兵 馬 -hyouma- (下)
膳所藩江戸家老内野佐左衛門が襲撃されたのは、夏も早終わりかと思わせる呆気なさで、薄闇が日を仕舞い込んでしまった頃合だった。
藩の方針に従順しない尊王攘夷思想の若者達は、燻る不満に堰を切らせ、迸る激情のまま上屋敷を出た内野を襲った。
南八丁堀にある鏡心明智流桃井道場の筋向かいに位置する、その門前で刃を抜いた八人は、だが狙う主の駕籠に一太刀も浴びせる事敵わず、直後に彼等を取り巻いたその何倍もの藩士によってすぐさま捕えられた。
謀反人となった者達に、もう残る時も僅かなその日の内に下された沙汰は斬首であった。
宵四ツの鐘が遠くから朧に聞こえる。
板敷きが、昼の焼け付くような炎陽の名残を止(とど)めて、急(せ)く足の裏に生ぬるい感触を伝える。
全ての音を呑み込んでしまった静寂は何処か不気味で、これから散る若い八人の血飛沫を糧にせんと、息を潜めて待つ魔物のような気すらする。
手燭を掲げ前を行く者の歩の進め方が緩いのに苛立つ心を抑えながら、鳴滝重吾正親は、こらから会いそして問い質さねばならない白皙を脳裏に思い浮かべていた。
廊下の突き当たりを右に折れると、小さな中庭を挟んだその先に、屋敷とは別棟に拵えられた軒の低い建物が見えてきた。
咎人を暫し止め置く、其処が牢なのだろう。
そして自分が向かわねばならない場所でもある。
鳴滝は一度息を呑むと、その威容に視線を据えた。
庭を伝い更に近づくと、其れは蔵のような造りを呈しており、土壁のひんやりとした感触は、脇に立っただけで、湿り気を孕んだ熱い風に慣れた身に一時の安堵を与える。
だがそれも束の間の事で、一言も発する事無く共に歩を進めてきた鈴木正膳が、此処にきて初めて鳴滝を振り向いた。
「此方でござる。与えられし時は小半刻、よろしいか?」
「委細承知している」
応じる鳴滝に、友と呼ぶ親しい間柄であるが故に、案内に立った鈴木の顔(かんばせ)も憂苦に歪む様を禁じ得ない。
やがて無言で頷いた鈴木が、音を殺すように静かに開いた扉の奥に、格子の嵌った牢が現れた。
その前には見張りらしき者が二人。
だが目を凝らし見据えた奥に、複数である筈の人の気配が無い。
「只今横長竜之助が断罪されている。・・・残るは兵馬殿のみ」
疾うに覚悟の事とは云え、一瞬鳴滝の双眸が険しく細められたのが暗闇でも判じられた。
苦渋にある友の心中に触れぬように、鈴木は此方を見ていた外の者に目だけで指示を送った。
それが合図だったのか、見張りの二人が立ち上がった。
「あれらは杉浦殿のお人柄を慕う若い者。暫し誰にも邪魔はさせぬゆえ、せめて兵馬殿の終(つい)の言の葉を聞いてさしあげよ」
黙したまま鈴木に向かい深く頭(こうべ)を垂れた鳴滝のその横を、目を伏せ会釈を送り、足音すら立てず二人の若者が通り過ぎて行った。
格子の向こうに現れた姿に、兵馬は一瞬驚きの目を見張っただけで、後は硬い表情のまま鳴滝を凝視している。
「時を見計らい、この錠を解きに参る」
鳴滝を牢の中に入れ外から施錠しながら、それが与えられた猶予の限りなのだと鈴木は暗に告げた。
「かたじけない」
今一度頭(こうべ)を下げた鳴滝に静かに首を振ると、格子の外の友は、短い時を寸暇でも邪魔するのを憚るように踵を返した。
「今更何も聞くまい」
真っ向から捉えた顔(かんばせ)が、仄かな灯りの中で凍てたように冴え冴と白い。
「本来ならばこうしてお前を叱らねばならぬ杉浦殿は、子の為した責を取り、先に冥土へ旅立たれた」
その寸座、兵馬の面に衝撃が走る様が、鳴滝の双眸にも映し出された。
だがそれも蝋燭の焔の揺らめきが見せた幻だったのか・・・
そう錯覚させるほどに、束の間の事だった。
「咎はあの世で父に受けるが良い。だがひとつだけ、此岸で聞いて置かねばならない事がある。お前が戸村順次郎に託したこの・・・」
