MIYAKO 〜 宮 古    

 

 

橋げたの下までくると、利三郎は器用に櫓をあやつって端舟を草に覆われた岸につけた。

この位の季節になると、北国のここでも、岸辺の草は端舟を隠すには丁度良い程度に伸びている。

歳三を先に岸にあげて利三郎も後に続く。

 

二人は無言で歩を進め、やがて岸の勾配を登りきり、畦の道に出たところで急に視界が開けた。

日々強くなる陽射しは、まだ太陽が傾くには時間がかかりそうだ。

ふいに歳三が振り返る。

 

 

「野村、あそこだ。あの農家がいいだろう」

「はっ・・・?」

「馬だ、馬を借りてくるんだよ」

「馬・・・俺がですか」

「お前だよ」

他に誰がいる、という様に歳三は利三郎に顎をしゃくった。

 

「いいか、野村。お前は村役だ。丁寧に頭を下げて御貸し頂くんだ」

「副長は?」

「俺は・・・俺はそうさな、敵の仕官にでもなるか」

「敵の・・・ですか?」

利三郎は一寸不服そうに顔をしかめた。

この一本気な若者には、例え村人を欺く為とはいえ、

敵方の名を名乗るのには心情的に納得できないものがあるのだろう。

そんな利三郎の心の内を読むかのように歳三は唇の端をゆがめて笑った。

 

「早く行け」

今度はあからさまに不服そうに、しかし、利三郎は歳三の指差す農家の大きな生垣にむかって歩き始めた。

 

「いいか、武張るんじゃないぞ」

横を通り過ぎるとき、歳三の声にもふりむかない。

己の信念に反するものは嫌と思えば、正直に顔にも態度にも出す。

そしてその信念は常にまっすぐに歪むことなく貫かれている。

(若いな・・・・・)利三郎の背に苦笑しながら、歳三は不愉快ではなかった。

 

 

 

「存外に簡単に貸しましたね」

ずっと走らせっぱなしだった馬を休ませ、その横腹をなでてやりながら利三郎は歳三を振り返る。

歳三は木の幹に背をもたせながら座り込んで地図に目をおとしている。

「『官軍』が効いたんだろうよ」

「『官軍』・・・ですか」

「いちいち不満そうな声を出すな」

「・・・・・・」

「使えるものはなんだって使うさ」

 

 

この人はいつもそうだ、と地図に目を落としたまま顔も上げようともしない歳三をみて利三郎は思った。

使えるものは全て使う。例えそれが敵であろうが味方であろうが斟酌などしない。

歳三のやり方は常に勝つことだけが結果である。

 

 

近藤先生だったら・・・・

新撰組入隊後、局長の近藤付隊士として近藤が流山に下るまでをした利三郎には、近藤の人柄、物事の考え方の影響が大きく、

どうみても土方のやり方は近藤のそれと反対側を行くようで受け止めかねるものがある。

利三郎自身が結局のところ、近藤の性格と似たものがあるのかもしれない。

箱館渡航後、歳三の指揮の下に入り、折にふれて利三郎が思うことである。

軽く頭を振ったとき、

 

「野村」

歳三の声がした。呼ばれて利三郎は歳三の横に膝をついた。

 

「今、ここが関谷だ。あと二里程走ると宮古の海に出る。海沿いにここ堀内まで出て敵艦の様子を探る」

歳三の指は平らな地図の上をたどり、言葉どおり「堀内」と書かれた地名の上で止まった。

「この堀内というところは・・?」

「小高い丘になっているそうだ。上から見下ろす形で敵を良く見ることができるはずだ。

ついでにここら辺りの地形をよく覚えておけ」

 

利三郎が農家で馬を借りる交渉をしていたとき、歳三はその農家の女房らしき女に地形の確認をしていたらしい。

端正な造りをした官軍仕官に農家の女房はさぞ熱心に説明してくれただろう。

利三郎は又ちょっと苦い顔をした。

 

