呉服屋宗ちゃんのシアワセ へのへのもへじでシアワセ、なの♪ にっ! 三人の前に来ると、島田さんは、ぜいぜいと荒い息を整えながら、暫しじっと宗ちゃんを見詰めていましたが、やがて、 「…ぼっちゃん、どんなにお探しした事か…。よくぞ、よくぞっ、ご無事で…。一時でも新助ごときにお守を任せた島田が愚かでした。もしぼっちゃんに何かがあったら、島田はこの腹掻っ捌いても死に切れませんっ」 がくりと膝を折り懐紙でチンと洟をかむと、ごつい指で目頭を拭ったのでした。 「ごめんね、しまだ…」 その島田さんにつられてか、宗ちゃんの瞳にも薄っすらと泪が。 けれどそんな主従の様子に、八郎さんと若先生は、何となく白けた気分で目を合わせました。 探した…と云っても、宗ちゃんの家近藤屋と今自分達がいる場所は、川を挟んですぐの目と鼻の先。おいと呼べば、はいと応える声が届く距離なのです。 けれど島田さんは大真面目。洟をかんだついでに、ようやく気付いたように、八郎さんと若先生を交互に見ると、 「これはこれは、一丁目の若先生と、三丁目の若様。明けましておめでとうございます。昨年はウチのぼっちゃんが、お世話をおかけしました」 律儀に頭をさげました。 「島田さん、宗次郎は神仏に何やら頼みごとがあって、初詣に出て来たそうだ。怒ってやってくれるな。ところがだな、その頼み事ってのが、例え胸の中でも言葉にして願うのが恥ずかしいもので、とうとう願掛もできずに、川原で一人悩んでいたらしい。…まぁ、あらましはそんな処だ。だがそいつはどうも痛い事と関係があるらしいんだが、あんた、宗次郎のお守係りなら、何か知っちゃいないかえ?」 これまでようよう聞き出した話を掻い摘んで、八郎さんは島田さんに問い質しました。ところが、それを聞いた島田さんは真っ青になり、 「ぼっちゃんっ、どこか痛いのでございますかっ?ああ、ああ、近藤屋の一大事。さぁ、早く島田の背に負ぶさって下さいまし」 八郎さんの話などそっちのけで、大きな背を宗ちゃんに向けたのでした。 「新助っ、お前は一丁目の田坂先生に走っておくれっ。大至急だよっ」 お守をサボり、愛しい女と束の間の逢引に嵩じていた手代の新助さんも、もしも宗ちゃんに風邪など引かれたら、主人からどんなに叱られるかと慄き、慌てて駆け出そうとしました。ところが、その袖をぐいっと引かれ、新助さんは後ろ向きにたたらを踏んで仰け反りました。 「親爺の代わりに、俺が行くよ」 振り向くと、一丁目の若先生が清々しい笑みを湛え、新助さんを見ていました。 ところが、ところが。 「いいえ、若先生には大層申し訳ございませんが、ぼっちゃんのお脈を診て頂くのは大先生と、これはぼっちゃんが乳飲み子の時からの決まり事でございます。そう云う訳で、若先生のご好意はお気持ちだけ頂いておきます」 島田さんは丁寧な言葉で、修行中の若造に、大事なぼっちゃんは任せられないと、遠まわしにきっぱり云い切ったのです。 「そりゃそうだ、海のものか山のものか分からない新米医者じゃ、鰯(いわし)の頭でも信神している方が、よっぽど救われそうだな」 憮然と顔を顰めた若先生をちらりと見た八郎さんが、さもありなんと、頷きました。 ですが…。若先生の事を笑っていられたのは、ほんの一瞬。世の中は、それなりに平等にできているのです。 にやけ笑いが止まらない八郎さんに、島田さんは、不思議そうに目をしばたき云ったのです。 「若さまも、玄海僧正さまの所に行かれる途中だったのでございましょう?ですが、若先生のお屋敷と此処では、お西さまとは逆の道…」 島田さんは、はて?と首を傾げましたが、すぐに、はっと目を剥きました。 「もしやその御足を、ぼっちゃまの為に止めて下さっていたのでしょうかっ?だとしたら大層申し訳ないことです」 島田さんは、深く深く頭を下げました。 「…玄海僧正?」 誰だそいつは、と云わんばかりに、八郎さんは訝しげに眉根を寄せました。 