早 蕨 (五)





提灯の火を移してどうにか火を焚く様を作ったが、宗次郎は一層震えが止まらないのか、紅い炎に照る頬は酷く蒼い。
川原の風は水を渡って来て冷たい。
もう少し避けた処にゆきたいが、雑木林の中で火を熾すことは危険だった。
何か掛けてやるものが欲しいが、そんなものが見つかるはずはない。


「宗次郎来い」
肩を抱いて強く引くと、宗次郎は容易に腕の中に収まった。
互いの左右の半身を隙無く合わせると、熱を奪われた宗次郎の冷たさが八郎の肌に触れる。

「こうしている方がまだましだろう」
抗いはしないが、戸惑ったように見上げる宗次郎に、八郎は苦笑いしながら語りかけた。
「このままお前と成仏は真っ平だからな」
殊更ぶっきら棒に言い切った八郎に、宗次郎がやっと笑った。
「八郎さんは一緒に死ぬのなら女の人がいいのでしょう?」
「どうだかな」
「嘘ばかりを言う」
揶揄するような宗次郎の小さな笑い声が漏れた。
「本当にそうばかりでもないさ」


宗次郎に応えながら、八郎自身も己の心の様を掴み切れずにいた。
自分には将来(さき)がある。それを捨てようとは微塵も思わない。
だからまだ死ぬという概念はどこにも無い。
が、今宗次郎とこうしていることが、果てなく続けば良いと思っている自分も此処にいる。
いっそ何もかも剥ぎ取って奪ってしまいたいと、激しく揺れ動く思いを宿しながら、たゆとうような心の穏やかさにいるのも確かに自分だ。

そんな自分の思いの曖昧さを持て余してくべた枝に、焔は静けさを邪魔されたのを怒るかのように勢いよく立ちあがった。




肩と肩を寄せ合ってみじろぎせずに過ごす時は、八郎も宗次郎も無口にする。

「・・・お金・・探さなくては」
その沈黙を遠慮がちに破るように、宗次郎がぼんやりと火を見ながら呟いた。
「諦めろ」
長い枝で横にはみ出そうとする火を戻しながら、八郎の応えは素っ気無かった。
「そんなことはできない」
初めて宗次郎の瞳が強い色を湛えて八郎を見上げた。

「できなくても無理なものは無理だ。だいたい何処で落としたのかも分からないのだろう。水の中に落としていれば尚更見つかる筈が無い」
八郎の言う事は確かに尤もだった。
だが宗次郎は聞かぬように、頑なに首を振った。
「探して見つかるまで試衛館には戻れない」
いつの間にか身体を離して、瞳は八郎を正面から捉えていた。
「金ならある。それを使えばいい」
「そんなことは出来ない」
「どうして。同じ数だけ金子が揃えばいいのだろう?」
「・・あれは」
言いかけて一瞬躊躇うように、途中で言葉を詰まらせた。
「あれは近藤先生が私に預かって来るようにと言われたものだから・・・。それを落としてしまうなんて・・・」

宗次郎は自分を信頼して任せてくれた近藤への責任の事を言いたいのであろう。
今宗次郎を支配しているのは、ただ自責の念しかない。
俯いた小さな顔が、己への憤りで苦しげに歪んだ。


だが八郎はそんな宗次郎の更にその奥に秘める真実を垣間見て、一度鎮まりかけていた堪えようの無い苛立ちを又覚えた。

「大体こんな暗い道を独りで帰るなんざ正気の沙汰じゃない。周りに要らぬ心配をさせ、挙句金子を落とした。・・・・確かにお前の不注意以外の何ものでもないな」
夜道を行けば危険を承知の筈の理性を超えて、この行動に宗次郎を突き動かした理由(わけ)が八郎を苦しめる。


己を抑すことのできない八郎の容赦無い辛辣な言葉に、宗次郎は一言も返さない。
否、返せる訳がなかった。


全ての咎(とが)は自分にある。
どんなにののしられようが責められようが、そんなことは甘んじて受ける覚悟はできている。
宗次郎は黙って瞳を伏せた。
だがふいに喉元に刃を突きつけられたような戦慄が走った。

(もしもこんな不始末をしでかした自分に、試衛館を出てゆけと言われたら・・・)

