君の涙が見たものは (上)
「いったい…何しに、来たんだろう……」
吹きすさぶ風の中で、総司は消え入りそうな声で呟いた。
気がつくと、馬を飛ばして大津にいた。
二年前と同じ風景を、押しつぶされそうな思いを抱えて見つめている。
ごほっ、ごほっ
冷たい空気が我れ先にと入り込んで咳こんでしまう。
胸が…痛い……
ひび割れた、ぎやまんのごとき脆い肺腑が悲鳴をあげる。
今ここにいるのが
山南ではなく
自分と土方であったなら……
こんな思いをせずにすむのに……
西の山端を染める夕日が、
明日を恐れるように立ちすくむ総司を、嘲笑うかのように照らす。
思わず、自分で自分を抱きしめた。
その背に感じる気配――――
我が想う人ではない。
いつもの穏やかな笑みを頬に乗せ、
静かに覚悟を決めた、
“山南さん”
声に出して呼べば何もかもが崩れそうで、総司は唇をかみしめた。
「沖田君、風邪をひきますよ」
悲しみさえ滲まない声音が、吹きすさぶ風にかき消されそうだ。
総司は自分に言い聞かせるように、抱いていた腕を離して振り返る。
「大丈夫ですよ」
無邪気な子どもを思わせるような声と笑顔で振り返る。
ちゃんと笑えているだろうか
山南の反応を見る。
彼は、ひっそりと微笑っていた。
「そろそろ中へ入りましょう。明日もあることですし」
どんな思いで“明日”と言ったんだろう。
先を行く山南の背を見ながら思った。
部屋に着くと、すでに二組の布団が敷かれていた。
行灯の灯が淡く部屋の一隅を照らしているだけだった。
「今宵はゆっくり休んでください」
総司の体調を案ずる山南の言葉に、総司はただ頷くしかなかった。
総司は隣で眠る山南を起こさないように頭から布団を被り激しく咳こんでいた。
荒い呼吸を繰り返すと、胸がひゅうひゅうと鳴る。
「沖田君」
総司の被っている布団を引き剥がし、山南は丸くなっている背を擦る。
「……すみ、せ…」
「大丈夫ですか?」
ようやく咳が治まると、総司は身体を起こして山南と向かい合った。
「本当に、ありがとうございました」
微苦笑と取れる笑みを浮かべる。
山南は、総司にこんな表情ができるとは思ってもいなかった。
いつも陽気に笑っている総司しか知らない山南は、彼にこんな表情をさせる“何か”に嫉妬した。
「沖田君…」
「はい?」
静かにそばによって来た山南を見上げる、疑うことを知らぬまっすぐな瞳。
ちゅっ
重なり、小さな音を立てて離れて行く唇に、総司は目を瞠った。
「白湯ですよ」
「え?」
ほんの少し与えられた潤いが、唇から喉へとしみわたっていく。
口移しに与えられた潤いだと分かると、総司は首筋を赤く染め俯いてしまった。
そんな彼の反応を可愛いと思いながらも、山南の中で自分でも止めようのない欲情が頭をもたげてくるのを感じていた。
「沖田君」
山南の切なげな呼びかけに、総司は何の警戒心もなく顔を上げた。
「んっ」
執拗な口づけが与えられる。
逃げ回る舌を追って山南の舌が、無遠慮に口腔内を犯していく。
「い…っや!…やめ………っ!やまな…さ…」
ようやく開放された唇から零れるのは、拒絶の言葉。
「昨夜も、土方君とこうしていたのだろう?」
冷ややかな言葉と視線を投げつける。
「もう、覚悟はできているんです」
「!」
山南の宣言に、総司は息を呑むしかなかった。
「君を抱くことで嫉妬に狂った土方君に殺されようが構わない。私は君が欲しい」
深い口づけを与え、山南は総司の肌を貪りはじめる。
背後から抱きかかえるようにして山南は総司の胸の飾りを弄んだ。
唇は首筋をつたい、耳を甘噛みし、熱い息を吹きかける。
「……っ」
几帳面な山南らしく施される愛撫も丁寧だ。
「……ぁ…ん…」
思わず漏れた甘い吐息が、山南を次の行為に移らせる切欠となった。
両手で胸を弄んでいた山南だったが、総司自身に右手を伸ばした。
そっと包んでやると、総司の身体がびくんと反応する。