だが、歳三の最後の言葉を思い出して顔を上げる。

 

「何だ」

「はぁ・・・」

「言いたいことがあるのならはっきり言え」

「先ほど、副長はこの辺りの地形を覚えておけとおっしゃいました」

「言ったが」

「今、この辺りの地形を頭に入れることに何の必要があるのです。

明日は艦での海の戦いです。地上の地理は関係がないと思いますが」

「無駄なことだと思うか」

「・・・・はい」

「では、逃げ道を覚えておけ、そう言ったほうが分かりやすいか」

 

利三郎は言葉がでない。

そんな利三郎に目もくれず、歳三は立ち上がると馬に向かって歩き始めた。

 

「日が暮れちまったら甲賀が寄越した双眼鏡も役に立たなくなる。

辺りの地理も頭に焼付けとくことができない」

そういいながら馬の手綱をとると身軽に飛び乗った。

 

 

あわてて利三郎も馬の背にまたがると歳三を追う。

馬を走らせながら、先ほどの歳三の言葉を何度も反芻する。

 

(何と言ったのだ・・・副長はさっき。逃げ道を、逃げ道を覚えろと、そう、言った。

確かに言った。聞き間違えではない)

 

 

こんなことは初めてだった。歳三はいつも傲慢な位に勝気な戦い方をしてきた。

逃げを考えて戦に出るなど、いつもの歳三からは考えられない。

 

 

頭が混乱してきて時々裸の馬の背から振り落とされそうになりながら、

四半刻も走ったところで前を行く歳三が馬を止めた。利三郎もその後ろにつく。

 

「見ろ。この道を左に折れれば海伝いに宮古の集落に着く」

「では、俺達は左に行くのですか」

歳三はその声を聞くとやっと振り返り、あきれたように利三郎を見た。

 

「馬鹿、お前はさっき地図で何を見たんだ。俺達が行くのは堀内、ここを右に折れた先の丘だ」

「はぁ、・・・でも、でしたら、この道の左は関係がないと思いますが」

馬鹿と言われてむっとしながら利三郎は反撃する。

 

「逃げ道を覚えておけ、先ほども言ったはずだ」

「逃げ道、と言われましたか。先ほどといい、今と言い、・・・俺の聞き違いでしょうか」

「聞き違いではないさ。確かに逃げ道を覚えておけ、と言った。何度も同じ事を聞くやつだな」

 

 

瞬間、利三郎の体が弾けるように前に突き出た。

「副長っ!」

今度は何だ、というように歳三は利三郎を見た。

 

「副長は、・・・副長は、逃げることを考えて、戦をするつもりなんですかっ!」

利三郎の顔は、到底承服しかねる歳三の言葉に怒りで赤くなっている。

その赤い顔に駆け抜けてきた汗が光って、もう、泣きながら怒っているように見える。

 

歳三はそんな利三郎を黙って見ていたが、やがて馬の手綱を右に引いて歩を進め出した。

「副長っ!」

「ついて来い。時が無い」

 

 

歳三は振り向かず今度は馬を駆け出させた。

利三郎は、赤い顔をしたまま躊躇していたが、遠くなってゆく歳三の後姿を見ると、

次の瞬間、その背を一気に追いはじめた。

 

 

 

理由を聞かなければならない。最初から逃げることを考えて戦をするなど・・・・、

あってはならない、そんな戦など・・・してはならない。

それに今回のこの作戦は土方自身が強烈に主張したものではないか。

当の本人が何故、今、こんな事を言い出すのだ。

 

 

混乱に混乱を重ねた思考の堂々巡りを繰り返しているうちに、ゆるい丘を駆け上がり、

平らな草地に出たところで、眼下に蒼い海が開けた。

水面が、傾きつつある陽光をはじいてきらきら光っている。思わず眩しさに目を細める。

だが、その向こうに黒い軍艦が八隻。

それすらも一の絵になってしまいそうな、のどかな情景だった。

 

