宴 -utage-  (下)





「せやけど、ほんまお綺麗なお方どすなぁ。お名前、聞かしてもろうてもええですやろか」
梅香の声も眦(まなじり)も、さっきよりもずっと上がっている。

「みつ殿と言われる」
大仰に応えたのは八郎だった。
その言葉に、総司も土方も田坂も咄嗟に八郎を見た。
名前の打ち合わせまでした覚えは無い。
それにみつという名前は総司の姉のものと同じだった。
いつの間にか勝手に決められて、尚且つ安直な名付け方に土方が苦々しげに眉根を寄せた。

「いやええお名前どすなぁ。どないな字ぃを書かれはるんどす?」
大して良いとも思っていないような調子で、横から別の女が土方の顔をちらりと覗いて口を挟んだ。
その視線を受けて、土方はふとこの女の方頬だけに浮かぶ笑窪に見覚えがあった。
が、思い出せない。

「漢字では満(みつる)と書く。でしたな、満殿」
八郎のどこか嬉しげな眼差しに、総司が大急ぎで首を縦に振った。
姉の名前ならこの先呼ばれても多分自然に反応することができる。
総司は八郎の機転に感謝した。


が、八郎の胸の裡はそうでもなかったようだった。
(満願成就の満・・必ずやそうなるようにしてみせる。・・・伊庭満・・・響もいい)
縋るような総司の瞳に、八郎は満足そうに頷いてやった。


(田坂満・・・悪くは無い。が、恋敵の片割れが付けた名では面白く無い。
いっそ漢字をやめて、みつと平仮名にしてみれば柔らかな感じで良いかも知れない・・)
田坂はそんなことを考えながら、横に小さくなって座っている総司に目を遣った。


(土方満・・・悪くは無い。が、総司の姉と同じ名では日野に帰った時に皆が紛らわしいと思うだろう。
やはり名前は自分で考えてやらねばならない)
土方はとんでもない思考に飛んでいる自分をおかしいとも思わず、田坂と伊庭に挟まれて身を縮めている総司に視線を遣った。


(・・・みつ。どこにでもある名やわ。あほらし)
梅香は名前に梅の字が入ってなかったことに、とりあえず気分が良かった。


「ほなみつはん。おひとつどうぞ」
梅香はほんのり笑いかけて総司に盃を持たせようとした。
その盃を見て、総司は慌てて首を振った。

大体が酒は弱い。
それにも増して、もしもこんな大切な場で酒に酔ってしまったが為に、役目を果たせず近藤の努力を無にしてしまったら、自分は何と詫びて良いのか分からない。

「みつ殿は少し風邪気味で・・酒は控えている」
田坂が横から助け舟を出してくれた。
「それは寂しおすなぁ。ほなお嬢はんの分まで男はんたちに楽しんでもろうてええやろか・・」
ほっと胸をなでおろした総司に、梅香は我が意を得たりと微笑んで問うた。
悪かろう筈が無く、総司は大きく頷いた。




女達のもてなし様は、尋常では考えられない盛り上がりだった。

土方と八郎と田坂の両脇にはそれぞれにひとりづつ女が侍り、いつの間にか総司は座敷の賑わいから取り残されたようにぽつんと座っている。

これは見合いの席だからただ大人しく座っていれば良いのだと、幾度も土方に言い含められていたから、総司は忠実にそれを守って俯いている。
時々視線を感じて顔を上げると、土方や八郎や田坂が自分を見ている。
それに堪えられないように、又すぐに顔を伏せてしまう。
その繰り返しだった。

情なくて、今すぐにでも席を立ってしまいたい。けれど、近藤の為にはどうしても何か手がかりをつかまなくてはならない。
自分の勝手な事情で躊躇している暇は無いはずだ。
せめてこの酒宴が終わるまでには、探られるものは探らねばならない。
総司はひとつ覚悟をすると、自分の心を奮い起こして改めて周りを見渡した。


が、そこでふと少しばかりおかしな状況になっていることに気付いた。
先ほどまで怒ったように仏頂面を崩さなかった土方の表情が、少し緩んでいる。
見れば八郎も田坂も適当に相好を崩して酌を受けている。