「沖田君…」
耳元で優しく囁く。
その声が、どこか憂いを帯びている。
そう感じた総司は、背後の山南を振り返った。その瞬間を待っていたかのように、山南が唇を塞ぐ。
「ん……」
前を弄び、溢れる白濁液を指に絡めとると、いきなり秘所にその指を捩じ込んだ。
「いたっ…」
予想していたとはいえ身体が悲鳴を上げる。
山南の繊細な指が掻き混ぜるような動きをする。そのたびに総司の身体は敏感に反応する。
「君の中は、熱いな」
熱い息と共に山南が囁く。
激しい抜き差しを繰り返すうち、山南は指へのきつい締めつけを感じた。
そしてそのまま指を増やし、再び掻き混ぜるように動かす。
「ぁあ…ん……やまな……さぁ…」
総司の嬌声が山南を煽る。
固く立ち上がった自身を総司の濡れた秘所に押しつける。
そして――――
一気に貫いた。
「ああ――――っ!!」
淫猥な水音が響く。
山南が動くたびに生まれるその音は、2人が繋がっている部分から発生していることは分かりきっている。
その音と背後から聞こえる荒い呼吸に、総司は竦んだように動けなかった。
あまりに強引で激しい行為に、総司は溢れる涙を止めることができない。
「っあ…ぁん……、……やぁっ……」
口から零れる悲鳴にも似た嬌声が部屋を満たしてゆく。
「…身体は…嫌がって……いない、ようだ」
覆い被さるように背に圧し掛かり、茂みの奥で自己を主張する総司自身を扱きつつ突き上げを早める。
山南の言うように、総司の身体は素直だった。
中にいる山南自身をきついほどにしめつけ、時にゆるめて、奥へと誘う。
「う……」
くぐもった声が漏れる。
大きく腰を回転させた山南がそのままの体勢で動きを止めた。
注ぎ込まれる熱い迸りを感じながら、握りこむ山南の手のひらに放った総司だったが、朦朧とする意識を止められなかった。
「沖田君!?」
山南の自分を呼ぶ悲痛な声を聞いた気がした。
気がつくと、心配気に覗きこむ山南の瞳と出会った。
「よかった。このまま目を覚まさないかと思った」
ホッとした山南の言葉に総司は視線をそらした。
目覚めさえしなければ、明日は来ないのに……
いっそその方がよかったとさえ思える自分がいる。
隊としては、それがよかろうはずはないのに…。
「もうすぐ夜が明けます。朝食をいただいたらすぐに出発しましょう」
「…どこに……」
戸惑いを隠せない総司を見つめて、
「壬生ですよ。私たちが帰る場所は、あそこしかない」
小さく笑って、山南は呆然とする総司の唇に啄ばむような口づけを与えた。
総司は食事に手をつけなかった。
気分が悪く、とても食べられそうになかった。
「少しでも食べなければ、身体が持ちませんよ」
「……」
小さく首を振る総司にため息を零す山南。
ぐい、と総司の肩を抱きよせると驚いた総司が山南を見上げる。
その隙に半開きとなった総司の唇を塞ぎ、口に含んだ湯漬けを流し込んだ。
「山南さんっ」
今ある渾身の力で山南の身体を突き離す。
その細い手首を掴むと総司をその場に押し倒し再び口づける。
濃厚な口づけの末流し込まれた湯漬けは乾いた唇を潤した。
「ぐっ……」
吐き気をもよおし両手で口元を覆う。
それよりも一瞬早く唇から零れたのは、湯漬けだけではなく鮮やかな赤だった。
喀血自体はそんなに激しいものではなかったが、山南を驚愕させるには充分な量だった。
苦しげな呼吸を続ける総司の背を山南は優しくさする。
「いつまで、新選組にいるつもりです?」
「…え?」
山南の言葉に当惑の色を浮かべて総司は聞き返す。
「こんな身体でいつまで闘うつもりなのかと、ふと思ったものだから」
「……」
総司は山南から視線を逸らした。
「昨夜、君をこの腕に抱いて分かった。君の病は相当進んでいるはず。それは君自身も分かっているはずだ。なのに何故、新選組に留まるのか?私にはそれが理解できない」
「……」
