総ちゃんのシアワセ♪お雛祭りでシアワセ♪なの (した)
さてさてどうにかこうにかお雛祭りを続けることになった六人ですが・・・
田坂さん、土方さん、八郎さん、そしてその反対側に、キヨさん、総ちゃん、梅香さんが向かい合って座って、それぞれ適当ににこやかにお話を交わしています。
けれど総ちゃんだけはじっと俯いたまま、顔を上げようとしません。
総ちゃんは恥ずかしくって、情けなくって、もう哀しいをとっくに通り越して、ちょっとでも油断すれば瞳から零れるものがありそうです。
きっと土方さんは自分に愛想をつかしてしまったのでしょう。
上機嫌な声は、その裏返しのように総ちゃんの耳には聞えます。
「さっきも満はんはお雛さまよりも綺麗や、言うてましたんえ。なぁ満はん?」
梅香さんがねっとりと、下を向いている総ちゃんを覗き込むようにして言いました。
総ちゃんはそれに小さく頭(かぶり)を振りました。
「いや、遠慮することあらへんのどすえ。たとえそれが色気もなんものうても、身体におなごらしいふっくらした、柔らかぁな丸みがのうても、鈴を転がすような可愛らしい華やいだ声がのうても、満はんはほんま、ただ綺麗が取り得のお人形さんみたいどすわ」
梅香さんはとても大仰に言いました。
そして、土方さんと八郎さんと田坂さんに向かって『そうどすやろ?』と、にこやかに笑いかけました。
それは『そうです』と頷けば『総ちゃんは味も素っ気も無い薄っぺらの身体です』と言っている事になり、『違います』と首を振れば『お人形さんのように綺麗ではないです』と言っている訳で、それを瞬時に悟った三人はとりあえず黙り込みました。
流石は遊びなれた男達です。
沈黙は時に己の身を最大に守るとは、すでに学習ではなく本能として身についているようです。
「あらいやや、そないにだんまりを決め込まはって・・・。それでは満はんが気の毒やおへんかぁ、なあ?」
梅香さんは少し眉根を寄せて男達を責める振りをすると、又総ちゃんに同意を求めました。
総ちゃんは土方さんが何も言ってくれないのは、きっと怒っているからに違いないと、それを思うと顔も上げられず、一生懸命堪えていたものが瞳を滲ませます。
思わず膝に置いてあった手で着物をぎゅっと握った途端、
「いや梅香さん、そないに誉めてもろうたら恥ずかしおすわ」
キヨさんのまあるい声が、いつもより少し高くお部屋に響きました。
総ちゃんは哀しいばかりの心のなかでも、どうしてキヨさんが恥ずかしいのかな?と思いましたが、キヨさんの声はあんなに優しげなのに、口出しする人は『だまりなはれ』と一喝されそうな勢いがあったので、更に細い肩を縮こませました。
「ほんま、下手に物言わへんお人形はんのように控え目で、臈たけて品よく美しゅう綺麗やなんて、嬉しいお上手言うてもろうたら、若せんせいの行く末を案じてはった大せんせいも奥様もどないに喜んではるか・・・」
最後は少し声を落として、キヨさんはしんみりと言いました。
「どうしてあんたの処の先祖が喜ぶのだ」
土方さんが、直接キヨさんにではなく田坂さんに、それはそれは不機嫌な低い声で聞きました。
「キヨに聞いてくれ」
それに田坂さんは事も無げに応えました。
「あんたは捨てられた男って訳さ」
八郎さんが土方さんを見て、閉じた扇子を口元に当てたまま、さらりと言いました。
「何故俺が捨てられるっ」
土方さんは掴みかからんばかりに、八郎さんに詰め寄りました。
「キヨさんが言ってるだろ?」
かく言う八郎さんも、キヨさんが指す相手が田坂さんであることが、どうにも面白くありません。
何処でこういう話になったのかは分かりませんが、例え一時でも自分以外の人間が総ちゃんの相手だと聞けば腹の虫が収まりません。
そんな二人を余所にひとり田坂さんだけが、事の成り行きは知らずとも、とりあえず満足の中にいます。
それが『キヨさんのおかげ』・・というのは、男の沽券に係わりますが、この際その辺の処はあとで取り繕う事にして、このまま総ちゃんを自分のものにしてしまおうと、田坂さんはお腹の中でひそかにほくそ笑みました。