土方の隣りに座ってしな垂れかからんばかりに体を寄せているのは、自分に一番怖い目を向けた女だった。
最初に此処に来た時に、脇に居た土方があれが目的の女だから用心するようにと、素早く耳元に囁いた。
その女は座敷に座らさせられるや否ややって来て、酒を飲ませようとし「梅香」と名乗った。


梅香は今土方の体に沿うようにしている。
それを見て総司は何故だか胸の裡が落ち着かない。
ひどく嫌な気がする。
だがきっと土方も役目の為に堪えているのだ。
自分のつまらぬ嫉妬で邪魔をしてはならない。総司は必死に自分の心を叱咤した。

それでも土方の顔が満更でもなさそうに見えるのはどうしてだろう。
きっと気のせいだ。
土方は近藤の為なら何をも厭わない人間だ。
自分ばかりが我儘を顔に出すわけには行かない。
だが言い聞かせる心とは裏腹に、視線は土方と梅香に釘付けられて、どうにも離す事ができない。


梅香の手が土方の腕に触れた。
白い手は少しふっくらと、それでいてしなやかで、十分に美しかった。

総司はそっと自分の膝に置かれている手指を見た。
青白いそれは少しも柔らかそうではなく、ただ細く薄く冷たく見える。
総司はその手指を隠すように、ぎゅっと掌に包んで握り締めた。

これは芝居だと分かっているのに、土方が梅香に笑いかけるのを見るのは、何だか切ない程に哀しかった。



そんな総司の様子に梅香が気がついたようだった。
さりげなく土方の脇を離れると、今度は総司の横にやってきて座った。

「お嬢はんにはつまらなおすやろ」
嫣然と微笑む作り笑いには自信がある。
総司はどうして良いのか分からず、小さく首を振った。

「あんなぁ・・。うち絶対に言わんとこ思ってましたんやけど・・」
そこで梅香が眸を伏せて深く溜息をついた。
それを不思議そうに見る黒曜の瞳に、梅香は又笑いかけた。
それが妙に寂しそうだった。
「お嬢はんみたいな穢れの無いお方を騙すのはここが・・・」
梅香は自分の着物の上から胸の辺りを、手で抑えた。
「・・苦しゅうおすのや」

総司には益々訳がわからない。
ただ小首を傾げるようにして梅香を見ている。
その可憐さが、梅香の闘争心に新たな火を点けた。

梅香は総司の耳元に、自分の口を付けるように体を寄せた。
思わずそれを避けるように身を引いた総司の困惑など、梅香の思考の外である。

「お嬢はんは今日土方はんとお見合い・・そう周りの者には言うてあります。けど、この梅香は全部知ってますのや。お嬢はんは土方はんのええお人なんですやろ?」
梅香は総司の顔が蒼白に強張るのをちらりと横目で見た。

大きく見開らかれた黒曜石に似た深い色の瞳が痛々しい。
こういう無意識の表情は妙に男心を誘う。
やはり梅香には気に入らない。

総司は総司で長州の大物の馴染みというこの梅香に自分の正体がばれたと、心の臓の音が喉から飛び出るのでは無いかと思うほどに狼狽している。
必死に土方の姿を探すが、頼りになるはずのその人は、何やら楽しげに片笑窪の女と話し込んでいる。

だがその縋るような仕草が、梅香の嫉妬を頂点に押し上げた。


「ここに集まっているのは、みぃんな一度は土方はんにお情を頂いた女ばかりですのや」
その言葉に、初めて総司が梅香を正面から見た。
「ほら、あの土方はんの横にいる片頬に笑窪のある・・・あれが梅乃いいますのや。あのこも梅という名を土方はんが気に入らはって・・。それはもう一時は足しげく通われはったんどすえ・・・」
梅香の促す視線の先に、確かに片笑窪の女が嬉しそうに土方の横で酌をしている。
「土方はんは殊のほか梅の花がお好きや言わはって・・・」