答えない総司の小さな顔を両手で包んで視線を逃さないようにする。
「私は答えが欲しいわけではない。ただ君も自分のことをよく考えてほしくてね。いつまでも近藤さんや土方君の背中を追っていた子どもではないのだから…」
そう囁くように言うと、総司を優しく抱きしめた。総司は山南の肩に凭れ、呼吸が整うのを待った。
宿の者に見送られ、二人は馬の首を京に向けた。
昨日は一人で通って来た道を、今日は二人で戻る。
死出の道のりを、馬は静かに歩を進める。
「沖田君。辛いなら私に凭れてもいいんですよ」
ピンと背を伸ばして馬に乗っている総司の背に声をかける。
一人で馬に乗るにはあまりに不安定な総司を心配して、山南は自分も馬に乗り、その手綱を握った。
“どんなに辛くとも、この背を私に預けてはくれない”
分かっていても尚言いたくなるほど憔悴している総司を、少しでも支えてやりたかったのだ。
“私などのために……”
悪い体調をおしてまで、自分を探しに大津まで来る価値が今の自分にあるのだろうか?
山南の率直な疑問だった。
いつの間にか、馬は市中に入っていた。
四条通りを西へと馬を歩ませるうちに、目の前に迫る壬生の家並。
初めて目にした二年前は、こんな日が来るとは思わずに、ただ高鳴る胸を抑えるのに必死だった。
あの日の自分が、そこにいるような気がした。
「山南さん」
近藤が蒼褪めた顔で馬上の2人を見上げる。
「土方君」
山南は射抜くような視線を自分に向ける土方を名指しした。
「沖田君を休ませてあげて下さい。随分具合が悪いようだ」
何事にも動じない美丈夫は無言で馬に近づき、そっと総司に手を伸ばした。
それまで気丈に馬上に身を置いていた総司だったが、差し出される土方の手と見上げる心配気な瞳に出会って緊張の糸が切れたのかグラリと大きく身体が揺れた。
「総司っ!!」
倒れこんだ総司を軽々と抱きあげて、土方は足早に屋敷内へと入って行く。
それを見送る近藤に山南は、
「ご迷惑をお掛けしました」
と清々しい笑みを浮かべて頭を下げた。
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総司を除いた幹部が召集され、山南の処断について話し合いが開かれた。
「法度に照らして切腹」
決まってんだろ、と土方は言い切った。
「しかし山南さんが何故脱走などしたのか、その理由を糺すべきです」
永倉や原田、藤堂といった若い者たちは反対する。
「理由を糺して、あとはどうする?命乞いか?」
冷たく言い放つ土方に言葉が出ない。
「一度でも例外を作ってみろ。あとはなし崩しだ。助命嘆願が後をたたなくなる」
「しかし…」
「山南さんは何と言っている?」
今まで目を閉じて話を聞いていた近藤が口を挟んだ。
「切腹の沙汰が下りれば従う…と」
井上が呟く。
近藤は瞑目した。
「本人が罪を認めたんだ。それで文句はないだろう」
この話はこれまでとばかりに土方は席を立った。
「どこへ行く?まだ話は終わっていない」
そんな土方を咎めるように近藤が声をかける。
「総司の所だ。あれからまだ目を覚まさねぇんだ」
「あの…」
2人を遮るように井上が遠慮がちに声をかける。
「山南さんの希望で、切腹の介錯は総司に…と」
「!」
2人が同時に井上を見た。
「無茶を言うな。あんな状態で介錯なんかできるわけねぇだろ」
「無理を曲げてお願いしたい、と」
土方の拳が震えている。
「私なんかでいいんですか?」
場の空気を読まない、明るい声がそこにいる者の耳に響いた。
「総司っ!?」
羽織を無造作に肩にかけたまま、開けた障子に少し身体を預けて総司は立っていた。
「おまえ何してんだよ!?」
「何って…幹部召集でしょ?私も出る義務がある」
原田の常にない厳しい口調に、やんわりと答える総司。
その顔は青いを通り越して紙のように白い。