せっかく総ちゃんが自分の元に飛び込んできたのです。
『窮鳥懐に入らずんば猟師も之を撃たず』
・・・先人の教えには素直に従うものです。
親切に用意された『据え膳』も、きっちりご馳走にならなければ、それこそ天の采配に失礼というものです。
そう決めれば、後はもうさっさと二人になる段取りをしなければなりません。
田坂さんはとても都合の良い解釈をして深く頷きました。
八郎さんは不機嫌が、鰻のぼりに膨らんで来ていました。
土方さんが『捨てられた男』になっているのは当然の成り行きとしても、例えキヨさんの詭弁といえど次の男が何故田坂さんなのか・・・承知できないを遥かに通り越してはらわたが煮えくり返りそうです。
それを扇子で漸く隠して男の矜持を保つのも一苦労です。
土方さんの苛々は、すでに限界を疾うに超えています。
本当は今日は自分が黒谷の会津本陣に仕事で行くので、総ちゃんは田坂さんの処で待っていて、一緒に櫻のお花見をしながら帰ってくる筈だったのです。
それが何故、総ちゃんが自分以外の誰にも見せたくないような格好をしているのか。
総ちゃんの振袖姿を他の男の目に触れさせるのは、自分の俳句を伊東さんに見せるよりも嫌なのに、よりによって一番見せたくない二人に穴の開くほど見られて、土方さんは不機嫌極まりありません。
大体何で今頃大して目出度くも無い雛祭りなのか・・・
当たり処のなさは、遂に其処にまで来てしまっていました。
元はと言えば自分だけのものにしておきたい総ちゃんの姿も、どうやらこのばかばかしい季節外れの雛祭りにあるようです。
そう思えば雛壇の一番上から偉そうに見下ろしている一対のお雛様の仲良しさ加減も、そうしたいのに出来ない忌々しさに苛立つ身には、ひどく気に障ります。
「・・まったく・・・、こんな祭りの何処がいいのか、それもよりによって季節をとんと外して雛祭りと来た。行き遅れた祭りを楽しめる女の神経には恐れ入る」
舌打ちしたい気持ちが、ついぶつぶつと土方さんの口をついて出てしまいました。
ついでに馬鹿馬鹿しすぎてへそが湯を沸かす・・・と、ご丁寧に付け加えてしまいました。
「惚けて咲くのは実のないあだ花かえ?」
さっきから土方さんに負けず劣らす面白く無い八郎さんも、相手がキヨさんと梅香さんだということを忘れて、横を向いたまま、つられて呟いてしまいました。
「たまにはくだらんと思わず、女子供の遊びに付き合ってやるのもいいさ」
今のところ思いもかけない総ちゃんの姿を見られた上に、棚からぼた餅式に立場上優勢な田坂さんが、余裕で二人を嗜めました。
「端午の節句なら季節の先取りとも思えるが、雛祭りなど季語にもならん」
一度噴出してしまった不満が止らない土方さんが、更に続けて苛立たしげに言いました。
「だがあんたの川柳にもならん句には、いっそこんな雛祭りがお似合いだろうよ」
八郎さんも扇子を口元に当て、およそつまらなそうに、相変わらず顔は横に向けて言い切りました。
「あんた達は女の気持ちが分からない」
田坂さんがこれだから嫌になるとでも言う風に、頭をふりふりさせて言いました。
「いいか?女っていうのは、例えこんなつまらん行事でも、季節外れでも、何でもそこそこ楽しめてしまうという神経の太いものなのさ。それをけなしちゃ失礼ってものだろう?」
田坂さんは二人に向かって少し諭すように、偉そうに言いました。
まだそれぞれの言い分を、言っても言っても物足りないかのように、三人の男達の罵詈雑言は次から次へと続きます。
そして・・・
それを黙って聞いている、キヨさんと梅香さんの表情が、少しづつ変わって行くのに三人は全く気がつきません。
土方さんの不機嫌に怯えて様子を伺おうとした総ちゃんが、ついでに横のキヨさんをちらりと見ると、それまでは『怖いけど笑っている』キヨさんの笑顔が、何だか『目が座って笑っている』という風になっています。
それを見た瞬間、総ちゃんの背にぞくりと震えが走りました。
