福徳円満にて、候
  (七)




 大坂に戻る堀内を、七条の船着場まで送り帰って来ると、もう深夜になっていた。
 永倉などは行儀悪く、大きな欠伸をしている。炎天を歩き回った長い一日に、総司も疲れた。体が水を含んだ綿のように重い。しかし玄関を入ったところで、副長室に来るよう土方に云われていた。その理由については、大方の予想がつく。他人事に首を突っ込んだ挙句、今日一日振り回されたのを怒っているのだ。土方はそう云う事を極端に嫌う。だが目の前の人間が難儀しているのを見たら、知らぬ振りはできないと総司は思う。それでも、叱られる事を覚悟して向かう足取りは重い。



 副長室の障子は開け放たれていた。土方は文机に向かっている。帰るや否や仕事に戻ったらしい。
「…土方さん」
 その邪魔にならないよう、総司は小さく声を掛けた。
「入れ」
 命じられるまま、振り向かない背の後ろに端座したものの、どうにも居心地悪い。ところが。
「四越の倅(せがれ)は、良かった事だな」
 小言かと思いきや、話は市太郎とおなみの件に振られた。総司は一瞬瞳を瞠ったが、
「はい」
 すぐに弾んだ声を上げた。それが、油断だった。
「ではお前も、額にこぶを作ったり、指に血豆を作ったりした甲斐があったと云う訳だ」
 あっと、思った時にはもう遅い。土方はくるりと体ごと振り向くや、腕を伸ばし、総司の右手首を掴んだ。口辺に、意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「誰に、指を吸わせたって?」
「土方さんっ」
 小さな声が上がった。土方が、血豆のある人指し指を、手妻のような素早さで口に含んだのだ。
 身を捩り逃げようとすると、手首を掴んでいる手は力を増し、更に強く引き寄せようとする。指先を弄るように舌が絡みつき、総司の背に熱い顫えが走る。頭の芯までのぼせ上りそうになるのを、時折、遠くで聞こえる人の声が、辛うじて踏みとどませる。
 そんな狼狽ぶりを上目遣いで見ていた土方だったが、とうとう総司が俯いて顔を隠してしまうと、ようやく指を開放した。だが甘美な仕置きは、それだけでは終わらなかった。
「この指を、四越の倅は、どんな風に吸った?」
 握った手首を離さず、耳朶をくすぐるように囁きながら、袷の隙からするりと手が忍びこんだ。長い指が、今度は鎖骨を滑る。
「土方さんっ…」
 渾身の力で抗っても、そんなものは片手で封じ込められてしまう。
「人が来る」
 土方は唇の端を、微かに上げた。
「では障子を閉めるか?だがこの蒸し暑さだ、閉め切った部屋を見た者は、不思議だと思うだろうな。それとも灯を消そうか?開け放った部屋の中での睦事も又おつなものだが、それでは闇にうごめく影を見た者は、何と思うだろうな?」
 さてどうすると迫られて、深い色の瞳が土方を睨んだ。眦に、薄く滲むものがある。
 そんな様子を愉しげに見ていた土方だったが、鎖骨の辺りで遊ばせていた指を、細い頤まで這わせた。強引に上を向かせた面輪は、まだ怒りの色を消してはいない。
「妬いたのさ」
 苦く笑って囁くと、睨んでいた瞳が、驚いたように瞬いた。だがすぐにそれは伏せられ、代わりに、項までもが朱の色に染まった。その鮮やかな変貌を見詰める土方の双眸に、艶な光が走る。男の欲の堪え際を、どうして教えてやろうかと一寸思案した時、
「…市太郎さんが」
 俯いたままの面輪が、消え入るように呟いた。
「おなみさんが好きだって、大きな声で空に向かって叫んだのです…」
 そろそろと瞳を上げると、総司は一瞬云い淀むように声を詰めた。だが見詰める土方の双眸に背を押されるように、
「私も…」
 再び口を開いた。そして一息に云った。
「私もいつかそんな風に、空に向かって叫んでみたい。土方さんが好きだって」
 云った途端、慌てて瞳が伏せられた。
 淡い灯が、白い頬に睫の翳を落とし、その翳が小刻みに揺れる。その姿を凝視しながら、土方は、らしくも無い当惑の中にいる。

