暮れの春 (下) 「そんなに張ったら、水が跳ねて濡れるぞ」 力の無いか細い腕で、井戸から汲み上げた水を手桶に移し変えようとしている小さな背に向かって、土方の呆れた声が飛んだ。 それに驚いて振り向いた面輪が、此方にやって来る声の主を認めた途端、少しだけ強張った。 「お前の力では、その半分が良いところだ」 「でもそうしたら、井上さんがお米を研ぐのに間に合わない」 「間に合わなけりゃ、自分で汲みに来るだろうさ」 ゆったりと歩を進めながら嘯く土方の、あまりな云いように、宗次郎の次の言葉は封じ込められ、深い色の瞳が困惑に揺れる。 「持てもしない桶を持って、袴を水びたしにして、挙句ひっくり返るのか?」 更にからかうような眼差しを受け、まだ輪郭に幼さ特有の柔らかみが残る面輪が、土方を見上げて勝気な色を浮かべた。 「半分にしろ」 稚(いとけな)い抗いと怒りを直截にぶつけられても、決まり悪そうにする風も無く、土方の声は、いつの間にか命じるそれへと変わる。 「持てる」 が、宗次郎も、譲らない。 「又鼻緒が切れるぞ」 力加減を上手にしながら引く釣瓶が、勢い良く滑車を回す様を見上げながら告げた土方の一言は、遂に宗次郎を俯かせ、沈黙の檻へと閉じ込めてしまった。 この井戸端で初めてまみえたその時に見せてしまった醜態を思いだし、そしてそれへの揶揄をかわす余裕など、何処を探しても見つからない幼い心は、みるみる羞恥で満たされ、顔を上げるに忍びない程に悲鳴を上げているのだろう。 だが子供相手に呆れる意地の悪い物言いを、敢えてしなければならない土方も又、実の処、らしくもない遣る瀬無さの中にいる。 ――こうでも云わなければ、宗次郎は諦めようとはしない。 五日前、まだ夜も明けやらぬ早暁、水を汲むに難儀していた少年は、その容姿とは凡そ似つかわぬ頑固を裡に秘めていた。 今かわされたばかりの問答とて、会ったその日から、過ぎた日と同じ数だけ几帳面に繰り返されている。 だがそれも回を重ね続ければ、ついつい言葉に苛立ちが先立つのを、土方の癇癪は止められない。 確かに勝太の云った通り、道場で見る宗次郎の動きの俊敏さには、ひと目で天分と知れるものがあった。 百姓と云う身分から、場末とは云え、ひとつ道場の跡取と見こまれ養子になった友は、或いはこの類稀な資質を持つ少年を、己の手で育て上げる事に若い夢を託したのかもしれない。 が、当の本人はそんな師の思いなど知る由も無く、水を張った手桶の重さに負けまいとの必死が、今は修行の唯一らしかった。 最初の日の一件を、勝太と、最近ではこの道場の裏方の切り盛りを一切任されている、最年長の内弟子、井上源三郎に話した時には、流石に両者も驚いたようで、宗次郎を端坐させ、始めは出来る事からやれば良いのだと諭したにも関わらず、あれから毎朝こうして少年の格闘は続いている。 それを半ば呆れ、半ば諦め見ていた土方だったが、何時の間にか視線は、覚束ない足取りで桶を運ぶ薄く小さな背を追い、それが無事母屋まで辿り着くのを見届けると、妙な安堵に包まれる自分に気づいた。 だが其処に到るまでの、己の胸の裡を騒がせる落ち着きの無さが、土方には気に入らない。 「転んで、土に水を撒くのがおちだ」 そんな勝手な思いが、無言の少年に、更に容赦の無い追い討ちを掛ける。 際まで釣瓶を引き上げ、水で満たされた桶を井筒の端に乗せると、土方は漸く宗次郎を振り返った。 「云うことを、聞いておけ」 見上げている瞳に見え隠れしている勝気な色に知らぬ振りして、水を足元の桶に移し替えると、後はもう何も云わず、土方は水飛沫を上げて顔を洗い始めた。 が、その幾度目かに、脇に立っていた影が不意に動き、それと同時に荒っぽく膚を叩ていた手が止まった。 直ぐに顔を上げたが、水滴が目に膜を張り、思うように視界が開けない。 