一度胸を覆った不安は、宗次郎を足元から浚うような勢いで、底の無い闇の深淵に引きずり込んでゆく。
止まっていた震えが、今度は寒さからではなく、怯えから宗次郎の身体を小刻みに苛む。

(土方と離れてしまう・・・)

今宗次郎の思考から感情から、そういう人としての全ての働きを止めてしまったのは、たった一つの事実だった。
そしてそれは宗次郎にとって恐怖以外のなにものでもなかった。

宗次郎は固く目を瞑り、両の耳を手で覆った。
何も見ず、何も聞こえなければ一切の時は止まる。
そうすればきっとこれは悪い夢なのだと、誰かが言ってくれる。


この胸にずっとあった土方への想いを、堰を切って流れ出すこの想いを、もうどうすることもできない。
自分は土方に見合いなどしないでくれと、ずっと自分の傍にいて欲しいのだと、そう懇願したかったのだ。
あの時ただただ早く江戸に戻らなければ、土方が自分の手の届かないところに行ってしまう・・・その思いだけに捕われて何も分からなくなってしまった。

自分は土方が欲しかったのだ。
自分だけの土方でいて欲しかったのだ。
誰にも、渡したくはなかったのだ。

好きだとか・・・今まで思っていたそんな優しいものではない。
自分の中に魔物が生まれている。
それは宗次郎の言うことなど聞かず、土方を求めて思いのままに猛り狂う。
己のうちから溢れ出るこの狂おしいまでの想いを、宗次郎はある種畏怖の念を持って感じていた。

土方だけを見ていた。
土方だけを追っていた。
土方だけがいてくれれば良かった。
けれどその思いがそれ以上のものになってしまった今、もしも土方がこんな想いを抱いている自分を知ったらきっと迷惑に思う。
土方は自分を遠ざけようとするかもしれない。
それは果てない地獄に堕とされるよりも耐え切れない。
離れる位ならばこの命など要らない。
だから誰にも、本当のことなど話すことはできない。

自分の心の一番真中にあるものを知ることは、それを死ぬまで隠しとおさねばならなことであるとも、宗次郎はまた同時に悟らねばならなかった。
身が朽ちようとも、この事は自分だけの秘密にしなければならない。

土方の傍らにいるために、宗次郎は今この時から胸にある真実を、己のひとりのものとしなくてはならないのだと、固く誓わなくてはならなかった。



「どうした?」
そんな宗次郎の訝しげな様子を認めて、八郎が声を掛けた。
だが宗次郎は閉じた瞳をそのままで、顔を上げようともしない。
「お前がこんな馬鹿な真似をしたのは・・・土方さんに会いたかったのか」
まだ宗次郎の応えは無い。

「・・・あの人の見合いの話を聞いて、それで矢も盾もたまらなくなったのか」
再び耳に届く八郎の声音は、先ほどよりは柔らかかった。
「・・・そうじゃない」
たったそれだけの言葉で応えるのが精一杯だった。

「そうじゃない」
胸にしまいこんだ想いを隠すように、宗次郎は俯けていた顔を上げてぎこちない笑みを作った。

「凍えちまうぞ」
そんな宗次郎を、もう八郎は責めもせず再び引き寄せた。




薄い肩を庇うように抱く己の腕の中で、まだ頭(かぶり)を振る宗次郎を、八郎は言葉を掛けずに見ている。

先ほど水の中で見つけた宗次郎は、無意識の内に追わなければ土方はどこかへ行ってしまうと言っていた。
それこそが宗次郎の本当の心なのだろう。
だが今宗次郎は必死に違うと言い切る。

もしかしたら宗次郎は土方を想う自分の気持ちに気付いてしまったのかもしれない。
だからこそ、これ程までに頑なに否と言いつづける。
そしてそう応えることを選んだことで、宗次郎がこの先土方への想いを誰にも告げる事無く胸に秘め続けてゆく決意をしたのだと、八郎は朧に察した。
想いの丈を相手にぶつけてしまいたい衝動よりも、それを拒まれる事に怯える心が宗次郎を捉えているのだろう。

それはただ苦しく辛いだけの道かもしれない。
時には茨の中に身を置くような、或いは生身を裂かれるような心の痛みを伴うものなのかもしれない。
けれど宗次郎はそれを選んだ。
そしてきっとどこまでも土方を追いつづけるのだろう。