 想い人は、どうしてこうも唐突に、そして奔放に、自分を翻弄してくれるものか…。
 こんなに真っ直ぐ想いの丈をぶつけられれば、剥いた欲の牙も潜めざるを得ない。悋気に煽られ、責めて責めて責め続け、今宵は泣いて許しを請うても放してやるまいと決めた意地が、宙ぶらりんに揺れる。
 すごすごと引き下がざるを得ない獣は、一部始終を見ていた月さえ憎らしい。
 だが、負けたのは己だ。

「…俺は今、そう叫んで欲しいがな」
 土方は、仕置きの仕上げのように耳朶を噛んだ。その寸座、膚の下に通う血の色が、総司の心の臓の高鳴りまで聞こえてきそうに、濃く頬に透けた。
 かけていた指に軽く力を入れ今一度面輪を上げると、見られるのを恥じるように、総司は瞳を逸らそうとした。が、その隙を与えず、土方は、
「これで勘弁してやる」
 愛しくも、罪作りな言の葉を紡いだ唇を荒々しく塞いだ。






 屯所の中庭に、百日紅の木が花を咲かせている。この百日紅は市太郎の家の庭にあったのとは違い、白い花をつけている。
 あの珍事からひと月が経ようとし、季節は晩夏へと移ろいだ。
 朝晩の風が孕む清々しさに、長の暑さに疲弊した人も生物も草木も、少しづつ生きる力を取り戻しつつある。
 その百日紅が見える庭に面した客間で、総司は先程から何とはなしに落ち着かずにいる。
 理由は目の前で穏やかな笑みを浮かべている、市太郎だった。

「本当に、沖田さまには何とお礼を申し上げて良いのか分かりません。あの時、沖田さまとご縁を結べなければ、私はとうにこの京から逃げ出しておりました事でしょう」
 呉服屋四越の主市太郎は、丁寧に頭を下げた。
「いえ…。私は何もしていません…」
 それに合わせて応えたものの、総司には目の前の人間が、あの市太郎だとは思えない。外見だけ同じくして、中味は全く別の人間が市太郎を演じているようにすら思える。
「あれから、おなみとは内輪だけで祝言を上げました。今ではおなみもすっかり店に慣れ、恙なく幸せに暮らしております。それもこれも、みな沖田さまのお陰でございます」
 奇妙な面持ちでいる総司に、市太郎は柔和な眼差しを向けた。そして横に置いてあった風呂敷包みを前に回すと、縛り目を解いた。
 包まれていたのは、淡い緑黄色の反物だった。市太郎は、それを慣れた手つきで転がした。
 勢い良く畳を滑った反物が全容を現わにすると、始め色の濃淡かと思ったものは、草花の染めだと分かった。
 
