はじめに

この噺は、サイト内の自分で創った話を自分でもじったもので、
新撰組とは何ら関係ございません。
『それもいつもの事だからショウガナイね』、
と呆れて許して下さるお客さまだけ、どうかこの先へお進み下さい。

尚『呉服屋シリーズ(?)』が初めてのお客さまは、
『花咲く乱れ箱』コンテンツ内に、この噺の前の部分がありますので、
そちらを併せてお読み頂ければ幸甚です。
ではでは・・・







          呉服屋宗ちゃんのシアワセ 河童でシアワセ♪なの




 猫も杓子も、『忙しい風情につくろわなければならない』師走を、あらよっと一跨ぎした途端、叉百八つの煩悩が恵比寿顔でお出迎えしてくれるのも、人として生まれたからには避ける事の出来無い浮世のお約束。

さてさて、そんなこんなで。
ここ京でも堅い商いと、ソコソコ名を馳せている呉服商、真選近藤屋の奥の間では、主の勇が厳つい顔を綻ばせ、店の者からの新年の挨拶を上機嫌で受けていました。
そしてその傍らには、ちんまりと端坐した、花よ蝶よと育てて十六年目の愛息宗次郎の姿が・・・
ですがその宗ちゃん、目出度いお正月だと云うのに、華奢な身を縮ませ、俯かせた顔をちっとも上げようとはしないのです。
そしてその様に、お世話を任され幾星霜、いつか三国一の婿を取り宗ちゃんがシアワセになる日をこの目にするまでは、我が身を挺してお護りすると揺るがない決意の島田さんが、どう頑張ってもはみ出さざるを得ない大きな体を柱の陰に隠し、無骨な手でそっと泪を拭っていたのでした。
と云うのも・・・


出会ったその瞬間から、それが避けられない天の定めだったのか、はたまた戯れだったのか――。
一目で恋に落ちてしまった相手の姿を、一日一度眼(まなこ)に刻みたいがその為に、宗ちゃんがやっとうの道場に通うようになったのは、漸く暑い風から湿り気が抜け、葉の翠が、唐紅(からくれない)に色を染め変え始めた昨年の秋。
そしてその片恋の相手、苦みばしった色男ではあるけれど、決して愛想が良いとは云い難い、それはそれは目つきの悪い薬売りと言葉を交わしたいが一心で、宗ちゃんは自ら玉のお肌に蒼痣を刻むと云う、自虐の日々を送り始めたのでした。
ところが。
そんな一途な恋心を、けなげと誉める程には、甘く無いのが世間さま。
どうにも胡散臭い薬を、手八丁口八丁であれよあれよと門弟達に売り捌く手腕を、遠くからうっとりと見つめていた宗ちゃんに、ある日思いもかけない衝撃が・・・

それはほんの昨日のこと。
それでも今では去年となってしまった大晦日、高鳴る胸の鼓動を抑えながら、稽古納めで、いつもよりも活気に満ちている道場に行くと、其処には目当ての薬売りの姿は何処を探してもなかったのです。
動転した宗ちゃんは蒼白になり、この道場の跡取である八郎さんに問うと、何とっ、当の薬売りは、
『河童から伝授されたと云う、代々生家に伝わる薬の作り方を、今一度乞う為に修行に出た』と――。
どう考えても眉唾もののいらえが、さも大仰な物云いで返ったのでした。
そして八郎さんは、愕然と言葉を失くし、透けた雫で頬を濡らしながら、深い色の瞳を虚ろに彷徨わせている宗ちゃんに、
「あいつも河童の弟子となったからには、現に生きるお前には、最早目に触れる事とて毒な異形の身。ならばいっそきっぱり忘れてやるのが、情けと云うもの」
と、それがあたかも人の世の約束事だとばかりに重い声で諭すと、魂を何処かに置き忘れてしまったかのように、ぺたんと床に座り込んでしまった薄っぺらな身を、そっと抱き寄せたのでした。
けれど八郎さんは、実はあの薬屋は、この道場で儲けた金を元手に、今頃は白粉の香に咽ぶ現の極楽に行っているのだとは、腕の中で放心している宗ちゃんには口が裂けても云うまいと、密かにほくそ笑んだのでした。


