雫 -sizuku- U (下)
障子を通して射し込む陽は、厳しい季節のものでありながら、白い紙を透けて幾分柔らかな色合いになる。
時折不自然に会話が途絶えるのは、これが姉との別離と思えばそれも仕方が無いことなのかもしれない。
言葉を繋げる途中で、ふと胸の一隅を鷲掴まれるような痛みに捉わる。
寂しいのだと、そんな自分の心を見ぬ振りをして、総司は端座したすぐ脇まで伸びてきた光の筋を、見るともなく視界の端に入れていた。
「京は此方よりも冷え込みが強いと・・そう聞いているけれど」
ふいに耳に届いた光の声が、呟くように小さかった。
「でも江戸でも雪は降る」
殊更明るく応えて笑ったつもりが、どうにもぎこちなくなり、総司は慌てて向けていた視線を逸らせた。
「京は山に囲まれた土地で、江戸と違って風の吹き抜ける道が無いのだそうですよ。だから冷たさが籠もってしまうのかしら」
それが弟の身体の障りになるとでも言うように、光は憂色を隠さなかった。
「着けばすぐに春になるから大丈夫」
こんな気休めが、姉の心にどれ程の慰めになるのか・・・
後ろめたさを感じながら、それでも総司はそれ以上光に掛ける言葉が見つからず、すぐに瞳を伏せた。
「伊庭さま・・・、あの方は京には行かれないの?」
会話がこれで仕舞いになることを恐れるように、光は新たな話題を口にした。
「・・八郎さん?」
「貴方とはずいぶん親しそうだったから、最初はてっきり一緒に行かれるお仲間だと思ったのだけれど」
以前何かの折りに、歳はひとつしか違わないのだと聞いていた。
内藤新宿を抜けた辺りから、偶然同道した八郎の落ち着いた物腰を思い起こせば、今目の前にいる弟は酷く頼りなげに姉の目には映る。
「八郎さんは江戸でも名を知れた、大きな道場の跡を継がなければならない人だもの。京になんか上っていられない」
可笑しそうに笑う顔が、上洛を聞いてから初めて光が見る、以前と変わらぬ屈託の無いものだった。
「そう。貴方の事を、ずいぶん案じて下さっているようだったから・・」
そこまで言いかけたが、先を続けるのを一瞬迷った風に、光は言葉を止めた。
それを総司が怪訝に見た。
「もしも一緒に行かれるのならば心強いと・・・勝手な事を思ったのよ」
他人の事情など心に置かず、ただただ弟を案じる自分の我侭を嗜めて、光は不安そうにいる総司に視線を向けた。
「本当に私はばかね」
笑いかけた細い面が、仄かに浮かぶ憂いの翳りで寂しいものになった。
その姉を、総司は瞬きもせずに見ている。
ひとりでも見知った者が弟の周りにいてくれれば、それが安堵になるという光の心を知れば、愚かなどと笑う道理は何処にも無い。
この姉には・・・、この姉だけには少しも辛い事も苦しい事も起こらぬようにと、いつも願ってきた。
それにも関わらず、一番の哀しみを与えてしまったのが自分と思えば、耐えようの無い自責の念に苛まれる。
だがそうまでしても、譲れぬものがある。
土方への想いを、決して誰にも知られる事はできぬこの想いを、貫き通そうとすればまた誰かに辛い思いをさせてしまうのだろうか。
それでも自分は土方の傍らにいたい。
いずれどんな天罰が当たろうと、もうそんなことは覚悟のうちではない。
先程手前で止っていた陽の筋が、いつの間にか端座した膝の上に置いた手の甲にまで届いていた。
今は真上にある天道も、少しずつ傾きやがて沈む。
そうして几帳面に時は刻まれ、確かにこの姉との別れが近いのだと告げていた。
「姉さん・・・」
ふいに掛けられた声の中にある真剣な響きに、光が不思議そうに総司を見返した。
視線を合わせられて、続けて何かを言おうとしたがすぐに唇の動きを止めた。
「・・ごめん」
少し後、ようやく聞こえてきた声は、精一杯振り絞ったもののように硬く細かった。
そのまま自分の感情の持って行き場に戸惑い俯いてしまった弟を、光は暫らく黙って見つめていた。
「・・・総司は、帰ってくるのね」
やがて漸く返した応えは、気を緩めれば語尾が震えてしまいそうだった。
「きっと帰ってくるのね」
