蓉さまへ
   

     

                 むかしかたり  -浅茅が宿-






軒を叩く音がまた激しくなったような気がする。
朽ちかけた板で漸く覆われた小屋は、普段は近在の農家の物入れにでも使われているのだろう。
粗末な囲いで切られた炉はあるが、濡れた着物を乾かす為に火にくべる藁は、隙間から吹き込む雨で湿って使い物にはならない。
せめて露に濡れた愛しい者の肌を温(ぬく)める乾いた野良着でも置いてはないかと探っても、視界に入るそれらしきものはない。

やっと付けた火の傍で、総司は髪から雨の雫をまだ滴らせている。
時折微かに肩が震えるのは、例え昼は天道の熱がまだ激しく地を焼く季節といえど、雷雲を伴った突然の雨に強(したた)か濡れてその身の熱を奪われたせいだろう。
想い人は宿痾に胸を冒され、ひび割れた陶器の如く脆い身体を抱えている。

「総司」
呼べばその声を待っていたかのように振り向いた。
「寒いのか?」
総司は黙って小さく首を振った。
「大丈夫です」
いつの時もどんな時にも返る応えは同じものだ。それが土方の胸に切ない。
「こっちへ来い」
自分に向かって差し出された手に縋って良いものか、総司は躊躇うようにそれを見ていたが、更に腕を伸ばされると漸く土方の手の平に己のそれを重ねた。
上に乗った冷たい手を包み込むようにして握り締めると、そのままの勢いで身体ごと手繰り寄せ胸に抱き込んだ。
「とんだ遠出になった」
「天のもたらすものは仕方がありません」
悟ったように言いながらも、どこか恨めしそうな声音だった。



朝に夕に、ようよう秋の気配を感じるようになったと思った今宵、共に雲間から照らす弓張り月を見ていた総司が、もっとあの月に近づくことはできないかと言い出した。
子供のような事を言う想い人の言葉を土方は笑ったが、天を指差すほの白い腕の儚さに総司のそれだけでは無い何かを感じ、次にはひどく不吉な予感に胸の裡が重く覆われるのを止める事ができなかった。

総司は夏を越えて更にひとまわり小さくなった。
これから迎える季節のひとつひとつが、総司にとっては最後のものになるだろうという言う医師の言葉を土方は信じてはいない。
それでもいま己の腕の中にある身体は、土方を底の無い不安に陥れる程に頼りない。


結局自分の思い付きを諦めるには名残惜しそうにしている総司に負けた形で、連れ立って秋の夜道を歩き始めたが、途中で篠突くような激しい雨にあい、どうにかこの小屋まで辿り着いた。

ここ数日晴天が続き、まだ強い日中の陽射しに焼かれたように生気がなかった草花も、この激しい降りで明日の朝には見違えるように息を吹き返しているだろう。
だが総司の温もりを奪うような情け容赦のない天の仕打ちを慈雨と呼ぶのならば、それは何と残酷なものなのか・・・
微かに震える身体を抱きながら、土方は神仏にすら憤りを禁じ得ない。


小屋の隅に重ねられていた木の枝の中から、どうやら湿り気の少ない火が点きそうなものを選んでくべる土方の腕の中で、総司は物語らず時折勢い余って立つ火柱を見ている。

雨が地を叩く音と、木が火の中で形失くす音と・・・それだけが今ある全てだった。



「・・・こんな寂しいところで待っていたのかな」
「待っていた?・・誰が」
「都に行ってしまった好きな人の、その帰りをずっと待っていたのです」
「お前の言っていることは皆目検討がつかん」
土方のうんざりとした物言いに、総司が小さな笑い声を漏らした。

「昔・・・必ず戻ってくるからと都に行ってしまった人の言葉を信じて、ある女の人が一人で機を織ったり、草花を摘んだり・・いつ好きな人が帰って来てもいいように、毎日毎日指折り数えて待っていたのだそうです」
「どこかで聞いた話だな」
「土方さんは風流な筈なのに・・」
その胸に背をもたれるようにして収まっていた総司が、嬉しそうに後ろの土方を振り仰いだ。
「ばか」
「きっと土方さんのような人だったのだ」
「誰がだ」
「女の人を置いて行ってしまった人」
「薄情な奴だと言いたいのか?」
土方の問いに応える代わりに、総司は含むような笑みを浮かべただけだった。
「それで女はどうした?」

こんな風に総司の他愛も無い話に相槌を打つのも、ずいぶんと久しぶりの事なのかもしれない。
総司の身体を案じながらも、昼に夜に自分を解放させてはくれない激務に追われていた。
気がつけば想い人の姿は蒼い月の明かりの中であまりに儚く、己の心をひどく不安に騒がせるものになっていた。



