願いしものは 参
闇に沈んでいたのはそう大した間ではなかったらしい。
頬に触れられた冷たい何かに、微かに意識が戻された。
瞼を開くのも大儀で暫らくその触れるものの、されるがままになっていた。
「・・・総司」
自分の名を呼ぶのは確かに忘れえぬ声だが、もうそれに応える力も無い。
「総司」
今度は強い何かが自分の体を揺すった。
その声の響きがあまりにも苦し気で、総司の中で何かが呼び起こされた。
何が辛いのだろう・・・
だがこの声の持ち主に、こんな思いをさせてはならない。
動かぬ体よりも、その無意識の感情が総司の瞳をかろうじて開かせた。
その瞬間突然視界に入ってきた明るさが、無遠慮に全ての意識を覚醒させた。
「・・・総司」
まだ焦点の合わない瞳を彷徨わせていたが、
僅かに視線だけを声のする方向に向けた。
そこに土方の、青ざめて強張った顔があった。
こんな土方は見たことが無い。
土方にこんな顔をさせるのは許せない。
思うにならぬ自分の体を叱咤しながら、必死に手を伸ばそうとして、
自分の上半身が土方の腕の中に抱き込まれているのを知った。
先程から頬に触れている冷たいものは土方の指先だった。
言葉にして応えるつもりだったが、
唐突に胸の奥から込み上げてきた熱い迸(ほとばし)りがそれを邪魔した。
もうどこにも微塵の力も残っていないと思っていたが、
容赦無い咳が体を波打ち、その度に朱の飛沫(しぶき)が飛び散る。
回された土方の腕が痛いほど締め付けてくる。
この人は自分よりもずっと震えている。
先程から自分の名しか繰り返さない。
その声すら何かに怯えている。
自分は大丈夫だと伝えれば、
きっとこの腕もその力を抜くことができるだろう。
声にも安堵の色を湛えることができるだろう。
だから自分は言葉にして応えなければならいのに、今は息すらできない。
やらなければならぬことがあるのに、
ひとつも思うにままならぬ悔しさに、総司の瞳が揺らいだ。
吐けぬ息の苦しさと相まって、黒曜の瞳から露が零れ落ちる。
再び霞み行く意識の中で、
自分の吐き出す朱の色で、土方の胸元がみるみる染まるのがぼんやりと分かった。
こんなに血を吐いたら土方が心配する・・・・
それが最後に残された記憶で、今度こそ何もかもが深い闇にさらわれた。
『・・・以って火急に貴殿にお知らせ致したき事成れば万事お察し頂きたく候』
文机の上に無造作に開いておかれた手紙を、
先ほどから土方は、読むとも無くただ見ている。
伊庭八郎から、総司の体に不安があるとの内容を記した自分宛の手紙は、
大坂を出立する前に早飛脚に託したのであろう、
池田屋の惨劇の一夜が明けて三日経った、今朝早くに届いた。
すでに今日の日は高い。気の早い蝉の声だけが耳に姦(かしま)しい。
手紙を懐に仕舞い込むと、土方は思いつめたように立ち上がった。
そろそろ総司を診ている医師の診察が終わる頃だった。
前川家の離れの一部屋を新たに借りて、
そこで総司は頬に少しの血の色も通わぬような、蒼白な顔を枕に乗せ眠っていた。
少しでも風が通るようにと障子は開け放ってはいたが、
屏風の向こうに仰臥する薄い体は微かにも動かない。
土方の気配に枕元に端座していた医師がゆっくりと振り向いた。
難しげな医師の顔の色に、土方の胸が騒ぐ。
「如何でしょうか」
会津藩から遣わされたこの医師に、もう幾度同じ問い掛けをしたことか。
その度に自分は一縷の望みを賭けて、縋るような目をしていることだろう。
「心の臓の音がまだいま少し強くならねば・・」
土方にとって、医師の答えは常に正確で残酷だった。
最初に総司を診た時、喀血により肺腑から流れ出た大量の血液は、
体全体を衰弱させ、ことに心の臓に負担を掛けていると医師は告げた。
脈は薄く、繰り返す息すら事切れそうに細かった。
丸一日は意識も戻らず、誰もがその状態を危惧したが、
それでも昨日の夕方にうっすらと瞼が開いた。
思わず土方が握り締めた総司の手が、恐ろしいほどに冷たかった。
熱は高いが体内に残された少ない血は、
その四肢の先までは、なかなかに行き渡らないのだと医師は言った。
それを両の手で温(ぬく)めるようにして擦ってやると、
総司は宙に浮かしていた視線を傍らに居る人の影に巡らせた。
それが土方だと分かると、瞳に弱々しながらも光を宿し、
微かに唇だけが動いたが、まだ言葉にする力は無かった。
それでもその動きだけで、自分の名を呼ぼうとしたのだとはすぐに知れた。
土方は目の奥の熱くなるのを堪えて、己の温もりを分け与えるかのように、
総司の骨ばった痛々しい程に細い指のひとつひとつに、
更に強く自分のそれを絡ませていた。
