桜 雨 (四) 「桜雨が客を呼ぶとは、嬉しいことよ。散りゆく様を、この武漢が独り愛でるのでは、花とて寂しかろうと思うていた処」 今日二度まみえたこの屋敷の主は、総司の来訪が余程に嬉しかったらしく、終始和やかな笑みを湛えて崩さない。 香を焚いているのか、花とは違う仄かに甘やかな匂いが、鼻腔をくすぐるだけでは飽き足らず、纏っている衣を透け、肌に染み込むような感覚を呼び起こす。 その中にいて総司は、先ほどから自分たち以外に人の気配の無い事が気に掛かっていた。 ――意を決し、黒い塀の外から案内を乞うた時、其れが誰かを確かめもせず、いきなり開いた門戸の先に、傘も差さずに佇んでいたのは、刑部兵部その人だった。 驚いて声も出せずにいる総司に、兵部はまるでそうして尋ねて来るのを承知していたように、親しげな眼差しを向けた。 だが奥へと誘う兵部の後に続きながら、あまりに深閑と静まり返った屋敷の中は、総司にひどく違和感を覚えさせた。 過ぎ行く室の、襖の隙から漏れる灯りは、足元を照らすに十分過ぎるものなのに、その中で息するものの気配が全く無い。 それが眩しい程の耀さと相まって、余計に落ち着かぬ不自然さを抱かせた。 「今夜は、何方もいらっしゃらないのですか?」 その総司の不審を察してか、兵部の唇がゆっくりと開かれた。 「生憎皆外へ使いに出ており、今は私しかおらぬ。其れゆえ存分な持て成しも出来ぬが、哀れな人間を慰めると思い、ゆるりとして行って欲しい」 「哀れ?」 「左様。今宵は私と血を分けた唯ひとりの妹が、ひととせ昔にみまかった夜。苦しみから何ひとつ救ってやれなかった兄を、妹はさぞ恨んで、逝ったのであろう。それを思えば、こうして妹の事を誰かに語り偲ぶのは、大層嬉しい事」 「妹さんの、ご命日・・・」 「雫が、桜の枝を地に垂れさせ、そうして花弁を重くし散らせるような、雨の夜であった事よ」 ふと総司から視線を逸らせ、それを何処に止めるでも無く、兵部は天の采配に足掻き敵わぬ人の観念を、はいた息に紛らわせるようにして呟いた。 「その鏡・・」 それにどう応えて良いのか分らず、音と云う音全てを封じ込めた静けさの中、次の言葉を待っていた総司の心を見透かしたように、すいと伸びた兵部の右腕が、脇に置かれていた紫の包みを指した。 「この屋敷にあったと云うのならば、或いは香子のものかもやしれぬ」 「きょうこ・・妹さんの名前でしょうか?」 静かに頷いた顔には、まだ浮かべた笑みの名残がある。 「香子は私とは八つ違いの妹。良い縁を得て嫁いだものの、気鬱の病で婚家から戻されて来たのが、三年前のやはり春、花の残る今頃だった。・・・夜更けでもあり、外に誰かが佇んでいる気配に下働きの者が怯え、閉めた門の僅かな隙から覗いた私の視界の中で、香子は枝垂れた桜に手を伸ばし、雨の白玉に濡れていた」 視線の先にあるのは、過ぎ去った昔の情景なのか―― 総司に向けた兵部の双眸が、現に映る像では無く、それよりも遥か遠くを捉えるように細められた。 「・・ひとりで・・で、しょうか?」 婚家から戻されたと、人に知られるのを厭う事情だとは云え、婦人がひとり、雨が帳をつくる闇の中、桜の下で立ち尽くす姿はあまりに寂しすぎる。 総司の呟きは、その有り様を思い描いた途端、我知らず漏れたものだった。 「・・ひとり。・・そう、香子は独りで還って来た。妹に恋焦がれ、狂おしい程に愛しいと想う心を、人の目を憚るが故に隠し続け、挙句他所へと嫁がせ己から離す事で、家名を護ろうとした無体な兄の元に・・・香子は恨みを告げる言葉すら忘れ、独りで還ってきた」 明かされる真実の重さに言葉を詰まらせ、ただ驚愕に瞳を見開く総司に語る兵部の声音の静けさは、しめやかにそぼ降る滴の閑寂を、些かも邪魔しない。 「驚いて名を呼んだ私に、手元に居た時と少しも変わらぬ優しげな笑みを湛えて、香子は振り向いた。だが兄上さまと、声にして応えてはくれなかった。