総司は何が何だか分からない。
思考は停止したままどうにも動かず、訳の分からないことを次から次へと紡ぎだす梅香の紅い唇を、ただ見ている。

梅香はその、あからさまに衝撃を受けている総司の様が、またまた憎らしい。
どのように言い含められてこんな芝居に乗ったのか知らないが、きっと土方を信じて何の疑いも無くついて来たのだろう。
そしてやって来た先で惚れた男の昔の馴染みの女の告白に、正直にうろたえている。
そのあまりに駆け引きの無い戸惑いの様は、少しばかり可哀想な気もするが、ここは一番、情に流される訳はゆかない。
梅香は微かにも弱気になった自分に気合を入れなおす。


「うちはお嬢はんのように、なぁんにも知らないお人を騙そうとする土方はんが許せませんのや」
総司が怪訝に首をかしげた。
「そうどす。土方はんは悪い人どす」

梅香は勝気な眸に涙を滲ませた。
より説得力のある涙の滲ませ方はこの位が一番良い。
あまり大泣きは返って相手を白けさせる。
梅香の女の知恵は我が身の宝だ。

その時総司は梅香が新撰組副長の土方を牽制しているのだと、動かない頭を必死に回転させてやっとその結論に辿りついた。
長州の大物を馴染みに持つ梅香が、一生懸命に自分に土方の悪口を言っている。
そう思えば全てが納得行く。
というよりもその位しか、まだ総司の頭は回っていない。


「土方はんは女を騙すのが上手すぎます・・」
遂に梅香の声に湿ったものが混じった。
俯いた横顔に一つ零れるものがあった。

又も自分の思惑を大きく外れた展開に、今度こそ総司は慌てた。
目の前で女に泣かれるのは生まれて初めての事だった。
もうどうしていいのか分からない。
おろおろしながら握り締めていた手を解くと、躊躇いがちに梅香に触れた。

その感触に、相手の同情を掌中に収めたと、梅香は胸の中で密かに微笑んだ。
何も知らない小娘ひとり騙すのは他愛も無い。


「おおきに・・・うちみたいな女に優しゅうしてくれはって・・」
潤んだ目で見る梅香に、総司は一生懸命にかぶりを振った。

そのまま総司は梅香の涙を拭くものを探したが、ふと気付いたように自分の長い袂を両手で握るとそれを差し出した。
総司にすれば梅香が涙を拭くのならば、振袖の袂など何のためらいも無く使って貰える。
大体こういうものが一体どの位値段が張るものなのかなど、知る由も無かった。
もしかしたら後でキヨに叱られてしまうかもしれない。
だがそんなことよりも、今は梅香が泣き止んでくれることの方が有難かった。

が、流石に梅香もこれには驚いた。
「これ・・・もしかして、うちにこれで涙をふけ言いますのんか?」
呆けた様に聞く梅香に、総司は見ている方が哀しくなるような笑みを浮かべて頷くと、更に袂を差し出して来る。

梅香は二の句がつけない。
(・・・あほやわ、この娘)
だがこんな親切は今まで受けたことが無い。
相変わらず総司は困ったように黒曜の瞳を瞬かせて、自分に向かって涙を拭けと、つかんだ袂を離さない。

その総司の姿が、梅香を迷わせる。
相手を痛めつけるのはもうこの位でも良いのではないか・・・暫し最後の切り札を出すのが躊躇われた。
一瞬でもそんな思いに捕われた自分の心が不思議だった。




「いや、土方はん、忘れてはったんどすか・・・あんまりいけずや」

そのとき突然向こうの席から女の高い声が聞こえてきた。
驚いて総司と梅香がそちらを見ると、先ほどの梅乃という女が大げさに泣き始めている。
それを土方が呆気に取られて見ている。

この状況は総司に気を取られていた梅香にも分からない。
梅香に分からないから総司にはもっと分からない。
ただ八郎と田坂だけが横を向いた顔に、それぞれに隠せぬ興味の色を湛えている。


「うち大事に大事に持ってるんどすえ・・ほら・・」
梅乃は胸の間から小さな紙を取り出した。
それを半分まで見た土方が、一瞬にして顔の色を失くした。

「なんだえ、それは」
八郎がさりげなく口を挟んだ。
「土方はんがうちにだけや言うてくれはった恋文どす」
泣いている筈の割には、誇らしげに大きな声だった。
「恋文・・?土方さんが?」
またも横から梅乃の手にある短冊を、田坂が覗き込んだ。