総司は身体を動かして音を立てて燃える火の方に向き直ると、土方の胸に再びもたれかかった。

「男の人がようやく都から帰ってくると、故里はすっかり荒れ果てていたそうです。けれど不思議なことに自分の家だけは変わりなくそこにあって、待っていた女の人は男の人が帰って来たことをとても喜んで・・・」
「めでたし、めでたし・・・か?つまらんな」
心底面白くなさそうな土方の口調に、今度こそ総司が声を立てて笑い出した。
が、すぐにそれは小刻みな咳に変わった。

軽く咽るようだった咳は二、三度繰り返えしただけで、まるで骨を割って出てくるような重いものになった。
咳が零れる度に大きく波打つ総司の背を摩ってやりながら、土方の胸が何もしてやれない無力さに、唇を噛み締めたいほどに苛まれる。

ようやく咳が治まっても息は荒く、前かがみに伏した身体はまだ支えられなければ力無く崩れ落ちてしまいそうだった。
胸に沿わせるようにして静かに起こしてやると、総司はもう言葉も紡げぬのか、ぐったりと目を瞑ったまま喉を反らす様に仰向けて肩口の辺りに頭を預けた。
そのままの姿勢で薄い胸が苦しそうに上下するのを、居たたまれない思いで見ている土方だった。


「・・・男の人が帰って来た夜」
うっすらと瞳を開けて、総司がまだ整わぬ息の下から掠れた声で語り始めた。
「喋るな。また咳がでる」
後ろから、血も通わぬような蒼白い頬に己のそれを寄せると、耳朶に囁くように土方は咎めた。
だが総司は微かに首を振って抗った。
「二人はとてもたくさんの事を話したのです・・・そのうちに疲れていた男の人は、また明日もあることだからと女の人に言って眠ってしまったのです・・」
細い指が、土方の手の温もりを探った。
それをしっかりとつかんで握ってやると、総司は安堵したようにまた少し深く、広い胸にもたれた。

背中を見せている総司のその表情までは分からないが、或いは自分に何かを伝えたいのかも知れない。土方は己の予感に、掌にある想い人の冷たい指を更に強く内に包み込んだ。


「・・・男の人が目覚めると、そこに女の人はもういなかったのです」
「いなかった?」
まだ露を含んでしっとりと濡れる束ねた髪を揺らして総司は頷いた。
「・・本当は女の人はもうとっくに死んでしまっていて、自分の好きな人にもう一度、ひと目逢いたいが為に、身は滅びても心だけが残って待っていたのです」
手の平にある総司の指が、皮膚に浅く爪を立てた。
それは本当に微弱なものだったが、何かを刻むように総司は暫くそうしていた。

焔(ほむら)に砕けるように、突然撥ねる音が静寂(しじま)に木霊する。



「・・・その男は馬鹿だな」
「ばか・・?」
顔だけを動かして土方を見た。
「ああ、馬鹿だ」
「どうして?」
断言するような強い物言いに、総司が微かに笑った。

「俺だったらそんなことはしない」
「しないって?」
「俺はきっと里に残してきた女が恋しくて恋しくて堪らなくなるだろう」

総司は何も言わずに静かに又正面を向いてしまった。
少しうな垂れるようにして露(あらわ)になった白い項に炎が紅い翳を映した。


「だから女を待たせることなどしない」
「・・・どうするのです」
「最初から連れてゆけばいいことだろう」
「やっぱり土方さんは風流人だ」
堪えきれないように小さな笑い声が零れた。

「・・・何か連れてゆけないような事情がきっとあって・・それで女の人は残されたのです」
「そんな事情など男の勝手な言い分だろう」


何故に是ほどまでに、他愛も無い作り話の中の人物を否定するのか。
その己の思いを土方は嫌という程に知っている。
総司は我が身を置いて行かれた女に重ねているのだ。
動けなくなったときに、自分に残されることに怯える心を隠すように、死して尚待ちつづけると暗に告げているのだ。

想い人の指を握る手に力を籠めた。
一瞬薄い背がたじろいだように動いた。
自分に瞳を見せない総司の頑なさが、土方の胸に哀しく切ない。
もしかしたらその瞳の見つめる先に有るものは、すでに滲んで像を映してはいないのかもしれない。