 とまぁ、目障りな薬売りから、己が片恋の相手を引き離そうと目論む八郎さんの胸中を知る筈も無く、お正月だと云うのに、宗ちゃんには生気の欠片も無く、ただただぼんやりと、お人形のように父親(てておや)の横に座っているのでした。
そしてその事情を唯一知る島田さんだけが、手塩に掛けて来た宗ちゃんの打ちひしがれた姿を見るに偲びず、手拭を目に当て、ともすれば漏れ落ちそうになる嗚咽を必死に堪えているのでした。
と、その時。
「何しとるのや」
まるで儚い物語を綴る草紙か絵巻を読むかの如き感傷に浸りきっていた島田さんを、あっさり現に戻した世知辛い声は、番頭の山崎さんのものでした。
「何しとる云うたかて、坊ちゃんがあんまり健気で・・・」
其処まで云うのが精一杯なのか、途中で言葉を切り、ずずっと真っ赤な鼻をすする島田さんに、山崎さんはこれみよがしの深い息を吐くと、ふりふりと、呆れたように首を振りました。
「あほう、あれは健気と違ごおて、どこぞ具合が悪いんやろ。旦那はんも昨日からえらい心配しはって、田坂の大せんせいを呼んで来るようにちゅう事で、うちが使いに出て今帰ってきたところや」
少しだけ首を伸ばし座敷の中を伺いながら、山崎さんは、父親(ててご)の陰でちんまりと座している宗ちゃんの姿に眉根を寄せました。
そして丁度出てきた商いの客を、愛想の良い笑顔で見送ると、腰を屈め加減にして部屋の敷居を跨ぎました。

「旦那はん、田坂せんせいのとこのキヨはんに、後で大せんせいに来て下さいて、云うて来ましたわ」
「ご苦労やったな」
端座した山崎さんがそう告げた途端、それまでの恵比寿顔を、あっと云う間に憂い一色に染め変えて、近藤屋の主は、それはそれは心配げに隣の宗ちゃんに目線を移しました。
ところが宗ちゃんは、その父親の心を知ってか知らずか、相変わらず項垂れたまま顔を上げようとはしません。
「そんでその時キヨはんが、坊ちゃんに云うて、これくれましたわ」
ですが例え目の前の親子の情がどっちに向いていようと頓着無く、山崎さんは淡々と自分に課せられた報告を終えると、袂から、ごそごそと柏にくるまれた菓子を取り出しました。
そして近藤屋の主が、とても呉服屋とは思えない武骨な指で紐を解くと、其処には白と紅のまぁるい菓子がふたつ。

「餅菓子か?」
「中の餡がそないに甘くのうて、なんぼでもいける云うてはりましたわ」
「上手そうですなぁ」
先程まで、感傷に浸りに浸りまくって泪に咽んでいた島田さんも、好物を目の前に、ずいっと身を乗り出しました。
そしてふたつの餅を見ながら、宗ちゃんを除く其処にいる誰もが、その姿がキヨさんに酷似していると、喉下まで出かかった禁句をごくりと呑み込みました。
ですが山崎さんは更に一歩踏み込んで、その時キヨさんが、
『宗次郎はんは、線の細い華奢な姿容(すがたかたち)が、うちの娘時代とほんまによう似てはるんで、具合が悪いと聞くと、えらい心配になりますのや』
と、心底辛そうな顔で語り終えた時、手渡された菓子を危うく落としそうになった程の、嘗て無い動揺の瞬間を、無理やり脳裏から消し去りました。