「この色は、浅くちなし色と申します。柄は秋草の模様を白く残した白仕上げの光琳模様。私が、初めて取引を結んだ織屋と染屋で作らせました」
「では市太郎さんの、京での初めての仕事ですね」
 着物の事は分からないが、市太郎の仕事が上手く回り始めた事に、総司の声が弾んだ。
「左様でございます。まだまだこれからですが、おなみと二人手を取り合って、商いに精進して行く所存でございます」
「良かった」
「本日お邪魔したのは他でもございません。御恩を形に変えるなど、到底できる事ではございませんが、せめて気持ちだけでもと、この反物を沖田さまの姉上さまにお納め頂きたく、足を運びました」
「姉に?」
「はい、左利きをお叱りになられた姉上さまに…」
 市太郎は、柔らかく笑った。
「頂けません」
 総司は慌てて首を振った。
「この先、市太郎さんが躓いたりくじけそうになった時、この反物は、きっと励みになります。そんな大切なものを、頂く訳には行きません。…それに」
 云いにくそうに、語尾が濁った。
「それに?」
「…市太郎さん、さっきから変です」
「変…、とは?」
「どうって…」
 総司は言葉に窮した。
 我儘で強気で、誰はばかることなく思った通りを口にし、勝手気ままが、総司の知っている市太郎なのだとは云い難い。
 ところが…。云い澱んで思わず瞳を伏せた途端、市太郎の唇の端が上がった。それを総司は知らない。
「ふふん」
 だから突然の声に驚き瞳を上げると、そこに意地悪そうな笑みを浮かべている顔があった。
「我儘で、好き勝手な事を云い放題なのが、あたしだって云いたいんでしょ?」
「……」
 総司は黙った。そうだとは、流石に云えない。それを見越したように、
「じゃぁそうして上げるわよ、でもさ、あんたが四越市太郎より、このあたしの方がいいってんだから、お咎めは受けませんよ」
 ツンと、市太郎は顎を上にした。
「はい」
 その様子がいかにも市太郎らしく、また懐かしくもあり、総司の頬が緩んだ。
「おなみちゃんとあたしが結ばれるのは、端から決められた天の定めだから、あんたにお陰さまって云う義理も無いけどさ、一応、反物は鼻緒の挿げ替えのお礼。とっておきなさいよ、悪い代物じゃないわよ。何しろあたしの初仕事だもの。どうせ姉さまに便りなんて出しちゃいないんでしょ、あんた。また左利きになっちゃいないかと、姉さま、西の空を見て案じていなさるわよ」
 素の市太郎を知れば、嫌味三昧の物言いも、姉との昔話に借りた真心だと分かる。
「…案じているかな」
「あたりまえでしょっ」
 叱られるのを覚悟で云った言葉に返った響きはやはり厳しく、それが総司には心地良い。
「あんたって、本当に姉さま不孝ねっ。自分の事を心底案じてくれる人間なんて、この世にそうそういないのよ、それを粗末にするなんて罰あたりもいいとこ。反物送って詫びたくらいじゃおっつかないわよっ、分かってんのっ?」
 市太郎の勢いに気圧され、総司は瞳を見開いて頷いた。
「ではこれ、頂きます」
「最初から素直にそう云えばいいのよ」
「ありがとうございます」
 眉を顰めた市太郎を見る総司の面輪に、笑みが広がった。
「けれど良かった。おなみさんも幸せそうで…」
「おなみちゃんにさ、家の事なんかしなくていいって口をすっぱくして云うのに、根が働き者だから、少しの間も休まないのよ。芝居に行こうよって誘っても、主人が遊んではったら店の者にしめしがつきまへん、とか云っちゃってさ、ちっとも構ってくれやしない。だからあたしも、朝から晩まで馬車馬のように働いて、夜になってやっと、おなみちゃんに膝枕してもらえるのよ」
 市太郎は口を尖らせながら、愚痴を惚気に変えた。
「その上、おなみちゃん、あの魚屋の事まで、世話をやいてんのよ」
「喜八さんの事ですか?」
 市太郎と関わる切欠を作った簪は、無事喜八の元に届けたと、斉藤が教えてくれた。だがその後、あの簪が喜八の希を叶えたかどうかまでは分からず、総司も気になっていた。
「そうそう、喜八。おなみちゃんたらさ、自分だけ幸せになるのは罰が当りそうだとか云っちゃって、二人の仲まで取り持ったの」
「おなみさんが?」
「お陰で、秋には祝言を上げるみたいよ、あの二人。他人の色恋なんて放っておきゃいいのに、おなみちゃん優しいからできないのよ」
 市太郎は不満げにうそぶきながら、出された茶に手を伸ばした。
「…役に立ったんだ、あの簪」
 そっと呟いた声を、初秋の風が浚う。その時。
「それは置いといてさ」
 茶で喉を潤した市太郎の目が、不意に輝いた。
「ここに案内されて来る時、土方とか云う副長さんとすれ違ったのよ」
「土方さんに?」
 同じ屯所の中だから、別段不思議はない。だが市太郎の目にはありありと好奇の色がある。
「ねぇ、あんたのいい人ってさ、あの副長さんじゃないの?」
 総司の面輪に、たちまち狼狽が広がった。
「ふぅーん、図星らしいわね。そんな顔しなくてもいいわよ。誰にも云いやしないからさ。あんたって隠し事まで下手ね」
 市太郎は、にやりと笑った。
「ほんの一瞬だったけれどさ、あの人、あたしに恐ろしい一瞥をくれたの。ああ云うのを、射竦められるって云うのね、背筋に顫えが来たわ。でも初対面の人に、そんな怖い思いをさせられる謂れは無いしと不思議でさ。そうしたら不意にあんたの顔が思い浮かんで、もしかしたら、って思ったのよ。何しろあたしは、あんたの額にこぶこさえさせたり、指に血豆を作らせた人間ですからね。あんたに惚れている相手からすりゃ、可愛い奴を苛めた憎らしい仇ってわけだもの」
 市太郎は悠然と茶を啜りながら、伏せてしまった面輪を意地悪く観察している。
「ねぇ」
 俯いている総司に、市太郎がずいっと身を寄せた。
「好きなんでしょ?あの男前な副長さんの事」
 覗くように間近で顔を見られ、総司は益々うろたえる。
「じゃ、嫌いなの?」
「……」
「ええもうっ、回りくどいわねっ。好きは好き、それでいいじゃない」
「好きは、好き…?」
「嫌いじゃないならそうじゃないの?」
「……」
「好きなんでしょっ?」
 迫られて、総司の狼狽は頂点に達し、気付いた時には顎を引いていた。
「まったく世話が焼けるんだから」
 市太郎は、やれやれと云う風に首を振った。
 だが舌鋒鋭く糾され、そうだと頷いてしまった後、総司の心は何故か軽かった。しかもあろう事か、土方が好きだと声にしてみたい衝動に、突然駆られたのだ。
 堅く胸に秘めていた恋心を、自分から他人に語るなど思いもよらなかった。だから総司自身が一番驚いている。けれど一度芽生えた思いは、みるみる胸一杯に膨らみ、ときめく心は、もう我慢が効かない。
 おなみが好きだと、天蓋を劈くように恋の成就を叫び、喜びの迸るままに号泣した市太郎だからこそ、聞いて欲しかった。土方が好きだと――。