 

「八隻・・・いるな」

「八隻いたら、かないませんか」

「かなわないな」

「だから、逃げるのですか」

「逃げ道を覚えておけ、とは言ったが、逃げるとはいってないぞ」

 

利三郎はますます分からない。頭を掻きむしる。

 

(副長はさっきから一体何を言ってるんだ・・・)

 

歳三は双眼鏡を取り出して前方の軍艦の黒い塊を凝視して動かない。

「野村、見てみろ」

歳三が頭を掻きむしっている利三郎に双眼鏡を渡す。

 

掻きむしっても何の答えも出てこないと諦めたのか、利三郎は黙って歳三から双眼鏡を

受け取ると目にあてて、歳三の指差す方向を見た。

 

距離的にこの双眼鏡の倍率では無理があるのか、鮮明とはいえないが、それでも大方の様子はわかる。

 

「良く見ろ。敵の動き。おまえにはあれが「油断」している様に見えるか」

しばらく黙って双眼鏡をあてていたが、それをはずして利三郎は歳三をふりむくと、ゆっくり首を振った。

 

「敵は油断なんかしてねぇよ。」低く、歳三は唸った。

利三郎は言いようの無い衝撃に呆然としていた。

 

 

 

そもそも、今回の作戦は、箱館制圧の中継地として燃料、食料を補給するために

宮古湾に停泊している官軍の油断をついて奇襲攻撃をかけるというものであった。

だが、今利三郎が目にした敵軍にはそういった油断は全く見えない。

水夫達は甲板にそなえつけられたガットリング砲の点検に余念がない。

見張りの者の緊張まで伝わってきそうな船の上の光景だった。

 

この奇襲作戦に備えて、箱館の榎本新政府軍からは三隻の軍艦が出航している。

回天、第二回天(高尾丸)、蟠龍の三隻である。

途中蟠龍は脱落し、高尾も故障、山田湾で修理中である。

 

まともに働けるのは回天のみ。

その回天にしたところで旧式の五十六ポンド砲が十二基と旋回砲が一基。

とても敵艦「甲鉄」の最新式のガットリング砲にはかなわない。

それゆえ、箱館の新政府軍は何としてもこの「甲鉄」を手に入れたかった。

「甲鉄」奪還が目的の奇襲だった。

 

もともとこの甲鉄艦は幕府が米国に依頼して買い入れたものであった。

ところがいざ、甲鉄艦が日本に入港したときにはすでに幕府は「大政奉還」をしてしまっており、

米国は幕府と官軍の両方の勢力争いを日和見的に観察し、

その間双方に渇望されながらどちらにも艦を引き渡さなかった。

その後、幕府軍の情勢が次々に劣勢に転じる情報が流れるようになり、遂に米国は甲鉄艦を官軍に引き渡した。

 

そんな事情もあって、榎本はじめ、海軍の主だった者は「甲鉄奪還」に尋常でない意欲を示した。

歳三とて同じである。甲鉄艦一隻あれば他はいらない。

 

 

 

甲鉄艦は他の七隻の軍艦に守られるようにして静かに錨を下ろしている。

だが、その静けさはまた、戦いに挑む前の緊張感のようにも利三郎には思えた。

今回のこの「アボルタージュ作戦(奇襲攻撃)」の勝算が敵艦の「油断」を前提としたものならば、

今、利三郎が見た光景はそれを根本から否定するものだった。

 

 

 

「しかし・・・・」ようやく、利三郎は口を開いた。

「しかし、俺は、戦う前から戦を捨てるようなことはできません」

「当たり前だ」

「でも、先ほど副長は、逃げ道を覚えておけと言われました」

歳三はもう一度ゆっくり海原の向こうの敵軍艦隊を見る。

 

「明日、攻撃をかけるのは俺達が乗っている回天丸だ」

「第二回天丸ではないのですか」

利三郎は驚いた。

 