言いながら、鳴滝は胸の袷から油紙に巻かれた書状を取り出した。
「書状に認(したた)めた事、真(まこと)か」
沈黙を守りきる者の、応えを待つ時は無い。
是か否か――
どうしてもそれだけは、この者の口から確かめておかねばならなかった。
「兵馬っ」
低く嗜めた声に、漸く形良い唇が動いた。
「真でございます」
静謐と激情とを背中合わせにし、琴線を際まで張ったような硬い声だった。
「こたびの事、全ては内野佐左衛門の姦計。・・・父上の失脚を狙うが為故、攘夷思想の先鋒を弾圧すると見せかけ子の私を術に嵌め、その責を取らせ詰め腹を切らせるまでに追い込む事を計らったのです」
一度の淀みも無く、兵馬の言葉は淡々と紡がれる。
「・・・誰がそのような事をお前に知らしめた」
「瀬口殿です」
「瀬口殿がっ?」
鳴滝の驚愕は、我知らず声が荒ぐ、それすら抑える事ができなかった。
「一昨年、内野の息子に狼藉を受け、瀬口家に仕えている水梨浩太の許婚、三和が自害しました。浩太は暫時三和の仇を討つべく屋敷に討ち入り、内野の息子に一太刀浴びせた処で捕らえられました。その浩太の命と引き換えに、瀬口殿は内野の策謀に手を貸さざるを得なくなってしまった。親友とも呼べる父上を陥れる罠を仕掛ける手助けを・・・・。秘めるにあまりに苦しい胸の裡を隠しきれず、瀬口殿が私に洗いざらい顛末を話され、逃げよと告げられたのは半月前のこと」
潜むものが牙を研いで獲物を待ちあぐねているような、この漆黒の闇は一体何処へと続くのか――――
鳴滝は深閑と静まり返る牢に響く声の主を、ひたすらに凝視している。
「内野は父上の失脚、杉浦家の取り潰しだけではなく、その血を継ぐもの全ての息の根を絶とうと画策したのです。・・・俊介の命までをも許さぬと、そう決めていたのです」
俊介と言葉にしたとき、それまで僅かにも破綻をみせなかった兵馬の口調が、不意に乱れた。
「何ゆえ・・」
だがその変化を、鳴滝の混乱は見逃した。
「俊介が、絵都殿の子であるからです」
更に目を見開いた鳴滝に、兵馬は静かに視線を据えた。
「花街で生きながら、絵都殿はその人柄と品格を父上に愛でられ、俊介と云う子を為しました。しかし内野も又、絵都殿に横恋慕をしていた。・・・家人の留守を狙って忍び込み、まだ目も開かぬ赤子の前で狼藉を働こうとした内野に抗った絵都殿が、父上が生まれた子に与えた護り刀でご自分の咽喉を突かれたのは、俊介を生んで間もない頃。確たる証拠は無く、無頼の者から操を護った哀しい出来事と、人は口を噤み触れてはならない過去にしてしまった。・・・叔父上もそれはご承知の筈」
此処まで厳然とした風格を崩さなかった鳴滝の面に、この若者が、大人達が封印して来た昔を知っている事への衝撃と、鳴滝自身未だ捉われ続けている痛恨の苦しさが交互に走った。
「だが如何な証が有らずとも、真実は曲げ様も無く存在したのです。内野の企ての根本にあるものは、父上と、最後まで自分を受け容れなかった絵都殿への憎しみなのです。そして内野の憎悪は積年の内に常軌を逸し、二人の絆である俊介までを亡き者にし、杉浦家を根こそぎこの世から消し去ると、最早狂気と云えるまでのものになってしまった。・・・・私の情人吉住新三郎は、初め内野が情報収集の為に接近させた者。ですがおかしいと気付いた私はこれを逆手に取り、事の真相を新三郎より密かに漏らさせていたのです」
「・・・其処までして、何故お前はこのような事を」
裡に逆巻くあらゆる思いを漸く抑えて問う鳴滝の声は、搾り出すように低い。
「昨日瀬口殿が来られた際、内野が遂に動きに出た事を知りました。最早時が無い、その日の内にでも出奔せよと、そう伝えに来てくれたのです」
「どうして逃げなかったっ」