立ち尽くし、自分を見つめる土方に小さく笑ってみせた。
差し出される永倉の手を制して自分の場所へ行こうとする。
だがやはり、どんなに気を張っていても身体は思う通りに動いてくれないのが現実だ。
「総司っ!!」
踏み出した一歩は眩暈によって封じられ、走って来た土方によって支えられることで事なきを得た。
支えられたまま蹲り、なかなか去らない眩暈に思わず目を覆った。
「沖田君は、山南さんの介錯について、どう思っているのですか?」
それまで存在していなかったような伊東が声をかける。
「どうって…」
ゆっくりと顔を上げた総司の視線が伊東とまともにぶつかる。
「そりゃ…できることなら、介錯なんてしたくない。でも…山南さんののぞみなら……仕方がない…」
しっかりと伊東を見据えて言う。
「ご本人がそこまで覚悟されているなら、沖田君に介錯を任せましょう。その方が山南さんのためにもなる」
「じゃあ決まりだな。切腹の刻限は七つ。介錯は沖田。異存はねぇな?」
伊東の言葉に被せるように土方が宣言する。
試衛館以来の者たちはまだ不服そうだが、事が決まった以上、どうすることもできない。
次々と部屋を後にする。
誰もいなくなった部屋に残るのは土方と総司だけだ。
「起きて来るやつがあるか」
小刻みに震える身体を優しく抱きよせる。
「決まったことを後で聞くなんて、気持ち悪いんですもん」
せめてその場にいたい。その思いだけで辛い身体を引きずって来たのだろう。
「ばか野郎」
そんな総司の気持ちが分かるからこそ、言葉はそっけないものになる。
「刻限までまだ時間はある。おまえは横になってろ」
「待って下さい。私…介錯、初めてなんです。心構えというか……」
そのまま抱きあげて部屋まで連れて行きそうな土方の勢いを遮るように必死な表情で言う総司。
「仕損じる見苦しさを考えろ」
思わず息をつめて土方を見る。
切腹する者に対して、少しの苦痛も与えてはならない。
手元が少しでも狂えば山南を待つのは、死の瞬間までの短くも長い苦痛の時間なのだ。
それを分かっているからこそ項垂れて睫毛を伏せる総司。
ふいに細い頤を掴んで顔を上げさせる土方は、貪るような濃厚な口づけを与えた。
苦悶する身体。
息苦しさに土方の胸を叩いて突き放そうとするが、その腕さえも簡単に封じられてしまう。
長い長い口づけの後、やっと開放された唇からは、
「死ぬかと思いましたよ」
苦しげな呼吸と可愛い恨み言が零れた。
「俺が介錯してやるよ」
意地悪な笑みを浮かべ見つめる。
「とにかく、おまえは休んでろ」
「……」
「不満か?」
総司の答えが分かっているからこそ言う。
「そんな状態で介錯なんざできるわけねぇだろ。いいから休め」
「…土方さんは?」
「俺は…」
見上げるまっすぐな視線に少したじろいだが、
「おまえが眠るまで、そばにいる」
ゆったりと抱きよせ、小さな寝息が聞こえてくるまで、そのままでいた。
「山南さん、逃げて下さい」
声をひそめた永倉が促す。それに同意するように頷く原田と藤堂。
「刻限までにはまだ間があります。我々が庭で騒ぎを起こしますから、その隙に裏口から……」
「君たちの気持ちは、ありがたく受け取るよ」
「では…」
山南の穏やかすぎる態度に三人は小さく頷きを交わす。
「私は逃げることはしない。君たちにこれ以上迷惑をかけたくないのでね」
「山南さんっ!?」
藤堂が声を殺しながら叫ぶ。
「何故です?何故生き延びようとしないんです?山南さんほどの人なら、どこでだって生きて行けますよ」
山南の学問と剣技、そしてその人柄があれば、新選組の力の及ばない遠い土地なら生きて行くことも可能だと思っている。
例え自分たちが切腹する羽目になろうとも、それだけでも満足できる。
三人の目がそう言っていた。
「先程井上さんから聞きました。君たち三人がずっと私の助命嘆願をし続けていてくれたことを…」
「そんなの当たり前じゃねぇか」
