いまだ振りやまず・・・   八

 

 

 

 

打ち続ける雨音を聞くともなしに耳にしながら、

八郎はただ黙って、横を向いてしまった総司の傍らにいた。

 

嗚咽に堪えかねて時折しゃくりあげるように肩が揺れていた総司の

その感情の昂ぶりが静かに引いてゆくのを見届けると、

八郎はようやく視線の全部を隣に移した。

 

何を思っているのか、

総司は横臥したまま八郎に背を向けて身じろぎもしない。

 

「総司」

呼びかけた八郎の声にも振り向こうとしない。

 

 

 

八郎の声を背中越しに聞きながら、総司は己の業の深さに怯えていた。

 

八郎の思わぬ激情を目(ま)の当たりにぶつけられ、

咄嗟に叫んだのは土方その人の名だった。

決して知られてはならない胸の内と、頑なに戒(いまし)めた心は

たった一言漏らしたその言葉で、あまりに脆く崩れ去った。

 

一度零れた土方への想いは、

堰を切ったように次から次へと留まることを知らなかった。

 

土方を誰のところにも遣りたくはない・・

誰のものにもしたくはない・・

こんなことを真実願う自分が情けない。

自分はこんなにも弱い人間だったのか。

 

先程しとどに頬を濡らした雫はもう乾いている。

だが八郎の顔を見ることはできない。

 

自分は恐ろしい程強欲で醜い心を持った人間だ・・・。

 

 

 

 

 

「・・・お前も馬鹿だね」

物言わぬ総司に焦れたように、吐息ともつかぬ八郎の低い声がした。

 

「・・・顔を見たくなけりゃそのままで聞きいていろよ」

痛々しい程に薄い背中一枚を唯一の盾にして、

己を守るかのように体を縮こめている総司に向かって八郎は語りかけた。

 

 

 

「お前が土方さんを想っていたのは知っていたさ。

・・・・俺はそのお前を追っていたんだ。分かって当然さ」

 

総司の肩が微かに動いた。

それを殊更見ぬふりをして、更に続けた。

 

「いつの間に、こんな風にお前を想うようになったのか、

俺にもはっきりとは分からない。

だが気付いた時には俺はお前に惚れていた・・・」

 

 

 

薄い板を叩く雨の音が先ほどよりも穏やかになった。

 

だが今自分に語りかける八郎の声音はそれよりも優しい。

その声が途切れて、総司がのろのろと体を起こした。

 

それでもまだ後ろを見せたままの総司から、

八郎はもう一度視線を逸らせた。

 

 

報われることは無いと分かっていながら、顔を見ればまた想いは溢れかえる。

引いては満ちる潮のように、海に繰り返す波のように、

或るいは激しく或るいは静かに深く、

絶える事無くこの先も己を捉え苦しめるだろうこの想いの捨て方を、

八郎は知らない。否、今はまだ知ろうとも思わない。

 

そんな詮も無い先へ思いを馳せらせながら、八郎は総司へ言葉を続ける。

 

 

 

「きっと幾つもの切欠(きっかけ)があったんだろうが、

そんなものはいちいち覚えちゃいやしない。・・・お前も同じだろう?

だがな、惚れていると気付いた時には遅かった。

もう相手の気持ちも体も、そいつの全部が欲しい。

ほかの誰かにくれてやるなんざ、真っ平だ。

そんな風に思う自分しか居なかった。そうとしか思えなかった。

・・・・惚れるっていうことは、そういうことさ」

 

むしろ淡々と紡がれるその言葉に、総司はやっと顔だけを八郎に向けた。

その気配を感じて、八郎もゆっくりと視線を総司に合わせた。

 

そのまま総司は虚脱したようにぼんやりと八郎を見ている。

その総司に向けた八郎の双眸が柔らかかった。

 

 

「惚れた相手を想う気持ちってのはな、押し込めりゃ、出せと膨れ上がる。

辛抱しろと言い聞かせても主(ぬし)の言い分なんざ聞ききはしない。

自分じゃどうにもならない、堪えることもできない。全く厄介なもんさ。

それでもな・・・、総司」

 

八郎は言葉を切って、一度宙に視線を浮かせたが、

 

「・・・伝えなけりゃ土方さんにはお前の気持ちは通じないんだぜ」

再び総司に戻して告げた目が、限りなく深い色を湛えていた。

 

 

 

八郎の瞳に揺れる切なさは、自分が持つものと同じものだ。

胸の内を垣間見れば、紛れも無く自分と同じ苦しさに呻吟しているはずだ。

先程八郎がぶつけた激しい感情の滾(たぎ)りは、

今の自分の土方への想いそのものだ。

 

それでも自分は・・・

 

見つめてくる八郎の視線に縫いとめられたまま、

だが総司は俯いて微かに首を横に振った。

 

 

 

「・・・伝えることはできない」

「何故。お前はさっき言ったじゃないか。他の誰かに取られるのは嫌だと」

 

下にしていた瞳を上げて八郎を見ると、やはり総司は首を振った。

 

「邪魔にはなりたくない」

「邪魔?」

「あの人は・・、土方さんは今自分の道を探している」

 