そうする事で、或いはこの最悪の状況は避けられたのではないかとの思いが、鳴滝の感情を昂ぶらせる。
「策謀は二重三重に巡らされ、最早逃れる術はありませんでした。それ程までに、内野の父上への憎しみと、絵都殿への執念は凄まじいものだったのです。だが私は瀬口殿の注進を聞いたとき、遂に待ち望んでいた時が来たのだと思いました」
兵馬を凝視する鳴滝の咽喉が、音も無くゆっくりと上下した。
「・・・何故」
やがて発せられた声は、湿り気を奪われ掠れた。
「俊介を・・・。俊介だけは何があっても護り通すと、そう決めたからです」
伏せがちだった眸が上げられ、真っ直ぐに鳴滝を捉えた兵馬の声が凛と闇に響いた。
「吉住から内野の野望の全容を知ったのが半年前、何とか阻止せねばと焦りはすれ、状況は既に四面楚歌でした。ならばせめて陰謀が現のものとなる前に、俊介だけを密かに逃す事をも計らいました。が、内野は何処までも俊介を追い詰め、息の根を止める手段を四方八方に張り巡らせていたのです。万策尽き、悪戯に流れる時に苛立つだけを送る或る日、叔父上が江戸に来られると知ったのです。・・・・私はそれを天がくれた唯一の僥倖だと受け止めました」
「俺が、江戸に来たのが僥倖と?」
今兵馬が告げた言葉は、自分が江戸に来たからこそ行動に出たと云うものだった。
ならば来なければ事態は回避できたのか・・・・
鳴滝の口調が重いものになった。
「俊介を逃がすに、叔父上の力が必要だったのです。いえ、叔父上がいなければ俊介は内野の手にかかってしまう。それ故、叔父上が江戸におられる内に全てを終わらせねばならなかった。・・・藩と思想を異にする者達の一掃を隠れ蓑に、内野の杉浦家に対する報復の決行の日を知った時、ならばその前夜に家老襲撃を決起すると、私は自分の情人である吉住新三郎を使って敵に知らしめたのです。全てが塞がれてしまっているのならば、奇襲をしかけて相手に隙を作らさせる事だけが、唯一逃れる道を切り開く術だったのです。謀反人達を処罰し、その勝利に気の緩む一時しか内野の目は俊介から離れない。だから今こそ叔父上に縋らなければ、俊介を逃す機会はもう無いのです」
それまで鳴滝の耳に、弛まぬ糸のように張り詰め届いていた声が、焦る心でひとつ高い調子になった。
その兵馬の脳裏に、昨夜嵐の中での陵辱の後、絶望に光を閉ざし闇に身を翻し去った背が蘇る。
昂ぶりの際(きわ)に俊介の名を呼び、新三郎の心に憎しみの焔を燃え立たせ、その猛り狂う想いのまま、内野への注進に及ばせたのは確かに自分だった。
慈しんでくれた養父を死に追い詰めたのも叉同じ身ならば、既に自分は人の形をした夜叉なのだろう――
だが一瞬過ぎった感傷も、狭まられた時を思えば瞬時に断ち切らなければならない。
「戸村順次郎に託した書状、二通の筈。そのふたつを、すでに叔父上はお目を通されたのでしょうか」
向けた問いに無言のまま頷く鳴滝を見る細い面輪が、再び緊張の色を走らせた。
「これは・・・。先程話しに出た水梨浩太の許婚、三和の残したものか」
手にしていた油紙に巻かれた包みの中の二通の内、一通には今兵馬が語ってきたと同じ経緯が綿々と綴られ、もう一通は明らかに女性(にょしょう)の手になると思われる筆で、他に漏れてはならぬ事実が記されていた。
「三和の遺書です」
もうこれから先を語るに感情を抑える術は必要無いと判じたか、兵馬の声がふと沈んだ。
「そうか」
大方予想はついてはいたが改めてそうであると知れば、時折乱れる筆の跡こそ、非業の内にあの世へと渡らねばならなかった、散るに惜しい花の無残と、鳴滝の胸の裡にも哀れさだけが先に立つ。
「私はその遺書を、三和の許婚であった水梨浩太の元から盗んだのです」
「・・・いずれ内野の弱みとなると判じてか」
黙って頷いた顔が、更に強張った。
