雪   (下)




「だいぶひどくなってきました」
遠慮がちに細く襖を開けて、大柄に似合わない素早い仕草で身を滑り込ませると、水梨浩太は、手にした盆にある湯呑の中身を気にしながら、歩く音すら忍ばせるように静かに枕辺までやって来た。
「雪が?」
外の様子が分からない総司は、端座した浩太を見上げて邪気無く問う。

建物の一番奥まった処に位置するこの室は、四方が壁と襖で造作されているから、気候の変化を直接知る術が無い。
それは外部からもたらされる雑音、冷気、それら一切を遮断する事が、病人の為に必要だとの田坂の判断によるものだった。

「そうです、とうとう本降りになって来ました。初めは粉雪のように、直ぐに止むものかと思いましたが」
頷く顔にも憂いが浮かぶのは、この後に予定されている下坂に、天候の不順が災いとならねばとの、浩太の懸念から来ていた。
「此処では何も分からない・・・」
だがその憂慮を他所に、外と内を隔だつ襖まで視線を投げかけて呟いた声は、つまらぬと不満を漏らす独り語りのように語尾が消えた。
その病人の様子に、浩太の顔が綻んだ。
こんな風な素直な感情の表れは、確かに総司が生きている証であり、このまま終(つい)を迎えてしまうのではないかと不吉な危惧に落ち着かなかった者達を、一時不安から解き放ってくれる。
「外は寒いだけですよ」
ゆっくりと起そうとする身の背に腕を回し、それで支えてやりながら、応えた声が笑っていた。


漸く上半身を縦にすると、総司は今の動きだけで全ての力を使い果たしてしまったようで、浩太の腕に身体を預けたまま目を閉じてしまった。
「大丈夫ですか?」
「・・・すみません」
案ずる主に、やっと瞳を開けて詫びる声には、もう先程までの屈託の無さはない。
「横になりなされ」
静かに腕を倒し仰臥させようとすると、総司は微かに身体に力を籠める事でそれを拒んだ。
「それを・・・」
小さく呟き、視線だけで指した先に、浩太の持ってきた湯呑があった。
「飲まなければ田坂さんに叱られる」
「後でも良いのですよ」
だが穏やかに宥める声にも、首は横に振られた。
「暗くなったら直ぐに発つのだと、言っていたから・・・」
だからせめて少しでも体調を整えたいのだと云いたいのか、今度は他愛なく折れてしまいそうに細い腕が湯呑に向かって伸ばされた。

湯呑は大振りで、骨が浮き出た手で持てば、掴む指の華奢さと対比され、無骨さがばかりが際立つ。
薬湯の飲み難さばかりではなく、その半分以上を満たしている量を飲み終えるのが総司には辛かったようで、幾度か縁から唇を離しやっと仕舞いに出来たのは、ずいぶんと時が経ってからだった。
浩太に横にされ夜具を掛けられても、もう微かにも残ってはいない体力と口中に残る苦味とで、総司は暫しものを言う事も出来ずに、されるがままになっていた。


「口直しを、召し上がりますか?」
浩太の手は、湯呑が乗せられていたのと同じ盆の上の、懐紙に包まれた干菓子に向けられようとしていた。
それに総司は再び首を振るだけで、否と応えた。
「田坂さんは?」
「松本先生への文を書いておられます」
土方と出て行ったきり戻らない田坂を思い、不審に問うたいらえは意外なものだった。
「松本先生へ?」
近藤と懇意にしていた典医には幾度か会い、言葉も交わした事がある。
厳つい容貌と乱暴な物言いの陰に、時折覗く人懐こい笑い顔が、きっとこの医師の本当なのだろうと深く印象に残っている。
だが過去を懐かしいと振り返る感傷も、今はすぐに自分の身の振り方と結び付く。
浩太を見ていた総司の瞳が、隠しようも無く翳った。
「松本先生に沖田さんをお預けする、その準備をされているのです。ですがそれも一時の事。すぐに俊介さまと浩太が迎えに行きます」
笑って告げる言い回しに籠められた労わりに、総司の面輪にあった強張りが少しだけ緩められた。