それを手の甲で乱暴に拭い、漸く映るものが鮮明になるや否や、最初に土方の眸に飛び込んできたのは、小さな背中が、まるで桶を抱え込むようにして前に傾ぐ瞬間だった。 「宗次郎っ」 叫び声は早朝のしじまを劈いたが、華奢な身が、地に倒れ込むのを止める術にはならなかった。 一瞬身を硬くした土方の視界の中で、伏せたまま微動だにせぬ少年の手指を離れた桶が、水を土に帰し、自由を得た気侭を勝ち誇るかのように先へと転がる。 「宗次郎っ」 僅か二歩三歩、だがたったそれだけの距離がもどかしく、土方は伸ばした手と共に名を呼ぶ。 「おいっ」 脇に屈み抱き起こしても、宗次郎の瞳は開かない。 「宗次郎、おいっ」 白い頬を叩いて刺激を与え、意識の覚醒を促す土方の顔(かんばせ)も厳しさを増す。 ――転ぶと思ったあの瞬間、宗次郎は桶を手から放さず、むしろ己の身に抱きかかえるようにして、地に叩き付けられた。 木の桶は堅く、衝撃を和らげてくれる糧にはならない。 否、むしろ地を盾にして、下から突き出す矛のように、凶器となった筈だ。 下手をすれば、あばら骨のひとつふたつ折ったでは済まされない。 「宗治郎っ」 その焦りが、土方の声を荒げさせる。 「・・歳さん?」 尋常ではない大声は母屋にまで届いたようで、何があったのかと、裏を回ってやって来た井上源三郎の足が、その気配を察し振り向いた土方の、余裕と云うものを根こそぎ削ぎ取ってしまったような形相に、ぴたりと止まった。 そしてつと視線をずらせた腕の中に、まるで壊れた人形のように力を失くし、動かぬ宗次郎を見止めるや、息を呑み身を強張らせた。 「医者がいる」 しかしその井上の動揺の様が、皮肉なことに、土方にこの場をどうするか程度の思考を戻したらしく、立ち竦んでいる相手を見上げた眸には、少なくとも先ほど垣間見せた、己を逸するような乱れは無い。 「転んだ拍子に、持っていた桶の縁で、胸か腹かを打ったらしい」 「本道の医者でいいか?」 落ち着きまでとは行かなくとも、井上もようよう頭を働かせ始めたらしく、土方の逆に屈みこむと、堅く瞳を閉じている小さな面輪に手を伸ばし、恐る恐ると云うに相応しい仕草で前髪を掻き分け額に触れた。 「いや、縫合の出来る医者がいい」 云いながら顎をしゃくり目線を動かす事で示した先に、宗次郎の左の袖を染め始めた朱の色が、濡れた水の勢いを借り、歪な輪を幾重にも広がらせている。 急(せ)いて袖をめくれば、丁度肘辺りに、皮膚を裂き薄い肉を断った傷が、無防備に口を開いている。 大人のものらば、この程度の怪我は見慣れている筈の井上の目に、しかし小枝にも敵わぬ細い腕にあるそれは、酷く痛々しく残忍なものに映る。 「縫合が出来る医者なら、骨の傷も確かめられるだろう」 常よりもずっと早い土方の口調は、それがこの男の焦燥そのものだったが、現の傷に動転し、暫し思考を止めてしまった井上には、其処まで気が回らない。 「早くしてくれっ」 だが突然上から振ってきた怒号と共に、目を釘付けていたか細い四肢が不意に視界から消え、それで漸く我を戻し慌てて見上げた井上の視線の先に、宗次郎を抱きかかえ、走り出さんばかりの勢いで母屋に向かう広い背があった。 初老の医師は、それが癖なのか、小さな患者の肘の傷を縫い合わせている途中、何かを考えるようにして幾度か手を止めた。 そうして一寸半程の、幅は然程でも無かったが、骨まで達しているかと思える程に深い切り口を縫い終えると、額に浮かんだ汗を手の甲で拭い深い息をついた。 「小さな子供の縫合は、余程上手くやらんと、時に筋をも傷つける。そうして其処が引き攣れとなって、いずれ成長の邪魔になる」 語りながら手際よく捲かれる白い晒しは、瞬く間に宗次郎の腕の半分以上を覆ってしまう。 「どうやらあんた達が案じていた、あばらの骨折は無いようだ。桶を抱え込んだとの事だが、転がる勢いに逆らわぬ身の軽さが、幸いとなったらしい。が、外から診るだけでは、その奥に在る臓腑が受けた損傷までは分らぬ。