「西本願寺の、玄海僧正さまでございますよ」 島田さんは、にこにこと八郎さんに答えました。 「西本願寺…?」 益々分からないと云う風に、八郎さんは腕を組み、空を見上げました。 「お約束したのではありませんか?」 今度は遠慮がちに尋ねました。 「約束?」 「はい、今若さまのお父上の伊庭さまが店にお越しくださっており、若さまが昨日、大晦日でございますね、その大晦日にお帰りにならず、お正月早々朝帰りだったのを咎めたところ、何と若さまは西本願寺の玄海僧正さまと夜通し禅問答をなさっていたのだとお答えになられたのだとか…。いずれ心形刀流の上に立つもの、剣ばかりで無く、深く精神を鍛錬せねばならないと、若さまは厳と姿勢を正して仰り、それを聞いた伊庭さまは、我が息子なれどその意気込みに大層感動したと、旦那さまに語っておられました。その続きをしに、今日も早朝から出かけられたと、伊庭さまは嬉しそうに仰られましたが…違うのですか?」 島田さんは大きな目をぱちくりさせながら、何処と無く気まずそうな八郎さんを見詰めました。その傍らで若先生の横顔が、ざまぁみろとばかりに皮肉な笑いを浮かべました。 八郎さんは軽く咳払いをすると、さりげなく視線を島田さんから逸らしました。 ――昨日は大晦日の無礼講よろしく、祇園で派手に遊びまくり、気付けば八坂の鐘も疾うに百八つを衝き終え、そのまま朝帰り。そっと裏口から入ったつもりが運悪く見咎められ、咄嗟に口から滑り出した嘘が、今の島田さんの台詞。その時は、己の頭の優秀さに我ながら酔いしれたのが、まさか此処に来てとんだ結末になろうとは。 人生、あなどってはいけません。 そんなこんなで。 「それでは私どもは、これで失礼致します」 一瞬、八郎さんの気が他所へ飛んでいた隙に、島田さんは軽々と宗ちゃんを背負って立ち上がりました。 「若先生も、若さまも、ぼっちゃんが元気になりましたら、又お相手をしにお越し下さいませ」 島田さんは腰を直角にして二人に礼をすると、後ろの宗ちゃんに、しっかりつかまっていて下さいませよと云うや否や、一目散に走り出しました。 疾風のように去り行くその姿を、呆然と突っ立って見送くる八郎さんと若先生に、風の神さまが大振る舞いしたような冷たい北風が、容赦なく吹き付けます。 やがて若先生が、宗ちゃんに掛けてやっていた羽織を、面倒臭そうに身に纏いました。すると八郎さんも億劫そうに、宗ちゃんを抱え込もうと目論み、わざとはおっていただけの羽織に袖を通しました。そして二人気まずく目を合わせると、直ぐにそれを逸らし、土手へ向かって別々に歩き出しました。 寒風に膚を刺されながら、若先生は、もしかしたら宗ちゃんを掌中にする最大の難関は、薬屋ではなく島田さんかもしれないと思い、八郎さんは、如何にして島田さんに取り入るか、その算段に頭を回転させ始めました。 暫く、二人とも、それぞれに思いを巡らせていました。けれどむっくりと頭をもたげて来るのは、やはり宗ちゃんの事。 ――神頼みをする神様にも云えない恥ずかしい願い事で、そしてそれは痛いことに関係する。 「…ふむ」 八郎さんは立ち止まり、腕を組みました。 今のところ、皆勤賞で痣を作り続けている宗ちゃんですが、実は苦行のような毎日に根を上げ、もう嫌だと放り出したいものの、それでは好いた男と言葉を交わす事が出来ない。そこで痛くないように打たれる方法を教えて下さいと、神頼みを思いついた。ところがそうなると、自分の根性の無さを神仏に知られてしまうようで恥かしい。 神頼みするのに恥も外聞もあるか、大体が、祈願の元を糺せば人の欲じゃねぇか、と思うものの、そこは変に律儀者の島田さんに育てられた宗ちゃん。おまけに、思い込みの激しさだけは人一倍。この推量も、十分に有り得ます。 「が、それならば…」 にやりと、八郎さんは口辺を上げました。 明日の稽古始めに、宗ちゃんへ、愛ゆえの猛烈な一撃を打ち込んでみるのも一考かもしれません。或いはその衝撃で、薬屋の事など記憶から吹っ飛べばこれ幸い。