総ちゃんのシアワセ 
            一さんのシアワセなキブン♪なの(むすび)




「長引いて、すまなかった。使ってくれ」
一さんは、まるでそれが最初からの約束ごとであったかのように、淡々と永倉さんに告げました。
「かまやしねぇよ、俺達も今巡察から戻ったばかりだ。一息入れて稽古にするから、まだ使っていてくれ」
「いや、もういい」
永倉さんの、遠慮と云う名の押し付けを即座に却下すると、一さんは、三番隊の隊士さん達に引き上げるよう目配せしました。
その途端、この状況からの解放を安堵する息が、道場の冷たい空気を大きく揺るがせました。

「わしの話は途中だが・・?」
「残りは二番隊が、聞くそうです」
「ひとつの隊ごとに、全部聞かせたいのだが」
「古来より、偉人の話は語り継がれるものです。何処で切り、何処で継いでも、局長の話が仕舞いになると云う事はありません」
蒙りかけた迷惑を、きっちり他人へ流した一さんの、物も云い様の説得に、流された永倉さんがあんぐりと口を開けた、と、その時。
「一さん、あのね」
怪しくなった雲行きなど何処吹く風のように、総ちゃんが一さんを見上げました。
そしてやおら床に座り込むと、くだんの文箱を膝の前に置き
「皆に、これをあげたいのです・・」
と、嬉しそうに語りながら、蓋に仰々しく掛かっていた紅白の紐を引き始めたのでした。
其れを見ながら、腹に期するものがある永倉さんと島田さんは、ごくりと生唾を呑み、そして一さんは、これから自分が巻き込まれざるを得ないだろう厄介を思い、胸の裡で深い息をつきました。

見守る人々のそんな思惑を他所に、あまり器用とは云えない手つきながらも、丁寧に結び目を解いた指が、厳かに蓋を開けると其処には・・・

――漆の箱に入っていたのは、細長く切った数多(あまた)の和紙に書かれた俳句。
そしてその末尾には、墨跡も鮮やかに豊玉のふた文字。

その寸座、総ちゃんの唇から感嘆ともつかぬ息が漏れ、覗き込んでいた永倉さんと島田さんは訝しげに眉根を寄せ、更にその後に控えていた一さんは、動くに動けず立ち尽していた三番隊の面々に、早急にこの場を去るよう、もう一度、目だけで指示したのでした。

「あっ・・、あのっ・・」
ところが、幾らうっとりと夢うつつに浸っていようと、大勢が一斉に動けば流石に気配位は感じるもの。
まるで咎を受けた罪人のごとく、そっと道場を後にしようとしていた三番隊の隊士さん達に、総ちゃんの哀しげな瞳が向けられました。
「あのっ・・」
「案ずるな、俺がまとめて貰ってやる」
去り行こうとする者達を止めようと、思わず立ち上がりかけた総ちゃんでしたが、その薄っぺらな肩に手を置き、それ以上の動きを制したのは一さんでした。
「でも、皆にシアワセになって欲しいのですっ・・」
あっと云う間に小さくなって行く大勢の背を、焦るように視線で追いながら、総ちゃんは必死に訴えます。
ですが一さんは、今度は両の手で総ちゃんの肩を押さえると、落ち着けと云わんばかりに、再び床に座らせました。
そうして。
「欲をかくな。取りあえず、其処の二人は、その紙切れを欲しがっているぞ」
と、云い置くや、おもむろに後ろを振り向き、顎をしゃくったのです。
そしてそれに促された総ちゃんが、深い色の瞳を向けると、確かに其処には、逃げる機会を逸し、憮然と立ち尽くしている永倉さんと、最早此処に己の命運も尽きたとばかりに、苦渋に満ちた面持ちの、島田さんの姿がありました。
「全部、お前が写したのか?」
更に一さんは、箱の中に視線を投げ、暫く其れを見ていましたが、やがて顔を上げると、胡乱げに問い質しました。
「近藤先生と、ふたりで書いたのです」
「何しろ隊士全員の分を書いたから、畳に広げて墨を乾かすだけでも大変だった。が、これも修行と思えば、越える山は高い程いい」
嬉しげに応える総ちゃんの横で、近藤先生も、腕が痺れんばかりに痛くなった苦労の時を思い起こし、強く云い切る声は、ひとつ試練を乗り越えた者の自信に満ち溢れていました。

