御贔屓筋


こちらのページは、管理人の偏見と独断と愛による新撰組ご贔屓隊士のファイルです。
世間様にはなじみの薄い隊士達だけをご紹介しています。そんなことなので、この際、土方・沖田等の有名人はちょっとゴメンしてあります。
どんなに常識的に振舞っても、基本的には管理人の偏見と愛しかありません。よろしかったら見てやってクダサイ。

         世 間 様 の 常 識          ワ タ シ の 非 常 識
島田魁(しまだかい)


文政11年(1828)美濃厚見郡雄総村で、代々庄屋酒造業を営む近藤伊右衛門の次男として生まれる。天保12年魁13歳の時、管理していた藩の御用材流木の責を負って、父が自刃。母もすぐに後を追う。その後親戚を転々とし、19歳の時、尾張藩の遠藤家に奉公にあがり、江戸勤務となる。(29歳位の時?)江戸坪内道場で剣の腕をみがき、縁あって大垣藩士島田才の養子となる。
その後、脱藩(文久3年説アリ)。文久元年(1861)には京都丹波屋定七方に居候。(後、この丹波屋養女さとを妻にめとる。監察中に知り合ったという話もアリ。マメだね)文久3年、結成間もない新撰組に参加。江戸坪内道場で知遇を得た、永倉新八との関係と思われる。以後、監察方として活躍。慶応元年の組織編成で二番隊(隊長は永倉新八)伍長となる。
新撰組として最後の地、箱館まで転戦し、やがて降伏。
尾張藩預かりとなり、禁固を解かれたあと、西本願寺の守衛としてその生涯を閉じる。享年73歳。


好き!以外の何者でもない、伍長。いっそサイト名を「伍長の小部屋」とかにしてしまおうかと思ったくらいゾッコン。(怪しすぎるのでさすがにやめた)
181センチ、160キロ、すでにお相撲さんの世界でしょーか。鳥羽伏見の時、永倉新八をヒョイっと持ち上げたとか、色々逸話は残ってるんですけどね、島田魁日記(伍長ったら力持ちの上に筆マメ)の中のおっかさまに(島田のおっかさまだと思う)会うクダリ・・・・おっかさまに会えて、「金毘羅様のご利益」って書いてあんの。もうっ!強いだけじゃないんだから。男のカワイサ満載。大垣行ったとき、金毘羅神社見つけて、思わず写真とっちまった。(・・・・で、一体どこの金毘羅様だったのサ、伍長)
箱館降伏後、田村兄弟と一緒に尾張藩お預かりになって謹慎してたんだけど、も〜、メンドウ見よさそうだよねぇ。伍長。銀に、あれこれお父ちゃんしてたんでしょーか?(すでに妄想ばく進)甘いもの好きっていうのもツボ。
結局、新政府にへの出仕も断り、西本願寺の守衛で終わった伍長。頑なに貫き通したかったのは何だったんでしょう。はぁ、大好き。(こればっか)
野村利三郎(のむらりさぶろう)


理三郎。美濃大垣出身。弘化元年((1844)生まれ。慶応3年6月以降入隊。鳥羽伏見の戦を経て、江戸へ。甲州勝沼の戦にも参戦。慶応4年3月、流山から近藤勇の従者として官軍に下るが近藤と共に捕縛。
近藤処刑後釈放。相馬主計と共に陸軍隊として海路江戸を脱出。奥州戦争に参加しながら、後箱館(函館)で土方歳三の傘下に復帰、再び新撰組隊士となる。
明治2年3月25日。宮古湾海戦にて戦死。
享年26歳。
中島登覚書によれば、「性質剛直にして酒を好み事に臨んで怯まず一己の英雄なり」と記されている。