「市太郎さん…」
 茶を呑む手を止めて、市太郎が総司を見た。その市太郎に身を寄せると、
「…誰にも内緒です」
 総司は小さく云った。
 そして耳元に唇を持って行き、一度息を詰め、囁いた。
 市太郎の目が柔らかく細められ、やがて満足そうな笑みが顔に広がった。
 唇を離すや、
「…内緒です」
 顔を伏せてしまった総司は、耳たぶまで真っ赤にしている。
「ほら、ごらんなさいよ」
 市太郎が得意げに、鼻を鳴らした。
 けれど総司は顔を上げられない。その代わりのように、おろおろと、細い肩が縮こまった。
 





 かくなる仕儀にて――。
 市太郎殿より頂戴し呉服一反、お送り致し候。
 こたびの件にて、市太郎殿、おなみ殿、喜八殿、おゆう殿、京にて、又親しき人々に恵まれし幸いを福徳円満と云うと、堀内さまよりお教え頂き候。

 総司は筆を止めた。そして一寸迷った後、筆に墨を含ませると、姿勢を正し、又紙に向かった。そして一気に書き上げた。

 京に来てのち、左を利き手にする事はなかりせば、姉上には、何卒ご安心下さいますよう。

                                                  総司

  総司は庭に目を遣った。
  百日紅の木に、包み込むような優しい陽が差し、庭には柔らかな光が満ちている。
  新しい季節が、いつの間にか、忍びやかに寄り添っていた。


 




                                  福徳円満にて、候     了







きりりく