昨日と少しも変わらず、閉じられた薄い瞼すら染める色も無く、総司は眠り続ける。
「しかしこのまま落ち着きを取り戻していれば、
今の状態は段々に良くはなって行きましょう。
ただ、元にある病だけは最早どうすることもできません」
己の告げる言葉の無情さに、医師の声音も苦しそうだった。
総司に視線を縫いとめたまま、それを聞く土方は表情を無くして無言だった。
「土方先生、近藤局長がお呼びですが・・」
近藤付きのまだ見習いの隊士が呼びに来たが、
暫らく土方はそのまま総司の傍らに居た。
池田屋の直後から、土方は忙しかった。
食事をする暇(いとま)すら無く、
この勝利の成果を最大限に利用する為に動き回わらねばならなかった。
一度総司の傍らを離れればまた夜にでもならなければ来ることは出来ない。
いつとも知れぬ眠りから総司が目醒めた時に、せめて自分が居てやりたかった。
「土方先生」
近藤から言い渡された隊士の小さな声が、促すように今一度土方を呼んだ。
たらいの水を汲み替えて、総司の世話を任せている者が戻ってきたのを機に、
土方はまだ横に居る医師に深く頭を下げると、諦めた様に立ち上がった。
「総司はどんな具合だ」
近藤は室に現れた土方を見ると、すぐにその様子を聞いた。
「相変わらずだ」
土方の応(いら)えに難しそうに顔を曇らせた。
「医者を変えてみたらどうだろうか。
いくら会津様からの紹介とはいえ、医者にも得手不得手があるだろう。
胸の病を専門とする医者を探して任せれば良くなるやもしれん」
近藤も藁にも縋ろうと必死なのだろうが、土方は黙って首を横に振った。
「あの医者は診立ても確かだ」
「では総司は治らんというのか」
「馬鹿野郎っ、治るに決まっている」
近藤に詰め寄られて思わず迸(ほとばし)った言葉の激しさに、
言った土方自身の顔が苦しげに歪んだ。
「・・・すまん」
搾り出すように一言詫びて横を向いた。
「いい。分かっている。お前も俺も一緒だ。総司は治るさ。
決して死にはしない、いや、死なせはしない」
近藤の言葉が労わるように胸に滲み入る。今はそれすら辛い。
「馬鹿はこの俺だ・・・」
己を罵倒するように低く呻いて、思わず拳を握った。
何故こんなに近くにいて気付かなかったのか。
たった一日で、伊庭は総司の不調を不安なものと察した。
伊庭が気に掛けたものを、どうして自分が分からなかったのか・・・
昼に夜に容赦なく土方を苦しめるのは、ただただ、自責の念だけだった。
「・・・総司は江戸に帰す」
近藤のその言葉に、漸く土方が顔を上げた。
「江戸に帰す・・?」
「そうするのが一番いいだろう。あれの寿命を少しでも延ばしてやりたい」
土方はぼんやりと近藤を見た。
近藤の言っていることは正しい。
確かに今総司を江戸に帰すのが最良の道だった。
新撰組にこのまま居ることは、総司の限られた命を更に短く削ることと同じだった。
だが土方の中で激しい何かが、それに抗った。
「・・・帰すことが果たして総司の望むことか」
「それを説き伏せなければならぬのが、俺たちの役目だろう」
近藤の声が土方の躊躇を咎めるように厳しかった。
「分かっている。・・・そんなことは、分かっている」
吐き捨てる様に呟いて、そのまま乱暴に目を逸らした。
「もう少し具合が良くなったら俺から総司に話そう」
辛い役目を買って出てくれた近藤の申し出にはすまないと思う。
近藤とて辛いのだ。
それでも土方はどうしてもそれに頷くことができなかった。
応(いら)えは返さず立ち上がった。
「歳、堪(こら)えろっ」
その近藤の呼びかけにも振り返らず、 土方は黙って室を出た。
廊下を渡りながら、先ほどよりも蝉の声が鬱陶しい。
梅雨があけたのだろうか・・・
今はそれすらも、土方の思考の外だった。
もう、夕刻に近いのだろう。
敷居の隅にやられた障子の影が畳の上に長かった。
あれからどの位自分は夢と現(うつつ)を入ったり来たりしていたのだろう。
今日は池田屋を襲撃した日から数えて五日が経っていると、
さっき見舞いに来てくれた永倉が言っていた。
ずいぶんと長くにも、酷く短くにも思える。
池田屋で昏倒して初めて目を覚ました時に、そこに土方がいた。
どこにどうやって自分が今いるのか全く分からなかったが、
土方を見た時に、まだ生きていることだけは知った。
池田屋で自分は死ぬはずだった。
段々に弱ってゆく体への恐れと、
自分を絡めとり息をもできない土方への苦しい想いと、
そんな全てから解き放たれるはずだった。
だが自分はまだ確かな呼吸を繰り返し、ここに生きている。
(とんだ誤算だ・・・)