・・・何も見えず何も聞えず、自分だけの心の中に棲み始めてしまった香子は、もう兄も他の者も判ずる術を忘れていた」 「そんなっ・・」 短く発せられた声の鋭さに、漸く現に戻されたように、来し方に思いを彷徨わせていた兵部の眸が鈍い光を宿した。 「・・香子・・何故そのように、哀しい瞳で兄を見る」 だが戻ったいらえに、総司の瞳が見開かれた。 「哀しい顔をするな。兄が憎いのならば、そう云うてくれ」 まるで地に戯れていた小さき生物が、不意の気配で飛び立ってしまうのになぞらえ、目の前の者が我が手から逃れるのを恐れるように、少しずつにじり間を詰める兵部に、咄嗟に脇に置いてあった太刀を手繰り寄せようとした総司の腕が、しかし思う動きの僅かにも侭ならず、それどころか身体そのものが大きく揺らいだ。 次の瞬間には、天が地に、地が天にぐらりと回り、ひんやりとした感覚の何かに強か頬を打ち付けられ、それが畳であり、我が身が倒れたのだと気付くのに、ずいぶんと時が要った。 「・・・なに・・を・・」 伏せる姿勢を余儀なくされ、辛うじて瞳を上げて訴える呂律が怪しい。 それでも必死に伸ばす指が、刀の下げ緒にあと僅かで触れ得る寸座、その道は大きな手によって断たれ、未だ鞘に眠る無骨な凶器は、円弧を描き遠方へと払い退けられた。 「叉も香子はそのような駄々を捏ねる。嫁げと命じた夜も、ただひとり想うているのは兄上さまだけだと泣き、人のものになるのならと、この手で喉を突こうとした。その時兄は、どれ程心の臓を凍らせた事か・・お前は知るまい。だがもう香子は何処にもやらぬ。兄は香子だけのものだ。それ故、聞き分けの無い駄々は仕舞いにいたせ」 捉えた手首をゆっくりと持ち上げ、それを離さず語る兵部の顔が、さもいとおしげに総司を見つめる。 「月に一度だけ香子とまみえるこの逢瀬が、十の数を過ぎてようやっと、お前は自ら兄に逢いに来てくれた。あの夜と同じように、闇を白く染める桜花に手を伸ばしていたお前を見た時、香子は許してくれたのだと、私の元に還って来たのだと、そう知った」 独り語る兵部の声が、総司の耳には酷く遠くに聞こえる。 身体の何処にも、痛みも苦しみも無い。 ただ激しい動悸が、今にも胸の膚を突き破りそうに繰り返され、冷たい汗が粒となって額に浮かび、それが頤を滑って滴る。 意識は次第に朧に霞み行き、今が現か幻かも判じかねる。 だが皮肉な事に、たちまち色を失くして行く総司の唇が、だらりと力が抜け行く華奢な手首が、小刻みに震え始めた薄い身が、兵部を狼狽へと走らせた。 「香子?苦しいのか?さても今宵の香は強すぎたか・・。だが兄はこの香を吸わねば、そなたに逢う事が敵わぬ」 「・・あへ・・ん・・?」 辛うじて留まっていた総司の正気が、戦慄く唇からようやっと言葉を紡がせた。 「名は知らぬ。だがこれのお陰で、香子に逢うことが叶う」 伏せていた身を片腕で抱き起こし、うっすら開けているのすら大儀そうな瞳に、兵部は語りかける。 「が、もう香も要らぬ。そのようなものが無くとも、私達は常に共に居るのだ」 それがどんな意味を持つのか・・・既に判ずる力も無い総司の耳に、囁く声音だけが呆と云う音になり、寄せ来る波のように木霊する。 「香子は私を許してくれた・・・もう香子の元に行っても、お前は私を拒みはしない」 茨の檻から解き放たれた悦びと僥倖を謳う口調は、しかし逆に総司の意識を一瞬強く覚醒させた。 言葉の辿り着く処は死だと―― その戦慄に、虚ろだった瞳が兵部に向けられた。 「・・・わたし・・は、・・きょう・・こ・・さんじゃない」 渾身の力を振絞り、唇を震わすだけの訴えは、それが必死であればある程、相手にとっては激しい拒絶を突きつけられるに等しいと、今の総司には推し量るまでの余裕が無い。 「まだそのように聞き分けの無い事を云い、兄を困らせるのか・・それ程に、香子は兄が憎いのか・・ならばどうすれば、香子は私を許してくれる?香子の元へ今参ると、そう誓えば許してくれるのか?」 愛しさが過ぎればそれは悲哀を誘い、そしてその悲哀は受け容れぬ者への憤りとなり、遂には自我の淵に沈む狂気へと人を走らせる。 