「土方はんがうちを詠んでくれはった句ぅどす」
梅乃の声は更に周りの女達みんなに聞こえ渡らせるように張りがある。
「・・・へぇ。土方さん、あんたなかなか風流なことをするねぇ」
八郎も興味深気に短冊に視線を落とした。
が、心裡では土方のまめさにうんざりしている。

(・・・又梅かよ。梅の花一輪咲いても・・・)
そこまで目で追って止めた。
(二輪咲いて桜になりゃ見上げた根性だがな)
一言感想を付け加えてやりたいが、句を見れば言葉にするのももう億劫になる。



「梅乃はん、それならうちかて貰いましたぇ」
突然すっくと立ち上がったのは八郎の隣に居た女だった。
確か名を梅葉と言った・・・八郎は顎に指をあて、あんぐりと女を見上げた。

梅葉はやはり胸の間から短冊を取り出した。
「ほら見とくれやす。うちの名を詠んでくれはってるんどすえ。梅の花一輪咲いてもうめはうめ・・・」

それは土方が咄嗟に止めに入る隙も無い程に、一瞬にして詠まれた。
流石に芸の上達に日々稽古を怠らない花街の女だった。
見事にして鮮やかな滑舌だった。




「・・・おんなじやわ」

瞳を瞠って事のなりゆきを呆然と見ていた総司の横で、梅香が呟いた。
ぼんやりと振り向いた総司の視界に、口を半分呆れたように開けた梅香の脱力した横顔があった。


「それあんたの間違いやわっ。土方はんはうちにその句くれはったんえ。なぁ、うちだけやとそう言わはりましたなぁ。土方はん、そう言っておくれやす」
梅乃は土方に、胸倉を掴まんばかりににじり寄った。
その土方は追い詰められて八郎を振り向きざまに怒鳴った。

「伊庭っ、これはどういうことだっ」
「どういうことって、こういうことだろうよ」
八郎の応えは素っ気無い。

「一度ここに俺が顔を見せれば全ては丸く収まるというから来てやったのに、これでは話が違うだろうっ。貴様それでも男か」
混濁した土方の頭はどんどん過激になってゆく。

「おうよ、俺はこれでも男だ。馴染みの女にいい事ばかりを言って、挙句それじゃさよならなんてつれない所業をしてきたあんたが悪いんだろうよ」
売り言葉に買い言葉。
更に土方には恋敵としての日頃の恨みがあるから、八郎の言葉もすでに理性などどこぞにすっ飛んでその欠片も無い。

「何だ。この芝居そういうことだったのか」
一人田坂が恋敵二人のこの状況を楽しそうに眺めている。
「土方さんに騙された馴染みがどうしても会いたいと言うから、その情にほだされて一興席を持っただけさ」
「誰が騙したっ」
「現に騙しているだろうよっ」
「まぁまぁ、どちらにせよ、二人とも沖・・いや、みつ殿を騙したことには変わりない」
土方と八郎の間でどのような経緯があったのかは知ったことではない。
だが総司は確実に騙されて此処につれてこられた。女の格好までさせられて、これで怒らぬ訳が無い。
田坂は頭の中で一気に桜が咲きほころぶ状況に、顔が緩むのを必死に堪えた。


「とにかくみつは俺が連れて帰るから、後は皆で痴話げんかでも何でもゆっくり続けてくれ」
田坂は余裕である。
いつの間にか総司を自分好みに「みつ」と呼んでいる。
それが男二人の神経を逆なでした。

「あんたはただの介添え人だろうっ。もういいからさっさと帰ってくれ、満は俺が連れて帰るっ」
八郎が一番に立ち上がり、身じろぎもせず、固まったようにそこに端座している総司に向かって歩き始めた。
「伊庭っ、帰るならお前が江戸に帰れっ」
土方が負けずにその後を追った。
「だからあんた達はまだこの場を収拾させなければならないだろう」
田坂がひとつ遅れて続いた。



呆気にとられている女達を尻目に、先を争うようにして三人がやってくる。
ずんずん視界の中で大きくなってゆくその光景の中で、だが総司の瞳には今土方しか見えていない。



すべてはとんでもない茶番劇だった。
自分がこんなに情ない格好をし、我慢してここにやって来たのは、ただただ近藤の役に立ちたかったからだ。
それが嘘だと知った衝撃は大きい。
更にその嘘をついたのが土方だと言う事実には、最早言葉も出ない。