と、その時。
「だが・・」
漸く、平常心を取り戻した永倉さんが、重々しく声を発しました。
「土方さんの句を持つと、何だって幸せになるんだ?」
「あのね・・」
胡散臭さと不可思議が交差する視線も何のその、総ちゃんは弾むように語り出しました。
「土方さんの句は、とても奥が深いのです。だから仕事で疲れても、この句を見ていれば、神さまや仏さまに手を合わせるような気持ちになって、きっとみんな、心が穏やかになると思うのです」
胸に、いとおしげに紙の束を抱き、心底シアワセそうに笑いかける総ちゃんに、永倉さんは、何をどう伝えようが、今は全てが藪蛇に転じかねないと悟るや、行き場を失くした視線を、傍らの島田さんに向けました。
その島田さんは、受けた視線を順繰りに、一さんへと流しました。
そして一さんは・・・
句を凝視していた其れを総ちゃんへ送るや、ゆっくりと口を開きました。
「奥が深いと云うのは、この句が面白いからか?」
「おお、よくぞ気付いてくれた、斉藤君。斬り捨てさんは、殴られても文句のひとつも云わぬ、剛毅な神さまだった。しかもそれだけでは無く、人々の心に希望を与え癒し和ませた、慈悲深い神さまでもあったそうだ。そこでわしも色々と考え、やはり人を和ますには、まず笑いではなかろうかと思い至ったのだ。笑う角には福が来る。歳の句は、そう云う意味では右に出るものは無いっ」
満足そうに語る近藤先生でしたが、傍らの総ちゃんには、どうやらその声も届いていないらしく、白い頬をほんのり朱に染め、うっとりと句を見詰める潤んだ瞳が、既に魂は、自分だけの世界に飛んでいってしまった事を、ありありと物語っていました。
「そうだろう?総司」
己の説に同意を求め覗き込む近藤先生に、総ちゃんはこくこくと頷きますが、深い色の瞳が一瞬たりとも俳句から離れる事は無く、その返事がうわの空であるとは、誰の目にも明白でした。
「おお、やはり総司もそう思うか」
けれどそんな事は気にも止めず、近藤先生は愛弟子のいらえに、至極満足そうに頷きました。

――百の人間がいれば、百の勘違いが、千の人間がいれば、千の思い込みがあります。
そしてそのひとつひとつを訂正して行くには、膨大な努力と忍耐が必要です。
けれど其れらを素っ飛ばしてしまえる能力を、もしかしたらこの師弟は、既にこの世に生まれついた時から授かっているのでは無いのかと。
だからこそ、くだんの俳句を、此処まで違う方向に捉えながらも、いざとなれば頓着無く融和させてしまう事が出来るのかもしれないと。
 これは禅問答なのか、はたまた単にこのふたりに、自分が振り回されているだけなのか、その真理を探しあぐね、永倉さんは、難しげに寄せた眉間に更に深い皺を刻みました。


「お前の気持ちは分かった」
そんな永倉さんの煩悶を他所に、一さんの、相変わらず平坦な声が、諭すように総ちゃんに向けられました。
「だがおまえと局長が説法もどきに屯所中を回れば、隊士達は何事かと驚く。しかも内容は副長の俳句だ。そうと知れば皆萎縮し、笑えるものも笑えなくなる。だからさっきも云ったように、俺がまとめて貰っておいてやる」
「・・・でも・・」
「俺に任せろ」
映っている自分の姿が、潤んだ瞳の中で揺らめいているのを見つめながら、一さんは厳かに告げました。
「悪いようにはしない」
更に力強く促す声に、総ちゃんは、一瞬自分の手にある短冊を名残惜しそうに見ましたが、やがて瞳を上げると、一さんに向かい微かに頷きました。
「確かに、斉藤の云うとおりかもしれねぇな。こう云うものは、さり気なく渡した方が、貰う相手も気が楽ってもんだ」
そんな一さんの後を受けて、永倉さんも、ここが幕の引き際、己が逃げ時とばかりに、塩梅良く相槌を打ちます。
「寄越せ」
それでもまだ他人の手に委ねるのを躊躇い、大事に短冊を抱えている総ちゃんに、一さんは差し出した手で、容赦の無い決別の時を迫ります。
やがて揺れる心のまま、少しだけ前に差し出された短冊を、一さんは、奪うかのような素早さで、総ちゃんの手からもぎ取りました。
「あっ・・」
「確かに、預かった」
悲鳴のような短い声をも聞かず、一さんは紙の束をぎゅうと握り締めると、
「おまえの気持ちは、賄いの者のひとりまで残さず、必ずや伝えてやる」
しかと総ちゃんを見詰めて、云い切ったのでした。
そしてその一さんに総ちゃんも、既に縋りどころは此処しかないと諦めたのか、潤む瞳のまま、頤だけを引き小さく頷いたのでした。