第二回天丸、つまり高尾丸が甲鉄艦に横から体当たりする、奇襲攻撃に慌てる敵の隙をついて甲鉄を奪う。

回天は、第二回天が甲鉄を奪い取るまで他の七隻の敵艦を抑えるという役割所であった。

だから、自分の乗っている艦が甲鉄奪還の特攻的役割にまわるという話は利三郎にとって、初めて聞く話だ。

 

 

「第二回天は駄目だ。修理に時間がかかる。仮に直ったとしても回天の方が早い。先に敵艦に当たるのは回天だ」

「俺達の艦が甲鉄を奪うのですか」

利三郎は自分が少なからず興奮して胸の鼓動が激しくなるのを感じた。

 

援護的攻撃にまわるのと、戦の中心に身を投じるのでは全くちがう。

そんな利三郎を横目で見て歳三は続けた。

「だが、おまえもその目で見たはずだ。敵は油断などしていない。

多分、攻撃は失敗に終わる算段が高い。回天で甲鉄は奪えない。

敵の油断は最初の攻撃の一瞬だけだろう。

すぐに反撃に出る。第二回天ではその反撃は防げない」

 

「副長、それは・・・・副長お一人の考えではないのですか。戦はやってみなければわかりません」

「確かに、今のところ俺一人の観測だ。だが、戦いをしかけてすぐに皆分かるだろう」

「だから、逃げると言うのですかっ」

つっかかりそうな勢いで利三郎は歳三を見る。その目は若い怒りで赤くなっている。

 

「そうだ。攻撃が失敗に終わったと判断したらすぐに回天を敵艦のいる対岸に寄せる。

つまり今俺たちがいるこちら側だ。そこから上陸して先程まで俺達が辿ってきた道を通って逃れる。

敵艦は奇襲攻撃を受ければ直ちに箱館に出航するだろう。敵の陸の守りは薄くなるはずだ。

俺達は何としても箱館まで生きて帰る。本当の戦は箱館だ」

 

 

利三郎は驚いて口も利けない。

この男は奇襲攻撃に湧き勇む同士の中で、唯一この攻撃の失敗の可能性を冷静に判断し、

すでに次の作戦の布石を打っているのだ。

逃げるのではなく、戦う為に退き、次には勝利するつもりなのだ。

 

 

呆然と歳三を見た。

「なんだ、お前は俺の顔をよく見るやつだな」

「すみません」

「納得できない、って顔をしているな。そんなに死にたいか」

 

利三郎は口を思いっきりへの字にまげている。

歳三の言っていることは分かる。

だが、仮に負け戦と分かっても逃げることは己の中で受け入れられない。

 

「偵察は終わりだ。任務は完了した」

双眼鏡をしまいながら、一旦言葉を切って、

「・・・・・なんだか、山崎みたいなことをやっているな」

歳三は苦笑した。

 

新撰組の懐かしい観察方の名前が出て、利三郎も緊張をといた。

 

「山崎さんは・・・艦の中で亡くなったのでした」

「航行途中だったからな、水葬にした。結構俺たちは艦と縁があるのかもしれないな」

ふと、歳三が利三郎を振り返った。

 

「野村、おまえ幾つになる」

「俺ですか?二十六になります」

「そうか、二十六か・・・」

 

一瞬、記憶の何かを手繰り寄せるような遠い目をした歳三に利三郎は話し掛ける。

 

「斎藤先生や、沖田さんと、あっ、いえ、沖田先生と同じです」

「沖田先生より、沖田さんのほうがいいって、あいつは言うよ」

 

あわてて言い直した利三郎を笑う。

こんな笑い方をする歳三を利三郎ははじめて見た。

 

利三郎も、自分と同じ歳でありながら遥かに年下のように思えたこの新撰組幹部には気さくなものを感じていて、

つい「さん」付けになってしまう。

 