「香子っ、応えてくれっ」 その一連の心の動きを三つ巴にして、外れた箍の隙間から、打ち付ける怒涛よりも激しい情動を迸らせた兵部の片手が、腕の内に捉えている者の細い喉首に宛がわれ、蜘蛛が糸張るように開いた五つの指が、息の道を断ち切らんばかりの勢いで絡まった。 重く圧される苦しみに、総司の眉根が辛そうに寄せられ、辛うじて動く右の手で兵部の手首を掴み除けようとしても、触れるだけが精一杯の力では、粘る糸に囚われた虫の羽ばたきにも覚束ない。 「兄も直ぐに行く・・、それ故許せ」 額一杯に汗を浮べ、歪められていた面輪からは次第に苦しみの色が引き、抗っていた指は力を失くして剥がれ落ち、いだいている身が、その分己の腕に重みを委ねて行く様を、細めた兵部の眸はいとおしげに見つめている。 「・・私の、香子・・」 漏れた呟きと共に、最後のひと息を止めるが如く、肘を鋭角に宙に突き立て、か細い喉に回した手指に一気に力を籠め様としたその刹那、しかしそれを許さぬ衝撃が兵部の背に走り、同時に総司の身体が放り出された人形のように転がった。 「爺っ、貴様邪魔立ていたす気かっ」 己の挙措を止めたのが、脇に倒れている老躯だと知った途端、兵部の罵声が飛んだ。 「兵部さまっ、おやめ下さいっ」 だがそれに怯まず、憤怒の形で立ちはだかる美丈夫を見上げ、小柄な老人は懇願の叫びを上げる。 「この方は香子さまではございませんっ。香子さまは、既にお亡くなりになられたのですっ」 捨て身で体当たった体を起こす事も敵わず、伏せたまま顔だけを上げた老人の声が、悲壮に響き渡る。 「黙れいっ」 「いいえ、黙りませぬっ。この身の血潮の一滴まで捧げても、必ずや兵部さまはお護りすると、それが爺が香子さまに致した約束でございます。この方を殺めては、もう博正さまとて兵部さまをお庇いする事が出来なくなります。それ故っ、どうかっ、どうかっ・・」 主の足元ににじり寄り、あらん限りの力でしがみ付き、懇願の叫びは続く。 「叔父上が許さぬとは笑止っ」 だがその老人を足蹴るように振りほどき、兵部は踵を返した。 「香子を殺した家名など、疾うに要らぬわ・・・私が欲しいのは香子ひとり」 それまで烈しい音を立て、紅く燃え盛っていた焔が、不意に蒼い揺らめきとなったような冷ややかな語り口に、老人の目が見開かれ凍り付いた。 それは兵部の魂が、完全に現を離れた証でもあった。 だが更に唇の端に笑みさえ浮かべた主の視線の捉えているのが、五日前の夜、確かに自分がこの屋敷の内に招き入れた若者の姿と見取るや否や、皺の勝った面が一瞬の内に強張り、血の気を逸した。 「香子が、漸く私を許してくれるのだ・・」 ――ゆっくりと歩を進める広い背を、固唾を呑んで見る老人の耳に、遠くから馬の嘶きが聞こえて来る。 「私は、香子と行くのだ」 ――そして間もおかず、次々に開け放たれる襖の、柱に当たり跳ね返る音が、徐々に、しかし確実に近づいて来る。 「・・香子」 乱暴に床を鳴らす幾多の足音が、この室の、もう直ぐ際まで来ている―― それが年老いた従僕に、限られた時を知らしめ、追い詰められた焦りが、ひとつの衝動へと走らせる。 「・・・共に行こうぞ」 跪き覗き込む面輪は、蒼い血管(ちくだ)を透かせた瞼を堅く閉じ、もう拒む言葉を紡がない。 「・・一緒だ」 片方のそれだけで十分手折れる程に頼りない喉首に、兵部の指があてがわれるのと、ひとつ動きのように、震えながら伸びた老人の手が、畳の上に転がっていた脇差の柄を掴んだ。 「香子」 愛しい者の名を繰り返し、眸を細めたその刹那、再び己の背を襲った激しい衝撃を、しかし兵部は僅かに身を反らせただけで、後は構えも抗いも見せぬままに受け止めた。 「・・どうして・・避けはいたしませんでしたか・・」 鋭く肉に食い込む刃の柄を両手で握り締めたまま、呆然と呟く老人の双眸に、応えぬ主の衣が朱(あけ)の色に染まり、それがゆっくりと前に傾いで行く様が、ひとつひとつ時を止めたように、克明に刻まれて行く。 