そんな土方に想いの限りを寄せる宗次郎を見れば、胸に激しい嫉妬が湧きあがる。
それは凶暴な激情にも似て、ひとつ箍(たが)を外せばそのまま暴走する欲情と、紙一重の差で辛うじて八郎の中で持ちこたえている。
けれど己の心を必死に隠そうと怯える宗次郎の姿を知れば、切ない憐憫だけが溢れ出る。
それはどうしようもなく胸を締め付け、この腕に包み込み思うざま抱きしめてやりたい程に八郎に愛しさをつのらせる。

奪ってしまいたい心と、守ってやりたい心と・・・
そのどちらも確かに自分だった。


八郎は火の中で消えゆく枝が最後に残す撥ね音を聞きながら、この二つの自分がこの先もたらすであろう修羅に思いを馳せた。

それは或いは地獄の熾き火に焚かれるよりも、想像を絶して自分を苛むのかもしれない。
だがこうして宗次郎を想う自分も、土方を想う宗次郎も、自らそこに堕ちた。
だから自分も又、この道を行き振り返ることをしない。
その身も心も、自分だけのものにする為に動き出した己をすでに止めることはできない。


腕に触れる温もりの主が己の生涯に渡って、幸いなるときも、不幸なるときも、その礎になることだけが、今たったひとつの真実として八郎の胸にある。
自分の伝える熱で少しずつ温もりを取り戻してゆく宗次郎がひどく愛しい。



「明るくなったら探してやるよ」
ふいに掛けられた言葉に、その意味がわからず、宗次郎は弾かれたように八郎を見上げた。
「金、一緒に探してやるよ」
不安に揺れる宗次郎の黒曜石に似た深い色の瞳が大きく見開かれた。
八郎の眼差しが包み込むように優しかった。
泣くつもりなど、これっぽっちも無いのに零れ落ちるものがあった。

それを乱暴に土のついた手の甲で拭い取ると、宗次郎は八郎に笑いかけた。
必死に笑みを作るのに、頬を伝わるものは後から後から止まらない。
とうとう堪えきれずに下を向いたが、冷たい雫は到底自分の意思など聞き入れる筈も無く、ついに抱えた膝の上に隠すように顔を伏せた。

「・・・探してやるよ」

今日の八郎の声は優しすぎて残酷だ。
そんな事を思って文句を言おうと思った唇から、代わりに小さな嗚咽が漏れた。



焚いている火は時に焔を勢いづかせ、しかしすぐさま身を隠すように鎮まる。
宗次郎がしゃくりあげるのを殺す声を聞きながら、それが己の心の起伏のように八郎には思えた。

闇が創り出す静寂(しじま)の中で川のせせらぎだけが、密やかに音を紡いでいた。






湿った空気が肌に触れ、その冷たさに八郎は目を開いた。
眠ったつもりは無いのだが、夜明けが近いという緊張の解放からか、ほんの僅かの間うとうととしてしまったらしい。
慌てて覚醒させた知覚に、自分の肩に凭れる重さと温もりを感じて安堵の息をついた。
あれから間もなく宗次郎は泣きつかれたのか眠ってしまった。
微かな息遣いだけが八郎の肌に刻まれる。

起こさないように姿勢を変えると、袴の裾から出ている右の足首に手を触れてみた。
昨夜よりは腫れは引いているがまだ熱を持っている。

「宗次郎・・」
そっと声を掛けても瞳は開かない。
額に唇をつけると、ひどく熱い。
やはりこんな川原で濡れたまま夜を過ごしたのは、宗次郎の身体に負担を与えたようだった。
目を覚まさないのは、この身体の不調のせいもあるのかもしれない。
貝殻の裏のように血管の青さが薄い皮膚を通して透ける瞼は、固く閉じられて微かにも動かない。
八郎はそれをしばらく飽きもせず見ていたが、やがてゆっくりと宗次郎の唇に己のそれを重ねた。
それは眠りにある宗次郎の息が次をつくまでの、抱擁というにはあまりにも敢え無い、束の間に芽生えた性の息吹だった。