己の生き方を見つけられぬ土方の焦りを、

自分は傍らで何をすることもできずに見ている。

せめて今は見ていることしかできない、何の力も無い自分だ。

 

 

「そんなことは土方さんの勝手だろう。

自分の生きかたや道なんて云うものは、あの人が好きに見つけりゃいいのさ。

お前がそれに遠慮することなど、ひとつもない」

「それでも今は言えない」

「ならばお前はこのままずっと何も無い顔をして

土方さんの傍らにいられるのか?お前はそれでいいのか」

 

「・・・あの人の重荷にはなりたくない」

激してきた八郎の昂ぶりを押さえるようにして、総司は微かに笑った。

 

 

「今この気持ちを土方さんにぶつければ、あの人はきっと困る。

自分のことだけで必死なのに、その重荷にはなりたくない。

迷惑だと蔑まれても、どんなに嫌われてもいい。そんなことには耐えられる。

でも二度と会えなくなるのなら死んだほうがいい。

・・・土方さんの傍にいたい」

 

言葉の途中で乾いたと思った瞳からひとつ雫が頬を伝わった。

今日の自分は何だか変だ。泣いてばかりいる・・・

それを乱暴に手の甲で拭って、総司はぎこちない笑みを作った。

 

 

 

 

「・・・お前はやっぱり馬鹿だよ」

溜息のように呟いた八郎の声が遣る瀬無かった。

 

「きっとそうだ・・」

まだ零れる雫に呆れながら、総司は更に笑おうとした。

 

「その馬鹿に俺は惚れたってわけか・・・敵わないはずだぜ」

 

八郎の言葉に、今度こそその顔が泣き笑いになった。

 

 

 

したたかに打ち続けていた雨は、

聞けば音もなく淑(しと)やかな降りに変わっていた。

 

激しく求める心よりも、静かにいとおしむ心の方がずっと切ない。

胸に流れる苦しさに八郎は吐息した。

 

 

「・・・馬鹿だよ」

低く漏らした呟きは、今度は確かに己自身へのものだった。

 

 

 

 

 

 

結局雨は小降りにはなったものの止むことはなく、

途中笠を調達して内藤新宿まで来ても

突然の天候の変化に稼ぎ時の駕籠を拾う事も侭ならず、

牛込の試衛館にもうすぐまでという所まで来た時には、すでに夜も更けていた。

 

気丈に振舞ってはいたが、やはり総司の顔に疲労の色は隠せない。

 

坂を途中まで登った所で、

試衛館のある甲良屋敷の門から提灯を持った者が飛び出してきた。

 

その人物が誰か分からず八郎と総司は足を止めていたが、

ずんずん近づいてきた人影は、

二人に気付くと一寸手にしていた提灯を掲げ、

やがてそれが八郎と総司と知ると、

 

「総司っ」

近藤の、腹の底に響くような大きな声が辺りを震わせた。

 

 

 

 

先程から総司は近藤の前で端座してうな垂れている。

 

小野路村の橋本家では、止めることができずに帰してしまったものの、

まだ十分に回復したとは思えぬ総司の体を心配すれば

無事に辿り着けたのかが苦労になり、あれからすぐに江戸の試衛館に使いを遣った。

その使いの者の方が、総司達より一刻程早く着いてしまった。

知らせを聞いて未だ戻らぬ二人を案じ、

近藤達が近くを探しに出かけるところだったという。

 

 

我侭を貫き通して周りにどれ程か要らぬ心配を掛けさせたことを、

近藤は諄諄(じゅんじゅん)と総司に諭している。

 

八郎はその総司の後ろで柱に背を預けて座っている。

決して行儀の良い格好ではないが、

総司を送り届けたら今日はすぐに御徒町に帰るつもりだったから、

濡れた着物をざっと拭いただけで

端座なぞをした日には袴の雨湿(あまじめ)りが気持ち悪い。

 

 

流石に総司は濡れたものを着替えてはいたが、それでももう休ませてやって欲しい。

心配した苛立ちをつい小言に変えてしまう近藤の気持ちも分からぬではないが、

今日は色々なことがありすぎた。

 

 

「近藤さん、もう総司もわかったと思うよ。・・それより土方さんは・・」

 

後ろから近藤に声を掛け、話題を反らして助けてやるつもりだったが、

土方という言葉に背中越しに総司の肩が微かに動いた。

 

「橋本さんからの遣いが来て、

すぐにその辺りを探してくると飛び出して行ったが・・」

 

だが近藤のその言葉の終わらぬうちに、

古い廊下を軋ませて大股にやって来る足音が聞こえた。

 

 

その足音に室に居た三人が振り向いたとき、

土方が敷居の前で立ち止まり、荒く息を切らせていた。

 

傘もささずに外を探していたのか、

濡れた露が髪から顎を伝わり、したたっている。

目は見開いたまま総司を凝視している。

 

 

「歳・・」

 

近藤が何か言おうとしたが、土方はその声すら届いていないかのように、

総司に向かっていきなり詰め寄った。

 