「・・兵部さま・・」 やがて音もさせずに突っ伏し、もう微動だにせぬ主を呼ぶ、乾いた声だけが虚しく空を切る。 大きく肩を上下させ、息を乱して室に飛び込んだ土方の眸が最初に捉えたのは、その主従の直ぐ先に横たわる者の姿だった。 「総司っ」 己の思うが侭に動かぬ足を、縺れさせるようにして駆け寄り、すぐさま襟を割り着衣を肌蹴て左の胸に耳を寄せても、生在る息吹の音は、耳に触れるか触れまいかの際で辛うじて刻まれているに過ぎない。 喉首に目をやれば、気の道を塞がれた名残の紫が、白い膚に生々しい。 咄嗟に総司の首の裏に手を当て、それで頤を突き出させるような恰好にすると、土方は顎を鋭角に反らされた事で僅かに開いた唇を、己のそれで覆った。 溺れた者が止めた息を吹き返すのに施されるこの措置が、果たして糸のように細くなった命脈を繋ぎ止める糧になるのか―― だが今の土方に、それを疑問とする余地は無かった。 送り込む息は、己が身の、肉と骨とを削りとってもまだ足り無い。 遅れて走ってきた山崎が、倒れている兵部の傷を改め、引きちぎった袖で血止めを施しながら、此方を凝視している事すら知らず、必ず目を覚ますのだと信じ、土方は同じ所作を繰り返す。 その幾度目かに唇を離した時、微かに漏れた呻きにも似た声に、土方と山崎、二人の視線が蒼い面輪に釘付けられた。 「総司っ」 強く叫ぶ声が、身を造る核(さね)にまで届けよと、静まり返った室に響く。 「総司っ、俺だ」 やがてうっすらと開かれた瞳に己の姿を映し出しても、土方は更に呼び続ける。 動いたのか否か、それすら見止めるに難しい微かさで総司の唇が一瞬戦慄いたが、その吉兆も一度限りの事で、後はまるで静かな眠りにつくように、瞳は再び閉じられた。 力なく垂れた頸の付け根の少し上辺りに耳を付け、それでかの者の血潮の流れを確かめると、土方は漸く己の腕にあった身を抱えて方膝を立てた。 「駕籠を用意しろ」 だが命じる声に、山崎が諾と頷くその僅かの時よりも一瞬早く、土方の片手が、鷲掴んだ何かを真一文字に闇へ飛ばした。 鋭い光を煌かせたそれは、今正に主の血に塗られた切っ先を、己の喉元に突き立てようとしていた老僕の腕に当たり、そこで漸く勢いを止められ畳に転がった。 そうして初めて、山崎はその正体が、小さな手鏡で有る事を知った。 「お前は俺たちを、最初にこの屋敷に招きいれた者だな」 抱いた者の身に障りにならぬよう、ゆっくりと立ち上がりながら掛けた土方の問いに応えず、死の瀬戸から引きずり戻されたばかりの老人は、定まらぬ視線を刑部兵部に止めている。 「お前には、まだ聞くことがある」 呆然と声無き男と、動かぬその主に冷ややかな一瞥をくれると、土方は腕の中の者に視線を戻し、今度は其処に留まる一瞬ですら厭うように踵を返した。 桜雨の見せた幻と片付けるには、あまりに禍々しい事件も、十日を経ようとする頃には、次第に記憶からも薄れ行く。 あの時刺された刑部兵部は、老人の力の無さが幸いし、辛うじて命は取り留めたものの、不祥事を恐れた一族の長、刑部博正により表向き鬼籍の人とされ、もう二度と現に魂が戻る事の無い身は、この先朽ち果てるまで牢での日々を余儀なくされると云う。 「まよいが?」 それまで淡々と短い指示を与えるだけだった広い背の主が、ふと漏れた一言を聞きとめ、顔だけを後ろに向けた。 「申し訳ありません、つまらぬ事を云いました」 だがそうした土方の挙措に驚き慌てたのは、まさかこんな戯言に気を止めるとは思ってもいなかった山崎の方だった。 報告を終え座を立つ寸座、何気なく突いて出た言葉は、今総司の元に来ている客の事を思い起こしての、云ってしまってから自分でも唖然とした気紛れだった。 目の前の上司と、その掌中の玉と囲う若者に降りかかった今回の出来事を、嘗て同僚から聞かされ、一笑に付した話と重ね合わせ、考えも無く口にしてしまった己の浅慮を、山崎は悔いていた。 