「内野は何らかの因縁をつけ、次は必ず父上と俊介を亡き者にしようとする筈。その時此れが役に立つと、私は躊躇い無くそうしたのです。そして遂に今宵この遺書は、内野を脅かす最後の切り札として叔父上の手に渡ったのです。・・・・私の逝く先は三和の居る極楽とは遠く離れた処。見(まみ)えて詫びる事は叶いません。が、必ずや三途の川のほとりで父上のお怒りを受けながら、三和に詫びて欲しいと伝える所存。それ故、叔父上にはどうか・・・」
「俺にこの三和の遺書を使って、内野の手を断てと云うのか」
己の手段の為に、亡き者の屈辱の証をこの世で再び暴いてしまう贖罪に頷く面輪が、鳴滝の視界の中で酷く蒼かった。
だがそれ程までに、この若者の弟に対する想いは強かったのだ。
だからこそ最後に確かめねばならぬものがある。
「兵馬、ひとつ聞いておかねばならない」
上げた眸が次なる言葉を予期してか、微かに揺らめいた。
「お前は俊介を好いていたのか?」
問う声は咎めるのではなく、むしろそれが故に、崖の縁まで追い詰められた人間を慈しむかのような静けさがあった。
二人もの言わず暫し作られた沈黙の中で、鳴滝を凝視していた兵馬の唇が、そうなる時が遂にやって来た事を覚悟し、ゆっくりと動いた。
「俊介への、我が身の想いは恋情の他ございません」
一言一言を、己自身に刻み込むように紡ぎ終わった後、微かに細められた眸の奥に、やっとこの世で縛られていた全てから開放された安寧と柔らかさがあった。
「ならば何ゆえ、内野の手を逃れ、共に生きようとする算段をしなかった」
もう戻る事が出来ない道を選んでしまった浅慮を詰(なじ)り責める筈の声が、若い一途さを嘆き、行き処の無い悔しさにくぐもった。
怒りと憐憫と慈しみの綾なす鳴滝の眼差しを受け、兵馬の面に微かに笑みが浮かんだ。
「叔父上、兵馬の先は限られております」
「この世に生在る者ならば皆そうであろう」
「・・・ひび割れた茶碗のように大事にし養生すれば、或いは一年(ひととせ)の命脈も二年(ふたとせ)に伸びると医師は言いましたが、それも所詮慰めに過ぎませぬ。己の判断では、後半年も持ちますまい」
一瞬目の前の者が云う言葉の意味が、そのあまりの若さ故に結びつかず、鳴滝が沈黙した。
「私の、此処には・・・」
見つめる者の視線を、指の示す胸の位置にまで導くと、今度こそ白皙一面に静かな笑みが広がった。
「此処に、業病が宿っております」
愕然と目を見開いた鳴滝の衝撃を、兵馬は慰撫するような穏やかな口調で受け止めた。
「残りの命、全て俊介に与えてもまだ足りない・・・」
吐息のような呟きは、己(おの)が定めを天に恨むかのような、初めて垣間見せた兵馬の激情だった。
生きとし生けるもの、全てに命数はあるだろう。
樹木は百歳(もものとせ)を超えて年輪を刻み続け、水に生きるものは千歳(ちとせ)の息を数えるのだとも聞く。
ならば何故―――
何故、神仏はこの者だけにあまりに短い時しか与えようとしなかったのか。
早まったと、愚かな事をと、諌める言葉は幾らでもある。
だが最早兵馬の魂を救えるものは、この道しかなかったのだろう。
鳴滝の胸の裡に、誰にぶつける術も無い憤りだけが、ただただ溢れ出る。
「叔父上、時がありません。内野の気の緩みはこの首を断つまでが限り。何卒、何卒俊介をっ・・・」
深く頭(こうべ)を垂れた主の後を追い、仕置きの邪魔にならぬようひとつに結わえられた黒髪が横に滑り、蝋燭の焔の灯りに蒼白い項(うなじ)が露になった。
それは刃が断つには一瞬の間も要らぬ程に儚げなものだった。
だがこの首ひとつで、兵馬は想う者の先を、全身全霊で護ろうとしているのだ。
遠くから、人の気配が近づいて来る。
鈴木正膳のものであろう。
残酷な程確かに、時は刻みを続けていたのだ。