ぶっきらぼうな原田の言葉に、穏やかな表情で、これ以上ないというぐらいの静かな笑みを浮かべた。
「その気持ちだけで十分です。私は何一つ後悔していない」
そう。
叶わぬはずの願いが、思いがけないところで叶ったのだ。
後悔などあろうはずがない。
「……」
三人は言葉を失った。
交わした少ない言葉の端々から山南の覚悟を知り、どんなに言葉を尽くそうとも、山南の決意は変わらないということを感じたのだ。
「そういえば、沖田君はどうしています?」
ふと、思い出したように問う。
「…本当は介錯なんかしたくない、だが山南さんののぞみなら仕方がない、と…」
「引き受けてくれましたか」
項垂れたまま頷く三人を前に、大きく頷いた。
“これで私は、沖田君の中に永遠に刻まれる”
一瞬、山南の穏やかな笑みが、冷酷なものに変わったことを、誰も気づかなかった。
「山南さんっ!!」
窓の向こうから必死に呼ぶ女の濡れた声。
山南は一瞬目を閉じ、静かに立ち上がると窓辺へと向かった。
障子を開けると、そこには自分に穏やかな時間をくれた明里がいた。
「なんで?なんで山南さんが死ななあかんの?」
「誰が知らせた?」
「な…永倉さん…」
明里の背後に立つ永倉が目に映る。
「余計なことを、と言われるのを承知で連れて来ました」
「…そうですか…」
最後の時にまで、ここで泣き濡れているのが総司ではなく、明里であることに落胆している自分に嘲笑が漏れる。
「私は罪を犯した。だから腹を切る。それが武士というものだ」
「けど…何でうちを置いて逝くの?」
「…明里…」
「…うちじゃ、山南さんを助けられへんの?」
近頃、そっけない態度ばかりだった自分に恨み言一つ言わなかった明里が、初めて本音をぶつけてきた。
格子を握る白い手に自分の手を重ねる。
「今まで十分すぎるくらい明里には助けられてきた。だがこれは…私自身の問題だ。明里に助けてもらうわけにはいかない」
凛とした山南を見つめる明里は大粒の涙を零しながら、
「うちは…誰かの代わりやったん?」
そう聞いてきた。
最近の山南が遠い目をして何かを考えていることは分かっていた。
声なき恋泣きが聞こえてきそうだった。
それを見てみぬふりをしていた明里の言葉に、山南は心の中で詫びた。
“誰かの身代わりで愛したわけではない”
だが総司を欲して叶わず、心の空洞を埋めるのに求めていたのも事実だ。
「悪い男だな、私は……」
自嘲を浮かべる男の頬を明里は優しく撫でた。
「不器用な人なんやから……」
泣き笑いの明里と格子越しに口づけを交わす。
そして音もなく障子を閉めた。
佇む明里は閉じられた障子を見つめたまま動けなかった。
幹部全員が見守る中、静かにその時が迫っていた。
死装束を纏った山南。
背後に立つ総司。
その総司を振り返り、
「声をかけるまでは…」
一言言い置いて、再び前を向いた。
目の前に近藤以下、並ぶ幹部の顔。
山南の視線は、その中の一箇所で止まる。
最後の最後で叶った苦しい恋。その恋敵。
射抜くような視線を真っ向から受け止める恋敵から視線を逸らすと、近藤に深く一礼し、目の前に置かれた三方に乗せられた刀を見つめる。
裃を外して膝の下に挟み、白装束の前を肌蹴け諸肌脱ぎになる。
静まりかえる部屋に響くのは、切腹刀に奉書紙を巻く時に起こる小さな擦れる音だけ。
奉書紙を巻き終えた山南は、片手に刀を握ったまま三方を後ろに回し、背を伸ばして一気に左腹に突き立てた。
誰もが目を逸らしたくなる瞬間。
左から右へと刀を引きまわし、一度刀を抜くと鳩尾へ。
「……お、沖田くん…」
見苦しくないよう抑え、声をかけ背後を振り返る。
小さく頷いた総司は、目にも止まらぬ速さで刀を振り下ろした。
裏宝蔵 君の涙が見たものは(下)
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