慟 哭   下

 

 

 

 

陽射しは柔らかでも、吹き付ける風は厳しいらしい。

硝子は相変わらず微かに鳴り続けている。

 

 

 

「江戸に帰ってゆっくりと養生をすれば、きっとよくなる。

だから江戸で待っている、俺はそう言った。

だがあいつは首を振った。

自分はここに残るから、もう会うことは出来ないと、そう言った」

 

「京に残ると、言ったのか」

 

「あいつは俺の見え透いた嘘なぞとおに見通していると、

床の中からそんな風な目の色をして笑っていたよ」

八郎は遠くに向けていた視線を、ようやく土方に戻した。

 

 

 

 

室に満ちていた明るい陽射しが俄かに翳った。

北の土地には良くある雪雲に天道が隠れたのだろう。

 

 

 

「総司に新撰組は伏見に下ると告げたとき、やはり京に残ると駄々をこねられた」

土方の唇がゆっくりと笑みの形を結んだ。

 

「頑固だからな・・・ああみえて。手こずらなかったかい」

「ここで腹を切るから介錯をしろと言われた」

「そりゃあ、大変だったな」

労わるような言葉の裏に、微かな笑いがあった。

 

 

「良く承知させて江戸まで連れてきたな」

「お前は俺に未練を残させて戦に出すつもりかと、そう脅した」

「野暮な言い方だね」

 

 

八郎の皮肉を聞くともなしにかわして、

土方は翳った日の、僅かな隙間から床に零れ落ちている陽だまりを見ていた。

 

 

 

 

ちょうど、こんな日だった。

あの時も晴天の空に、時折不釣合いな黒い雪雲が顔を覗かせていた。

 

 

明日新撰組が下坂すると決まったことを、

一時近藤の妾宅に身を寄せていた総司に話した。

その時はまだ伏見に駐屯することになるとも、

どこに落ち着くとも決まってはいなかった。

身動きもままならない程に衰弱していた総司を

行き先も分からぬ新撰組と一緒に行動させることは出来なかった。

 

少しの辛抱だと、必ず迎えに来ると、告げる自分の腕を掴んで、

総司は激しくかぶりを振り続けた。

 

ひとしきり感情の昂ぶりが静まるのを待って、諭すように説くと、

もうこの身は要らないと、ここに置いて行ってほしいと、

むしろ静かすぎる声で総司は応えた。

 

もう決めたことだと、揺るがぬ瞳でそう言った。

 

 

総司はあの時自分に何も言わず、己の身を処する覚悟を決めていた。

それは勘などという生易しいものでは無かった。

絶望と恐怖の淵へと落されるような確信だった。

 

その黒曜石に似た深い瞳の中にある激しさに、自分はひるんだ。

否、怯えた。

自分から総司を奪ってゆくものは、例えそれが総司自信でも憎かった。

 

 

お前をおいて行く自分が、どれほどの辛苦の時を送らねばならないかと、

生きてゆく限り、その後悔と呻吟ので苦しまねばならないのだと、脅すように声を荒げた。

 

止まらぬ激情の迸りに、最後は懇願するように、ここで待てと告げた自分に、

だが総司は最後まで頷くことはしなかった。

代わりに、ひどく哀しそうな、そして寂しそうな笑みを浮かべた。

 

 

それは総司が初めて自分にぶつけた我侭だったのかもしれない。

そして、最後の我侭になった。

 

自分は、それを聞いてやることができなかった。

 

 

 

あの時、総司の望むようにしてやればよかったのだろうか。

今更、そんなことを思う。

 

否、今同じ事を総司に告げられても、自分はきっと同じ事を繰り返し、

総司の自由を許さないだろう。

・・・・できる訳がない。

 

酷く勝手な人間だと思う。

だがそれしか出来ない。

 

 

 

 

 

「あんたには悪いが、今度は俺の勝ちだな」

 

取り留めもない思考の堂々巡りから、

現(うつつ)に戻したのは八郎の明るい声だった。

 

 