「悪気はねぇんだよ、あいつらも・・・」
寄り添うようにして雪道を去って行く師弟の背を見ながら、ぽつりと永倉さんが呟きました。
けれど言葉の後に、『だからと云って、厄介の火の粉を被るのまでは御免蒙る』とオチが付くのは、古今東西変わらぬ浮世のお約束。
この時の永倉さんと島田さんも、当然その例外ではなく、危うい処で難を免れた安堵に、心の裡で大きな息をついていました。
「だが斉藤、おまえその句、どうするつもりだ?」
更に戻った余裕は、早気軽な興に変わり、火の粉を被った一さんへと向けられました。
「さて、・・燃やすか、埋めるか」
紙を握っている手に視線を落とし応えた調子が、そのどちらを選択すべきか、今ひとつ決めかねているのか、一さんにしては、珍しく歯切れの悪いものでした。
ですがその一さんの面に、ふと憂いの色が過ぎったと思ったのは、見間違いだったのかと・・・、島田さんは、無骨な手で目を擦り、そうしてもう一度一さんを見ましたが、既に其処には、表情と云うものが凡そ分かりづらい、いつもどおりの横顔しかありませんでした。
近藤先生や総ちゃんも、時々計り知れない方向に突っ走っていますが、もしかしたら、この斉藤一と云う若者も、そう類の人間だったのだろうかと・・・
島田さんは、人と云うものが持つ、無限の不思議を垣間見る思いで、一さんを凝視しました。





 掃いた先から葉が落ちて来るんじゃたまらんわと、ぼやきながら庭掃除に精出していた隊士達の会話を通りすがりに聞きながら、ならば幹を揺すり、全部落とせば一度で済むだろうと思ったのは、たった二月前と云えど、早昨年の出来事。
今は天のちらつかせるむつの花だけを纏う寂しげな枝を見上げながら、一さんは、いっそこれを貼り付けてやったら賑やかになるのではと、ちらりと懐の中を重くしている紙の束に視線を移しました。


 任せておけと、あの場で引き受けはしたものの、その処分に、あれから一体いくつ溜息をついた事か。
隊士を究極の混乱から救うのは、隊を預かる長としての務め。
と、それまでの事ならば、とっくに燃やして終わりにしている筈が、未だ踏み切れずにいるのは、縋るようにして見詰められた、あの深い色の瞳の所為。
燃やすか、埋めるか、されど・・・
結局堂々巡りに終始する思考を自嘲しついた息が、又ひとつ、凍てた冷気を白く濁らせました。
と、その時。
ふと感じた人の気配に、一さんは、ゆっくりと後ろを振り向きました。
そうして少しだけ細めた双眸が映し出したものは――。

雪道を、転がった方が早いのではと思わせるように着膨れし、首にはふさふさと毛並みの良い狐の尻尾を巻き、片手に持った大福帳を揺らしながらやって来る、まるで狸のような豊満な像。
今の今まで己が裡を、静かに、切なく、そしてどこかしら甘美に彩っていた時を、無遠慮に裂いて踏み込んで来たその姿に、一さんは苦々しげに眉根を寄せました。