今一度、先程より強く問う声に、下を向いたままの弟は微かに頷いた。
瞳を見せて、深く頷いたのではない。
ほんの少し、僅かにそうだと告げる程の応えが、正直すぎて不器用な弟の心を現しているように光には思えた。
きっと苦しい嘘を、自分の為につかせてしまったのだろう。
哀れだと、そう思う。
だがやはり自分の手元に戻ってきて欲しい。
それがどんな先であってもいい。
必ずと、約束されるものであるのならば・・・
「待っているから」
そうでも言わねばきっといつまでたっても顔を上げないだろう弟へ、それが光の、思いの限りの言葉だった。
姉の顔を見ることができないのは、安堵させる為の偽りひとつ上手く言えない、自分への情けなさからだった。
耳に届く大切な人の声音に、そうだと応える術を持たない己の片意地を罵倒するように、総司は膝に置いた手を無意識に握り締めた。
明るい内に日野へ戻らねばならないからと、坂を下りながら名残惜しそうに幾度も振り返る姉の背が、ついに道を折れて視界に消え行くまで見送った後も暫く外に佇んでいたが、ふいに強くなって来た風に頬を嬲られ、漸く総司は諦めて門の中へと踵を返した。
「光さん、帰ったのか?」
ふいに掛けられた声に、伏せていた瞳を上げると、やはり其処に土方がいた。
顎を引くだけで頷いた小さな顔が、ひどく寂しげに見えたのは冬の薄い陽のせいばかりでもないのだろう。
「日が暮れないうちにと・・」
「そうか」
土方の脳裏に、ほんの半刻ほど前近藤と自分に、細い指をついて下げた頭を、幾ら促しても上げようとしなかった光の姿が過ぎった。
「ところで、伊庭は帰ったそうだぞ」
「えっ?」
自分の感傷も一緒に摘み取るように、話題を変えて告げた言葉に、流石に総司も知らなかったと見えて、姉と良く似た面差しに正直に驚きの色が浮かんだ。
「けれど八郎さんは待っていてくれるって」
「湿った風になるのを嫌ったのだろう」
置き去られたような寂しげな声に応えながら、黙って帰って行った八郎の行動を土方も又不審に思っていたのか、思案げに顔を曇らせた。
八郎には伝えなくてはならない事がある。
これで最後にする事はできなかい。
「・・・今から追えば間に合うかな」
縋るように土方に向けられた瞳は、是と応えて欲しいと強いていた。
「何か、どうしても言わなければならない事があるのか?」
直視した視線を逸らす事無く、幾分蒼い顔がゆっくりと頷いた。
「ならば追え」
求めていた応えは短く、だが強く、総司の背を押した。
「お前が心残りになるのならば、追って言うべき事をちゃんと伝えろ」
後は知らぬと言う風に見せた広い背が、厳しい態度とは裏腹に、自分がそうする事を見守ってくれているように総司には思えた。
暫しその後姿を瞳に映していたが、やがてそれも建物に入って見えなくなると、先程姉が下って行った急な坂に向かって総司は踵を返した。
あれほどくっきりと青を映していたのが、俄かに暗雲を侍らせ、みるみる雫を垂らし、まるで地にいる人々が右往左往する様を面白がるような天の気紛れを、八郎は途中で買い求めた傘で遣り過ごし、藤堂和泉守の下屋敷の長い塀に沿って歩いていた。
この白い塀を終えた先に、自分の戻るべき場所がある。
家を煩わしいと、そう思うようになったのはいつの頃からだったのか・・・。
否、煩わしいという言葉は当てはまらないのかもしれない。
其処には居ないのだ。
いずれ灰の一握りも残せず焼き尽くされてしまうだろう程に、恋焦がれ想う人が。
歩みを刻んできた道を振り返り、今一度戻りだしたい衝動を漸く堪え八郎は、傘の柄を握りしめていた手に力を籠めた。
それが今にも想いのままに走り出しかねない、自分自身への枷(かせ)だった。
「・・・若」
声は白い障子の向こう側から掛かった。
「なんだえ?」
濡れた、と言うほどではないが、雨湿(あまじめ)りを嫌って袴の紐を解こうとしていた手をそのままに、振り向きもせず八郎は応えた。
「お客さんなのですが」
声音はその客に対して警戒や厳しさを孕んではいなかった。
見知った者かもしれない。
「客?」
「沖田さんです」
「・・総司」