あれっ?と思い自分でおでこに手をやっても、どうやら熱は無さそうです。
そのまま反対側の梅香さんを見ると、これまたキヨさんに負けず劣らずにこやかに笑っています。
けれどそれに『凄み』があると思うのは、もしかしたら自分の錯覚かもしれないと、総ちゃんは幾度か瞬きを繰り返してみました。
「大体男雛も男雛だ。何が哀しくって面白可笑しくも無い女の祭りに付き合わなくちゃならない。しかも飾られている間中相手は一人だけだ。他にいる女も三人の女中だけだぞ」
土方さんが雛壇のお雛様を見上げて、うんざりとしたように大きな溜息をつきました。
「あんたが男雛なら梅の句を撒き散らす相手が少なくて寂しいことだな」
その後を取って、八郎さんがさも気の毒そうに言いました。
その時です。
ずっと俯いたままだった総ちゃんが、突然顔を上げて土方さんを正面を切って見ました。
まだ少しだけ泣き濡れた後を残した瞳は、微かに揺れ動いています。
けれどほのかに櫻色の唇はきっちりと結ばれ、まるで血の色を透かしてしまいそうな白い頬が強張っています。
お人形さんが息をしているような総ちゃんに、土方さんは一瞬目を見開いてしまいましたが、すぐに隣の二人に見られないように、目だけで『下を向いていろ』と叱りました。
こんな総ちゃんを両脇の二人に見せるなど、本当にとんでもないことです。
ところがいつもは土方さんの言うことならすぐに聞く筈の総ちゃんが、一向に下を向かず、それどころかなんだか土方さんを睨んでいるようです。
おまけにその瞳をまたまた透明なものが覆い始めました。
実は総ちゃんは土方さんの話を聞いていて、何だか無性に哀しくなってきてしまったのです。
総ちゃんは男雛と女雛の仲むつまじく並んでいる姿を、まるで自分と土方さんのようだと、ついさっきまでうっとりと見つめていたのです。
ところが土方さんは事もあろうに、その女雛ひとりが相手ではつまらないと言うのです。
おまけに下の三人官女さんでも相手は足りないと、更に言いのけたのです。
それは・・・
もしも一対のお雛様が土方さんと総ちゃんだったら、土方さんは毎日毎日総ちゃんだけではつまらないと思うと言う事なのです。
せっかく一緒に仲良く飾られても、土方さんは総ちゃんを残して雛壇を駆け下り遊びに行ってしまうのです。
いつも一人残されて・・・ぽつんと飾られ土方さんの帰りを待つなんて、考えただけでも哀しくて寂しくて胸が切なく苦しくなります。
土方さんを見つめたままの瞳から、溢れたものが頬を滑り、膝の上に乗せてあった総ちゃんの手に甲にぽとりと落ちました。
「いや、満はんどないしはったぁ?」
梅香さんがそれを見て、大仰に驚いた風に聞きました。
けれど総ちゃんは首を振って応えるだけで、瞳からは止めようの無い大粒の雫がぽろぽろと零れ落ちます。
「ああ、何も言わんかてよろし。満はんの気持ちはこのあてもよぉく分かります」
梅香さんは最後の方に、少し湿っぽいものを混じらせて、大きく頷きました。
「土方はんは所詮あないな男ですのや。そこかしこのおなごに見境無く梅の句を贈りはって、あとはこれっぽっちも覚えてへん。おまけに雛祭りに寄せる女のささやかな楽しみも分からん唐変木や。花は梅しか知らん心の貧しい男と縁を切ることがでけたのは、きっと仏さまが満はんを守ってくれはったからやろなぁ」
梅香さんは総ちゃんの手に自分の手を重ねて、しみじみ言いました。
「誰が縁を切ったっ」
いつの間にか総ちゃんに捨てられた事になった土方さんが、流石に身を乗り出しました。
「みつはんに決まっていますがな」
それまで不気味な程に沈黙を守っていたキヨさんが、いつものようにおっとりと言いながら、にこやかに笑って土方さんに顔を向けました。
その目に正面切って見捉えられた土方さんの次の文句は、一瞬の内に、『出番が違ごおたようですわ』と引っ込んでしまいました。
キヨさんは確かに笑っています。
頬も緩めて、口元も、目も・・・
自分の見間違いでなければ、笑っているのです。
けれど・・・