ですがそんな胸中など知る筈も無く、狐を巻いた狸は、一さんに気付くと、紅く艶の良い頬に愛想の良い笑いを浮かべました。
そして息を切らせながら漸く一さんの目の前まで来ると、其処で立ち止まり、
「ちょっと聞きますけど、新撰組の屯所って何処ですやろ?」
と、しゃがれた声で尋ねたのでした。
「此処だが」
「ああ、ほなやっと辿り着いたんや。いや、お西はんの中とは聞いてましたんやけど、これじゃ広すぎて迷うてしまいますなぁ。こんだけ土地があったら、家作を作って貸したらええんや。何しろお寺はんの境内ですやろ?仏さんが守ってくれはる、云うんを謳い文句にしはったら、借り手はごまんといますわ。そりゃ、儲かりまっせぇ。そこんとこ、思いつかんようじゃぁ、お寺はんは商いが上手い云うても、まだまだあきまへんわ。それに・・」
「あんた、どう云う用件だ?」
延々と続きそうな商売談義を、一さんの低い声が、容赦なく断ち切りました。
「そうそう、そやったわ。うちは大坂の商人(あきんど)で、桃尻屋栗五郎、云います。新撰組の副長はんに用があって来ましたのや。副長はん、おいでですやろか?」
「留守だ」
「お留守?」
それを聞くや、桃尻屋は、肉付きの良い狸顔を顰めました。
「夏に桃を食べ過ぎて腹を下した時、見舞いに来てくれはった礼を、わざわざ大坂から云いに来たんやけど、そりゃ困りましたなぁ・・。あん時した約束も、もちっと色つけて貰わんとかなわんのに・・」
目的は後者だとばかりに、憮然と語る声を聞きながら、これが、あの山崎ですら手をやいたと云う浪花の商人(あきんど)桃尻屋かと、一さんは改めて、狐の毛に埋もれている丸い顔を見下ろしました。


「桃尻屋」
手首のくびれなど無くして、その先は直ぐに腕と云う其れを組み、思案にくれていた桃尻屋でしたが、一さんの声に、面倒げに其方を向きました。
「無駄足の駄賃に、これをやる」
「何ですやろ?」
桃尻屋は目の前に差し出された紙の束に目を遣りましたが、直ぐに胡散臭そうに一さんを見上げました。
「護符だ」
「護符ぅう?」
まじまじと紙に書かれた文字を見る丸い顔は、あからさまな疑念に満ち満ちていました。
「或る者は、この句を読んでも意味が分からず、首を傾げるだろう。だがそうなれば、句の持つ奥の深さに神仏の教えを重ねて思い、手を合わせる気持ちになるかもしれん。其処に、穏やかな心が生まれる。又或る者は、この句を見て笑うかもやしれん。が、笑う角には福が来る。・・・どのみち、どう転んでも、此れを授かった人間はお前に感謝する。損は無い」
「そないなもんですやろか?」
「そんなもんだ」
素早く、物を値踏みする商人(あきんど)の目に切り替わった桃尻屋に、一さんは厳かに頷きました。
「ほな、今年の桃を注文してくれはったお客はんの、おまけの福引にでもしときますわ。おおきに」

 手ぶらで帰るには商人(あきんど)の一分が許さない、されどこの寒さの中、いつ戻るかも分からぬ人間を待つのは阿呆らしい。
その、後者に傾きかけていた気持ちに、都合の良い言い訳をつけてくれた若者に礼を云うと、桃尻屋は、貰った『護符』の一枚一枚を読み上げ、時には不可解そうに立ち止まり、時には狸のような腹を突き出して笑いながら、一さんの視界の中で小さくなって行きました。



――やがてその鬱陶しげな姿が豆粒程になると、一さんはゆっくりと踵を返しました。

 隊士達には渡らなかったものの、あの句が市井の者達の癒しになったと知れば、総ちゃんはきっと喜ぶ事でしょう。
それを思えば、一さんの胸の裡にも温(ぬく)い風が吹きます。
その、こそばゆい思いを誤魔化すように、一さんは、胸の袷から、抜き取っておいた一枚の短冊を取り出しました。

「・・しれば迷いしなければ迷わぬ・・恋の道・・・、か・・」

低く呟いた声と共に漏れた息が、降る粉雪にかかり、くるりと円を描き遊ぶかのように舞うのを、一さんは、何とはなしにシアワセな気分の中で見つめていました。










                          今年も見事にオチがつきませんようで・・・とほほ









瑠璃の文庫