夜はどうやら明けかかり、辺りはぼんやりとした明るさに覆われ始めてきている。

たちこめた乳白色の川霧が、岸辺との境を分からなくしている。
だがこの明るさならば何とか背後の雑木林を抜けきることができるだろう。

八郎は躊躇無く宗次郎の身体を自分の背に回すと、そのまま立ち上がった。
十七歳の体に背負う宗次郎の重さは、しかし八郎に何の苦も与えなかった。


腰まで昇る霧は時折視界すら遮る。
歩を進ませるたびに踏みつけられる八千草は、最後の抗いのように八郎の足首を朝露で濡らす。
その冷たさが、背にある温もりが現(うつつ)のものであると知らしめる。
宗次郎を守ってやりたい。
だが奪ってしまいたい思いはともすればその思いを凌駕する。
いつまで自分はこの均衡を律することができるのか・・・・

こうして踏み出す一歩一歩が、それを裂く刻に向かっているように八郎には思えた。






息の続く限界はとうにきている。
だが土方の心は、思うように動かなくなってきた己の足など切り捨ててしまいたい程に焦れる。


今朝早くに出立するであろう宗次郎を迎えるつもりで、結局昨夜試衛館を出て、夜も明けぬ暗いうちに小野路村についた。
が、途中橋本家の馬が雑木林のひとつの木に繋がれているのを見つけて不審に思い、何故か胸騒ぎを抑えきれずに足を急がせた其処で、宗次郎の行方が分からず探しに出ている八郎の事を聞いた。
先ほど見た馬は八郎が乗り捨てたものだった。
夜が明けたら再び二人を探しに行くという道助の言葉を最後まで聞かず、気がついた時には駆け出していた。

街道までの道は狭い一本道だ。
街道に出たところで暗い道に人の往来は無い。
仮に宗次郎が江戸に向かったとしても、どこかで自分は見つけることができた筈だ。
自分は必ず宗次郎の姿を見失うことは無い。
それは土方自身、理由のつかない確信だった。
八郎も戻らないというのならば、まだ宗次郎は見つからないのだろう。
土方の胸にあるものは、すでに自分でも収拾のつかない、凍るような不安だけだった。


「・・・馬鹿野郎っ」
唸るような咆哮すら、誰に向けられたものなのか分からない。
それは自分に姿を見せない宗次郎への憤りなのか、或いは自分の傍らに宗次郎が居て当然と思っていた己の油断へのものなのか・・・。

心の臓の苦しさは過酷な動きを体に強いた為ではない。
もしも宗次郎の瞳が自分を二度と映さないとしたら。
必ず自分の背を追いかけて来る足音は、もう決して聞こえないのだとしたら。

「畜生っ・・」
逸る心に追いつかない己の足には憤怒しかない。


限界をとおに超えて、ついに動く事を止めてしまった足の両膝に手をついて体を前かがみにしたまま、背を波打たせて荒い息をしていた耳に微かに人の足音が届いた。
咄嗟に顔を上げて見た先に、朝焼けに薄れ行く霧の帳(とばり)を、更に押し開くようにして影が現れたとき、土方の足は既に地を蹴って走り出していた。

八郎はその土方の姿を視界に映しても、眉ひとつ動かさず正面を見据えるようにただ黙々と宗次郎を背負い歩を進める。


「宗次郎っ」
八郎の背にあって動かぬ宗次郎を認めると、土方は躊躇いもなくその名を叫んだ。
八郎の足が止まり、あたかも土方を迎えるように、そこに立ちつくした。
ふたりの元まで来ると、乱れた息を整えもせず、土方は八郎の背にいる宗次郎に手を伸ばした。
が、その瞬間に八郎がそれを遮るように己の体を土方の正面に向けた。

「触るな」
初めて土方に向けられた、八郎の挑むような双眸だった。
それを跳ね返すように土方の眸が鋭く細められた。
「あんたのせいだ」
八郎の語尾が震える。
それは怒り以外の何ものでもなかった。
ただ土方が憎かった。
そして宗次郎の全てを占めているこの男に、燃えるような嫉妬を隠しようがなかった。

「あんたが宗次郎を追い詰めた」
「どういうことだ」
八郎の激しい攻撃を、逸らす事無く受け止めて、土方の応えも強かった。
「分からなければずっと考えていろっ」
「伊庭っ」
宗次郎を背負い、己の脇を通り過ぎて先に進むその背の主を土方は呼び止めた。

「宗次郎は俺が連れて帰る」
それが土方に対するつまらぬ意地だとも知っている。
どうにもならない嫉妬だとも分かっている。
だが今背にある宗次郎の眠りを守るのは、自分でなければならなかった。