意外な応えに、考えるより先に八郎の足は前に進み、障子を開け放った。
「何処にいる」
「玄関にお出で下さるようにお願いしたのですが、門の外で十分だからと・・・若っ」
この道場の門弟、高木新造が大きな体を咄嗟に其方に向ける暇(いとま)もなく駆け出した八郎の背は、すでに廊下の先に消え行こうとしていた。
「総司っ」
闇雲に呼んだ声を、誰かに聞かれる事を厭いはしなかった。
自分に逢う為に後を追ってきたのだと知れば、顔を見ずに帰って来た堪え性もこれが限りだった。
先程よりも早くなった雨脚に抗うように、八郎は曲げた腕を傘にして外に飛び出した。
表玄関から門まで僅か十間。
たったそれだけの距離が、八郎にはもどかしい。
声が届いたのか、門の庇(ひさし)の下で雨を凌ぎながら外を見ていた総司が身体を此方に向けた。
駆け寄ってくる八郎の姿を認めると、正直に顔に安堵の色を浮かべて笑いかけた。
「ばか、こんな処で待っている奴がいるかっ」
乱暴な口調は、庇いきれずに濡らした肩先を見て咎めていた。
「すぐに帰るから」
こうして行き違いになることなく、再び見(まみ)える事ができたのが総司には嬉しいようだった。
「濡れるのは御免だぜ」
ここで四の五の言った処で総司は動きはしないだろう。
必ずついてくると決め付けて背を向けると、八郎は建物に向かって歩き始めた。
どうして良いのか計りかねるような僅かな逡巡のあと、やがて小走りに自分の後を追ってくる足音が、八郎の耳に聞こえてきた。
「八郎さんが帰ってしまったと聞いた時には驚いて・・・」
無造作に投げかけられた手拭を、声の主は咄嗟に出した右の手で受け取った。
「拭け」
そんな言葉で八郎は、この室に入ってくるなり語りだした総司を止めた。
「傘を持たずに後を追ってきたのか?」
頷いて、素直に濡れた着物を拭きはじめた総司を見ながら、こちらはすでに袴を脱ぎ捨て着流し姿になって問うた。
此処に自分が着いてから総司の来た時までを遡れば、多分試衛館を出て暫く行った辺りで雲行きは怪しくなってきた筈だ。
だがこうして濡れた姿は、傘を取りには戻らなかったと物語っている。
その間すら惜しんで自分を追ってきたのだろうか・・・
己の胸に燻り続けている火が、俄かに熾るのを八郎は感じていた。
「大した降りにはならないと思ったし、それにきっと一時のものだから酷くなったら何処かで雨宿りすれば良いと思った」
そんな八郎の心裡を知らず、笑った顔に屈託は無い。
が、ふいにその余韻を中断するように表情が翳った。
それは見ている者に分かるか分からないかという程に微かなものだったが、八郎はその一瞬を見逃さなかった。
「どうした?」
心を余所に取られていたのか、呼ばれて総司が慌てて八郎を見た。
「何でもない」
「嘘をつけ」
「本当に何でもない」
「この期に及んで、お前は俺に嘘を置き土産にするつもりか?」
からかうでもない、さりとて問い質すでもない自然な物言いは、心にある憂いを吐き出すように、自分に向けられた八郎の優しさなのだと総司には思える。
それを知ればもう隠し事はできない。
「姉が・・・難儀していなければ良いと思って・・」
やっと語り出した声がまだ小さいのは、身内を心配する心を他人に知られるのを躊躇う、総司のせめてもの矜持なのだろう。
「姉さんを見送ってから俺を追ってきたのか?ならば降り始めた頃にはすでに内藤新宿辺りまでは着いていただろう」
雨脚の気配を伺うように、八郎は閉じられた障子にちらりと目を遣った。
「あそこまで行けば駕籠を調達するのは容易い。足を止め休む店もあるから、身を濡らさずとも走り雨を避けることができるだろうよ」
黙って聞き入る総司に、さり気ない調子で安堵させるひと言を付け加えた。
「そうだといいのだけれど」
憂慮の色はまだ隠し様がなかったが、それでも総司は八郎の心遣いに、あるだけの笑みを浮かべた。
「それよりもお前は何故俺を追ってきた?」
きっと望むべくもない応えだとは疾うに承知で、どうしても聞きたかったひと言を八郎は敢えて問うた。
「・・・八郎さんに、有難うと言いたかった」