「この足で、俊介を疾く膳所に連れ行く」
全ての感情を一言に凝縮させてしまったが故に抑揚を失くした、鳴滝の重く低い声だった。
そしてそれが・・・
今の世で夜叉になり修羅に堕ち、其処から解き放たれる呻吟の先を、次の世でしか見つける事ができなかったこの若者に報いてやれる唯一の術だった。
「兵馬、俊介に伝える事は・・・」
白い単に包まれた身に掛けられた声に薄い背が上げられ、凝視する鳴滝を、淵よりも深い色の眸が捉えた。
「些かも」
――兄上を好いている
間を置かず応えを戻した兵馬の裡に、禁忌を破る声が蘇る。
生きゆく者に、歳月は死せる者の面影を薄れさせ、いつか記憶の欠片として留めるに過ぎなくさせるだろう。
やがて哀しみから踏み出した心は、行く先で巡り逢う誰かに想いを寄せるのかもしれない。
天が人に与えたその理(ことわり)を厭う気持ちは無い。
だからたったひとつ胸に抱いた言霊だけを、渡る修羅の標(しるべ)とし、自分は俊介とは違(たが)う道を行く。
兄上を好いている―――
澄ます耳に、今、唯ひとり愛しい者の声音が木霊する。
静謐とも思える笑みを浮かべた面輪を、鳴滝は暫し無言で見ていたが、やがてゆっくりと頷き、微かな衣擦れの音だけで立ち上がった。
梅雨が明ければ、雨雲の向こうには確かに強い季節が待っていたのだと、真っ向から差し込む陽射しの容赦のなさが知らしめる。
だが木立の陰を渡って来る風には、少し前まであった、肌に纏わりつくような湿り気の鬱陶しさは然程感じ無い。
叉――
夏がやって来たのだろう。
そんな事を思いながら進める歩は、暑さの下でも緩み無い。
「旦那さま」
供の太助の声に振り向くと、その主は笑い顔のままで脇の竹林を目だけで指した。
「七夕でございますよ」
「はて、今宵はもう七日か・・・」
鳴滝重吾は、笹づきの良い竹を切り出している近在の農夫の後ろ姿に目を細めた。
「俊介さまとお別れし、京を発ってから七日でございますよ」
「では京より七日で江戸に着いたという訳か」
膳所から一旦京へ、今は田坂と姓を変えた俊介を尋ね、そこで三日の時を費やし粟田口までの送りを受けて江戸に向かってから早七日。
東海道を経ずに大垣から中山道に折れ、そのまま山の道を来、甲州街道に入り、あと半日も歩けば南八丁堀の膳所藩上屋敷に着くだろう。
途中雨に降られはしたが川止めに会う事も無く、まずは順調な行程だった。
が、江戸に足を踏み入れた時から鳴滝の心は、これから相対さねばならない大きな仕事への厳しさ険しさに緊張を強いられている。
江戸家老内野左佐衛門の公金横領の証、果たして此度の調査でその端を掴む事ができるのか―――
それすら心許ない。
だがどれ程時を掛けようと、幾度こうして足を運ぼうと、必ずや内野の不正を暴きだし糾弾するのが己に課せらた使命と、胸に刻んで行く道は未だ先が遠い。
「今夜が七夕ならば、この太助は短冊に願い事を書かねばなりませぬ」
主のそんな決意など知る由も無く、不意に呟かれた声に鳴滝が横を見た。
「太助が?」
初老に近い歳の従者は、律儀そうな顔で頷いた。
「そうでございます。俊介さまが今少しご勉学にいそしまれるよう、いえ、悪い遊びは慎まれるよう、そう天に祈ってみるのでございます」
「今はまだ仕方があるまい。そのうち若気の至りも治まる時が来よう。が、聞き分けが良すぎるのも又詰まらん人間になる」
年寄りの懸念に応える鳴滝の頬を、熱い風がなぶる。
「旦那さまがそのように俊介さまに甘いのが悪いのでございますよ。あれではキヨ殿のご苦労がしのばれます」
大仰に言う言葉とは裏腹に、鳴滝を見る太助の目は笑っていた。
そんな会話を交わしながらの道中で余所見をしていたせいか、両脇の雑木林が迫り其の分道の狭まった事に気付かず、太助の肘がすれ違った者の何かと触れた。