「もしも・・」
土方が物言わぬ総司の右の首の付け根に唇を這わせた。
「もしもお前が里の女のように待つというのならば、俺は戦にあってこの身が朽ちるとき、その魂だけは必ずお前の元に戻るだろう」
「・・・かならず・・?」
しなやかな首筋を少し左に反るようにして愛撫を許しながら、まだ総司は土方を見ない。
だがその頬に流れるものがあることは、確かに分かる。
「必ず帰ってくると・・?」
「約束は要らぬはずだ」
「何故?・・土方さんには小さい頃からいつも騙されていた」
「俺がいつお前に嘘をついた」
零れぬものを拭わぬまま、後ろから総司の唇が僅かに笑みの形を結ぶのが分かった。

「・・・昔、江戸に居た頃、薬の行商に行くと言って女の人の処に行っていた」
咎めている声音では無かった。
むしろどこか懐かしんでいる響きがあった。

唯一無二の人の胸の中にゆったりと背を預けて、昔を思い出す柔らかな余韻に浸った刹那、一瞬軽く走った痛みに声を上げそうになった。
思わず振り返ると、土方のからかうような眼差しがあった。
噛まれた跡から消しようの無い熱が総司の内に広がる。


「仕置きだ」
「・・しおき?何故?」
総司の瞳はやはり濡れていた。幾筋も頬には雫の跡が残る。
まだそれは乾いてすらいない。
「素直に妬いていたと言わないからだ」
「土方さんはいつも勝手だ」
「そんなことは初めから分かっていただろう」
強引な言葉を不服そうに見つめていた瞳が、やがて一番深いところで静かに揺らめいた。

「土方さんなど知らなければよかったのに・・」
止まっていた露がひとつ零れた。
「知らなければもっと強い人間でいられたのに・・」
責める総司の言葉は、時折途切れる。
「知らなければ誰において行かれても平気だったのに」
手の甲で乱暴に流れるものを拭いながら、それでも総司はぎこちなく笑った。
だがそれが精一杯の強がりだったのだろう。
あとは嗚咽を堪えるように、俯いて顔を隠した。


胸に抱きこむ総司の温(ぬく)もりは、濡れずに残った一枚を通して土方に伝わる。
その薄い織物さえも、土方にとっては己と総司を隔だつ、今となっては無慈悲な衣(ころも)だった。
少しでも直に触れて熱い総司の肌が欲しかった。
まるで同じ皮膚のように肌を合わせたかった。
何ものにも代えがたいこの愛しいものが、己の腕をすり抜けて行くのを恐れるように土方は抱きしめたままの身体を静かに敷板に横たえた。
縋るように首筋に絡められた腕は、抗う事無くすべてを受け入れようとする総司の意志の証だった。


肌蹴られた薄い胸は息をする度に骨の形が露になる。
そのひとつひとつに土方は祈るように唇を這わせる。
腕の中で切なげに吐息するこの肉体が滅びる日などあってくれるなと、残る魂だけが自分を待つ時などあってくれるなと。
だがこんなことがその封印になるはずもなく、ただ愚かな行為を繰り返しているだけの己を土方は知っている。

覚えておけと、忘れるなと愛しい者の内に滾る想いを刻む自分は偽りだ。
覚えておきたいのは、忘れたくは無いのは自分なのだ。
少しでも身体を離せば消え行く不安を恐れ、どこもかしこも隙無く重ねていなければ、狂い出しそうになる自分を止めることはできない。

覚えておきたいのでもなく、忘れたくないのでもない。
神仏に逆らい天の怒りを蒙ることすら恐るに足らず、ただひとつ望むのはこの者を失うことだ。




「・・・女の人は・・」
総司の濡れた唇から、乱された息と共に言葉が漏れた。

「女の人はきっと・・」
土方をその身に迎えるための苦痛を、吐く息だけでやりすごす為に、瞳を閉じ微かに眉根を寄せた。
背に回した指の爪を、先ほどよりもずっと強く立てた。

やがて土方の熱さは身体の中心から己の内を侵し、指の先までも隈なく自分を支配するだろう。
その熱に呑まれて言葉すら紡げなくなる前に、伝えなくてはならないことがある。


女が待っていたのは恋しいからではなく、置いて行かれて哀しかったからなのだと。
その恨みを想う人に知って欲しかったのだと。
ただそれだけの為、に女は死して尚男を待っていたのだと。
女はそれほどまでに男を想っていたのだと。


そして女の魂は自分のそれだと・・・

だから決して置いて行ってはくれるなと・・・



「・・・きっと」



言葉を紡がなくてはならない唇は、全部を言い終えぬうちに、奪うように舞い降りてきた土方のそれに塞がれた。
草に宿った露が滑り落ちるように、閉じた眦から雫が零れた。









         
              水晶の文庫