止める為に、走り出そうとした。
思えばあの時、自分は狂っていたのかもしれない。





入り込む陽射しが新しい季節に向かって勢いを増して力強い。

それを眩しいと目を細めたときに、遠くでこちらに向かってくる足音が聞こえた。
それが誰のものかすぐに分かったのか、総司が不自由な体を動かして音のする方を向こうとした。



「土方さん、相変わらず忙しそうだな」
「土方さんが暇だと皆が困る」
総司が可笑しそうに笑った。


慌しい足音がふいに止まった。誰かに呼び止められたのだろう。

想い人の足音がまた聞こえ始めるのを、総司は視線を廊下の向こうに移してじっと待っている。
黒曜石に似た深い色の瞳は瞬きもしない。




あの時、確かにもうひとり自分以外に狂い人が居た。


血だまりに崩れた吉住を一瞥しただけで、土方はすぐに踵を返した。
腕に抱く総司だけが唯一存在するものかのように、振り向きもしなかった。

だが生なき吉住に一瞬投げかけた土方の眸にあった、凍るような冷ややかな色を田坂は忘れられない。
それは憤りも憎いもそういう人の感情を遥かに超えて、ただ無機質に向けられたものだった。
もしも吉住に息があれば、土方は何のためらいも無く瞬時にそれを止めただろう。
吉住を見た土方はすでに人ではなかった。


死んで吉住は正気の人となり、生きて自分も土方も狂気の人となった。
それを不思議なものだと思うのは、まだこの世に囚われの身の哀れさなのかもしれない。





そんな思考を遮るように、また足音が聞こえ始めた。
それは今度こそ確かにこちらに向かって歩みを止めない。



身じろぎせぬ総司の瞳の見つめる先を追いながら、ふとやった視線の先に、春も名残のうららかな陽の光が縁の敷板を明るく覆っていた。





                                  


                                           了







     
           

                  きりリクの部屋       春雷 2002.8.24