その勢いに気圧(けお)されて八郎と近藤が思わず息を詰めた時、

土方に腕を掴まれた総司の頬が鳴った。

 

 

「歳っ」

今度は近藤の怒声が鋭く響いた。

 

それすら聞かず、

「何故こんな心配をかけるっ」

総司を睨みつけるように見据えたまま、土方の声が震えていた。

 

 

「・・・・すみません」

一瞬瞳を揺らし、消えゆるような声で詫びた総司が俯いた。

 

みるみる朱く染まる、打たれた片頬が痛々しい。

それを見ていた土方の顔が歪んだ。

総司を掴んでいた腕を乱暴に離すと、

そのまま黙って荒々しく室を出て行った。

 

 

「総司・・・」

探るような近藤の呼びかけに総司は伏せていた面(おもて)を上げて笑いかけた。

「大丈夫です」

その笑みに、近藤の安堵の息が漏れた。

 

 

 

「じゃぁ、俺はそろそろ行くよ」

黙って成り行きを見守っていた八郎が腰を上げた。

門まで送るという近藤を勝手知ったる家だからと八郎は制した。

 

「八郎さん・・・」

「今日は良く休みなよ」

一言だけ言い置いて背を向けた八郎に、総司は深く頭を下げた。

 

 

 

 

玄関まで行く途中、廊下を歩いていて庭に人影があった。

 

「こんなところで八つ当たりの後悔かよ」

濡れるのも構わず降りてその背に声をかけた。

 

「・・・お前か」

「ご挨拶だね」

「今日は総司が厄介をかけたな」

「礼はいらねぇよ」

「何をやるものもないさ」

 

そう言いながら苦笑したこの男に、

ならば総司をくれと言ったら、どんな顔をするのだろう・・・

そんな埒も無いことを半ば本気で考えている自分を八郎は笑った。

 

 

「何がおかしい」

「いや、何も・・。だがあんたがあんなに怒ったところは初めて見たよ」

「自分でも分からんのさ。何故あんなことをしたのか。

あいつの顔を見た時、安堵するより先に怒りで手が出ていた」

土方は自嘲するように低く笑った。

 

「それは・・・」

言いかけて八郎は止めた。

 

「何だ・・・」

「何でもないさ」

「変な奴だな、帰るのか?」

「明日は養父殿と講武所に行かねばならない。今日は帰るよ」

「そうか・・・。なら傘を持ってゆけ」

「言われなくてもそのくらいはさせて貰うさ」

 

 

 

 

土方のよこした傘をさして下る坂は暗い。

 

何故土方があれ程までに激怒したのか、

そんなことは土方が自分で考えればいい。

応(いら)えは自分で探すがいい・・

 

「決して教えてなどやらぬさ・・・」

思わず呟いて、己の恋敵への稚気に触れて八郎は苦く笑った。

 

視線を遣ったその先に雨は煙るように降り、闇は更に深かった。

 

 

 

 

 

土方は自室に戻ると濡れた着物の帯を解き始めた。

滴るほどに露を含んだ着物を纏っていては夏とは言え、流石に体が冷えてくる。

 

右の掌(たなごころ)に総司の頬を張った感触がまだ残る。

全ての動きを止めて、その手の平を見た。

 

 

十日前・・・・高熱の総司は水を求めて必死に自分に縋ってきた。

その総司に水を与えるのは自分しかいないと思った。

 

橋本の家からの使いの話を聞くや否や飛び出したのは、

きっと総司は自分を探していると思ったからだ。

訳も無い勘といえばそれまでだが、だが自分にとってそれは確信だった。

 

 

開いていた手のひらを静かに握った。

 

確かに総司の頬を張った自分は行過ぎたかもしれない。

それでも自分はあの時、感情を抑えることが出来なかった。

 

土方は憂鬱にひとつため息をついた。

 

 

 

 

 

 

横になっても眠ることなどできはしない。

寝返りを打った幾度目かに、とうとう総司は褥から体を起した。

 

 

土方は自分を心配してくれていた・・・

 

左の頬におずおずと手を触れてみる。

張られたそれはまだ熱く熱を持っている。

そのまま指をずらして唇に当てた。

・・・・消えぬ感覚が蘇る。

 

 

頬より痛いのは自分の胸の中だ・・・

唇より切ないのは自分の想いだ・・・

 

 

暗い室に満ちる息苦しさに、

総司は立ち上がって廊下に出ると、閉めてあった雨戸を少しだけ開けた。

 

 

いつまで自分はこの想いを隠し通せるのだろう・・・

いつかきっと堪えられなくなる日が来る。

 

その日がそう遠くない予感に総司は小さく震えた。

 

それでも自分は隠し通さねばならない。

土方の傍らで、土方が自分を受け入れてくれる日まで・・・

 

 

 

だがそんな日が果たして自分に来るのか・・・

 

それすら知れぬ朧(おぼろ)な先に思いをめぐらせて、

いまだ降りやまぬ雨の音を聞きながら、

総司は飽かず闇の向こうを見つめていた。

 

 

 

 

 

了   

 

 

 

 

             裏文庫琥珀       いまだ降りやまず・・・ 2002.4.27