思えば浩太には、いつもこうして力づけられていた。
此処に来てから、献身的すぎる程に尽くしてくれた浩太だった。
今も大きな掌には、彩鮮やかな小さな菓子が乗っている。
飲み難い薬に苦労している様を見て、ごく自然に始めてくれた気遣いだった。
調子が良いと見計らえば、外の様子を面白おかしく語ってくれ、叉その翌日には、不意を狙ったように高く上がった熱に痛む背を擦ってくれた。
いつの間にか、薬が苦い食事は欲しくないと、駄々をこねて浩太に甘えていた自分だった。
だがそのかけがえの無い人間に、まだ最後の礼を告げてはいない事にふと思い当たり、総司は愕然とした。
そんな大事な事すら失念してしまう程に、ひたすら土方と離される恐怖に捉われていたのだ。
周りで護ってくれていた人達の存在をも顧みず、自分の事しか見えていなかったあまりの情けなさを、もうどれ程罵倒しても足りない。
「・・・浩太さん」
見上げた瞳が、今更ながらの悔恨と、己への憤りと、そしてまだ間に合うぎりぎりの瀬戸で気付いた焦りとを、交互に映して揺れていた。
「何でしょう?」
手にあった菓子を盆に戻しながら応えた浩太の声が柔らかい。
「ありがとう」
「急に、何を言われます」
太い首が、慌てて左右に振られた。
「けれど浩太さんには、迷惑ばかりを掛けてしまった」
それが自分の力で出来得る精一杯の感謝の証なのか、蒼白な面輪に浮かべた笑みを、総司は消そうとはしない。
「ありがとう・・・」
二度繰り返された言葉にも応えず、浩太は暫し無言で総司を見つめていたが、やがて室にある静けさに沿うように、観念の細い吐息を漏らした。


「沖田さん、私は本当は貴方を此処から出したくは無いのです」
突然の告白のその真意を計りかね、総司が怪訝に浩太を見上げた。
「この先過酷になるばかりだろう戦渦を潜り抜けての日々など、貴方に送らせたくは無いのです。ですがもう貴方は行くと決めている。・・・迷いながらも、その実疾うにそう決めている」
「浩太さん・・・」
「もしもこの浩太に礼を言って下さるのならば、どうか土方さまの傍らに居て差し上げて下さい。そしてそれを一番に望んでいるのは、沖田さん、貴方自身の筈です」
言葉の実(さね)にあるものが見えず、総司は黙ったまま浩太を凝視している。

「二年.・・・雄之真さまがあのようになってから、丁度二年が経ちます」
疑問を投げかける瞳に直截にはいらえを返さず、懐かしいというよりも、思い起こせばまだ辛いだけの筈の人の名を浩太は口にした。
それは総司にとっても、忘れる事など出来ようも無い事件だった。
浩太の主であり、田坂の無二の友瀬口雄之真は二年前の年の瀬、あまりに生き急いで生涯を閉じた。
「亡くなられて暫らくは、私は置いて行かれたのだと、何故連れて行ってはくれなかったのかと、雄之真さまを恨らんで過ごして来ました」
「瀬口さんは、浩太さんに生きて欲しかったのです。先のある浩太さんを巻き添えにする事は出来ないと、私にそう言っていた・・」
もう主からは決して告げられぬものとなってしまった瀬口の心情を伝えながら、総司にはその思いが寸分も違わず我が身と重なる。
「瀬口さんは私に言いました。・・・浩太さんは自分の身よりも大切な人だからこそ、先を摘み取る事は出来ない、生きて欲しいのだと・・」
瀬口が語った一言一言を、記憶の淵から手繰り寄せ浩太に語りつつ、同じ思いでありながら、あの潔さの欠片も見つけられない己の情け無さに、総司は唇を噛み締めた。

足手まといになる事は、火を見るより明らかな事実だった。
だがその辛さよりも、もう土方を追うことが出来無い孤独に今は怯えている。
だからこそ、置いてゆかれる前に置いてゆきたいと願った自分は卑怯な人間なのだろう。
けれど例えそれを愚かと侮られようと、傲慢と蔑まれようと、これ以外に、突きつけられた現実から逃れる術を知らない。
こんな筈では無かったとどんなに叱っても、土方一人を求める心は、背中合わせにある自分の弱さを、残酷なまでに総司に見せ付ける。