天道が昇り始め、朝の陽が八郎の真っ向から射し込む。
その眩しさに目を細めることもせず、先を睨みつけるようにして八郎は歩いていた。






「どこか痛むか?」
額にのせられた冷たい手の感触に、宗次郎は瞳を薄く開けた。
決して聞き違えることの無い声が近くでした。
けれどそれは今聞こえる筈が無い。
眠りから覚める前に見た夢は、落としてしまった金子を探しているものだった。
それだけは宗次郎に、夢であっても確かにあった出来事を思い出させた。

「・・・探さなくては」
ぼんやりと呟いた声音はまだ現(うつつ)に戻ってきてはいない。
「金なら見つかった。安心しろ」
「・・・土方さん?」
ゆっくりと視線を動かして見上げた先に、焦がれてやまなかった姿があった。
それを幻でも見るかのように、息を詰めて瞳を見開いた。
「金は見つかった。お前が転んだ近くにあった」
土方の眼差しを受けても、宗次郎はまだ声が出ない。
「伊庭が見つけてくれた」
「・・・八郎さん」
宗次郎は記憶の欠片を手繰り寄せるように、小さく呟いた。
「そうだ、伊庭が見つけた」


八郎は土方にも、橋本道助にも、宗次郎が帰り道で雑木林の中へと道を誤り、転倒した時に落とした金を探す為に戻ることが出来ずにいたと、ただそれだけを伝えた。
それ以外のことは何も言わなかった。
道助は馬から放り出されて怪我をした宗次郎が、雑木林で休もうと入り込んで道を見失ってしまったのだろうと、それで納得していたようだった。

だが土方はあの時八郎が見せた挑むような眸が何を物語っていたのか、それがずっと胸の裡を占めて離れない。
八郎は確かに、宗次郎を追い詰めたのは自分だと責めていた。
否、それは紛れも無い自分への攻撃だった。

宗次郎に何があり、八郎は何を知ったのか、二人だけが分かる事柄がそこにある。
そのことを思えばひどく騒ぐ胸の裡を、土方自身もまた持て余していた。



「・・八郎さん・・八郎さんは?」
そんな土方の思惑を知らず、全てが思い出されたのか、宗次郎が慌てて起き上がろうとした。
が、縦にした位置で身体を止める力はなく、そのまま前かがみに倒れこんだ。
「ばか、大人しくしていろ」
咄嗟に支えてやりながら、土方の叱る声が響いた。
身体を動かしてみれば、何処と答えられず、あらゆる処に痛みが走る。
「医者が呆れていたぞ。あちこち打ち身だらけだそうだ」
「・・土方さんはどうして此処に?八郎さんは何処に?」
自分を再び横たえようとする腕を掴んで抗い、宗次郎は土方を見上げた。

「今朝早くにお前を迎えに来たら、行方が分からないという。探しに出た先でお前を背負った伊庭と出逢った」
宗次郎は土方の腕を握り締めて、瞬きもしない。
「・・・八郎さんは?」
「伊庭は昼前に此処を発った」
「たった・・・?」
「引き止めたが、夜までに御徒町に戻らねばならないと言っていた」

金子は八郎が見つけてくれたと、さっき土方はそう言った。
だがそれは嘘だろう。
その金は八郎のものの筈だ。


「土方さん、お金は八郎さんのものだ。私が落としてしまったから・・・八郎さんがきっと足してくれたのです。・・・だからそのお金は・・」
「貰えないと・・お前はそう言うのか?」
宗次郎を見る土方の眸に、厳しいものがあった。

「伊庭はただ金は自分が見つけたと、そう言った。お前がどうして金を落としたのか、何故雑木林に踏み入ったのか・・・そういう事は何も言わなかった。俺も聞かなかった。だから俺は一体何があったのか知らない。だが伊庭はお前を助けてくれた。その事に俺は感謝をしている。伊庭は全てを承知でお前を庇おうとしている」
宗次郎を諭しながらも、全てを問い詰めてしまいたい衝動を、土方はようやく抑えた。
その思いが何処から来るものなのか・・・土方自身も又困惑の中にいた。

