いまだ降りやまず・・・ 弐
少年の激しい視線を受け止めて、らしくも無く八郎はたじろいだ。
それ以上にこんな頼りない少年の視線に
やり込められている自分にも驚いていた。
「私はもう十五です」
宗次郎は八郎に向けた双眸から子供と言われた事が
承服できないと言うように憤りの色を消さない。
「助けてもらった礼も言わずに文句を言うのは
十五でも、十六でもただの餓鬼に相違ないぞ」
だが土方の鋭い声音に咎められて、
宗次郎の蒼白だった頬に一瞬の内に朱が上った。
躊躇うように八郎に向けていた視線をさ迷わせたが、
「・・・すみませんでした」
心底申し訳なさそうに、宗次郎は八郎に向きなおって深く頭をさげた。
うな垂れて詫びる宗次郎の項(うなじ)のか細さに、
それまでの勝気がこの少年の必死の構えの様にも思えて、
八郎は何故かぶつけられた無礼を怒る気も起こらず、
「大したことじゃぁない」
それでも横柄に応えを返したのは
それが己のせめてもの背伸びだと言う事を、八郎自身も叉知らない。
「あんたには世話になったな。名前を聞いておきたいが・・」
それまで少年同士の会話を黙って聞いていた土方が八郎に問うた。
「名乗る程でもないし、俺は何もしてはいない」
「礼を言われ名を問われて、知らぬふりをするのも餓鬼だぜ」
唇の端に少しばかり笑いを浮かべて言われ、
今度は八郎の顔がみるみる怒りのそれに変わった。
「伊庭八郎だ」
短気を漸く押さえて低く告げたつもりが、声が強張るのを止められない。
「伊庭・・・」
土方は一度その名を自問するように呟いたが、
「あんたが伊庭の小天狗か」
やがて八郎に向けた顔に興味の色を露(あらわ)にして笑った。
「俺を知っているとはあんたも耳が早いな」
「剣術を多少なりともかじる奴なら知っているだろうよ。
俺は土方歳三、これは沖田宗次郎。もっとも、こいつは知らんだろうが・・・」
そこで初めて土方は宗次郎を振り向いた。
二人の会話を聞きながらも、
何とか気力だけで体を支えているのだろう、
宗次郎の顔色は相変わらず青い。
その宗次郎に向かって土方が
「行くぞ。試合にでるのなら一人で歩いてこられるな」
腰を上げながら問い掛けた。
「はい」
力の弱い声ながらも、はっきりと応えを返して立ち上がろうとしたその刹那
不安定に体が揺れて八郎は咄嗟に手を伸ばしたが、
宗次郎はその手をやんわりと押さえた。
「・・・大丈夫です」
初めて八郎に向かって恥じるように小さく笑った。
そのままもう一度礼をするように頭を下げると、
先に炎天下に歩き出した土方の後を追い始めた。
ゆらゆらと揺れる蜃気楼にも似た灼熱の乾いた景色の中で、
八郎の目に痛々しいほどに薄い宗次郎の背が消え行きそうに儚く映った。
必ず宗次郎が付いて来ると決めているかのように、
土方は決して後ろを振り向こうとしない。
その土方を追うのが当たり前のように、
宗次郎の体が八郎の視界の中で小さくなって行く。
立ち尽くしたままの八郎の手が、
つい先程まで支えていた人の重みを恋しがるかのように物足りなさを訴える。
置いて行かれるのは自分か・・・それが何故か酷く寂しく思えた。
その思いがどこからどんな風に湧いて来たものなのか分かりもせず、
八郎は気が付いた時には二人の後を追い始めていた。
まだ幾重にも人垣が出来ている奉納試合が行われている神社の境内に来ると、
「若っ」
高木新造の少々青ざめた顔が八郎を呼んだ。
供に付いて来てきたはずが試合に夢中になって
八郎とはぐれてしまったことにずいぶんと慌てたのだろう。
八郎を見つけた律儀そうな顔がひどく狼狽していた。
それには応えず、
「この奉納試合はどこの流派だ」
八郎は逆に新造に問いながら、
ずんずんと人垣を分けて試合の良く見える場所を探す。