だがそんなことよりも、今瞳を少しずつ滲ませて来るものの一番の原因は・・・・


真正面に土方の顔を捉えたときに、総司が立ち上がった。
驚いて見上げた梅香の視界に、総司の硬い横顔にひとつ露が滴った。

それが頬を流れ細い頤(おとがい)の縁を滑り落ちたと思った途端、頬を張る短い音が座敷に響いた。

・・・そこにいる誰もが動きを止めてその方を凝視した。



八郎は何が起こったのか分からない。
ただ総司の瞳からぽろぽろと際限なく零れるものを見ている。

田坂の視線も、見開かれて濡れた黒曜の瞳に、ただ縫い付けられている。

そして土方は己の頬に痺れるように残っている熱は、今想い人の瞳に露となって溢れ出るものの熱さと、きっと同じものなのだとぼんやりと思っている。


「・・・すまなかった」

どの位の静寂の時を経たのか、やがて漏れた土方の声がくぐもるように低かった。
それを聞く間も厭うように、総司が脇をすり抜けて駆け出した。

咄嗟に阻もうとした手は僅かに長い振袖の袂を掴みかね、だが土方はすぐにその後を追い始めた。


残された八郎も田坂も突っ立ったまま、動かずにそれを見ている。
もう追う気持ちはなかった。
総司は土方だけに怒りをぶつけた。
白い頬に零れていた露は土方一人に向けられたものだ。
そんなこと位ふたりの男にも分かる。


八郎は天井を仰いで大きく息をついた。

「・・・追わなくていいのか」
向けられたのはもう一人の恋敵へのものだった。
「面白くない展開になるのを承知で、誰が行くものか」
田坂の応えもおよそ無愛想なものだった。


梅香はそっと胸の合わせの間から取り出した短冊を暫し眺めていたが、思い切ったように白い指で細かく千切ると、それを手のひらにおき、紅の唇でふぅっと息を吹きかけた。
少しばかりの風に押されて、白い紙吹雪は一旦宙に舞い上がり、すぐにはらはらと散りゆくように落ちた。

それを見るとも無く見ながら、梅香は思う。
自分はあんなに真摯に人を想ったことがあっただろうか。
頬に自嘲の笑みを浮かべた梅香の耳に、まだ余韻のように残る乾いた音が、何故か小気味良かった。


「・・・追いつくとええなぁ。土方はん」
呟いた声の小ささが、少しだけ痛い胸の裡を物語っていた。






自分を追ってくる土方の足音が段々と近くなる。
それに捕まるのは嫌だ。
だが慣れぬ女物の着物は足元を覚束なくさせる。
それでも最後の足掻きのように足を前に出した途端、もつれて身体の均整が崩れた。
倒れると思って目を瞑った瞬間、強い力で支えられ身体はそれ以上前のめりになることはなかった。

今自分を抱く腕の温もりが誰のものか知りすぎる程知っている。
それでも総司は振り向く事は出来ない。

「・・・もっと殴っていいぞ」
土方の声がすぐ近くで聞こえた。
零れ落ちるものはまだ止まらない。
「悪かった・・・」
切ない声を聞けば更にやまなくなる。


「・・・ひじ・・かっ・・た・・さ・・んは・・」
しゃくりあげて上手く言葉が紡げない。
「うっ・・そ・・・つき・・だ」
「そうだな」
「・・うそっ・・つ・き・・で、おん・・な・・の人を・・だまっ・・して・・」
必死に告げようとすることは、吸う息が声を引き入れて邪魔をする。

「・・・そうだな。酷い男だ」
総司の胸を後ろから抱えるようにして拘束している土方の腕に、ぽたぽたと冷たいものが落ちる。
「・・それっ・・に・・」
土方がそんな想い人の頼りない項(うなじ)に頬をつけた。
「それに・・?」
「おっ・・んな・・の・・人に・・句を・・おっ・・く・・った・・」
「俺は確かに、お前だけだと言ったな・・」