キヨさんのふっくらした体全体から出ている雰囲気は、とても相手の顔にも笑みを浮かばせるようなものではありません。
土方さんは自分の脳裏に貼り付いた、今一番適切な言葉を瞬時に剥がして捨てました。
恐ろしい・・などとは、新撰組副長たる自分には有り得ない感情なのです。
それでも妙に落ち着かないのはどうしてでしょう。
「梅香はん、そないに言うたら土方はんにもちょっとは気の毒というものどすえ」
そんな土方さんから梅香さんへ顔を向けると、キヨさんは少し嗜めるように言いました。
「そうどすやろか?」
「そうですがな。それでは土方はんが梅しか知らん、何とかのひとつ覚え・・言うてるのと同じですやん。土方はんはきっと梅の他に花を知らんのですやろ。せやから桃の節句の華やかさ楽しさも知らんのどすわ」
「それやったら心が狭おて寂しおすなぁ」
「そおどすなぁ。けど聞けば土方はんは俳句を嗜みはるとか・・・。いやもう、えらいつまらん行き遅れたこないなお祭り、ほんま申し訳ないこってつけど、そこはそれ、風流なお方。今日こうしてご一緒に雛祭りをしはったら、時期を外した宴の粋を、さぞかし人様を唸らせるような立派な俳句にして詠まれはることですやろ・・なぁ、土方はん」
またまた視線を土方さんに戻したキヨさんの声は、『つまらない行き遅れたお祭り』のところで少しだけ低くなりました。
「桃の花一輪さいても桃は桃・・・あ、これ使いまわしできて、ええ句やわ。なぁ土方はん?」
梅香さんは、浮かべた笑みはそのままに、ゆっくりと土方さんに向き直りました。
土方さんは真正面からキヨさんの穏やかな笑い顔と、梅香さんのはんなりした微笑と、総ちゃんの咎めるような濡れた瞳に見つめられ、喉も口の中も瞬く間にからからに渇いて行きます。
ごっくんと、飲み込む唾の一滴すら、最早何処にも残っていません。
「なぁ、伊庭はん?梅を桃に変えただけで、ええ句やと思わへん?」
梅香さんはおっとりと、八郎さんにも笑いかけました。
「そりゃ、伊庭はんかて誉めようがありまへんわなぁ。なにせこないなつまらんお祝いに、それはそれはよう似合おうてはる土方はんの川柳ですさかいに・・」
キヨさんは八郎さんをちらりと見て、甲に笑窪ができるふっくらとした手を口元に当てて、ころころと笑いました。
「けどうちみたいに何の取柄もないあだ花さかせるより、人様を笑わせはって慰める事がでける川柳の方がなんぼかええか・・」
梅香さんは少し俯き加減でしんみりと言いました。
その様があんまり寂しそうで、まるで土方さんの男雛に置いてゆかれて、ひとりぽつんと雛壇の一番上にいる自分のようで、総ちゃんの瞳もうるうるしてきます。
総ちゃんは何とか梅香さんを慰めようと、自分の右の手の上にある梅香さんの手に、更に左の手を重ねました。
「おおきに、満はん。うちみたいなしょうも無いおなごに優しゅうしてくれはって・・」
梅香さんはついに横を向いて、袂で顔を半分隠してしまいました。
「梅香はん、そないに哀しまはったら伊庭はんに失礼どすえ。伊庭はんは骨の髄まで粋がしみ込んだ江戸のお方どす。それがおなご一人艶やかに咲かせはる事もでけず、あだ花で終わらせはる訳がありませんやろ?それやったら、それこそ伊庭はんの男の矜持かて、咲いて実も無いあだ花どすわ。・・なぁ伊庭はん?」
キヨさんはこれまた、相手が思わずぞくりとするような優しい笑顔を、八郎さんに向けました。
八郎さんは扇子を口元にあてたまま、視線を逸らすこともできず、必死でいつもの余裕の顔をつくりながら、背中にひとつ冷たい汗が流れるのを感じていました。
八郎さんのそんな事情を知らない総ちゃんは、キヨさんが言う事はとても正しいことのように思えて、こくこくと幾度も横で頷きました。
「いや、みつはんもそないに思わはります?」
キヨさんは総ちゃんににっこりと笑いかけました。
総ちゃんはキヨさんに、『そう思います』と大きく頷きました。
総ちゃんが首を縦にするたびに、頬にほつれた黒髪が微かに揺れ動きます。