すみません。この三人、一緒に非常識させて頂きます。

まず、野村と辰之助はお友達です。それも非常に近しい間柄です。
そんで、最初、野村が脱藩して大坂に。大坂でブラブラしている時に、大坂に槍の先生がいて、ちょくちょく来ていた島田魁(以下伍長)とバッタリ。
「え〜!島田さんじゃんっ」と野村。伍長とは大垣の時、道場で顔見知り。面倒見のいい伍長、お団子なんかをおごりながら(野村は本当は酒がよかったが、おごってもらう手前団子で妥協)野村がプー太郎してることを知る。
丁度新撰組も伊東甲子太郎らが分派して人がいないので、「新撰組来る?」とスカウト。
国元からちょろまかしてきた餞別もすでに尽きていた野村、ラッキーとばかりにそのまま伍長について新選組へ。ついでに国元にいる辰之助に手紙を書く。
「・・・・・というわけで、俺は新撰組にいるから、おまえもコイよ」その手紙の中身には、給料高くて仕事ラクでおまけに旗本になれる、とオイシイ事しか書かない。実は野村、新撰組の噂は聞いていてさすがに一人じゃ不安。この際辰之助を呼んじゃえっ!という魂胆。そのオイシイ餌につられて辰之助上京。しかも鉄之助というコブ付き。
まっ、いいかぁ、と野村アバウトに発車オーライ。

以上、伍長から、大垣つながりの四人でした。えっ?違うの??
いいんです。私このつながり、結構信じてるんです。


ともあれ鉄之助に関しては西南戦争で、田村銀之助と敵味方になっちゃってるんですね。この二人の因縁てすごい。
野村宮古湾海戦で戦死してるんですけどね、自艦回天丸から敵艦甲鉄までは、並行接舷に失敗して回天が甲鉄にのりあげちゃったから、3mの高低差ができてたんですよ。その高さを飛び降りて敵艦の甲板で、鉄砲玉相手に刀で奮戦する野村って、手負いの獅子?・・・・・想像するだに、宮古行きたい!

市村辰之助(いちむらたつのすけ)


美濃大垣出身。市村鉄之助の兄。三兄弟の次男といわれている。慶応3年6月以降入隊。鳥羽伏見の戦いに参戦。江戸に行き、甲州勝沼の戦には参戦。のち、五兵衛新田に新撰組が駐屯の頃に脱走したらしい。脱走後美濃太田近くで商売を起こし、成功したらしい。
明治五年二月七日没。墓所は大垣市内の全昌寺。


市村鉄之助(いちむらてつのすけ)


慶応3年秋頃入隊。辰之助の弟。(14歳の頃といわれる)
新撰組最後の転戦地箱館(函館)まで一緒についてゆく。明治2年、中島登の覚書には「5月11日行方知れず」と記されている。同年7月日野の佐藤彦五郎宅に土方歳三の遺品を届ける。そのまま3年程佐藤家に滞在。後、桐野利秋の馬丁となり、西南戦争で田原坂で戦死と伝えられるが、詳しいことは不明。

相馬主計(そうまかずえ)


常陸笠間藩士舟橋平八郎の子。慶応3年6月以降に新選組隊士となる。翌年、鳥羽伏見の戦い後江戸に帰還。甲州勝沼の戦いにも参戦。流山で官軍に下った近藤勇の救出に尽力するが果たせず、自らも捕らえられる。近藤処刑後釈放。慶応4年6月陸援隊に属し、同じく捕縛され釈放された野村利三郎と共に江戸脱出。海路奥州へ。その後箱館渡航後、土方歳三の傘下に戻り、再び新撰組隊士となる。明治2年(1869)宮古湾海戦に参戦。足に槍をうけて負傷。土方戦死後、最後の新撰組隊長となり、箱館弁天岬砲台に立て籠もる。明治2年5月15日降伏。東京送還後、新島に配流。明治5年10月13日釈放。島で知り合った妻植村マツと共に、東京に戻るが、突然の切腹死を遂げる。


相馬はね、この人のこと思うと、「不良債権にニッチもサッチも行かなくなって会社更生法の適用すら受けられず、閉めるしかない会社の残務処理をまかされちまった新任社長」ってのが頭に浮かんじゃって。
でもね、敵方の人が書いた資料の中で、相馬のこと唯一幕軍側の人間としては好意的に書かれているんです。多分、すごく人間的にできた人だったんでしょうね。
短気で突っ走り傾向の野村とかの面倒みながら、頭さげたり片付けさせられたり・・・・そんで、野村も「悪い」とは思っても素直に言えないから酒おごっちゃったりして。(すでに勝手に妄想)