「・・・それでも。私は雄之真さまのお供をしたかったのですよ」
ひとつ言葉が終わり、ふたつ息をつくかつかぬかの僅かな沈黙の後、静かな声が総司の耳に届いた。
それに促されるように上げた視線が、浩太の穏やかな眼差しと絡みあった。
「置いてゆかれる者は、一時はその場に動けず放心し、或いは泣き、置いて行った者に恨みの限りを叫ぶだろう。が、やがて必ず、其処から歩き出さねばならぬ時が来る。そうして最初は弱い歩みも、いずれは地を蹴る強さに変わり前に進む事ができよう。・・・雄之真さまが、以前私にそんな事を言われた事がありました。藩の密命を帯び京に来る直前の事で、今にして思えば、それが私への遺言だったのかもしれません」
「・・・瀬口さんが?」
火鉢にある鉄瓶の口から追い立てられた白いものは、宙に離散する間際に湿った音を醸し出す。
それにも敵わぬような小さな声の問い掛けに、語りを止めた浩太がゆっくりと頷いた。

「けれどそれは雄之真さまの思い違いです」
「思い違い・・・」
「置いて行く道だけを最初から選び取られた雄之真さまは、置いてゆかれる者の心を生涯知ることは無かった」
淡々と紡いでいた調子が、俄かに乱れ厳しいものとなった。
瀬口への憤りと、戻れぬ過去への痛恨が其処にある。
だがそれこそが、浩太の胸の裡にある傷が、未だ朱い血を流し続けている証だった。
「そして沖田さま、貴方も思い違いをしておられる」
少しだけ早くなった口調には、相手を責め立てるのではなく、むしろ慈しむような響きがあった。
今一度上げた総司の視線の先に、真摯に自分を見つめている双つの眸があった。

「・・・今沖田さんの心には、土方さまに置いてゆかれる闇しか無いのだと、そんな風に私には思えるのです」
咄嗟に瞳を伏せた所作が、真実を突かれた総司の動揺をあからさまに物語っていた。
「先ほど私は土方さまを此処へ案内しながら、明日の布陣すら分からぬ戦の中を貴方を連れ行くのは無理だと、このまま此処にお止めしたいのだと、そう告げたのです」
思いもよらぬ言葉に、深い色の瞳が再び浩太に向け見張られた。
「差し出がましい事をしました。・・・が、その思いは今も変わることはありません」
語る浩太の声が、冬ざれと掛け離れた温もりに包まれた室に静かに響く。

この人物の根底を為すものが、驚く程強靭な精神に培われた優しさである事は知っていた。
そしてこうして改めて他人の自分に肉親以上の情を掛けてくれる様を目の当たりにすれば、有り難いと思う心よりも先に、浩太の意に添えない事への辛さが胸の裡を駆け抜ける。
それを堪えるように、総司は夜具の端を掴んでいた指に力を籠めた。
だが土方は、浩太とのやりとりを一言も漏らさなかった。
否、そんな事があったなど素振りすら見せなかった。
だから逢えた時、悦びに震える心と、遂に隔たれる時がやって来たのだと戦慄し怯える心と、ただそれだけに自分は翻弄されていた。

動揺を隠し切れない総司の様を、つぶさに視界に捉えながら、浩太は更に続ける。

「私の訴えに、貴方を連れ行くのだと、土方さまは頑として譲られはしませんでした。ですが誰の言葉にも耳貸さぬその強引さこそが、貴方を傍らから失う事に必死に抗っている土方さまの心の裏返しなのだと、その時私は知ったのです。・・・・貴方に置いて行かれるのを恐れているのは、土方さまの方なのです」
「・・・そんな事は・・」
「無いと、言い切れるのですか?いえ、もうとっくに貴方は知っている筈です。けれど今貴方には、自分が居る闇しか見えてはいない。それ故、全てから目を閉じ耳を塞ごうとしている」
諌める言葉と裏腹に、総司を見る浩太の眼差しはあくまでも柔らかい。
「誰も彼も、互いをひとつのものと信じながら、この世で二つ身である限り、常に心にある不安は同じなのです」
瞬く事を忘れてしまったかのように見つめる瞳に向かい、切々と訴える浩太の脳裏に、要らぬもの全てを削ぎ落としてしまう容赦の無い冷気の中、毅然と自分を見据えて微動だにしなかった土方の姿が過ぎる。