もう自分の思うとおりになることは、ひとつも無いのだろうか。
諦めすら許されぬこの世の運命(さだめ)の気まぐれに、落胆よりも憤りが勝った。
ふと吐息した時、
開け放たれた室から見える廊下に人影が見えて、総司は体を硬くした。
いつか自分は江戸に戻れと言われる。
ここには居られなくなる。
その宣告が今日か明日かと怯える。
寝付いてからいつの間にか身に付いた哀しい習性だった。
だがその影が唯一待っていた人間のものだと知ると、
総司は悟られぬように安堵の息を漏らした。
「少しは良くなったか」
ここに来る土方の一声はいつもそれだ。
「・・もう大丈夫です」
土方自身は気付いていないだろう癖に、総司は答えながら小さく笑った。
相変わらず蒼白な顔をして大丈夫そうにも見えぬが、
それでも声に少しづつ力が戻ってきている。
それが土方の重い胸の内を僅かに軽くする。
枕辺に来て胡座をかいて座り込んだ土方を、総司は黙って見上げている。
見つめられて、土方もまた無言だった。
この黒曜石の深い色に似た瞳の中に、自分は一体何を見てきたのだろう。
総司のことは或いは本人よりも分かっているつもりだった。
いつも心に思うその半分も言葉にせずに、
総司はこの瞳の中にすべてをしまいこんでしまう。
自分だけには隠して欲しくは無いと、思っていた。
何もかも知っていてやりたいと、願っていた。
それなのにどうだ、結局自分は何も分かっていてやれなかった。
近藤の言うように、江戸に帰して養生させることが、一番の道なのだろう。
そうすれば総司は少しでも長く生きることができる。
もう人を斬って己の手を血で汚すことも無い。
穏やかな中で、短く限られた命をまっとうすることができるのだ。
自分の傍らにいることが当たり前だった総司がいなくなる。
ただそれだけのことだ。
ただそれだけの・・・
胸の内で己にそう言い含めたその刹那、
土方の中で逆巻くような激しい感情が突き上げた。
・・・・違う
自分はまだこの瞳に隠しているものを、ひとつも分かってやっていはいない。
総司が漏らしてきたはずの苦しい呻き声のひとつも、聞いてやってはいない。
・・・・否、それともまだ違う。
この堪えようの無い感情は、そんな奇麗事ではない。
自分は、もっと勝手な・・・
この瞳がもう自分を映し出すことが無いなどとは思いたくも無い。
総司が己の傍らにいないという現実を、誰に許す訳にも行かない。
人とは思えぬ言い分だと言うことは分かっている。
裏を返せば即ち、総司の命を縮める事となるそれを願う自分は、鬼畜生だろう。
だがもう、自分の心を止めることはできない。
総司を江戸には帰したくない。
自分の傍らにおいておきたい。
「総司・・・」
今から自分が告げることは人の言葉では無い。
低い呟きに、瞬きも忘れたのかのように、
自分を見上げてくる総司の黒曜の瞳がそこにあった。。
「・・・ここに、居ろ」
声が、掠れた。
微かにも動かぬ土方の双眸を、総司は呆然として見ている。
庭を渡る風に遊ぶ、葉擦れの微かな音だけが聞こえる。
黒曜の瞳を大きく瞠って、
ひたすらに土方を見つめていたその一番奥で、一瞬何かが揺らいだ。
静かに揺れたそれは、瞳を覆い、みるみる膨れ上がり、
ひとつの露となって零れた。
思わず瞼を閉じたが、それも役には立たず、次から次へと露は流れ落ちる。
「ここに居ろ・・」
土方の声が聞こえる。
瞳を閉じたまま、零れ落ちる露を拭うことも叶わず、
総司は幾度も幾度も頷いた。
そうすることが精一杯だった。それしか出来なかった。
止まることを知らない露を払おうとして、手を出した己のそれより先に、
土方の親指が、頬を拭ってくれた。
せめて声だけは漏らすまいと堪(こら)えてはみたが、
指から頬に伝わる暖かさがそれを邪魔した。
「泣くな」
それにも頷きながら、総司はもう瞳を開くことができなかった。
日暮れの色がまた濃くなった。
土方は狭い中庭に目をやっている。
あれから二人とも無言だった。
だが総司は土方の温もりを感じていた。
自分に顔を向けないのは、その照れ隠しなのかもしれない。
枕の上から土方の背を見上げながら、総司はそっと手を伸ばしてみた。
死ぬことを願った自分の望みは叶わなかった。
けれど、きっと自分は生きていてよかったのだ。
夕暮れに通る風がまだ熱い。
夏が、やってくるのだ。
あと幾つこの季節を自分は迎えることができるのか分からない。
それでも今はこの一時(いっとき)だけを思っていたかった。
願いは叶った。
これ以上望めば罰があたる・・・
指先が土方に触れる直前に、手を止めた。
・・・・それだけで十分だった。
願いしものは 了 2002.5.15