京都時代は目立たなかった人でしたが、最後の新撰組隊長として降伏という形をとりながらその幕を下ろしたのは、私個人的にすごいことだとおもっちゃうんです。
で、突然の切腹死の原因について、妻のマツさんは「仕官の話とか色々あって、それをやっかんだ昔の幕軍の人達への男の死に際を見せた」と言うような事を言ってられます。それを読んだとき、もう、私泣きました。ただ、できた人だけじゃない、漢(おとこ)の意地も矜持も持ち合わせた立派な武士だったんですね。相馬。もう、めちゃくちゃ惹かれて好きです。

田村銀之助(たむらぎんのすけ)


陸奥磐城平出身。田村半右衛門の五男。二人の兄、一郎と録四郎も新撰組隊士。慶応3年(1867)秋、入隊(鉄っちゃんと一緒)。時に銀之助13歳。混乱の幕末のなかで新撰組と北への転戦を一緒にし、官軍に降伏後一時尾張藩預かりとなり、釈放後黒田清隆の元にいた。(又、陸軍隊隊長の春日左衛門の養子になり、伊庭八郎の最後等、降伏直前の五稜郭を語っている)黒田と一緒に北海道開拓団に同行したりもしているが、西南戦争にも参戦。(鉄ちゃんとは敵味方になっちゃた)
後も幾多の事件に遭遇し波乱の生涯を遂げる。
享年65歳。
娘に幼い頃からフランス訛の英語を教えたり、なかなかハイカラ。向こうッ気が強く喧嘩早いが情に厚い人であったという。


私のご贔屓ランキング、伍長に次いで第2位を占めるタムギン。

わずか13歳にして新撰組隊士。維新後も、北海道開拓行ったり、陸軍で竹橋騒動に遭遇したり、西南戦争行ったり、もう波乱万丈。
少年時代からあまりに過激な人生送っちゃったせいか、その後の人生何をやっても面白くなかったらしくって、酒飲むは離婚してクレイマークレイマーしちゃうは、もうしっちゃかめっちゃか。でも、娘のハルに箱館でブリュネーに教えてもらったフランス英語(だってブリュってフランス人)教えちゃったり、きっと頭のいい人だったんだと思う。五稜郭たて籠もりの時は食料が尽きて(もうネズミもいなかったらしい)土壁まで食べちゃったっていうから、根っからのサバイバル体質だったらしい。・・・・えっ?
野村とかを結構カゲでからかって遊んで退屈しのぎしていたとか(相馬、伍長にはしない←動物的上下関係)してそうな面構えも、もうただ、ただベリィキュート。

中島登(なかじまのぼり)


天保9年(1838)武州多摩郡八王子に生まれる。八王子千人同心から新撰組へ入隊。実際に新撰組そのものに係わるのは甲州勝沼の戦い後。そのまま流山、会津、箱館へと新撰組と最後まで共にする。
箱館で官軍に投降後、謹慎中に書かれた「中島登覚書」と「中島登の戦友絵姿」は貴重な新撰組資料。
維新後、静岡藩お預かりの後、浜松に在中。洋蘭の栽培に成功。子孫の方は現在も浜松市内で銃砲店を営まれている。
墓は浜松市天林寺。


むかし、新撰組すきーの研究熱心な友達に連れられてノボリン(中島登)のご子孫の方のお家に行って、麦茶ごちそうになりました。おしまい。

ウソ、ウソ。でも行ったのはホント。何か色々貴重なものを見せて頂いて、とっても親切にして頂いたそうで(優しかったのは良く覚えている)・・・にも係わらず!何にも覚えていないんですよ。私。へらへら・・・。

ノボリンはね、アツイ人だった。そう断言しちゃう、私。おまけに文章OK,イラストOK。戦友絵姿なんか着物の柄まで、まぁ芸が細かいのなんのって、あーた。
某国営系放送局の番組で「土方歳三の部下」で終始終わってしまったのが悔しくてならない私です。いっそ同じチャンネルの「プロジェクト○」とかで「箱館新撰組最後の隊士達」とか番組作ってくれたら許す。(プロジェクト○の、あの水戸黄門的安心感がいいね。・・・・どこからそのエラソウな発言が・・・)





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