「あっ・・・」
小さく発せられたのは、幼い声だった。
それを聞きとめて、太助の横を歩いていた鳴滝も足を止めた。
「これは、申し訳の無い事を・・・何処かに触れたらしいが、大丈夫だったかの?」
目線を低くしての会話は、互いの背丈の都合なのだろう。
そんな見当をつけて被っていた笠を指の先で上げ、相手の顔を見た鳴滝の双眸が瞬時に見開かれ、時を止めたように動かぬものとなった。
視線の先にいるのは、まだ少年と呼ぶにももどかしい年端の子供だった。
だが此方に向けている瞳の色には見覚えがある。
その彩の奥に隠されるものを推し量るにあまりに深すぎる瞳は、鳴滝の脳裏に刻まれ、未だ忘れえぬ者のそれと寸分も違(たが)わなかった。
――亡き者を今に見せる少年は、強烈な夏の照り返しが目眩ます幻なのか。
「・・・すみません。何とも無いのです」
兵馬と、名を呟きかけた鳴滝を、少年の声が現に戻した。
蒸れる暑さに負けて緩めていた日よけの笠の紐が、触れられた拍子に解け、それが後ろに飛んでしまったのが、少年を驚かせた原因らしかった。
幼さの残る面輪に、朱の色が刷かれた。
つい声をあげてしまった事を恥じているらしい。
見せ掛けによらず、案外に勝気な質なのかもしれない。
それが漸く目の前の少年に兵馬の幻影を重ねていた鳴滝の心を止めた。
「何処から来られた?」
何の連脈も無い突然の問い掛けに警戒をしたのだろう、少年の身が一瞬強張った。
「これは唐突に失礼をした。実はそれがし達は今から江戸南八丁堀の膳所藩邸まで参る。今日中に着かねばならぬが、初めての道故あとどれ程掛かるのかとんと分からぬ。もしも其方の方面から来られたのであらば、大よその目安をつける事が出来るのではと、つい気持ちを逸らせてしまった」
疾うに承知している筈の道程を、敢えて知らぬ振りをして問う主人の言動に驚き、思わず振り返って見上げた太助に、鳴滝は目配せだけでそれ以上物言う事を禁じた。
この少年と会話を交わし、共にいる時を伸ばしたいと・・・・
似合わぬ感傷に耽る自分を、鳴滝は今だけ許した。
「・・・南八丁堀なら」
少年は考えるようにして首を傾げた。
だがすぐに何かに思いあたったのか、真っ直ぐに見上げた瞳が鳴滝を捉えた。
「桃井さまの道場がある、その近くでしょうか?」
「ほう、剣術をやられるのか?」
意外そうな鳴滝に、笑って頷いた顔が屈託無い。
目印を桃井道場に置いた処を見ればそう察するのが自然だが、そのような事情はとても少年の風情からは伺えない。
掴んで少し力を入れれば容易く手折れてしまいそうな身体つきは、酷く頼りなげに映る。
大方この脆弱さを案じた肉親が、力造りの為にと竹刀を持つ真似事をやらせているのかもしれない。
そんな勝手な解釈で、鳴滝は自分を納得させた。
「桃井殿の士学館は当藩邸の筋向いにあたられると聞く」
「それなら、きっと夕刻までには・・」
「ならば有り難い事。暑さで些か参っていたが、先の短さを知れば叉足も軽くなるというもの」
自分の応えが役に立ったのが余程嬉しかったのか、少年の面輪に素直な笑みが広がった。
「これから何処まで行かれる?」
「小野路村です」
「小野路村?」
「・・・もう少し行って、其処から道が分かれるのです」
少年は少年なりに、他所から来たと云うこの侍に地理を説明しようと一生懸命らしく、細い右腕を真っ直ぐに伸ばし、今鳴滝達が辿ってきた道を指差した。
「其処に親御殿が?」
笑みを消さずに問う声に、少年は何と応えて良いのか戸惑うように首だけを横に振った。
まだ心の裡を隠し切る術を持たない頑是無さが作らせた翳りに、鳴滝はこの少年の不遇を機敏に察し、考えなく口にしてしまった己の浅慮を悔やんだ。
「つまらぬ事を聞いてしまった。許してほしい」
子供と侮らず真摯に詫びる様に、少年は小さな笑みを浮かべて再び首を振った。