こう云う怪我は突然容態が変わる事も間々あるから、暫くは注意をして様子を見るように」 晒しの端を、最後のひと巻きの内側へ器用な手つきで仕舞いこむと、医師は、まるで自分がその処置を受けているかのように硬い顔の勝太と、隣に座っている、これもまた厳しい面差しの土方に向き直って告げた。 「・・それにしても。この子は、此処の道場の子だろうか?」 「内弟子として、預かっております」 首尾よく治療を終え安堵した途端、不意に湧いたらしい疑問を朴訥に問う医師に、勝太が強張った面持ちそのものの太い声で応えた。 「内弟子?」 だが返ったいらえは、まるでそうで有る事が不服とでも云うような、難しげな反復だった。 「・・何か、御懸念な点でも?」 目覚めぬ蒼白な面輪に視線を置き、共に言葉も止めてしまった医師に問う勝太の声が、不審を濃くして低くなる。 「剣術のように激しく身を使うには、些か適さぬ造りのようだが・・。が、まだそう端から決め付け無くとも良かろう。長ずるに従い、少しずつ身体の出来て来る子もいる」 単に憶測のみを語るのは、この幼き者の先を言葉で摘み取るだけだと判じたのか、医師はそれ以上は云わず、後はじき目覚めるであろうその時に飲ませる痛み止めと、既に傷口の炎症の為に上がって来ている熱さましの薬に関する説明を簡単にしただけで、やって来た時と同じように、井上に案内され室を出て行った。 「そろそろ、目が覚めるだろうか?」 小さな面輪に浮いた汗を、無骨な指先で拭ってやりながら、誰に告げるでもなく不安げに呟いた勝太の声は、養父周斎の留守中に起こった、思いもかけぬ事態に動転した気の名残を未だ消し去れない。 「が、気がつかないでいてくれて、幸いだった」 宗次郎の額に手を置き、それで掌に伝わる熱を計るようにしながら土方を振り返った強面が、その事だけは心底安堵しているように告げた。 それは己の手首よりも更に細い腕に縫合が行われている間中、幾度目を逸らせようとしたか知れぬ勝太の、偽らざる心情だった。 だがそう打ち明けた友は、眠りつづける少年に視線を止め、応えようとはしない。 人の目を一瞬の内に惹きつける、端正の際立った、むしろそれゆえに怜悧とさえ思わせる顔(かんばせ)が酷く硬い。 「歳?」 嘗て見たことの無いその様に、掛けた声が訝しげにくぐもる。 「どうした?」 重ねて呼ぶ声に、切れ長の目がちらりと視線を寄越した、それが漸く見せた土方の反応だった。 「宗次郎の下駄、どうした?」 「下駄?」 だがあまりに連脈の無い唐突な問いは、勝太を面食らわせただけで終わったようで、意図を判じかねた不審な眼差しが土方に向けられた。 「こいつが履いていた下駄だ」 「それならば、源さんが片付けてくれてあるだろう」 それがどうしたと、その続きを言う間も与えず、均整の取れた長身が、身ごなしも鮮やかに立ち上がった。 「おいっ」 一瞬呆気にとられて見上げ、だがすぐに我に戻って呼んだ勝太の視界の中で、もう廊下を行く背は、ずんずん小さくなる。 「歳っ」 「宗次郎が、目を覚ますぞっ」 振り返らず応えた声が、勝太に次の言葉を呑み込ませ、そうして慌てて見た先で、貝殻の裏のように蒼い血管(ちくだ)を透かせた薄い瞼が、当分開きそうに無いのを確かめると、横に張った厳つい造りの口から、身の内にある全ての力が抜け出るような、深い息が漏れた。 昼と云えども薄暗い勝手の土間には、医師を見送り戻ってきたばかりの井上がいた。 「宗次郎の下駄は?」 「下駄なら其処にあるが、片方の前緒が切れかかっている。・・元々緩んでいたのかもしれないな」 それが転ぶ原因だったのではと、ほんの少し前まで、共に治療の痛ましさを目の当たりにしていた井上は、憂いを隠せない。 だが土方は応えず無言で土間に下り立つと、先程井上が指差した小さな下駄の前に屈み込み、それを手の平の上に置いた。 