一瞬躊躇い、次に意を決したように笑みを消して応えた総司の声が、少し硬かった。
「有難う?」
だが聞いた八郎の声の調子が低く沈んだ。
それに総司は見つめた視線を逸らさず頷いた。
有難うと、総司はそう言った。
覚悟の果ての言葉が、他人行儀な礼であることに、胸の裡にどうにも説明のつかない黒いものが湧き起こるのを止められない。
自分を他人だと線を引いて置き去りにし、唯一土方の元へと総司は行こうとしている。
それが八郎を、抑えようの無い苛立ちと怒りと、それらを全て越えたうねるような哀しみの底に一瞬にして突き落とした。
「何の礼だ?」
「お礼じゃない・・・」
ふいに人の変わったような、八郎のいつにない硬質な様子を、どう受け容れて良いのか分からず総司の言葉が途切れた。
「お前を・・・抱いたことへの礼か」
思いもよらない八郎の言葉だった。
突然胸の真中に、皮膚を破り肉を裂き骨を割って刃を突き刺されたような衝撃に、総司の面輪がみるも無残に蒼ざめた。
「・・何故、そんなこと・・・」
瞬時にして乾ききった喉がやっと作り出した声は掠れ、語尾は空(くう)に混じるように拡散した。
「お前が土方さんへの想いに苦しみ続ける、その苦悶から救ってやったことへのか・・」
残酷に問う眸を、淵の底よりも暗いものが覆っている。
距離を詰める八郎に、総司は一歩も退かずに其処に立ち尽している。
「今度は逃げないのか」
「・・・逃げる?」
「そうだ。お前は俺に逃げ込んだだけだっ」
堪えに堪えていた感情を、これ以上は抑え切れないのだと言うように迸った激しい言葉と共に、八郎は一瞬怯んだ総司の右の腕を掴んだ。
「俺はお前を好いている、あんな奴になど渡したくは無い。その想いを知りながらお前は俺に抱かれた。ならばこの場で逃さずもう何処にもやらない」
黒曜石の深い色に似た瞳が自分を映して、まるで凍りついたように瞬きもしない。
「お前は逃げ切れてなどいない。どんなに足掻いた処で土方さんへの想いから逃げきれることなどできはしない、お前は逃げきれやしないんだ、総司っ」
総司への恋慕の情に呻吟してきた己の来し方を取り戻すかのように、八郎は息を継ぐ間すら惜しんで一気に続けた。
掴んだ腕が解かれようと抗うのを封じ込め、そのまま身体を強く壁に押し付けた。
「土方さんの事は諦めろ」
両の手のひらを水直に壁に押し付けて、まるで籠の中の鳥を逃さまいとするように、腕の中に入れて見下ろす八郎の視線が、切先の鋭い刃のように総司に据えられて動かない。
「京へは行かせない」
それが初めからの誓だったように、八郎の声には何をも排する激しさがあった。
雨音は次第に強くなる。
それは屋根に庇われ、雫に濡れぬ者を責めたてるように、時に風の勢いに乗じて、建物全体を揺るがす。
「・・・八郎さんに、ありがとうと・・そう言いたかった」
それまで息をする事すら止めてしまったかのように、ただ瞳を見開いて沈黙のなかで八郎を凝視していた総司の唇が微かに動いて告げた。
だが八郎は応えない。
壁に背を押さえ込まれたまま、総司はその八郎を、初めて意志を持った瞳で見上げた。
「私は八郎さんの心を踏みにじってしまった・・・。どんな事をしても、もう償うことなどできはしない・・」
その先を言うのを躊躇うように、言葉の最後が僅かに震えた。
「人ではない事を八郎さんにしてしまった。・・・だから・・」
「だからどうした」
「今ここで八郎さんが私をどうしてもいい・・何に代えても償えるなどとは思ってはいない」
逸らす事無く見つめる瞳には、怯えも慄きも無い。
「でも私は京へ行く」
静かな声で告げたひと言だった。
だが静かすぎるその中に八郎は、総司という人間を作り出している精神の全てが一つに凝固されているような信念の強靭さを見た。
「・・・私は京へ行く」
もう一度、八郎を見る瞳はそのままに、総司が呟いた。
土方に付いて行く、二度繰り返しても総司はそう言わない。
それは自分に抱かれた事を封印として、土方への想いを決して表に出すまいと決めた総司の悲愴な覚悟なのだと八郎には分かる。
