―春夢―  兵馬 後日譚





「いかがした?」
 訝しげな声に、庭に視線を遣っていた面が、恥じ入るように目を伏せた。
「珍しい事もあるものじゃ。桂穣尼、そちのぼんやりを、余は初めて見たぞ」
「お恥ずかしい事でございます。……少しばかり、藤棚に目を奪われおりました」
「花もならぬと云うに、気の早い」
「楽しい事は、心を逸らせまする。今年も御坊様の御丹精が、見事な花を咲かせましょう」
 薄ねず色の頭巾に覆われた横顔に、慎ましやかな笑みが浮かんだ。その頬を、春も名残の白い光が包む。
「花に浮かれるのは、おなごの習性かの」
「さて…、如何なものでございましょう。美しいものに心惹かれるのは、殿方とて同じではございませぬか?」
 悪戯げな眸が、咲く花を、息する花に謎掛けて、康穣に向けられた。
「そちには敵わぬ。余の手を打ったのは、後にも先にもそちだけじゃ」
「遠い昔の事を…、あれは、殿が御母上様の大事になされていた掛け軸に、悪戯をされたからでございます」
 口元に当てた指の隙から、たおやかな笑い声が忍び落ちた。
 城を離れ、藩の菩提寺の一隅に二人だけと云う長閑けさが、康穣と桂穣尼を、年端も行かなかった少年と乳母の時へ遡らせる。

「が、この世には、花が無くとも浮かれる愚か者がおる」
 一転、苦々しげに顔を顰めた康穣を、不思議そうな眸が捉えた。
「栗谷の事じゃ」
「栗谷さまと申せば、あの普請御奉行の栗谷陣内さまであらせますか?その栗谷さまが、いかがなされましたか…?」
「市井の人間を、娘婿にしたいと申し出た」
「それは…」
 桂穣尼の声に戸惑いが混じる。
 
 確かに市井の者であっても、一度武家の養子にし、それから婿にすると云う事は出来なくも無い。だがそれには莫大な金が裏で動くと聞いている。しかしそれ以上に桂穣尼を不思議に思わせるのは、康穣が、何故それに拘るかと云う事だった。普請奉行とは云え、栗谷家は藩の重臣では無い。まして国勤めとあっては、康穣にとって遠い家臣と云えた。その栗谷の縁組に、苦々しげに眉を寄せる康穣の心が、桂穣尼には見えない。

 訝しげな視線を察したか、康穣が視線を戻した。
「相手は、田坂俊介と云う町医者だ」
「田坂…俊介様」
 明るすぎる陽光の中、頷いた康穣の横顔に、一瞬翳りが走ったのを見止めて、桂穣尼は眸を細めた。
「杉浦俊介と云えば、尼は覚えておるか?」
 物憂げに呟いた声に、桂穣尼の面が上げられた。そこに驚愕の色があるのを予期していたように、康穣も頷いた。
「昔、まだ余が国元に居た幼き頃、そちは話してくれたの……。城下の外れの西門町に、それは大層美しい藤棚を持つ家があると。その、薄紫の房が弾く光の渦を、一度余に見せたいのだと、そちはこの季節になると云った。が、それが果たせぬ内に、余は江戸へ行くことになった」
 見詰める桂穣尼のいらえを待たず、言葉は続く。
「それが亡き杉浦高継の縁者の家であったとは、その後、何かの折に、杉浦自身から聞く機会を得た。…そう云えば、塀の向こうに佇んでいた少女の事を、高継は覚えておったぞ」
「杉浦さまが、そのような…」
「嬉しいか?」
 からかうような笑みが、端整な口元に乗った。
「年寄りを、おからかいになるものではございませぬ」
 やんわりと交わした声には、幾久しい時を、丁寧に手繰り寄せている柔らかさがある。
「杉浦も、兵馬も、あの時余に力があれば、内野の姦計から救ってやる事ができた」
「それは殿のせいではありませぬ」
 康穣の心の傷の深さを知る桂穣尼の声が沈む。
「内野の企てを見過ごし、あやつの云い分を鵜呑みにした愚かな本多の家を、残された俊介は、さぞ恨んでおろう」
「そのような事は…」
「慰めは良い、既に終わったこと、悔いても何も元には戻らぬ。ただ今日尼を此処に呼んだのは、頼みがあっての事」
「わたくしに…?」
「左様、尼を見込んでの頼みじゃ」
  苦笑混じりの声ではあったが、其処に真摯なものがあるのを察し、桂穣尼の眸が、ひたと康穣を捉えた。
 
「あれから十年。余は兄の後を継ぎ、本多の家の主となった。そしてあの夜、俊介は鳴滝の手により京へ逃れ、今は人に慕われる町医者になったと聞く。だが余の胸の奥には未だ止まったままの時がある」
「殿」
 桂穣尼の声を受け流すように、康穣の視線が庭に向けられた。が、すぐにそれを戻すと、再び目の前の佳人を見詰めた。
「人の世でひとりだけ、己よりいとおしい者と巡り会えると、昔、尼は余に云うたの」
 静かに頷く桂穣尼を見る康穣の口元に、笑みが浮かんだ。
「では、もう隠すまい。兵馬は、余にとって、そのひとりだった」
「…殿」
「尼に頼みとは、栗谷に同道し、俊介に会って欲しいと云うもの。幾度となく出仕するよう、鳴滝を通して伝えてあるが、一向良い返事を寄越さぬ」
「俊介さまは、決して殿をお恨み致してなどおりませぬ」
「かように、鳴滝も云う。あの男は嘘をつけぬ。真であろう。だが余は俊介の姿を、尼に見てきて欲しい。そして聞かせて欲しい。今を強く生きている俊介の姿を…」
 それを聞いてどうなるものでも無い、しかし或いはそうする事で、漸く己は、塊になった十年の歳月を砕き、風に散らす事ができるのかもしれないと、康穣は自嘲するように低く笑った。
 
 日が傾き始めても、過ぎる風に、冷たさは無い。
 庭に遣っている視線は、遠くの何を捉えているのか――。
 端整な横顔から、それを伺い知ることは出来ない。
 英君と謳われ、執政を布いて来た日々。
 しかしその向うで康穣は、己の裡に棲む闇と、果ての無い戦いを続けて来たのだ。
 桂穣尼は、初めて知った康穣の孤独に、胸塞がる思いだった。

 
「殿」
 やわらかな呼びかけに、康穣が振り向いた。
「そのお役目、承りとうございます」
 桂穣尼が、静かに手をついた。
 その白い指先を、光が包む。
 光は柔らかく、そしてしなやかに強い。
 春はもう、次の季節に移り変わろうとしているのだ。
 その眩しさに、康穣は眸を細めた。










翡翠