二つの下駄の前緒は、確かに色が違う。 片方は自分が挿げてやり、もう片方はそのままで良いと云う宗次郎の言葉に従ったものだった。 そしてそれは、見知らぬ大人ばかりの中で始まった生活で、姉が挿げてくれたと云うその鼻緒が、宗次郎にとって、失くしたくない拘りなのだと知ったからこその譲歩だった。 「右はしっかりしているんだが、左が駄目だ。挿げる時に、何故一緒にやらなかったのだろうな」 土方の手にある下駄を見つめながら、それが元凶となったに相違無いと、井上の口調は、そうして原因を決め付ける事で、幼い者にも容赦無く残忍な鞭を振るう、天の仕打ちへの憤りを鎮めているようだった。 しかしその言葉すら届いていないのか、土方は下駄の一点に視線を据えたまま無言でいたが、やがて小さなそれを手の内に包み込むようにして立ち上がった。 「歳さん」 一番高い処に回った天道の陽が差し込む勝手口に向かい歩き出した背を、井上の慌てた声が呼び止める。 「白湯を持って行ってやってくれ。そろそろ目が覚めるだろう」 それに一瞬立ち止まる素振りを見せたが振り向かず、凡そ感情と云うものの掴めない低い声で告げると、土方は真っ向からの強い陽の束を分かつようにして、外へと歩を踏み出した。 桜花を愛でたひと月も経ぬ内に、その残影すら記憶に薄くさせる新緑の息吹は、時に強すぎる生への勢いが目をくらませ、何かしら気持ちを落ち着かなくさせる。 だがそれもこれも、今からしようとしている、己の殊勝を厭う自嘲に比べれば、砂に寄せる小波(さざなみ)よりも他愛無い。 否、今は踏みしめる足の裏から伝わる、陽を吸い込んだ廊下の温もりすら忌々しい。 結局の処、さっさと事を済ませぬ限り、気に入るものなど何ひとつも無い己を承知し、土方は苦々しげに眉根を寄せた。 ――宗次郎の思わぬ怪我から、既に二日が経っていた。 最初懸念したとおり、少年の脆弱な身は、傷からの一時的な熱にすら負け、それもどうにか治まりを見せたのが、漸く昨夜あたりからだった。 高い熱と、癒えぬ傷口からの痛みに、時折薄く開けた瞳を濡らしているのを目の当たりにする度に、探しているのは姉の面影と知りながら、労わりの言葉ひとつも見つけられず、ただ折れそうに細い手指を掌に包み込んでやるしか術の無かった己の不器用さを、この時土方はまざまざと知った。 だが握り締めてやれば、必ずそれに応えるよう宗次郎は指先に力を籠めた。 荒い息を繰り返し、意識も定かでなくとも、それが身体を苛む辛苦から逃れる、唯一の縋り処と求めたのか。 それとも幼い身が、案ずるなといらえを寄越していたのか・・ そのどちらでも、土方には良かった。 気づけば耳元に唇を寄せ、早く良くなれと、心底そう願い、声にしている自分がいた。 幼い内弟子に与えられたのは、建物の奥まった処にある、畳三畳程の小さな室だった。 大人が臥せれば狭いと思うそれも、少年と云うにも覚束ない小さな身を横たえれば、余った空間がひどく広く殺風景なものに感じる。 じき昼になろうかと思われる陽射しは強かったが、東側に位置するこの室は、天道の移動と共に陰になるから、その分乾いた風の通り道になる。 目当ての室を視界に捉えるや、誰の仕業か、障子が開け放たれていいるのが分かった。 それは先に見舞った勝太あたりが、病人の容態の好転に浮く心を、座敷に入る陽の耀さと重ね合わせ、更に力が湧くようにと念じた名残なのかもしれない。 だがあまりに簡単に推し量れる行動は、友の気性そのままに朴訥で、土方を苦笑させる。 が、そんな事を思う自分とて、同じ思いを持たぬと云えば嘘になる。 其処まで思考を巡らせ、つと足を止め視線を向けたその奥に、小さな面輪が、くくり枕の上から笑っていた。 「飯は食えたのか?」 病人の枕辺に座すにしては、些か乱暴に腰を下ろした土方に、笑みを浮かべたままの宗次郎が頷いた。 「腕は?」 