「はぁ・・・確か、天然理心流とか言っていましたが」
八郎の後に必死に付いて行きながら新造は先程、
野次馬が言っていたことを思い出して告げた。
「聞いたことのねぇ流派だな」
「田舎の流派でしょう。ここらの門弟を集めての奉納試合ということですから」
「・・・だろうな。だが・・」
言いかけた八郎の言葉が途中で切れると同じくして、足も止まった。
「・・若っ」
急に立ち止まった八郎の背にあやうくぶつかりそうになって、
新造は不満の声を漏らした。
だが八郎は何かに視線を捉われた様に一点を凝視して動かない。
さすがに不審に思った新造が八郎の視線を追った先に、
一人の少年が白い鉢巻を締めて、中央に進み出るところだった。
竹刀を握る腕もそれを支える肩もまだ子供の細さで、
鉢巻の下にある頬にも幼さを十分に残す少年は
多少なりとも腕を自慢する奉納試合の参加者の中にあって
新造の目にも酷く不釣合に思えた。
顔が青ざめているのは緊張のせいだろう。
「子供まで出す必要はありませんでしょうに・・・」
「黙ってみていろ」
新造の憂慮を鋭く制して、八郎は宗次郎から目を離さない。
八郎より一つ歳下だと言ったあの少年が、
寄る辺も無い心細さに縋る瞳をして
自分の腕に支えられていたのはつい先程のことだ。
その同じ少年が今辺りを払うような静けさを湛えて
向かう相手に竹刀を繰り出そうとしている。
その強靭とも言える精神の毅(つよ)さに
最早言葉も忘れて、八郎の視線はただ宗次郎一人だけを追う。
宗次郎の相手は日頃は野良仕事で鍛えているだろうと十分に思える
頑健な体を持つ大人の男だった。
周りを囲む人垣からもあまりに正反対な宗次郎を哀れむ声が漏れる。
が、次に周りが衝撃に揺れたのは、
二人が立ち会い、竹刀を交わしたと見えた寸座、
ゆっくりと土ぼこりを上げて前のめりに倒れたのが、
宗次郎のゆうに二回りはありそうな男の方だったからだ。
八郎の隣に立っている新造は夢でも見たかの様に目を擦っている。
その新造に声も掛けず、八郎は横をすり抜け人垣の外に出た。
傍から見れば何が起こったのか分からなかっただろう。
それ程までに宗次郎の動きは一瞬の無駄も無く素早かった。
それでも八郎にははっきりと宗次郎の動きが見えた。
相手が上段から竹刀を繰り出しそれが届く前に、
宗次郎の腕は瞬きも許さぬ早さでまっすぐに伸び、
竹刀は男の胸元を恐ろしいほど正確に突いていた。
江戸四大流派の一つと数えられる心形刀流の後継者でもあり、
若年にして『伊庭の小天狗』と異名を取る八郎から見ても、
多分宗次郎の剣は天稟と言うべきものなのだろうことは知るに余りある。
だがそれよりも八郎は今、宗次郎が天から授けられた資質に
理由の付かぬ不安を感じている己の思考にこだわった。
宗次郎といっときの縁を持ち、傍らで知ったのは、
あの少年が常に二つの相反するものをその中に共有していることだった。
脆弱な肉体と強い精神。
危うげに脆い心と逆巻くような激しい感情。
そして天賦の才と・・・・
その反するものがもしや夭折を意味するのでは無いかと
不吉に危惧するのは宗次郎を知るものであれば
或いは自分ばかりではないかもしれない。
天は時に己がこの世に創りし実を悪戯にもぎ取ろうとする。
八郎は昨年父伊庭軍兵衛のあまりにあっけなさすぎる死に直面し、
その不条理を生まれて初めて知った。
(・・・・馬鹿な)
何をここまで知り合ったばかりの少年に拘るのか・・・
八郎は軽く頭を振った。
後ろで一際大きな歓声が上がった。
宗次郎が又誰かを倒したとは容易に知れた。
天道はさらに高く回り、上から突き射すような日が焼けるように暑い。
(この暑さのせいだ・・・)
十六歳の八郎は、全てを夏が見せる朧なものと決めつけて、
容赦無い日差しの眩しさに、漸く手の甲を目の上に翳した。