あの時。
総司を連れて行くと決めた己の先を阻むものには、例え神仏だろうが躊躇い無く制裁の刃を振るうだろうと、そう思わせる程に苛烈な意志を土方は双眸に秘めていた。
だからこそそれと相比して、手負いの獅子のような、瀬戸まで追い詰められた者の焦燥をも垣間見た。
土方は総司を我武者羅に縛り付ける事で、唯一の者を失う恐怖を消し去ろうとし、総司は叉自ら離れ行こうとすることで、置き去りにされる恐怖から逃れようとしている。
共に願う先にあるものは同じなのに、互いの心が掴めない。
人を想う気持ちは、それが恋情でも敬慕でも、強ければ強い程、掴み様の無い不安に翻弄される。
だが不器用な人間は、自分の主だけで十分だった。
置いてゆかれる人間は、もう自分のほかは要らなかった。


「唯一の人間が、自分から離れ行こうとしている。それがどんなに恐ろしいものであるのか・・・浩太には、今の土方さまの心が痛い程に分かるのです」
語る心の裡は、そのまま己の来し方に繋がる。
「土方さまには、貴方が必要なのですよ」

追って掛けた言葉を、果たして総司は受け容れようとするのか。
それでも・・・
不意に逸らされた視線が迷いながらも捉える先に、きっと土方の姿が在ることを、浩太は祈った。




「起してしまったか?」
声を掛けられてうっすらと瞼を開きはしたが、気配は襖を開ける前から察していた。
微かに首を振ると、総司は初めて土方に視線を移した。
「眠ってなどいなかった」
侵された熱で、不自然に潤んだ瞳が笑っていた。
「熱いな・・」
濡れ手拭を避け、直に額に触れた土方の眉根が寄せられた。
「・・・さっき浩太さんに薬を飲まされたから、きっとすぐに下がる」
だから案ずるなとでも云う風に、総司は少し顎を反るようにして土方を見上げた。
「そうか」
誰の目にも偽りだと分かる強がりに頷いてやれば、浮かべられた笑みが更に広がる。
「大坂で、近藤さんが松本先生とお前を待っている」
「近藤先生が?」
会話の流れを些かも損なう事無く、ごく自然に口にした人の名を、だが総司は訝しげに問うた。
「どうして、・・近藤先生が大坂に・・?」

新撰組は伏見奉行所に拠点を置き布陣したと、山崎から聞いている。
そして自分の行き先はその伏見ではなく、典医松本良順が傷病者の手当てを指揮している大坂城所司代屋敷だとも告げられた。
ならば近藤は伏見に居る筈だ。
だが土方は今、松本良順と共に大坂で待っていると言った。
だとしたら・・・
熱に邪魔される思考の中ですら、不吉な予感は一瞬にして禍々しい確信となった。
近藤の身に異変が起きたのだ――

「まさか近藤先生は・・・」
暫し黙していた面輪が、やがて何かに思い当たりみるみる強張る、その変化のひとつも見落とすまいと、土方の双眸も総司を捉えて離さない。
近藤が負傷したとの事実は、総司に大きな衝撃を与える筈だった。
だから自分の口から伝えなければならないのだと、それが土方の決断だった。

「土方さんっ、近藤先生は・・・」
咄嗟に夜具を押しのけ起き上がろうとした、たったそれだけの動きすら敵わず、大きく揺らいで前に傾(かし)いだ身が、すぐさま強い力で支えられた。
「近藤さんは大丈夫だ。お前の察した通り、確かに傷を負ってはいるが命に係わるものでは無い」
血管(ちくだ)に流れるものすら尽きてしまったような、色の無い頬で向けられた視線を、土方は正面から受け止めて告げた。
「・・・どうして」

たった六日。
六つの朝を迎え夜を送っただけで、我が身よりも大切な人の危急すら知り得ない、現を隔つ壁の向こうへと自分は追いやられてしまったのだ。
何処にもぶつけ様の無い悔しさ、憤りが、総司の唇を戦慄かせ、後の言葉を続けさせない。
その代わりのように、土方の腕を掴んだ指の先に力が籠もる。