「でも、小野路村に行けば・・・」
だが鳴滝の憂慮を慰撫するように快活に言いかけた言葉は不意に止まり、その反動のように、今度は瞳までもが伏せられてしまった。
「小野路村に行けば、誰かが待っているのかな?」
促す声にも、顔は上がらない。
少年の躊躇いは、見ず知らずの人間に、つい逸る気持ちを曝け出してしまった事にあるようだった。
幼い矜持が羞恥となり、少年を後悔させている。
「そう言えば・・・、歳は幾つになられる?」
話の筋を巧みに変えての問い掛けに、やっと上げられた瞳が、不思議そうに鳴滝を捉えた。
「私にも同じ歳程の子が居てな」
「十二になります」
「十二になられるか」
それにしても頼りない少年は、邪気の無い偽りを素直に信じて、白い頬には先程と変わらぬ笑みが浮かんだ。
「今宵は七夕らしい。一年に一度、離れ離れの好きおうた者同士が見(まみ)える事ができると、唐土の言い伝えにある。願いをかければ叶うとも聞く。行く先で、きっと良い事があるに違いない」
穏やかに笑う鳴滝に、自分と同じ年端の子がいると聞いた故か、少年の顔にも慕わしげな色が混じった。
「さて、そろそろ行かねばならん・・・。が、その前に、礼を言うに名を聞かねばできぬ。名を、聞かせてはくれぬか?」
「宗次郎・・・沖田宗次郎と言います」
もう何の躊躇いも無く、いらえは間を置かずに戻ってきた。
「宗次郎殿か、良い名だ」
竹林を抜ける風が、無造作に束ねた少年の髪を不意に揺らした。
乱された髪が入るのを避けるように、一瞬目を細めた表情が少しだけ大人びて、鳴滝の眸の中の少年に、今一度亡き者の影を重さねさせる。
だが通り過ぎる風は、一時の幻をも共に浚う。
「もう少し行くと・・・」
少年が、自分の後ろを振り返る仕草をした。
「もう少し行くと?」
「内藤新宿なのです」
酷暑を行く旅人への気遣いなのか、精一杯背伸びをした労わりが、小さな唇から零れ落ちた。
「それは気強い。ではそちらも道中気をつけて行かれよ」
笑いながら頷くと、少年もつられるように笑みを返したが、今の会話で図らずも自分も道程の途中である事に気付いたらしい。
そうなれば急(せ)く心が落ち着かないらしく、鳴滝に向かい几帳面に頭を下げて礼をすると、もうこうしている間も惜しむように慌てて踵を返した。
翠の翳りの中で、木々を渡る風が梢を騒がせ作る葉擦れの音の中で・・・
そして見送る鳴滝の視界の中で、華奢な姿が少しずつ小さくなってゆく。
進む先には言いかけて止めた、少年の慕う人間がいるのだろう。
一度も振り返らない背が、その逸る心を物語っているようだった。
あの幼き者の行く道が、常に眩い光で照らされているものであるようにと―――
似合わぬ感傷を苦く笑って打ち捨てるには、まだ忘れがたき者の影は胸に強い。
「旦那さま・・・」
物言わず立ち尽くしている鳴滝を案じて、太助が遠慮がちに声を掛けた。
「すまぬ、ついぼんやりとしてしまった」
「これはお珍しい」
太助も叉、常に無い主人の様子に何かしらあるのだろうとは思いはしたが、敢えて問わず穏やかに笑いかけた。
気づいて見れば、もう視線が追っていた筈の姿は何処にも無い。
あるのはただ雑木林が地に落とす緑陰と、葉と葉の僅かな隙から射す戯れの光だけだった。
だが其処は己の辿る道ではない。
来し方に戻れる道でもない。
二度と還れる道でもない。
自分の知る哀しい者は、すでに現にはない。
否、その者の生きざまをこの世で誉めてやる為に、自分には為さなくてはならない事がある。
「さて行くぞ」
言うなり身を翻した鳴滝の先に、まだ始まったばかりの険しい戦への道があった。
兵 馬 了
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