「宗次郎、キヨさんがお前にと、菓子をくれたよ」
と、そんな山崎さんの事情など知る由も無く、近藤屋の主は宗ちゃんに体を向けると、益々心配げに、まるで壊れ物に触れるかのようにそっと声を掛けました。
その声に促されて漸く面輪を上げたものの、宗ちゃんの双つの瞳は相変わらず焦点を定める事無く、ぼんやりと宙を彷徨います。
「ご覧。紅白の餅が、まるでシアワセな夫婦(めおと)のようだよ。けれどお前ならば、きっと両の手では足らない位の婿候補が来るに違いない」
そんな息子の様を案じ、胸を張り裂けんばかりに痛ませながら、主の語り掛けは必死に続きます。
ですが・・・
世の中何が幸いで、何が災いになるのか・・・
しかも恋する者にはどれが禁句で、どれが禁句で無いのか・・・
そんな事はお釈迦さまだってご存知無ければ、人さまならば尚のこと。
父親の言葉が終わるか終わらないかのその一瞬――。
虚ろだった宗ちゃんの瞳が不意に紅白の餅に向けられたと思った途端、深い色のそれから、白い陶磁のような頬にはらはらと滑り落ちる雫が。
「宗次郎っ、どうしたのだいっ?」
紅白と云う言葉か、はたまた夫婦と云う言葉か、それともシアワセと云う言葉か、いやいや婿と云う言葉か・・・
一体何が悪かったのかと思い返しても、心当たりなど見当たる筈も無く、宗ちゃんの突然の悲嘆の様に、近藤やの主は仰け反り叫び、そしてその薄っぺらの肩を抱いて揺すりながら、おろおろと問い質します。
ところが・・・
「・・かっぱに・・なりたい・・」
しかと抱えた腕の中、厳つい顔をくっつかんばかりに寄せて愛息を映す眸の中で、紅梅がほんのり色をつけたかのような唇から漏れた言葉に、近藤屋の主は、仰天を通り越し、まだ雫に濡れる面輪を、暫し呆けたように見詰めていました。
が、やがて緩慢な動きで顔を上げると、固唾を呑んで凝視している山崎さんと島田さんに、ゆっくりと視線を据えました。

「・・河童とは、あの河童の事か?」
そしてちょっとだけ心許ない声で、どちらにとも無く問い掛けました。
「そりゃ、そうですやろ」
それに、何がそうだとは敢えて云わぬが仏と心得た山崎さんが、さも難しげに相槌を打つや、さり気なく島田さんを振り返り、
「そやろ?」
と、その続きを引き継がせた如才の無さは、流石近藤屋の番頭と唸らせるものがありました。
「・・へぇ河童云うたら、こう、頭にまぁるい皿が乗っかっていて、そんで指には水かきがあって、背中には甲羅背負うている、あの河童と違いますやろか?」
ところが当の島田さんは、そんな面倒な話を振られたとも気づかず、生来の人の良さかはたまた生真面目さか、膝立ちになり、額に汗までかきながら大きな体を駆使して、身振り手振りで河童の姿容を説き始めました。
「そないな事分っとるわっ、わしが聞きたいんは、何で宗次郎がそないなけったいなもんになりたいと言い出したんかっ、ちゅう事やっ」
ですがその島田さんの必死の講釈を大きな声で一喝すると、近藤屋の主は急いで腕の中の宗ちゃんに視線を戻し、今度こそ途方にくれたように、厳つい顔をくしゃりと歪ませました。
「宗次郎っ、河童になりたいなどと、何でそないな事を云い出して、おとっつぁまを哀しませるのだい?・・・、山崎っ、早く大せんせいを呼んで来るんやっ、ああ、違う、大せんせいではあかんっ、物の怪付きにはお払いやっ、京中の占い師と巫女と宮司を集めて来るんやっ、早ようせいっ」
そうして唾を飛ばしながら、大声で指図し始めたその時――。
「旦那はん、しっかりしとぉくれやす」
天と地をひっくり返してしまったかのような主の動転を、つつと膝を進めて諌めたのは、名指しされた当の山崎さんでした。
「今日は元旦ですわ。この稼ぎ時を逃さんと、何処の神社仏閣かて賽銭箱潤すのに必死で、とてもお払いの出張やなんてしてくれまへんわ」
「ほな、どないするんやっ」
「まぁまぁ」
ところが・・・
胸倉を掴まんばかりに詰め寄る怒気をあっさり交わし、山崎さんの視線が捉えたのは、座敷の片隅で、まるでこれらの騒動が自分の所為であるかのように、大きな身を小さく縮こませてる島田さんだったのです。
「島田、お前何か知っているやろ」
そして有無を言わさぬ強い声が部屋に響いた途端、島田さんの顔が、『左様でございます』とあからさまに物語るかのように、下を向いてしまったのです。
「島田っ、何があったんやっ」
いつもはどこにあるのか分からない位に小さな目をひん剥いて、仁王像のように顔を赤くして問い質す主の姿に、じりじりと後ずさりしていた島田さんでしたが、遂に背が壁にくっつき、もうこれ以上逃げ場は無いと察するや、更にがくりと項垂れました。
そうして真実を語るか語るまいか、心裡で渦巻く懊悩の時をやり過ごす為にぎゅっと目を瞑りましたが、やがて観念したように、下を向いたまま口を開いたのです。