「その迷い家、どう云う類のものだ」 常日頃冷静沈着な男が、やにわに狼狽している珍しい様すら土方には目に入らないようで、鋭い声は性急にいらえを促す。 だがそう云う土方の反応の先にあるものこそ、事件の後味の悪さを未だ過去に出来ず、例えそれが伽話であっても、強引に幕を降ろしてくれる言い訳を欲している思いなのだと、山崎は判じた。 そうなればつまらぬ事をと詰られようと、腹を括らぬ訳には行かない。 出来た覚悟は、らしくも無かった己の軽はずみの不始末を、胸の裡で苦く笑う余裕をも、この男に取り戻させたようだった。 ゆっくりと口が開かれた時には、些かの事では動揺の微塵すら見せぬ、いつもの静かな表情になっていた。 「吉村に以前聞いた事があるのですが、あやつの国元南部からそう遠くない地方に、迷い家という云い伝えがあるそうです。屋敷には花が咲き、鳥が鳴き陽が溢れ・・しかしそう云う明るさの何処にも、人の気配は無いのだそうです。が、その家の中のものをひとつを持ち帰れば、末代に渡り栄えると、・・・まあ何処にでもある伽話なのでしょう」 「朱雀だの、狂人だの、馬鹿者どものいない、目出度い話で終わりか」 「そう云う事です」 聞き終えた話が然程興を惹くものでは無いと知るや、端正な顔(かんばせ)は、叉愛想無く文机に向けられてしまった。 「副長」 だが振り返らぬ背に再び掛かった声が、今度は意図して強かった。 「迷い家とは、その者に授けんが為に現われるのだとも、云い伝えられているそうです」 「ならば天も余計な事をする」 やはり後ろを向けたまま、苛立ち紛れに告げる主の脳裏には、未だ喉に痛々しい紫の痕を残す若者の姿があるのだろう。 それを被った迷惑と重ね、吐き捨てるように言う土方に、山崎の頬が緩められた。 「ですが副長、その家の中にあったもの、ひとつでも持ち帰れば福を呼ぶとは、叉同じ云い伝えです。副長は、確かに沖田さんを持ち帰られました筈。末代までの福を貰ったと、今回の件、仕舞いにできそうですな」 ゆっくりと振り返る相手に、山崎は形の良い礼を見せると即座に立ち上がり、長いは無用とばかりに急ぐ足で室を出て行った。 「訳の分からぬ事を」 早々に視界から消えた後姿に、憮然と投げかけた声が不機嫌だった。 「・・福か」 だがふと繰り返し、それが満更でも無いのが、山崎のしたり顔にすぐさま結びつき、整い過ぎた造作の面が、忌々しげに歪められた。 その土方の頬を、春も名残の生暖かな風が弄る。 もう総司の元に来ている客は帰ったのだろうか、ならばそろそろ室を覗いて良い頃合か・・ そんな事を思いながら、潅木の隙間を縫い、中庭に落ちる陽射しが作り出す光と陰の妙を、土方は眸を細め、見るとも為しに眺めていた。 明るい陽光の中で見る顔は、それが二度目であっても、まるで他人のように違う。 今自分に穏やかな眼差しを向けている老人を見ながら、時折総司は不思議な感覚に襲われる。それ程までに、最初の印象とは掛け離れたものが、目の前の人物にはあった。 「・・あの桜雨の夜は、兵部さまが香子さまとお逢いになられる、たまさかの夜でございました」 語り始めた声に、漸く現に戻されたように、総司が老人を見遣った。 「むろん香子さまのお姿は、薬によって、兵部さまが創り出される幻でしかありません。月に一度、全ての者を屋敷の外に払い、阿片の力を借り、兵部さまは亡き香子さまとの逢瀬を繰り返していたのです。・・・そしてそれはお二人がお生まれになられる、ずっと以前から刑部家にお仕えしてきた、私だけの胸に仕舞いこまねばならない秘め事でした」 傾きを強くした天道が、室に金色の光を投げかけ、その影が老人の顔の片側を暗くした。 「ですがそれが幾つか繰り返されるうちに、そのような力など借りずとも、兵部さまは香子さまのお姿をご覧になる事ができるようになっていたのです」 「それは・・」 「そうでございます。兵部さまのお心は、既に現を離れる時の方が、遥かに長くなっていたのでございます」 言い淀み、言葉を詰まらせた総司の続きを補い、佐古と名乗った老人は、静かな笑みを湛えた。 