「昨日深夜の事だ。二条城からの帰りに狙撃され、右肩に銃弾を受けた。幸い貫通し、体の中に鉛は残っていない。が、如何にせよ伏見ではろくな手当てが出来ない。それで大坂の松本先生の元で治療を受ける為に、一時下坂することになった」
抑揚の無い口調は、淡々と真実だけを語る。
例え近藤の負った怪我が重傷でも、そうしてありのままを伝える方が、与える動揺は少ないとの土方の苦渋の判断だった。
「俺の出掛けに、近藤さんはお前の事を案じていたぞ」
それが今総司に残されたある限りの力なのだろうか、きつく握り締めたまま緩めない指に手を重ね、ゆっくりとひとつづつ外してやりながら、土方は見開かれたままの瞳に静かに笑い掛けた。
「舟の揺れが、身体に障らなければ良いがと案じていた」
全て外し終えても、土方は己の手の内にそれを包み込み離そうとはしない。
その土方に視線を留めたまま、時を止めてしまったように、総司も叉身じろぎしない。


自分にとって近藤が師であり父であり、何人にも代え難い存在であるのと同様に、土方にとっても近藤は比翼だった。
常に影として動き、新撰組と云う組織を、実質的に此処までに造り上げたのは土方だった。
だが類稀に見る土方の殊能も、近藤の懐の大きさの中でこそ奔放に発揮できたのだ。
どちらが欠けても、新撰組は無い筈だった。
それ程に強固な絆がこの二人にはある。
その近藤が戦線を離脱せざるを得なくなった。
新撰組は、土方独りが背負わなくてはならなくなってしまった。

今土方の胸中に去来するものを推し量ろうとするのは、傲慢な事なのだろう・・・
だが我知らず伸びた指先が、常と何ら変わらぬ、端正な造りの頬に触れた。
近藤が襲撃されたと知った時も、きっとこの顔は眉ひとつ動かさず、動揺の欠片も見せず、低く鋭い声で、次なる手段を矢継ぎ早に命じたに違いない。
或いは―――
受けた痛みすら知る暇(いとま)無く、新撰組を動かしていたのか。

四面楚歌の状況にあって支えなど何ひとつ無く、しかし決して弱みを見せず毅然として立つ土方に、もしかしたら自分は更にむごい仕打をしようとしているのだろうか・・・・
穏やかな物言いが、握り締めてくれている掌から指へと伝わる温もりが、己の事は二の次に、ひたすら自分を案じてくれているのだと知れば、隈なく胸を覆うのは哀しいばかりの切なさだけだった。


「辛いのか?」
物言わず、ただひたすら見つめるだけの深い色の瞳を覗き込んで問う声は、労わりだけに終始して優しい。
「もう横になれ」
それに、総司は微かに首を振って応えた。
視界を滲ませるものを、熱のせいだと誤魔化す事はできる。
だが零れ落ちるものまでを、その所為だと言い訳する事は出来ない。
だからそうなる前に、弱い自分は隠してしまわなければならない。

「・・・土方さん」
抱いて支えてくれている腕の主を、総司は見上げた。
「雪を、見たいのです」
「馬鹿な事を言うな」
叱る声に、怒気が籠もる。
今宵の下坂とて薄氷を踏むような危険と隣り合わせにある病人を、この冷気に曝すなど到底叶えられる事ではなかった。
「ほんの少しの間でいい、土方さんの背で雪を見たい。・・・一度だけ、そうしたい」
だが総司は引き下がらない。
むしろこれが最後の懇願のように、瞳は必死に土方を捉えて離さない。
「土方さんの背で、雪を見たい」
二度繰り返された言葉は、まるで全部の神経を其れひとつに集めてしまったかのように硬質な声で紡がれた。

不意にこねられた駄々の中に、きっと籠められている筈の真実を探しあぐね、土方は暫し沈黙していたが、やがて諦めの息をひとつ漏らした。
そのまま無言で羽織の紐を解き袖を抜くと、胸の内に抱え込んでいた身に素早く纏わせた。
「本当に、少しだけだ」
念を押す声は、否と返る応えを拒んで厳しい。
それに頷いた総司の、項のあたりで緩やかに束ねられた髪が、無言の主の代わりのように微かに揺れた。