「・・あのぉ、・・坊ちゃんがやっとうの稽古に通い出したんは、道場に来る薬売りから薬を買いたいが為やったんですわ。其処までは、旦那はんかて、伊庭の若さまから聞いてご存知ですやろ?」
そう問われれば、諾と頷かなければならない忌々しさに、近藤屋の主はこれみよがしの渋面を作りました。
「それと河童と、どないな関係があるんやっ」
その苛立ちをぶつけるように、太い声が先を促します。
「へぇ。実は昨日、いつものように道場へ行ったら、その薬売りが居てはらへんかったんですわ」
「そりゃ目出度い事やないか」
萎れた花のようにぽつねんと座し、未だ雫に頬を濡らせている華奢な姿をちらりと見遣った瞬間、胸の真中を貫いて走った切ない痛みを、近藤屋の主は、これも愛息のシアワセを願うが辛抱と、ぐっと堪え仏頂面で応えました。
「せやけど一日くらい居てのうても、別段どうってことあらへんやろ?」
と、其処へ、それがどうしたとばかりに、山崎さんの淡々とした声が、次なるいらえいを求めました。
「それがぁ・・」
「はよう云えっ」
先を急がせる一喝に、島田さんが、ちょっとだけ宗ちゃんに視線を送りましたが、もうこれが隠し通せる限界とばかりに一度溜息をつくと、再び重い口を開きました。

「何でも伊庭の若さまの云うには、その薬売りの生家には、代々河童から作り方を伝授してもろうた薬ちゅうのがあって、そいつはその作り方をもっとよぉく教えて貰う為に河童に弟子入りしたから、もう道場には来んちゅう事だったんですわ・・」
島田さんは目を瞬かせながら、事の顛末を、小さな声でぼつぼつと語り終えました。
「ほな宗次郎は、その怪しげな薬売りなんぞの為に、河童になりたいと云うんかっ?」
「・・たぶん」
あまりの驚愕に色を失くした主を前に、亀が甲羅の中に首をすぼめるようにしながら、島田さんの声は益々小さくなります。
「どこのどいつやっ、その薬売り云うんはっ」
ですがその反対に、主の怒りは天に届く程に膨れ上がり、屋敷全体を震わせるような大音声が響き渡りました。
――照る陽の陰となり、吹く風から抱くように守り、まるで花の蕾が綻ぶ様を愛でるようにして育ててきた息子の心を、あっけなく奪った薬売りの存在すら許せるものでは無いと云うのに、更にこの期に及んでは、河童になりたいなどと泪し、魂すら抜き去られてしまったかのような宗ちゃんの姿に、主の憤怒は止まる事を知りません。
ところが・・・
「旦那はん、これはええ機会かもしれまへん」
その勢いを削ぐように、それまで成り行きを静観してい山崎さんが、又もつつつと膝を進めると、相変わらず心ここに在らずの体(てい)で、虚ろに視線を彷徨わせている宗ちゃんをちらりと見、そっと告げたのです。
「ええ機会って、・・何でや?」
思いもよらぬ注進に、訝しげな視線が返りましたが、それに山崎さんは、我が意を得たりとばかりに無言で頷きました。
そしてやおら口を開くと――。

「相手は河童ですやろ?河童云うたら、四六時中川ン中と、相場は決まってますわな」
と、声が漏れる事を用心するように、主の耳たぶを引っ張り、低い声で囁いたのです。
「坊ちゃんは前に川で泳いでいて、岸につく前に力尽きて溺れかかって、そんで田坂せんせいのトコの若せんせいに助けて貰ろうて、挙句、風邪までひいて三日三晩うなされて以来、泳ぎは苦手ですやろ?せやから其処の処をよう説いたら、薬屋には自分から三行半をつきつけるんと違いますやろか・・」
「おおっ」
山崎さんが最後まで云い終えぬ内に、その手があったかと、小さな双眸が大きく見開かれ、その喜びの証しのように、ぽんと両の手が打たれました。
そして再び腕の中の宗ちゃんに視線を戻すと、華奢な身を、更に深く内へ抱くようにして語り始めました。