「門の外で桜を見上げている貴方さまを、兵部さまが香子さまと思い込んだのは、確かに阿片を吸っていた所為もありました。ですがこの私とて一瞬見間違う程に、貴方さまのお姿は、香子さまと良く似ておいでだったのです。いえ・・桜の花に手を伸ばしたお姿が、まるで雨に消え行きてしまいそうにもの哀しく、還ってらした時の、香子さまそのものだったのです。・・今にして思えば、桜雨がこの老人をも惑わせたのかもしれません」 「あの・・この鏡は、もしかしたら香子さんと云う方のものだったのでしょうか?」 老人の長い語りを聞き終え、二人の間に置かれている袱紗に視線を落として、総司は一番知りたかった事を問うた。 今日改めて尋ねて来た佐古の用向きは、くだんの手鏡を、総司に受け取って欲しいと云うものだった。 「香子さまのものでございます」 「では私は頂けません」 即座に返ったいらえに、だが老人は応えず、その代わりのように、ゆっくりと手を伸ばし手鏡を取り上げた。 「・・香子さまは、狂ってなどおりませなんだ」 掌中の鏡に目を細めて漏れた呟きに、総司の瞳が驚きに瞠られた。 「香子さまは、兵部さまが恋しいその一途さ故に、狂気を装い、婚家から出される事を計ったのでございます」 「けれどそれでは・・何年もの間、香子さんと云う方は、狂った振りをしていらしたのでしょうか・・」 驚きと云うよりも、むしろ衝撃に戸惑う総司に、佐古は寂しげに頷いた。 「誰もが、騙されました。・・いえ、香子さまご自身も、時に御自らを失くす程に、狂った御自分を演じていらしたのです。・・全ては、兄上兵部さまの元を離れたくは無いが為に」 少しずつ井草の蒼を茜に染め始めた西日が、座す老人の後ろに長い影を作って行く。 それをぼんやりと視界に入れながら、だが総司は、其処までして想う者の傍らに在りたかった香子を、我が身と重ね合わせずにはいられなかった。 「・・・私が香子さまの正気を知ったのは、春も終わりのある晩の事でした。屋敷の者が寝静まった深い頃合、ふと微かな衣擦れの音に目が覚めた私は、怯む心を抑えその正体を知ろうが為に、廊下へ出たのでございます。そして闇の中で、兵部さまのお部屋に向かう儚い姿の、それが誰のものかが分った途端、心の臓は早鐘のように打ち始めました」 「それは佐古さんが、香子さんはもしかしたら狂ってなどいないと、そう思い始めていたからですか?」 「お察しが早い」 総司の真摯な眼差しに、佐古の両頬が緩められた。 「左様でございます。香子さまはもしや・・と、そう思い始めていた私は、その毅然とした後姿に、自分の勘の、間違いの無い事を知ったのです」 「香子さんは、兵部さんに逢いに行ったのでしょうか?・・だとしたら、兵部さんも香子さんのお芝居に気付いていた筈です」 「いいえ、兵部さまはお気づきではありませんでした。・・その頃、既に狂気の淵にいらしたのは、香子さまでは無く、兵部さまの方だったのです。誰よりも愛しい香子さまを、血の繋がった妹であるが故に拒まねばならなかった兵部さまは、いつの間にか、ご自身をも追い詰めてしまっていたのです。・・・そして兵部さまの狂気は、香子さまの婚礼の晩を境に始まったのでございます」 驚きに声を呑む総司を視界の真中に捉えて、佐古は静かに語り続ける。 「枕元に現れた人の気配にも気付かず、眠りにいらした兵部さまに、香子さまは・・・」 だがそこで一度言葉を途切らせたのは、総司に対する老人の躊躇いのようだった。 「話して下さい。全てを聞きたいのです」 促す声にも、佐古は暫し迷っているようだったが、それでも語らねばならぬものだと意を決したのか、再び総司に視線を据えた。 「丁度あの晩・・・貴方さまが、土方さまに触れようとした、その仕草と全く同じように、香子さまは兵部さまの唇に指を伸ばし、しかし恐れるように慌ててそれを引き・・そうして愛しい方の御顔を、長い間見つめておいででした。