襖の向こうの隣の室からは、直接廊下に出る事が出来る。
其処まで行って細く障子を開け、室の中から外の様子を垣間見せれば気が治まるだろう。
少しでも寒気に触れさせないよう算段を巡らせながら、だが雪を見たいと言った総司の言葉の核に秘められたものをどうしても知りたいと、その衝動だけに土方自身も又突き動かされていた。

もしも・・・
これが人の重みというのならば、今負うものは何と心許なく、ただ駆り立てるような不安だけを与えるものなのか。
「寒くは無いか?」
首だけを捻り後ろを向くと、待っていたように合った面輪が小さく笑った。
「もっと袖の中に手を仕舞っておけ」
「でもそうしたら滑ってしまう」
「ならば雪は諦めろ」
言った寸座に、慌てて手は袖の内へと引っ込められ、半分出た指だけが肩を掴んだ。
その様子に、土方は分らぬように苦笑した。
そんな埒も無い会話を交わし、いらえを求め、この者の存在が確かに現にある事を確かめねば、背にある温もりすら幻と消えゆきそうだった。



「雪だ・・・」
閉ざされた日々を余儀なくされていた目には、何もかもが新鮮に映るらしく、障子を開けた途端、視界に飛び込んできた光景に吐息のような呟きが漏れた。
ほんの僅か。
拳が二つ入るだけ開けられた障子の隙から見る外の様子に、総司は暫し無言で見とれているようだったが、やがて土方の首に回していた腕に少しだけ力が籠められた。

「・・・まだ・・どれ程も経っていないのに」
耳朶に触れんばかりの近くでありながら、其処に届く前に掻き消えてしまいそうな小さな独り語りだった。
不審に振り向いた土方に、負われた背から総司が笑い掛けた。
「蛍」
「そう言えば見に行った事があったな」
「あの時も、こうして土方さんの背から蛍を見た」
「お前の駄々は、今に始まった事でもなさそうだな」
思い出し呆れたような愛想の無い口ぶりに、後ろから可笑しそうな忍び笑いが聞えてきた。
だが総司が言葉の奥に潜めるものを、感傷と打ち捨てる事は土方には出来ない。

蛍を見たいのだと珍しく総司が言い出し、それに半ば強引について行ったのは、今年の夏が始まろうとする頃合だった。
そして途中足を痛めた総司を、やはりこうして背に負い、ふたりで蛍の群集に佇んだ。
それから――
熱い風は過ぎ行く時に流され、涼やかに乾き、やがて全てを凍てつかせる厳しさに変わった。
半年。
あれからまだたった六つの月しか経てはいない。
けれどその半年で、総司の胸に巣喰う宿痾は、現を信じようとしなかった土方を嘲笑うかのように、血も肉も骨も、愛しい者の内から貪欲に吸い取って行った。
あの時、総司を療養生活に入らせるべきだと、江戸に帰し残された終焉までの時を、心穏やかな日々の中で送らせるべきだと、すでに田坂は訴えていた。
それに頑として首を振らず、決して受け容れようとしなかったのは自分だ。
だがもしも過ぎてしまった其処に立ち返り、同じ選択を迫られても、やはり違える道は選びはしないだろう。
人としての常軌など、とっくに逸している。
だから悔恨は無い。贖罪も無い。
あるのは、いずれ堕ちる修羅だけだと承知している。
総司を我が身から離したくはない、否、離す事などしはしない。
それが、どの世にあっても揺るがぬ己の決まり事だった。


「・・・こんな風に」
その土方の背で、手を伸ばせば掴めそうに近い昔に還るかのように、誰に告げるとも無く総司が呟いた。
「次から次へと、蛍が舞って・・・」
時折吹く風に攪拌され乱れ、落ちる寸座に叉舞い上がり・・・
地に着くまでのそんな雪の戯れを、総司は今脳裏にある蛍の飛び交う様になぞらえて見ている。