だがその激しさ強さを知るだけに、容易く諦めることのできる想いではないことも、八郎は知っている。
総司の土方への想いが終焉を向かえるのは、その身が滅びる時だけだ。
「・・・・終焉」
総司を見据えたまま、ふいに思惑のさなかに浮かび、小さな棘のように引っ掛かった言葉を八郎は呟いた。
それは勘だった。
浪士隊と名うって参加する者達は、身をすり減らすような過酷な日々が待ち受けていると心し、国元を捨て、身内を捨て、或いは己の命すら無いものと見知らぬ地に向かう。
総司は姉から己の肉体の限界を知らされている。
行く先にあるものが、自分の命数を縮めるだけのものになろうと承知しながら京に上る。
だが逆に、だからこそ土方について行くのだと、いっそ知ってしまった真実が総司に弛まぬ覚悟をさせたとしたら・・・
土方の傍らにいる限り、終わりの無い苦悶に身を置くだろうに、敢えて京に上ると決めたのは、それがそう長くない間と見据えたからか・・
ありがとうと、そう総司は自分に言いに来たのだと言う。
まるでこれが限りと今生の別れを告げるように。
否、総司はすでに己の全てが、京で終わりと決めているのだろう。
そしてそこまで覚悟しても、尚自分に抱かれることで己を戒めなければ、たとえその僅かな時をも堪えられぬ程、土方への想いは激しいものなのか・・・
全ての符号が一致した時、戦慄にも似た衝撃が脳天から足の裏まで走り抜けた。
八郎はゆっくりと、身体を硬くして縫いとめられたように動かぬ総司を見た。
「お前は・・」
上ずった声が繰り出す次の言葉を、総司は天罰が下るかのようにじっと待っている。
「馬鹿だっ」
一度迸った激情はもう止めることができない。
「馬鹿だっ、大馬鹿野郎だっ」
軒を叩く雨音が、一際強くなった。
吹き込む雫は、したたか廊下を濡らしているのだろう。
その風雨よりも激しく八郎は総司を責める。
「俺はお前を京になどやらんっ、やってたまるかっ」
全てをかなぐり捨て、思うざま感情を露にして迫る、見たことも無い八郎の姿だった。
だがその険しい双眸は透けるもので覆われ、映し出している自分の姿は、きっと滲んでいる筈だ。
胸倉を掴まれ、身体を揺さぶられながら、総司は今自分に想いの丈を容赦無くぶつけてくるその八郎の眸をぼんやりと見つめていた。
「・・・やってたまるか」
やがて自分に言い聞かせるように力殺して鎮まった声が、雨の音に呑まれた。
去ろうとする者を止める腕の強さは緩められることなく、行こうとする者は身じろぎせず、暫し雨の音だけが静寂を作って幾ばくか・・
「八郎さん・・・」
呟きよりもはっきりと、まだ襟をきつく掴まれたまま、静かな声がその名を呼んだ。
「行くと、決めたのです」
見下ろした其処にある深い色の瞳が、もうそれを決めて揺るがないのだと告げていた。
「・・・前にも一度・・八郎さんに、ばかだと言われた」
湿り気無く言って笑ったつもりが、ふいに頬に伝わるものがあった。
それを隠そうにも、押さえつけられ拘束された身体は許されない。
「小野路村から、一緒に江戸に帰るとき・・・こんな雨を凌ごうと入った神社の社の中で・・・」
突然語り始めた総司を、八郎はただ凝視している。
「あの時も・・・、八郎さんは私の事をばかだと言った」
責めている口調ではなかった。
むしろその時を慈しむように、柔らかい声音だった。
「・・・あれから時は経ったのに、ちっとも前に進めない・・だからきっと私はまだばかなままなんだ」
言った途端に又、今度は両の瞳から零れ落ちるものがあった。
それでもぎこちなく、総司は笑いかける。
忘れる筈が無かった。
其処で自分は滾る想いのまま、その身を自分のものにしようとした。
それを押し止めたものは、身体を奪い総司の心を失うことへの怯えだった。
「・・・ずっとばかなままでもいい」
微塵も動かさない八郎の視線を捉えたまま、総司が更に笑おうとした。
「けれど土方さんと一緒にいる・・・」
そう決めたのだと続ける筈が言葉にはならず、これが精一杯だったのか、後はもう隠すことができない低い嗚咽が忍び漏れた。