「何のことだ」

「もうこっちの腕はあいつのところに行っているからなぁ」

主の無い肩袖を右の手で軽く叩いて笑った目の中に、

からかうような、それでいて挑戦的な色があった。

 

「腕一本で大層な自信だな」

「一本あれば十分だろう。先につかまえておくさ」

「無理だな」

「今のうちに何とでも言うがいいさ」

「その言葉、そのままそっくり返してやるよ」

 

憎まれ口を叩くその口調に勢いは無い。

 

 

 

「風、強くなってきたな。雪が降るかもしれないな」

微かに首を後ろに廻して、八郎は視線だけを硝子の向こうにある空に移した。

 

 

「降らないさ」

「何故?」

振り直って問うた。

 

 

「お前の思い通りになぞさせたくはないからさ」

「あんた、その性根を入れ替えないと、総司に愛想をつかされるぜ」

「お前はそれを望んでいるのだろうに」

「もう手段は選ばないさ」

「今まで選んで来たのか」

「いや」

否定の言葉を言う八郎の片頬に、何かを含んだような笑みが浮かんだ。

 

 

「選んでもこなかったが・・・我慢はしてきた」

その笑みが一瞬広がりかけて、消えた。

 

「が、それももうしない」

 

 

 

流れるような所作で扉に向かって歩き出した。

その片方の袖だけが少し遅れて土方の目の前を揺れて過ぎた。

 

 

 

室を出る寸座、もう一度振り返った。

 

「雪は降るよ」

 

言葉のすべてが終わらぬうちに、姿は扉の向こうに消えた。

 

 

 

 

 

 

雪国の冬の風は刺すように冷たい。

庭を横切る八郎は、だがその厳しさを今は望んだ。

 

「降るさ・・・」

 

 

凍てついた頬にはもう何の感覚も無い。

冷気は皮膚だけではなく、目といわず、鼻にも口にも容赦無く入り込む。

 

 

 

 

雪が降りそうだから早く伏見に戻れと、総司は言った。

降ってきたら馬が往生するだろうと自分の身を案じて、

蒼白な顔のままで、不安そうに瞳を揺らしていた。

 

 

薄い体に掛けた夜具の端を掴んでいた指のあまりの儚さに、

どうしようもない不安に襲われた。

思わずその手を取って、己の手のひらの中に包み込むようにして握り締めていた。

冷たい指先だった。

総司は抗いもせず、その骨ばった指を恥じるように、微かに笑みを作った。

切なくなる、笑い顔だった。

 

 

雪が降ればいいと思った。

この想い人の傍を離れたくはなかった。

 

降って、降って、視界も定かでは無くなるほどに、

到底帰ることなど出来ぬ程に、降り続ければいいと思った。

 

ただそれだけを、願った。

 

 

 

 

冷たい指先は握った自分の手の中で、微かに温もりを戻した。

左の腕は無くしても、右の手は残っている。

だが暖めてやる指は、もう無い。

 

 

目を、瞬(しばた)いた。

熱いものが溢れそうだった。

それを堪えるために、慌てて立ち止まって空を見上げた。

 

 

「・・・・雪、降らないかもしれねぇな」

 

抜けるような青だった。

 

 

「無粋って奴だよ・・」

 

天に八つ当たりしたところでどうにもなるものでもない。

大人気ない己の言い分に苦笑した。

 

 

 

「何の挨拶も無しにゆくっていうのは、ちょっとばかりつれなくないか・・」

 

「俺が野暮を嫌いだってのは、お前も承知だろう」

 

ひとり語りに応(いら)えはない。

 

 

 

「すぐに行くから嘆きはしないが・・、それでも・・・」

 

すでに感覚のない頬に何かが伝わった。

 

「・・・それでも置いてかれたと聞けば、辛い思いをするものだぜ」

 

空を、睨みつけた。

 

 

 

「ばか野郎・・・」

 

低く呻(うめ)いた。

 

眸を見開いたまま、零れ落ちるものを、もう止めることはできない。

 

「みっともない真似、させやがって」

 

左の腕が、きりりと痛んだ気がした。

 

「・・・腕が、痛てぇんだよ」

 

その肩袖が、風に舞った。

 