八郎さんは金縛りのように動けないのに、頭の中だけは妙に冴え冴えとして、『如何に咲かせるかも蕾次第』と念仏のように唱えていました。
「花は人様のお目に触れ、愛でられ初めて美しゅう咲くもの。『あだ』で終わらせるか、見事実も花もつけさせるか・・それは咲かせる男はんの甲斐性次第、そうですやろ?若せんせい?」
総ちゃんに向けていて笑みをそのままに、キヨさんはぐるりと視線を田坂さんにまで持って行きました。
田坂さんは嘗て見た事の無いキヨさんの、妙に凄みのある笑い顔に、思わず『仰るとおりです』と頷いてしまいました。
「・・・そうどすなぁ」
それまで横を向いて泣いている振りをしていた梅香さんが、袂からちょっとだけ目を出して口を挟みました。
「田坂はんは太い神経のおなごの気持ちがよう分かるお優しいお方やし・・どんなあだ花かて、節操無く美しゅう咲かせはるんやろなぁ」
梅香さんはしんみりと言いました。
「ほんま、こうしてつまらん女子供のお祭りに、若せんせいに漸く付きおうて貰えて、うちももう思い残すことはおへん」
キヨさんは涙を堪えるふりをして梅香さんよりも更に声を落として、しみじみと言いました。
総ちゃんはついさっきキヨさんの言うことはとても正しいと頷いたばかりなのに、二人の会話を聞いているうちに、何だか又ぷるると背中が寒くなりました。
見れば最後に話を振られた田坂さんも、その前の八郎さんも、そして土方さんも今にもお顔がひび割れてしまいそうな笑顔を貼り付けています。
このままではあんまり固まりすぎて、大切な土方さんがそのうち粉々に崩れ落ちてしまいそうな錯覚に、総ちゃんは吃驚して蒼くなりました。
さっきの土方発言も忘れ、真綿の巻かれた喉に手を当てると、総ちゃんは土方さんの為に思わず声を出してしまいました。
「・・・あ、・・あの・・あの・・」
総ちゃんはキヨさんに、『土方さんにかけたおまじないを解いて下さい』とお願いしたいのですがうまく言葉にできません。
「なんどす?」
キヨさんは総ちゃんにちらりと視線を走らせました。
「・・・あの、・・土方さんを・・あの・・」
キヨさんの威圧するような笑顔の前に、総ちゃんの必死の声も段々小さくなってしまいます。
そのときです。
「ああっ!」
ぽんと手を打って、梅香さんが嬉しそうに声を上げました。
「どないしはりました?」
キヨさんは相変わらず笑顔のまま、梅香さんに聞きました。
「漸く意味が分こうたんどすわ」
「何の意味どす?」
「いやさっき土方はんがけったいなこと言わはってん」
梅香さんはつつっと、キヨさんと総ちゃんの前まで膝を進めました。
「けったいなこと?」
「へえ。知れば迷い、知らねば迷わぬ恋の道・・・知れば迷った恋の道も、知らねば迷わぬ元に戻ったと思えば、又新しい恋も生まれるやもしれぬ・・・そう言わはったんどすわ」
キヨさんも流石に不思議そうな顔をしています。
「そんときは、えらい難しいこと言わはるなぁ・・・、思いましたんやけど、今やっとこの句の奥の深さが分かりましたんや」
梅香さんは感慨に耐え難いという風に、キヨさんと総ちゃんを見ました。
「奥も底もなんもあらへん」
あっさり言うキヨさんに、梅香さんは首を振りました。
「恋の道を知れば迷いますやろ?」
梅香さんの問い掛けに、総ちゃんはこくこくと頷きます。
それはまるで土方さんを想う自分の心のようです。
「せやけど知らんうちは迷わへん」
「当たり前ですわな」
キヨさんは事も無げに言いました。
「問題はそこですわ」
梅香さんはここぞとばかりに、声を大きくしました。
「一見当たり前のように見えて、けど全然当たり前じゃあらしまへんのや」
「どういうことどす?」
キヨさんは訳が分からないという風に、少しだけ眉根をよせました。
「おなごと言うものは・・・」
梅香さんはそこで一度言葉を切ると、眸を宙に据えました。