きっと見つけてやる――
いつか取り残される孤独を怯え、負われた背に顔を伏せ、思わず漏らした弱音に、土方は強い声でそう応えてくれた。
この背の主は、常に自分の前を歩む人だった。
だから見失わずに付いてゆけば良かった。
ただそれだけで良かった。
だがどうだろう・・・
その前で、土方がかわしてくれていた刃の激しさ、盾になり防いでくれていた矢の鋭さ、それらを自分は何も知らずにいた。
否、分かっていたと思っていた筈が、その実少しも分かってはいなかった。
外に吹きすさぶ嵐すら知ること無く、大きな羽の下に庇護され安寧と庇われていた自分が、臍を噛む程に悔しい。
今も土方は少しも変わりはしない。
近藤という存在を遠くに置き、独り新撰組を指揮する重圧の中でも些かの弱みも見せず、行くべき道を前に見据えて微動だにしない。
土方と離されてしまう恐怖しか見えず、置いてゆかれるのならば置いてゆきたいと願った自分は、きっと愚かな人間なのだろう――

心はまだ怯えている。
けれど今は、土方を護りたい。
支えになりたいと願う心は、この強い人には必要の無いものなのかもしれない。
それでも、自分はこの背を護りたい。
身が千に万に千切れ跡形も無くなろうと、どんな事をしても、誰よりも何よりも、土方を護りたい。
土方だけを護りたい。

回していた腕に、叉少しだけ力を籠めた。
背の主がそれに気付いて振り返らない前に、知って欲しい事がある。
「・・・ここにいる」
今一度強く縋り、それを支えにし、滾る想いは唇を震わせ短い形になった。
見つけて欲しいのではない、探して当てて欲しいのでもない。
自分は此処にいる、土方の傍らにいる、だから案ずるなと、闇に乱舞する蛍の群集の中で、負われた背から伝えた言の葉を、総司は今違う心で繰り返した。
「ここにいる・・・」
瞳から溢れ出そうになるものを堪え、時折詰まりながら、だが言葉は途切れる事無く紡がれる。


細く開かれた障子の向こうの景色が、余す隈なく白ひと色に塗り替えられて行く様を、土方は視界に入れながら見てはいない。

――ここにいる
背で繰り返す想い人は、どんな瞳の色をしているのか・・・
耳朶に触れる声はもう掠れて聞き辛い。
それでも仕舞いにする事など、させたくは無い。
この身は、幾度も背負った。
もう数える事すら覚束ない。
だが一度たりとも、自分からそうして欲しいと総司が言った事は無い。
雪を、背に負われて見たいのだと、そんな初めての駄々の意味を、今土方は承知した。
ここにいる。
自分はここにいる。
だから案ずるなと、総司は己の温もりで包み込んで伝えたかったのだ。
縋る腕は哀しい程に頼りない。
だが懇親の力で、ここにいると訴えてくる。

胸が・・・
いっそ張り裂けてしまったら、自分は獣の咆哮にも似た唸り声を上げ、雪に覆われた地を、力の限りの拳で叩きつけるだろう。
この愛しい者への想いの丈と、知ってしまった哀しみと、どうしようもない切なさと。
胸に織り成す全てを、振るう拳に籠め、天に吼え、流れるものすら拭わず地を叩き続けるだろう。
――きっと、そうするだろう。


「ここにいる・・・」
総司はまだ繰り返す。
「・・・知っている」
一尺にも満たない隙から見える外の風景は、すでに凍てる季節のものだ。
だがあの夏の日と同じように、低く返すのが精一杯だった。
「・・・ここにいる」
「知っている」
紡ぎ続ける唯ひとりの者の心に、そんな言葉でしか、もう何も応えられない。


雪は更に勢いを増し、風に邪魔され宙に留まり、そして又音も無く土に降り立つ。

「・・・知っている」
とうとう声に出来なくなってしまった聞こえぬ言の葉に、それでも土方はいらえを返し続ける。


視界を白く覆ってしまうものと、包まれる温もりと、縋る腕に籠められた力と・・・
それらが一緒になって酷く目の奥を熱くさせる。
聞き分けなく湧きいずるものを、幾度か瞬きして遣り過ごし、やがてそれも敵わぬ抗いと諦め、土方は静かに両の瞼を閉じた。







                                         雪  了







きりリクの部屋