「宗次郎、よおくお聞き。あの薬売りも河童の下で修行を始めたからには、既に川の中で寝起きをしているに相違無い。幸か不幸か、お前は泳ぎが不得手。しかも冷たい水なんぞに浸かれば、すぐに風邪を引いてしまう病弱な身」
幸か不幸かの『幸』に殊更力を籠め、近藤屋の主は項垂れたままの宗ちゃんに諄諄と説きます。
「泳げもせず、しかも風邪まで引いてしまえば、修行中の薬売りの足を引っ張ってしまうよ。お前もそのようにして、好いた相手を困らせたくはあるまい?元々好いた惚れたなどと云うものは、そうそう簡単に報われるものでは無いのだよ」
どうせ引っ張るなら根こそぎ引っ張って、水の中に閉じ込めたまんまにしてやれば少しは気も晴れるものをと、舌打のひとつふたつでは到底足りない相手への憤怒を、ここが堪え処とどうにか抑えた大きな鼻の穴から、その代わりのように荒い息が噴出しました。
けれど・・・
そうは問屋が卸さないのが、世の常つれなさ面白さ。
父親の語りが終わるや否や、それまで俯いたままだった宗ちゃんが、ふと面輪をあげたのです。
「・・簡単には・・報われない・・」
そして淡い色の唇から零れ落ちた声音は、それまでの打ちひしがれた様とは違い、何処かに光を見出したような、確かなものでした。

そうなのです。
この瞬間、宗ちゃんは気づいてしまったのです。
恋とは――。
辛い試練の時を経て、ようやっと実を結ぶものなのだと。
恋に試練はつきものなのだと。
いえ、それでなければ恋は恋では無いのだと。
ならばその艱難辛苦を乗り越えれば、必ずや恋は成就するのだと――。
何とっ。
宗ちゃんは、宗ちゃんなりに、宗ちゃん定義で、息子を思うばかりの父親の厳しい言葉を、『前向き』に捉えてしまったのです。
恋する者の純情は・・・
時に、桁外れの勘違いに走るものなのかもしれません。
でもまぁ、そう考えれば、古今東西縁結びの神様が、廃れる事無くもてはやされるのにも合点が行きます。

「おとっつぁま・・」
宗ちゃんは白い頬に伝わるものを拭いもせず、やおら父親(てておや)に面輪を向けました。
「・・・宗次郎は、・・宗次郎は、八郎さんにやっとうを教えてもらって風邪を引かなくして、・・それから、それから、田坂せんせいには水練の稽古を受けて、水の中でも薬売りさんにご迷惑をかけないようにします・・」
そして心に堅く誓った悲愴な決意を、必死の面持ちで訴え始めたのです。
そのいじらしさに、島田さんはこみ上げるものを堪え切れず再び手拭を目に当て、片や山崎さんは――。
息子の言葉に呆然としている主が、自分が提案した策が見事裏目に出た事に気付かない内に、音ひとつさせず、そうっと室を出て行きました。
そうして当の近藤屋の主は――。
腕の中から、深い深い色の瞳で見上げている面輪をぼんやりと見詰め、愛息子の『今年一番の抱負』を虚ろに聞き入っていました。
ですがその父親の心裡など露知らず、宗ちゃんの夢見るような瞳の先には・・・


 川中に、丁度按配良く出たまぁるい石の上。
煙管をふかす姿すらふてぶてしい無愛想なご面相の河童と、傍らに、同じように腰掛ている自分。
もじもじと、言葉を掛けることすら躊躇い、ちょっとだけ横顔を垣間見てはみるものの、でも直ぐに恥ずかしさで俯いてしまい、その切なさの代わりのように、水に浸したか細い足を動かして見れば、其処には二人お揃いの水かきが。
揺れる水面に映る姿容(すがたかたち)も一緒ならば、過ごす時もずっとオンナジ水の中。
水の流れすら己の意のままに縦横無尽に川の中を泳ぐ、河童になった薬屋さんの大きな背を、一生懸命に追う自分。
――恋する者の一途は、すでに試練の果てに勝ち得た無上のシアワセへと想いを馳せ、止まる処を知りません。
ああ本当に、なんて素敵な一年の始まりなのでしょう。
宗ちゃんはうっとりと、現の初夢に瞳を潤ませました。



 親の心子知らず、子の心親知らず、ならば河童の心は・・・
「分かるかいなっ・・」
漸く廊下の曲がり角まで来ると、自分があの部屋から居なくなった事など、まだこれっぽっちも気付かないでいるだろう者達の、思いこみの激しさに溜息をつきながら、山崎さんは漸く足を止めました。
そして冬とは云え、暮れからみればずいぶん勢いが増した天道の陽射しに眩しげに目を細め、
「鶴亀、鶴亀」
と、先程の話が、これ以上我が身に降り掛からぬように唱え、叉急ぎ足で廊下を歩き始めました。