総司は応えない。
ただしゃくりあげるのを堪えている。
その頬に流れるものは溢れて限りない。

「・・詫びて許してもらおうとは思わない。だがどうしたらお前だけなのだと俺は伝えることができるのだろうな」
土方の声が辛そうだった。
こんな声を自分は聞きたいのではない。詫びる言葉を欲しいのではない。

「・・・いっ・・や・・だ」
本当に許せなかったのは・・・・
それを知って欲しい。

「ひっ・・じ・・かたさん・・が、・・だれか・・に、笑っ・・た・・り、・・句・・を・・あげっ・・た・・り・・」
もう声は泣きつかれて枯れ果て、掠れて出すのも難しい。
それでも伝えなければならない心を、総司は必死に言葉に変えようとしている。

「・・・いっ・・や・・だ」
しゃくりあげる度に、上下する薄い胸が腕の中から逃げようとする。
土方がそれを許さぬように力を篭めた。


「・・・すまん」

他に言葉はなかった。
この腕にある温もりの主が、今は泣きたい程に、ただただいとおしかった。






あれから皆引き上げて、結局座敷には八郎と田坂と梅香だけが残された。


「・・・どうしちまったかねぇ」
「さぁな」
八郎の独り言とも言える呟きに、田坂も適当に相槌を打った。
「にしても、見事な平手打ちだったよなぁ」
「ああ、見事だった」
それだけは胸のすく思いがしたふたりだった。


「夫婦喧嘩は犬も食わないいいますやろ」
梅香が酌をする手を止めず、何気なく言葉にした。

「夫婦・・・?冗談はやめてくれろ」
八郎がそっぽを向いた。
あの二人を夫婦と呼ぶのならば、川柳にもならない土方の句を、顔を見ないで誉めちぎってやる方がずっとマシだ。

「あれを夫婦というのなら亀だって鶴と添い遂げられる」
田坂は忌々しげに横を向いた。
自分の言っていることの、訳の分からないお目出度さすら、すでに気付いていない。

その男達の突然の剣幕に、梅香が驚いて目を瞠った。



「・・・綺麗だったよなぁ」
八郎は盃を指で挟んで遊ぶように揺らしながら、総司の姿を思い出している。

(・・・伊庭満・・)
声には出さずに、唇で形を結んでみる。途端に頬が緩むのが分かる。
その時ふと思った。
土方は上七軒にも馴染みが居たはずだ。
もしかしたら同じような事をやっていてくれているかもしれない。
だとしたら又面白い。
(とりあえず明日は上七軒に行ってみるか・・・)
八郎は心裡でほくそえんだ。


「・・・勿体無い」
田坂は胡座にかいた膝の上に肘をついて頬杖をしながら、ほっそりとそこに立っていた想い人の姿を瞼に映し出している。

(・・・田坂みつ・・)
聞き取れない程に、低い声で名を呼んでみる。すぐに唇に笑みが浮かんだ。
その時ふいに過ぎった。
土方は祇園はあまり縁が無いと前に言っていた。
が、そういうところだからこそ密かに遊び回っているかもしれない。
案外面白い展開が待っているかもしれない。
(久しぶりに明日は祇園に行ってみるか・・・)
田坂は胸の裡でほくそえんだ。



そんな男達を目の前にしながら、梅香は考える。

八郎は江戸の人間だと言っていた。将軍警護のお役目が終われば江戸に戻るだろう。
そのまま視線を田坂に移した。
土方、八郎に少しも引けをとらない、何処から見てもいい男である。
おまけに五条で医者をしているという。
更に独り者・・・。


梅香はさりげなく田坂の方へと向き直った。
艶やかな笑みは万全なはずだ。


酸いも甘いも知り尽くした島原の女。
夢は見るもの醒めるもの、そんなことはとっくの昔に知っている。
だから現(うつつ)にいて見る夢は、ひとつでも多い方がいい。


遠くの座敷で賑やかな声が興った。
そんなさざめきをのせた春宵の風が、梅香の肌に、浮かれ絡まるようにしてとおりすぎた。



「せんせ、おひとつどぉぞ」

紅い唇が、はんなりと謡うようにほころんだ。









                       了     宴 2002.10.26









            きりリクの部屋