「痛くない」 すぐさまもどったいらえの声は、まだ強いとまではいかないが、確かに昨日まで懸念された危うい弱々しさは無い。 それでも袖から出ているか細い腕に巻かれた晒しの仰々しさが、土方には禍禍しいものに映る。 あの時、もしも無理を諦めさせるのに、あそこまで強い言葉で挑発しなければ、宗次郎はこんな風に床につかなくても良かった。 この少年の見かけに似合わぬ頑固を重々承知していながら、己の苛立ちの侭に追い詰め、得た結果が今目の前の現実だった。 「・・土方さん」 その痛恨を知らずして、宗次郎の躊躇いがちな声が、暫しの思考から土方を現に戻す。 だが呼ばれて其方に視線を向けるや、深い色の瞳は、一瞬走った狼狽を隠すように直ぐに伏せられてしまった。 「どうした?」 促しても宗次郎は応えず、むしろそうされた事で、益々困惑の極みに陥ってしまったかのように、固く閉ざされた唇が開く気配は無い。 土方も、暫くはその先を無言で待っていたが、やがて沈黙の長さに根負けしたように、開け放たれた障子の先へと視線を向けた。 室を通り抜ける薫風は、肌に触れ得て初めてそうと知る程微弱なものだったが、時折、思いもかけず悪戯に葉先を揺らし音を奏で、強く存在を誇示する。 それが宗次郎の前髪を乱れさせた幾度目かに、庭に顔を向けていた土方の唇が、気負う風も無く動いた。 「下駄の前緒、変えずとも済んだぞ」 独り語りの呟きとも似たそれは、しかし宗次郎を驚かせるのに十分過ぎたようで、ゆっくりと振り返った土方の双眸が、瞬きも忘れたように見上げている瞳を捉えるや、苦く笑って細められた。 やはり宗次郎は、鼻緒の事をずっと気に掛けていた。 転びかけたあの時、足先に異変を感じたからこそ、其方に気を取られすぎ、桶を放す瞬間を逸して、不自然な転び方を余儀なくされた。 それは今となっては揺るぎようの無い、土方の確信だった。 身体を苛むものから開放されるや戻った余裕は、それを宗次郎に思い起こさせ、同時に前緒が切れてしまったとの思い込みは、姉との絆を断ち切られたような寂寞感の中に、幼い心を突き落としていたのだろう。 それでも諦めきれない思いが、先程その事を問おうとして途中まで言いかけたものの、逡巡する心に負けてしまった。 今目の前で、身じろぎもせず此方を凝視している華奢な身が、その憶測が確かなものであると、隠す事無く物語っていた。 「お前の下駄の前緒は、相変わらずちぐはぐなままだ」 掛ける言葉も物言いも、優しさや労わりなどとは遠く掛け離れている。 何処まで行っても変われぬ自分に愛想を尽かせながら、土方は携えて来て脇に置いてあった包みに手を伸ばした。 「治ったら、これを履け」 遠慮の無い音を立てて紙の包みを解く手の動きを、未だ驚きから戻れずぼんやりと見上げている宗次郎の瞳が、姿を現したその中身を見て、更に大きく見張られた。 「あの下駄の前緒は、そのうち切れる。そうなるのが嫌ならこっちを履いておけ」 が、宗次郎は応える事が出来ず、差し出されたそれに目を止めたまま、息をも止めてしまったかのように、微かにも動かない。 「姉さんの挿げてくれたのが、良いのだろう?」 幾分柔らいだ口調ではあったが、それでもいらえは戻らず、白い喉首を仰け反らせるようにして、宗次郎は土方を凝視している。 だがやがて見開いたままの瞳を覆い始めたものが、映しているものの像を朧にすると漸く我に返ったのか、慌てて幾度か瞬きをした刹那、押し出されたそれは、宗次郎のこめかみを伝わる露となり、髪を透けて、くくり枕の上に小さな水輪を作った。 「つまらない事で泣くな」 そう不機嫌に叱る声の主は、しかし胸の裡を俄かに掻き乱す、何とも形容し難い感情の波に溺れまいと必死だった。 己の言葉と行動が、相手の心の襞にどのような作用を及ぼすかを推し量り、そしてそれを逆手に取って優位に立ち、自分は常に何をも恐れる事は無かった。 