 

 

「・・・ばか野郎」

 

呟きは、風がさらった。

 

 

 

 

 

 

 

差し込む陽にあたって床に伸びる窓枠の影が、

少しずつ長くなってきて、刻(とき)の経過を知らせる。

 

そろそろ榎本が言っていた新政府軍の総裁選とやらが始まる。

自分はこんなところに、いつまでもぼんやりと座っている訳にはゆかない。

 

 

松前は陥落させた。

敵軍が攻めてくるのは雪が融ける季節だろう。

その前に鉄壁ともいえる守りの砦を作らねばならない。

 

 

 

そこまで考えて、知らず低い笑い声が零れた。

 

あれほど怯えていた総司の死に、かくも自分は平静でいる。

 

 

 

最後に江戸で別れる時に、総司はきっと待っていると言った。

それがどこかは、言わなかった。

自分もどことは、聞かなかった。

 

この世の生が途切れたら、次の世で待っているのだと、

だから一時(いっとき)離れることはあっても、

決して嘆くことは無いのだと、

総司の黒曜の瞳は自分に告げていた。

 

 

あれから、毎日、毎日、繰り返して来た。

いつかその死を聞いても、自分は大丈夫だと、

自分を待っている総司のいる世が変わるだけだと、

そう、言い聞かせてきた。

 

 

精神の鍛錬の成果は上々だったらしい。

 

「大したものだな」

自嘲の笑みすら浮かぶ。

 

 

 

漸く腰を上げようとして、ふと視線を上げた先に、明るい陽射しが眩しかった。

いつのまにか、翳を作っていた雪雲はどこかに流れて消えたらしい。

 

さき程と同じ、抜けるような空が窓の向こうにある。

 

 

 

 

「何故だろうな・・」

 

呟きとも言える漏れた低い声は、己の意識の外のものだった。

 

 

総司が死んだというのに、

天は雨を降らせて偲ぶように泣くことも、

雪を降らせてひっそりと哀しむこともしない。

 

ただ、不釣合いな程に綺麗な空がある。

 

 

 

 

「・・・何故、こんなに青いのだろうな・・・、総司」

 

その名を言葉にして出した時、

ふいに己の内から逆巻くような感情が突き上げた。

 

 

「何故だ」

 

それは土方の体中の肌が粟立つ程に、激しい怒りに似た感情だった。

 

 

「どうしてだ、総司・・・」

 

 

己の手で拳(こぶし)を作った。

握り込んでいる指の爪が掌(たなごころ)に食い込んで、

血が滲んでいる事すら気が付かない。

 

 

さらに強く爪に傷付けられて、痛みよりも、

掌に触れる生暖かい感触に漸く手をひらいた。

 

視界に映る己の両の手の内が、朱で染まっている。

 

 

 

「・・・生きているじゃないか」

 

滲み、流れる血は、自分と総司はすでに別の世のものなのだと、土方に知らしめる。

 

 

「・・・俺は、生きているじゃないか・・」

 

 

自分はこの世に生きてこうして熱い血を流し、

総司はもう血を吐いて苦しむことはない。

 

総司は死んで、自分は生きている。

 

 

 

何故死んだと、

何故自分を置いて逝ったと、

胸倉を掴んでやりたい。

 

置いてゆくなと、

先に逝くのは許さないと、

折れても構わぬほどに抱いて縋りたい。

 

 

だがもう叶わない。

 

 

 

別れは一時のものだと、次の世までの辛抱だと、

だから嘆くことはないと・・・・・

自分は言い聞かせて、そうしてきた。

 

そんなことは・・・・何の役にも立たなかった。

 

 

 

 

総司は、死んだのだ。

 

自分は生きて、総司は死んだのだ。

 

 

 

 

「・・・畜生」

 

思わず血にぬれる手で、顔を覆った。

 

 

 

「死ぬな・・・」

 

そのまま両肘を机について、髪を掻きむしるように、突っ伏した。

 

 

 

 

「畜生っ」

 

その背が、何かをぶつけるように・・・波打った。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

きりリクの部屋     慟 哭   了