そのあまりに哀しげな横顔を、私は今も忘れる事が出来ないのでございます」 老人の声音の静けさとは相反し、あの場を見られた衝撃に、言葉を失った細い面輪からは、みるみる色が引いてゆく。 「誰にも語りは致しません。この老人の生涯で、今が一度の口外でございます」 それを慰撫するように、佐古の柔らかな眼差しが向けられた。 「・・・あの夜、お二人をお泊めしたのは、貴方さまを香子さまと見紛うた、兵部さまの御命でした。そして勘の良い土方さまが、身近にいらした貴方さまの気配にも気付かず眠られていたのは、焚いた香の中に仕込んだ薬のためでございます。 ・・・貴方さまには効かなかったようで、途中で目覚めてしまわれましたが・・」 「私は色々な薬を服しているから・・」 それが思いがけなかったと笑う老人に、そう伝えるだけが精一杯で、隠し切れない狼狽に、総司の心の臓が激しく波打つ。 「この手鏡を置いたのも、その後も貴方さまとの繋がりを作れと兵部さまに命じられた、私の仕業でございました」 「私の忘れ物だと・・そう言って届ける為にでしょうか?」 「左様でございます」 応えた顔が、これが切欠で災禍をもたらしてしまった事への罪悪感を隠せず、俄かに曇ったが、しかし直ぐに老人の唇は、次なる言葉を発する為に解かれた。 「ですが私は、この手鏡を貴方さまに届けた時に、もうひとつ願いを籠めました」 「願い?」 「香子さまは私に正気を悟られたと知った時、いつも覗かれていたこの手鏡を手の平に乗せ、仰られたのでございます。この鏡に映るのは、全てが御自分のお姿なのだと。狂っている振りをしている時も、正気の時も、映るのは紛いも無く自分自身なのだと。・・兄上さまに触れる者がいるのならば、夜叉に姿を変える自分も、傍らにいる為には、その狂おしい想いは捨てた振りをしなければならない嘘の自分も、決して受け容れてはくれぬ兄上さまが、いっそ殺してしまいたい程に憎いと思う自分も、けれどその兄上さまに嫌われる事を何より恐れている臆病な自分も、全てを同じように映すと。・・意地悪く、全部が自分なのだと正直に映すと・・・哀しそうに微笑まれたのでございます」 「・・・全部が、自分・・」 「そう、仰られました」 頷いた老人の、頬に浮かべられた笑みが、射す陽よりも柔らかに総司に向けられた。 「そして既に病床にあられた香子さまは、もしも次の世でも人に生まれ変わる事が出来たのならば、愛しい兄上さまに再び巡りあえる事が出来たのならば、きっと自分以外の人に目をくれては嫌だと袖を引き、駄々の限りを捏ねるのだと・・・ そしてその時、一体自分はどのような顔をして、兄上さまを困らせるのだろうかと、静かにお笑いになりました。・・・それが私の見た、唯一倖せそうな、香子さまのお顔でございました。その二つ日を置いた桜雨の夜、香子さまは静かに身罷られたのです」 暮れ染む直前の残照は、人の目を眩ます程に烈しい陽を投げ掛ける。 だがそれを寂しいと感ずるのは、その時が、ごく一瞬の短く限られたものだと知るからだろうか―― そして其処に自分の心を馳せるのは、香子と云う女性の想いを、最早我が身のものとせずにはいられない、感傷の所為なのかもしれない。 そんな事を思いながら、ふと光の眩さに瞳を細めた総司の視界の中で、老人の口が再び開かれた。 「土方さまが放って下さったこの鏡で、私は救って頂く事が出来ました。あの時血迷ったまま己の命を粗末にしていれば、この先兵部さまにお仕えする事は叶いませんでした。・・香子さまが助けて下さったのだと、今はそう思います」 刑部兵部の命が助かったのは、あくまでも結果的なものだったが、この老僕は、残された生涯を主に尽くして捧げる意思を、静かな物言いで総司に伝えた。 「佐古さんにとってそのように大切な鏡、余計に頂く訳には行きません。それにこれは、香子さんの形見の筈です」 「いいえ」 即座に首を振った佐古のいらえは、穏やかな笑みを浮かべながらも、声音はひとつ信念に裏打ちされたように強いものだった。 