 穏やかな日和に恵まれた元旦も、早夕暮れ近くなれば、ここ上七軒の隣を賑わせていた北野天満宮への参拝客もまばらになり、その静けさが、余計に寒さを身近にすると云うもの。
ですがそうなれば、後を引き受けたように、今度は此方が宵を迎えてあでやかに彩られ、あちらに花を咲かせればお次はこちらと、上手く天秤棒を担いでいるのが世間さま。

さてさて、そんなこんなで――。
ここはその天秤棒の片側、酸いも甘いも覚めては夢。
現の極楽を垣間見せてくれる花街の、白粉の匂いにむせる一室。

 蒲団の上に腹ばいになっているのは、煙草盆を引き寄せる姿すら粋な、苦み走ったいい男。
花代はいらぬと懇願され、年を跨いで居続け二日目。
鏡を覗き、髪を梳く艶な後ろ姿をちらりと見たものの、どうにも物足りなさを感じるのは、そろそろ本来の飽性が出てきたのかと、ふと苦笑したその寸座――。
何故か脳裏に浮かんだのは、毎日毎日凝りもせず、売っている己ですら眉唾もの貼り薬を、門弟達の一等最後に並んで、顔も上げられずにおずおずと買い求める頼りない姿。
似合いもしないやっとうの稽古などに励むよりも、いっそ蕾を綻ばせた梅の下に佇ませる方が、ひねる俳句の役に立とうにと思いつつ、薬屋は伏せていた身を億劫そうにごろりと反転し仰臥しました。
ですがどうしたことか、その姿が閉じた瞼からも離れず、又ゆっくり目を開けると、天井に視線を据えました。
そうして、考えます。
確かあの者の家は、京でも評判の呉服屋。
しかも相手は自分に懸想している様子、そして自分とて満更でも無い・・・
いやいやむしろすこぶる乗り気とくれば・・・
薬屋は、さりげなく女に背を向けました。

――人に姿を代えた、たおやかな花一輪。
婿に入り、昼に夜に愛でて咲かせるも悪くは無いと、ひとりほくそ笑んだのでした。





と、そんな事を薬屋が思っているとは露知らず――。
「あのね、次ぎはお天神さまにも、お参りしたいのです」
今頃は河童のお師匠さまについて、厳しい修行の道を歩み始めたと信じて揺るぎ無い宗ちゃんは、少しでも早くに追いつきたいと、島田さんの大きな背に負われ、間近に見える鳥居を指差します。

――そうなのです。
今年の抱負、・・いえいえ『生涯の道』を心に誓った宗ちゃんは、その祈願成就の為に、『金の切れ目が縁の切れ目云いますやろ?、せやから縁の始まりを授かろうと思うたら、けちったらあきまへん』との、妙に説得力のある山崎さんの言葉に頷き、お賽銭用の小判の入った巾着を片手に、あれから島田さんと、あらゆる寺社仏閣に願掛けに走りまわっているのです。
けれどその内か細い足は疲れ果てて棒のようになり、途中からはとうとう島田さんの背中にお世話になってしまったのです。
ですが恋の道は、まだまだ始まったばかり。
それを思えば宗ちゃんの胸は、シアワセに高鳴りを禁じえません。

「北野天満宮の梅云うたら、むかぁし、大宰府ちゅうとこに神さんが行ってしもうても、言付けを守って、ちゃんと季節季節に花を咲かせたそうですわ。そないに律儀な家来の梅を持つ神さんなら、きっと坊ちゃんの願いも叶えてくれはります」
云いながら、一目散に鳥居をくぐる島田さんの背で、こくこくと、それはそれは嬉しそうに頷く宗ちゃんの瞳が、蕾をつけた梅の木の下で、鋭い三白眼をもっと細くして、花を愛でる河童姿の薬屋さんを映し出し、うっとりと細められました。


そんな二人の影を――。
稜線に隠れる間際のお天道さまが、ほんのり笑って、後ろへ後ろへと長く伸ばしました。











おあとがよろしいようで

年の初めからふざけた噺でスミマセン。。。





花咲く乱れ箱