「伊庭の心を無にするな」
辛うじてそれだけを、敢えて抑揚の無い声で伝えた。


宗次郎は土方から視線を逸らせた。
自分を探しあててくれた八郎は、一夜共に川原で過ごしてくれ、そうして明け方ここまで送り届け独り江戸に戻った。
何も言わず、何も語らず、ただ全てを胸に仕舞ったまま街道を歩いている筈だった。

闇と冷気の中で触れ合っていた八郎の温もりが、身体の右半分に蘇る。
思わず下を向いて目を固く瞑った。
だがそのささやかな砦すら物の役には立たず、眦から零れ落ちたものは頬を伝わって頤(おとがい)を滑り、敷かれていた夜具の上に露となって滴った。
有難いとか、そんな言葉で言い表したら、きっと罰があたる。
今はこうして嗚咽を堪えるしかできない情け無い自分に、宗次郎は唇をきつく噛み締めた。


「もう泣くな」
宗次郎の様子を暫く黙って見ていた土方が、低く声を掛けた。
応えを返そうにも、しゃくりあげるものが邪魔をする。
「痛みが引いたらさっさと帰るぞ。だから早く治せ」
命じるような口調に、やっと上げた頬にまだ零れるものは止まらない。
「こんな居心地の悪いところに長居はごめんだからな」
不思議そうに見る宗次郎に、土方が苦笑した。
「見合いの話を断ったら不義理をしたようで、どうにも間が持てない」
「・・・ことわった・・?」
黒曜の瞳が揺らいだ。
「だから一刻も長くこんな処に居たくはない」
些かうんざりとした土方の口調だった。
「ほんとうに・・・・?」
そんな土方の表情など見えないように、宗次郎が詰め寄ろうとして又小さく呻いた。
「ばか、何度言ったら分かる。さっさと横になれ。一緒に帰れなくなるぞ」

怒ったように言う土方の顔が滲んで良く見えない。
きっと自分の顔は溢れるもので、ひどい事になっているのだろう。
それすら構わず、宗次郎はただ幾度も幾度も土方に向かって頷いた。







天道が一番高い処から少しずれた辺りにあるときが、一番強い陽射しがあたる。
とりわけ極寒の季節を越えた春のそれは、生きとし生けるもの全てに力強く降り注ぐ。



八郎は先ほどから飽くなく続く田舎道を行きながら、人の世にある己の心の不思議さを思っている。

ほんの昨日まで、自分は恐れるという事を知らなかった。
実父伊庭軍兵衛の生涯をあれ程にあっけなく終わらせた天の仕打ちにすら、怒りを覚えども、恐怖に震えることはなかった。
欲しいものはその信念さえあれば、手に入れる事のできるものだと思っていた。

ところがどうだろう。
あの時、確かに宗次郎は自分の腕の中にいて意識は闇にあった。
若い肉体は幾度もその身体を奪いたいと、八郎を責め立てた。
だがもう一人の自分は宗次郎を得て、その心を失う事に怯えた。
そんな自分が在ったことを、八郎は初めて知った。

宗次郎の身体も欲しい。それ以上に心も欲しい。
たとえそれが神仏の怒りに触れようが、その挙句どのような道を行く事になっても、今はもう恐れるものも無い。
果てなく貪欲に求め続けるこの想いこそ、真実人を想う心なのだ。


垣間見てしまった己の本当を最早隠すことはできない。
否、そんなことをしようとも思わない。
自分はこの先も更にその先も、己の意のままに宗次郎を追い求めて行くのだろう。



木立の途切れにさしかかると、真上から突き刺すような陽射が、一瞬八郎の視界を目くらましのように遮った。
立ち止まり、眩しげに眸を細めて視線を落とした道の脇に、芽吹いたばかりの蕨が小さく渦を巻いていた。



土からやっと顔を覗かせたそれは、今手にすれば他愛なく摘めてしまいそうに頼りない。
頼りないが、確かにその姿を地より現した。
己の胸にいつの間にか深く深く、そして何ものにも断ち切れぬ程に強く根づき、ようやく息吹いたこの想いの行方を幸いというのか、不幸というのかまだ八郎には分からない。

だがたった一つ、今己のうちから萌え出る狂おしいまでの宗次郎への恋情の止まる時を、自分は知らない。
否、知ろうとも思わない。




「眩しいな・・・」

八郎は一度手を翳して天を仰いだが、やがてまだ遠く続く道の果てに向かって地を蹴った。






                                    了





          きりリクの部屋       早蕨 2002.11.16