「私は沖田さまに、駄々を捏ねてほしいのでございます。そうしてその時、貴方さまはどんなお顔をして、土方さまを困らせるのか・・香子さまに教えて差し上げて欲しいのです。愛しい方へ、ご自分と同じ仕草をされた貴方さまの行く末を、香子さまはきっと案じていられる・・・私には、そう思えるのでございます。貴方さまには香子さまの分までも、どうか倖せになって頂きたいのです」 逆から射す陽が、互いの表情を分りづらくする茜色の光華の中、深く頭を下げた佐古の影が、前に傾ぐ分だけ短くなった。 そしてそれはまるで、老人を庇ってその背に添い、共にこうべを垂れる香子と云う女性の姿のように、総司には思えた。 「ばか、いつまでも開けている奴があるかっ」 突然の怒声に、客を帰した後、そのままぼんやりと過ごしてしまった時のどれ程かに気付いた総司が、慌てて土方を見上げた。 「お前は又、風邪を引きたいのかっ」 春と云えど日も落ち始める今頃に吹く風は、通り過ぎる寸座、肌を粟立てる程にひんやりと冷たい。 想い人の、あまりの無頓着さに苛立つ心のぶつけ処のように、土方は乱暴に背を向けると、開け放してあった障子に手を掛けた。 「・・土方さんっ」 だが右と左へ水平に伸びた手が桟を引き寄せ、それがじき音を立て合わさろうとした寸座、後ろから掛かった小さな叫び声が、その荒々しい動きを止めた。 「あのっ・・」 「どうした?」 呼び止めたものの、振り向いた面をまともに直視する事が出来ず、総司は一瞬言葉を呑みこんだが、しかし直ぐに何かを決したように、深い色の瞳が真っ向から土方を捉えた。 閉めかけられた障子の隙で一度細い束になり、其処から四方に広がる今日最後の陽が、室を金色に染め上げて行く。 その光を背後にして立つ土方の顔に浮かぶ表情の綾が、総司の側からは判別できない。 それを臆する心の励ましとして、堅く閉ざされていた唇が、戦慄くように動いた。 「・・誰かが、・・触れるのは嫌だ・・」 だが突然の言葉は、その前後が省かれている所為で、意図するところが伝わらず、土方はせめて総司の面輪を捉えようと、目の上に手を翳し眸を細めた。 そうして洗いざらい土方の視界に晒される事で、怯む弱気を叱咤し、総司は更に続ける。 「誰かが・・土方さんに触れるのは嫌だっ」 頬に伝うものを拭う事すら忘れ、膝立ちになった瞬間、手にしていた手鏡が零れ落ち、畳の縁を越えて転がった。 それすら知らずして、総司は睨みつけるようにして土方を見上げる。 妬む心も、飽く無く欲する業の深さも、それを見まいとする卑怯な心も臆病さも、鏡に映る全てが同じ自分ならば―― 土方は自分のものだと、自分だけのものだと、今こうして駄々を捏ねている自分こそが、知って欲しい本当の姿だった。 「・・誰かがっ・・ひじかた・・さんのっ・・傍らにっ・・いるっ・・のは、嫌だ・・」 一度ついて出てしまった想いは、堰を切ったように迸る。 しゃくりあげるたびにこみ上げるもので、瞳はもう朧な像すら結べない。 今の自分は何と見っとも無い人間なのだろう。 こんな自分など要らぬと、土方は罵るのだろうか、蔑むのだろうか。 それでも知って欲しい。 土方は自分だけのものなのだと―― 「・・いやっ・・だっ・・」 突き上げる息に邪魔をされ、遂に言葉が途絶えた寸座、ゆっくりと近づいて来た影が、総司の視界の全てを覆った。 その土方の姿を瞳に映すに堪えられず、堅く目を瞑った刹那、今度は包み込むような温もりに、強張る身のあまなく全てがいだかれた。 そうして回された腕の力が、骨をも砕かんばかりに強くなり、低い、だが限りなく深い声音が耳朶に触れて囁く。 この身もこの心も、ひとつ残さず、たがう事なく、お前のものなのだと―― 深い色の瞳が微かに開き、やがて細い、細い嗚咽が、きつく噛み締めていた唇の隙から、止むこと無く零れ落ち始める。 その時自分は、どんな顔をして駄々をこねるのだろう―― 霞む視界の中で、たおやかに微笑む佳人の声が、今総司の耳に、現の幻となって木霊する。 桜 雨 了 |