後は、この腕(かいな)に抱き、末永く愛に溢れた介抱をして…。 「よしっ」 八郎さんは満足げに頷くと、先ほどとは打って変わった軽い足取りで、土手を上り始めました。 「そうか…」 若先生は腕組みをした右手で、顎を撫でました。そして、 「その手があったな」 と、端正なお顔に不敵な笑みを浮かべました。 宗ちゃんは、きっと荒行に嫌気が差してきているのです。 そしてその辛さと恋の板ばさみで、にっちもさっちも行かなく追い詰められているに違いありません。痛いのが…と漏らしたあの言葉が、確たる証拠ではありませんか。 だとしたら、もうこれ以上は限界だと、誰かが引導を渡してやれば良いのです。『このままでは、身体が持たない。もう道場へは行ってはいけない』と禁じられるのを、宗ちゃんは待っているのです。それには近藤屋の絶対的信頼を勝ち得ている父親を利用するのが一番。 医者からの厳命なら、仕方が無いのだと、自分自身に言い訳が立ちます。『自ら放り出す』のでは無いのです。 宗ちゃんを説得するのが自分で無いのは少々癪ですが、あの薬屋と引き離せるのならば、この際使えるものは親でも使ってやるさと、若先生は向い風に挑むように目を細めました。 さてさて。 そんな男たちの思惑を知る由も無く、ここは近藤屋の中庭に面した、宗ちゃんの部屋。 風も止み、障子を透けて差し込む穏やかな陽に包まれながら、掻い巻きに埋もれるようにし、先程から宗ちゃんはある一点にじっと視線を注いでいます。それは半紙を四つ折りにした程の草紙本。 実はこの草紙本、ちょっと訳があるのです。 そう、あれは去年の大晦日の事でした。 いつものように、恋しくて恋しくて、顔を思い起こせば胸がときめき、夜も眠れぬくだんの薬屋さんに、湿布薬を下さいと、蚊だってもう少しまともに鳴くだろうような小さな声でお願いすると、薬屋さんは、胡散臭い薬と一緒にこの薄い本を手渡したのです。 宗ちゃんがはっと瞳を上げると、薬屋さんは何もなかったかのような顔で、葛篭に商売道具を片付け始めていました。そして茫然と見詰める宗ちゃんに、ちらっと視線を投げかけると、手妻のような素早さで耳元に唇を寄せ、 『この世の極楽を、一緒に見ようぜ。これはその指南本だ。勉強しておきな』 と、低い声で囁いたのです。 何という事でしょう。まるで夢のような出来事です。 何しろ、遠くから見守るだけだった片思いが、一気にお空の彼方まで跳躍したのです。興奮しない人間がどこにいるでしょう。 宗ちゃんは胸の高鳴りを抑え、草紙本を後生大事に懐に抱え家に戻るなり、夢にたゆたうように草紙本を開きました。 ところが…。 一枚目を捲った途端、宗ちゃんの目は大きく瞠られ、息をするのも忘れ、身体は石のように固まり、ぴくりとも動かなくなってしまったのです。 そこに描かれていたのは…。 若衆姿の少年を、体格の良い丁髷の侍が、上から組み伏している図。しかも二人とも素っ裸。更に宗ちゃんを驚愕に追い込んだのは、少年のおいどの真ん中に潜り込もうとしている、丁髷男の男根。更にご丁寧に、絵の傍らには、二人の熱い息づかいすら伝わってきそうな文字のおまけまで。 『もへじの丞、痛くは無いか?』 『へのへの助さまを、この身で受け止められるのならば、何が痛いことがこざいましょう、あん、あん』 『もへじの丞、何と可愛いことを…』 『へのへの助さま、もっと激しくわたくしを可愛がってくださいませ、あん、あん』 『もへじの丞、痛いのは一時だ、すぐにこの世の極楽を見せてやろうぞ』 『ああ、嬉しい、へのへの助さまぁ…、あん、あん』 『どうじゃ、どうじゃ、もへじの丞』 『へのへの助さまぁっ、あん、あん』 『もへじの丞っ、もへじの丞っ』 『へのへの助さまぁ、極楽のようでするぅっ、あん、あんっ』 『もへじの丞、愛い、愛いっ』 『あんっ、あんっ』 食入るように草紙本を凝視する宗ちゃんの耳に木霊するのは、薬屋さんの低く甘い声。 ――一緒に、この世の極楽を見ようぜ。 ああ、自分もこの二人のように、薬屋さんと一緒に夢路を彷徨うことができれば、何てシアワセなのでしょう。 へのへの助さんが薬屋さんで、もへじの丞が自分…。 そう思うだけで、宗ちゃんの心の臓ははくはくと、胸から飛び出さんばかりに鼓動を打ち始めるのです。 けれども、そうは簡単に問屋が卸さないのが、世の常、人の常、世知辛さ。 シアワセを夢見る宗ちゃんの前に、難問が立ちはだかったのです。と云うのも。 指南本によれば、極楽にゆくまでには、まずおいどを貫かれる痛みを我慢しなければなりません。いえそんな事は、幾らでも堪える事ができます。でも、もしも…。もしも、おいどの痛みに逃げ腰になった身体が楽をしようと、極楽に到着する前に気を逸してしまったら…。何しろ身体と根性は別物ですから。 それこそが、悲惨。シアワセのシの字ともご挨拶できずにサヨナラでは、目も当てられません。尚且つ、宗ちゃんに追い討ちをかけたのは、もしもそんな事になったら、薬屋さんが自分に愛想をつかしてしまうに違いない云う、何とも一途な思い込み。 『勉強をしておけ』と云われた期待に応えられなかったその時は、金輪際口も聞いて貰えなくなってしまうに違いないと、考えただけで恐ろしい妄想に、宗ちゃんは身を震わせずにはいられません。 そこで悶々と悩んだ末辿り着いたのが、『この世の極楽を薬屋さんと見たいので、おいどを痛くしないで下さい』との神頼みだったのです。 けれど…。 いざ神社まで行ってはみたものの、お願い事がお願い事だけに気恥ずかしく、鳥居の前で、ぽっぽっと顔が火照るだけで足は前に進みません。しかも、思い切って踏み出そうとすると、今度は草紙本の中で抱き合っている、二人の姿が鮮明に脳裏に蘇る始末。 そんなこんなで、暫く神社の前で行ったり来たりを繰り返していたのですが、こう云う事は時が経てば経つほど度胸が薄れるもので、とうとう鳥居を潜れず、しょんぼりと神社に背を向けたのでした。 そして家に戻る気にもなれず、川原で一人悩んでいる時、幸か不幸か、八郎さんと若先生がやって来たのです。 とまぁ、経緯はそんな具合だったのですが…。 相変わらず、宗ちゃんの瞳はじっと草紙本の中の二人に釘付けです。そうして、どれ程時が経った事か…。 ふいに、開いた淡い色の唇から、 『へのへの助さま…』 何とも切なげな呟きが、ほろりと…。 宗ちゃんは、はっと顔を上げ、急いで辺りを見回しました。そして今の声を誰にも聞かれなかった事を確かめると、両手を頬に当て、項まで真っ赤に染めました。 宗ちゃんにとって、既にへのへの助は薬屋さん、もへじの丞は自分。草紙本の二人は、薬屋さんと自分以外の何ものでもなくなっていたのです。 薬屋さんの腕の中で一緒に見る、この世の極楽――。 魂の抜けたあやつり人形のように立ち上がると、宗ちゃんは部屋の片隅までふらふら行き、祭ってある神棚をじっと見上げました。そして意を決したように、 「あのね、薬屋さんと極楽へ行く前に、おいどが痛くて気が遠くなって、薬屋さんのお顔がぼやけませんように。お願いします、お願いします」 と、ぎゅうと目を瞑り、手を合わせました。 神社に詣でるよりは、家の神棚で楽した分、ご利益は薄いかもしれませんが、そこのところは文句は云えません。 けれどその神頼みの最中ですら、頭の中を占めているのは、組んずほぐれず、愛を温めあっている薬屋さんと自分の姿。 宗ちゃんは、ぺたりと畳に座りこみました。 その耳に、低い声がうっとり囁きます。 『一緒に、この世の極楽を見ようぜ』 宗ちゃんはぼうっと瞳を潤ませました。そして、 「…はい」 夢の世界から、薬屋さんの面影に向い、けなげに頷いたのでした。 さてさて、願いが叶えられるかどうかは神さまの裁量にお任せするとして、清水から飛び降りた決意を祝福するかのように、春の伸びやかさを秘めた陽が、恥じらいに赤く染まった頬に、光の彩を添えました、とさ。
花咲く乱れ箱