「どんなに辛い思いをしても、男はんに美しゅう咲かせてみたいと囁かれれば、性懲りもなくまた恋を繰り返しますのや・・・。男はんの情にほだされて、ついつい叉苦しいだけの恋の道に、幾度入り込んでしもうたことか・・・。せやし、うちは男はんを惑わせて迷いの道に誘うてしまうこの色香が、時折自分で恨めしい思うことがありますのんえ。・・・けど、同じ事を繰り返しても、求められればそれに応えなあかん。知れば迷い、知らねば迷わぬ恋の道、知っていながらどうにも出来ない我が身のさだめ・・・・ああ女心を詠とうた、ほんま何て切ない句やろ」
梅香さんの紅い唇が、うっとりと言葉を紡ぎました。
その眸は、まるで自分の切なくも美しい過去に陶酔しているかのようです。
キヨさんは梅香さんの独り語りを聞きながら、やっぱり自分の方が神経が細いと思いました。
けれどその横で総ちゃんは、梅香さんの解説に瞳をうるうるさせています。
土方さんの句は、何と仏さまの心と並んで、総ちゃんの知らない女心までをも深く詠んだものだったのです。
うっとりと小首を傾げて聞き入っている総ちゃんにキヨさんが視線を向けると、丁度黒曜石のように深い色の瞳が此方に向けられるところでした。
「・・あのね、キヨさん」
キヨさんに掛けるのも、もう涙声です。
「土方さんの句はね、もっとすごいのです」
総ちゃんはキヨさんに、思い切り薄っぺらの胸を反らそうとしましたが、きつく締められた帯が邪魔をして思ったほど反り返れませんでした。
「どんなんすごい言いますんや?」
キヨさんは少し呆れたように聞き返しました。
「『恋の道』をね、『法の道』とか、『仏さまの道』とかに置き換えて、いろいろに使いまわしすることができるのです」
総ちゃんは先日玄海僧正さんから聞いたことを諳(そら)んじて、毎日毎日一人で繰り返し呟いてはうっとりしていたので、すらすらとキヨさんに説明できました。
「いろんな道になぁ・・・」
得意満面の総ちゃんから、キヨさんはちらりと視線を自分の前に置いてある桜餅に落としました。
(『知れば迷い、知らねば迷わぬ甘味の道』・・・使えんこともないなぁ・・)
キヨさんは『もうひとつ食べようかな』と思っていた桜餅への誘惑を、目を瞑り、ふりふりと頭を振って断ち切りました。
「そないに言われてみれば、そんな気もして来ますわ」
自分の甘味への欲求を堪えて告げたキヨさんの言葉に、総ちゃんは嬉しそうに頷きました。
「そうやっ」
自分世界に入っていた梅香さんが、またまた何かを思いついたように大きな声を上げました。
「あんなぁ、あさって踊りのおさらい会がありますのや。どの妓(こ)もご贔屓はんを呼ばはって芸を競う、そりゃ豪勢なもんです。そんでうちはそん時に、この句に『振り』つけて踊ろう思いますのや」
梅香さんはこれ以上良い考えは無いと言う風に、目を輝かせてキヨさんと総ちゃんに急(せ)いて話し込みました。
「そりゃええ思いつきやなぁ、みつはんと一緒に見に行ってもええですやろか」
「もちろんですわな。キヨはんも満はんも、土方はんも、伊庭はんも、田坂はんかて来ておくれやす。島原の梅香、知れば迷う切ない恋の道を一世一代の踊りでお見せしますよって」
帯をぽんと指で叩いて、梅香さんの意気込みは天井知らずにどこまでも昇ってゆきます。
「よかったなぁ、みつはん。綺麗な踊りが見られるえ」
にっこり笑いかけながらキヨさんの頭の中は、すでにあさって総ちゃんに着せてゆく振袖の事で一杯です。
(ちょっと季節を先取りして、藤の薄紫のもええなぁ・・。帯締めは・・・ああ、あれは駄目や、色が濃すぎるわ。ほな新しい帯締め急いで調達せんと、何しろあさってやし。どないに沢山の芸妓はんがおったかて負けへん。・・・そおや、帰りに大せんせいと奥様のお墓参りも一緒に回ってもろうて、和尚(おつ)はんに見せびらかして・・そんで善哉屋に寄って・・・)
キヨさんの楽しい楽しい計画も、これまた尽きるところを知りません。
総ちゃんは土方さんの句を謡いながら踊る梅香さんの姿を思って、まるで夢のようです。
金色の仏像さまの横に並んで遜色ない土方さんの尊い俳句。
更にそれは、今度は島原でも艶やかに華やかに人々の目を楽しませるのです。