とても真っ当とは云えぬ道で会得したこの智恵こそが、己の護身でもあり、攻撃を仕掛ける際の要でもあった。 だが今、しゃくり上げる息を漏らすまいと唇を噛み締め、次から次へと零れ落ちる雫を拭おうともせず、自分を見ている少年の瞳は、そんな小賢しい邪知など何の役にも立たないのだと教える。 一緒に暮らし始めた内弟子の気性を、聞き分けの良い素直な子だと、勝太は云った。 だがその言葉と共に、だからこそ核(さね)に宿すものを、気をつけて見ていてやらねばならないのだと、そうしなければ己を主張する事に不器用な少年は、きっと気づかぬうちに自分自身をも追い詰めてしまうだろうと、妙に真顔で語った。 勝太と云う男の剛毅さに似合わぬ、その細やかな観測を、皮肉に揶揄して聞き流したのは、確かに自分だった。 だがそれは己の裡に有する危惧を、ひと言も外れず言い当てられたからこその、忌々しい強がりに過ぎなかった。 友の云ったことは、宗次郎に接した幾日かで、土方の裡に、消すに敵わぬ残影となって刻み込まれていた。 ではこの幼い者に対し、己の胸に、今こんなにも強く育まれて行く感情を何と云うのか。 過酷な風に、心揺らす事の無いように。 受けた痛みに、ひとつでも涙する事の無いように―― 大事にしてやりたいと、短く仕舞いにするには物足りない。 護ってやりたいと、そう一言で纏めてしまうにはもどかしい。 どんな風にも言い訳出来ない心が織り成す曖昧さに、若い短気の緒が切れる。 「泣くな」 当り処の無い苛立ちは、己の意志とは正反対に、更に言葉を乱暴にさせる。 が、宗次郎の瞳からあふれ出るものは一向鎮まる気配は無く、噛み締めた唇で塞き止められた息の痞えは、小さな身全部を跳ねさせる勢いで出処をねだる。 やがて自分でも堪りかねてしまったのか、土方を見上げていた双つの瞳が、遂に自由の利く右腕で隠されてしまった。 ――しゃくりあげる度に、結んだ唇から小さな声が漏れる。 それは必死に堪える隙をするりと抜けて、意地悪く少年の矜持を打ち砕く。 「・・秋になれば、坂の下の神社で祭りがあるぞ」 梢を騒がせる葉擦れの音の行方に視線を送り、木立を煌かせる陽の眩しさに目を細めて呟いた声は届いている筈だったが、一度揺さぶられた感情の波はそう簡単には収まりきれないらしく、宗次郎の瞳はまだ細い右腕の下に隠されている。 「つれて行ってやる」 が、更に続けられた言葉に、漸く瞳を隠していた帳が解かれ、泣き濡れたそれが、庭を向いたままの土方の横顔を見上げた。 「古い下駄は、それまで仕舞っておけ」 せめてそうでもしなければ、何とも所在無い間の悪さを隠すように、ゆっくりと振り向いて告げる物言いが、ひどく素っ気無い。 だが深い色の瞳は、先程のそれを遥かに凌駕する勢いで、又も露に濡れ始める。 「泣くな」 もう幾度目かの言葉を、聞かぬ者への苛立ちと、ほろ苦い、それでいて何とも切ない思いの中で告げる声が、己を揺さぶる心情を測りかねてくぐもる。 そんな訳の分からぬ自分から目を逸らせるように、今一度庭に遣った視線の先で、葉と葉の隙から零れ落ちる新たな季節の陽が、地を鮮やかな緑陰で彩る。 ひとつも己の思うにさせぬ、この少年の瞳を濡らすものを、さてどうして止めようか・・ 「十数える間に、泣き止め」 片方だけで半分以上を覆ってしまえる小さな面輪に、掌を翳して命じる声が遣る瀬無い。 だがおずおずと伸ばされた宗次郎の指が、その手首辺りに触れた。 少年のそれは、初め躊躇いがちに重ねられただけだったが、やがて少しずつ力が籠もり、遂には手の平から直に伝わる温もりを逃すまいとでもするように、強く絡められた。 「ひとつ」 されるが侭になりながら最初を云う声が、妙に間延びしているその曖昧を然して厭うでも無い、むしろいっそ仕舞いなど来無くとも良いと、ふとそんな事を思った自分を持て余しつつ、不機嫌を装う土方の声音が、次の数を告げた。 暮れの春 了 きりリクの部屋 |