雨脚は少しも衰える事無く、むしろ勢いを増して行く様を音にして知らしめる。
自由を奪われている最後の砦のように、総司は俯いたまま顔を上げない。
時折しゃくりあげる息で、薄い肩が大きく上下する。
身を捨てる去る最後の覚悟をしても、総司は土方に想いを告げることを己に断じた。
傍らに、ただその傍らにいたいが為に、自分に抱かれることで、ともすれば溢れ出しそうになる激しい想いを封じ込めようとした。
目の前で嗚咽を堪えて顔を上げない総司の選んだ道を、愚かだとは八郎は思わない。
今在るのは肉も骨も粉々に千切れてしまうような、苦しい切なさだった。
そして何よりも狂おしい程に総司が愛しい。
自分は、日々膨れ上がる恋慕の中で呻吟していた筈だった。
だが辛抱するのだと、堪えるのだと言い聞かせ続けた、そんな言葉の一体何処に真実があったというのか・・・
こうして肌の温もりを知ってしまい、総司への己の想いの底なき深さをまざまざと見てしまえば、苦悶の渦中と信じていた日々は、如何に優しいものだったのか。
こんな事で諦められる筈が無いと、あの夜愛欲に翻弄され疲れ果てて眠りに落ちた総司の、蒼い頬に乱れほつれた幾筋かの髪を掻き揚げてやりながら、自分は確かにそう言った。
あの時ですら、自分はとことん人を想う地獄を知らなかったのかもしれない。
想えば猛り煩悶する、恋情の業火に焦がされる本当の修羅は、今始まったばかりだった。
「諦められる筈が無い・・」
今更ながらにその言葉を噛み締めて、初めて八郎が自嘲するように低く笑った。
その声を聞いて、総司がやっと瞳を上げた。
乾く暇(いとま)も与えられぬ濡れたそれは、ともすればまた新しい露を滴らせようとしている。
この瞳に・・・囚われた少年だった夏の日から、己の運命(さだめ)はもう決まってしまったのかもしれない。
「そのばかに・・俺は未だに惚れつづけているってわけか・・」
八郎を見上げた黒曜の瞳は瞬きもしない。
「お前は土方さんを追って行けばいい。俺はお前を追いつづける・・・」
自分の全てを覆い揺さぶるように渦巻くもの、逆巻くもの・・・
嫉妬も、苛立ちも、それを凌駕する愛しさも・・・
知ってしまえば最早追いつづける他、自分は為す術をしらない。
「・・追いつづけるさ」
激しいうねりが鎮まったように、八郎の低い声が外を騒がす音を鋭く切り取って稟と室に響いた。
応えることの出来ない苦しさの代わりに、また顔を伏せた総司の蒼白い頬に、露が途切れる事無く滑り落ちる。
八郎は掴んだままの想い人の腕を離す事無く、耳に届く激しい雨音を聞いていた。
手酌で運ぶ酒が喉元を通り過ぎる度に、一瞬焼けるような余韻を残す。
雨はあれから一向止む気配は無い。
総司はそろそろ試衛館に着くのだろうか。
八郎の脳裏に、氷雨の中に小さくなって行った薄い背が蘇る。
時折道場の方角から、竹刀の合わさる音が遠く聞える。
それが今は酷く鬱陶しい。
真実欲しいものを得る為に、生まれ持って与えられた全ては要らないものだった。
己の肩に課せられたもの。
それらの重さが自分の枷になっていた日は、もうとっくに終わっていた。
気づいていた筈が知らぬ振りを決め込んでいたのは、自分の意気地の無さだったのだと、八郎は盃を当てた唇の端に自嘲の笑みを浮かべた。
「ばかなままでいい・・か」
指に挟んだ盃を遊ばせながら、呟いた声が遣る瀬無い。
捨てて・・
京に上るというのなら、自分もまたそうするまでと、決めた心に干した酒が苦く染み入る。
雨はまだ跳ね返るような強さで、降り続いているのだろか・・・
降り続き、降り続き、やがて地が受け容れ深く染み込ませるまで、飽く事無く叩くを止めないのだろうか。
それが己の行く末と重なる。
「・・・いっそ、ばかなままで上等さ」
ふらりと立ち上がり、開けた障子の外にやった視界が雫で邪魔される。
その飛沫を浴びながら、尚も其処を動こうとはせず、八郎は対峙するように朧な先を見据えていた。
雫 -sizuku-
U 了
きりリクの部屋
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