本当に、何て素敵なことなのでしょう。
総ちゃんは視線を目の前の土方さんに移し、うっとりと見つめました。
けれど総ちゃんの潤んだ瞳には、石槌で叩いても壊れないだろうと思える程に凝り固まった土方さんの顔は映っていません。
総ちゃんの脳裏にあるのは、沢山の人達が梅香さんの踊りと一緒に謡われる句に、感嘆の息をついて心奪われている様だけなのです。
八郎さんは思います。
骨の髄まで染み込んだ江戸っ子の自分ですが、その気質はとりあえず今は棚の上に上げておく方がよいでしょう。
世の中には敵うものと、敵わぬものがあります。
其処のところを上手に見極めておかないと、粋も酔狂もただの命取りになりかねません。
八郎さんはちらりと土方さんに視線をおくりました。
土方さんはとっくに魂を余所に飛ばして微動だにしません。
これもひとつの保身術かもしれません。
対岸の火事は、燃え尽きるまで見物人に徹した方がよさそうです。
まったくもって、くわばらくわばら・・・です。
・・・・それにしても
あさっての踊りのおさらい会には、総ちゃんと行って見るのも悪くありません。
帰りには禁裏御用達の料理屋の座敷に上がって、桜を見ながら二人で打つ舌鼓はどんなに楽しいでしょう。
喉元を通りすぎてしまった事は、とことん忘れた方がシアワセというものです。
八郎さんは、そこにいるキヨさんも梅香さんも土方さんも田坂さんも全部居ないものと斬り捨てると、瞳を潤ませて夢の世界にいる総ちゃんの、ほんのり桜色に上気した頬を、とりあえず一足お先に楽しくお花見することにしました。
田坂さんは考えます。
やはり女の神経というのもは、男のそれより遥かに太くできているのかもしれません。
生まれ持った強さが違うのですから、所詮どう足掻いたところで太刀打ちできるものではありません。
秘すれば花、思った事を正直に口にしないほうが、人はシアワセになれるというものです。
ですから今はただキヨさんや梅香さんの言う事に、大仰に頷くのが得策でしょう。
田坂さんは横の土方さんを、ちらりと見ました。
空蝉だけになってしまった土方さんの心は、とっくに此処を離れているのでしょう。
自分に不都合なものは見ざる言わざる聞かざるで逃げさる・・・或いはこれも一種の処世術なのかもしれません。
戻って来るまで知らぬ振りをしてやるのも、武士の情けかもしれません。
触らぬ神に祟りなし・・・
昔の人は本当に良くいったものです。
・・・・とはいえ
あさってはキヨさんのご機嫌をとりながら、総ちゃんと一緒に出かけるのも悪くありません。
キヨさんは途中で何処かでまいて二人っきりになったら、屋形舟に乗って桜を見るのも良いでしょう。
川の両岸には満開の桜、目の前には息する桜・・・考えるだけで頬が緩みます。
あさってまで待てない田坂さんは、未だ土方さんをうっとりと見つめて陶酔の世界にいる総ちゃんの、ほっそりとした首筋にほつれている黒髪を、とりあえず飽かず鑑賞することに決めました。
「なぁ、みつはん?」
キヨさんが心ここに在らずの総ちゃんに声を掛けました。
「・・・えっ?」
現に戻されて、総ちゃんはやっとキヨさんを振り向きました。
「あさってなぁ、おさらい会の帰りに、ちょこっと寄ってほしいところがあるんやけどぉ。そんでもし寄ってくれはったら、お礼にぜんざいをご馳走したいんやけど・・・。ええやろか?」
キヨさんは俯き加減に、さも申し訳無さそうな振りだけをして聞きました。
土方さんの立派な句が踊り付きで謡われたあと、シアワセな余韻にぴったりの甘い善哉。
なんて素敵なあさってなのでしょう。
総ちゃんは満面の笑みで、キヨさんに向かって幾度も頷きました。
・・・・・そして。
心も魂も今は空の上にある土方さんの眸だけが、まるで蕾が綻ぶようにシアワセそうに微笑む総ちゃんのお顔を虚ろ映し出していました。
おあとがよろしいようで♪
瑠璃の文庫
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