「釈放されたあと、艦で江戸を発つ前に沖田さんが療養されていた植木屋を尋ねましたが、

すでに亡くなられたあとでした」

阻止できなかった局長近藤の処刑、喪失感を拭い去ることができないまま尋ねた沖田の療養先で知った死。

今でも利三郎の胸の中に黒いシミのように残っている。

 

 

「会津に向かう為に江戸を発つ前、最後に総司に会った。そのとき、つい総司の前で

あいつを一人江戸に残す不安を口にしてしまった」

 

突然の歳三の言葉に何と答えて良いのか分からず、利三郎はとまどう。

とまどいながら、歳三の次の言葉を待つ。

 

「そうしたらあいつは、この身が戦に行く俺の後ろ髪を引っ張る存在ならば

今すぐここで腹を切るから介錯を頼む、笑いながらそう言った。

だが、真実そうなった時には、あいつはきっと迷わずそうするだろう」

 

 

傾きかけた陽が丁度逆光になって歳三の顔がよく見えない。

「俺もこれが最後になるかもしれないと思って動揺していたのかもしれないな。

実際そうなってしまったが・・」

歳三は淡々と続ける。

 

「あいつは俺が生きている間は自分が強くなくてはならないと頑なに信じ込んでいた」

 

表情は分からないながらも歳三の視線が目の前にいる利三郎を通り越して

遠くを見ているのは何となく分かった。

 

歳三を知る物から見ればおよそ考えられないことだが、

沖田にとって歳三は唯一守らねばならない者だったのかもしれない。

それは男と女の間にある色恋沙汰に似ていて、でもそれとは少し違うもののような気がする。

こういうことについての思考は苦手な利三郎だが、歳三の乾いた声音を聞きながら、ぼんやりとそう思った。

そうして何の連脈もなく、ふと一人の男の顔が脳裏を横切った。

 

相馬主計だった。

 

 

 

 

 

近藤勇が板橋で処刑された日の夜、利三郎と相馬主計は湿気臭い暗い牢の中で互いの体を求めながら泣いた。

泣く、というよりも咆哮に等しいものだったかもしれない。

相馬は近藤救出の失敗を激しく己に責めた。

自らを責め続けながらその苦しさから逃れんと、まさに狂気に迷い入ろうとした相馬を、

利三郎は己の体の中で受け止めた。

 

そうしなけばならないと思った。

今自分が相馬を受け止めなければ、この男は壊れてしまう、そう思った。

皮を破り、肉を裂く、到底言葉では言い表せるものではない痛みの中で必死に相馬を抱きしめた。

俺はここにいる、ここにいる、そう伝えるように強く、強く渾身の力で相馬を抱きしめた。

 

それは不思議な感覚だった。あえて表現するのなら、自分は女ではないが、

子を持つ母親が我が子を愛おしむ感情に似ているかもしれない。

 

だが、それとも似て否なるものという事だけは分かった。

慈しむよりももっと激しい。

 

どんな風に言ったら良いのか分からないし、言葉に換えるつもりも無かった。

相馬を守らなければならない。

体は抱かれながら心は抱いてやらねばならない。

 

利三郎は自分の中で慟哭する相馬を愛しいと思った。

その時感じた思いだけは確かなものだった。

 

流れる汗と涙とで、互いを抱きしめる手が滑りそうになりながら、そう思った。

混乱した状況下での一夜限りの出来事であった。

ふつうではなかった精神状態だったのだ、そう思うこともできる。

だが、あの時、自分の中に生まれた相馬への感情は今も変わらず利三郎の胸の中にある。

 

 

 

沖田さんも、副長を守る為に自ら自分を強い人間にしておかねばならなかったのかもしれない。

歳三が鬼と言われ続けた新撰組副長でいられるよう支える為に、その歳三よりも強い精神の持ち主として、

傍らに存在していなければならないと、信じていたのかもしれない。

あの時の自分と同じように、抱かれながら歳三を抱いていたのかもしれない。

 

沖田の、絶やすことの無かった屈託のない笑い顔は、

己の命をかけて守る者が存在する強さから来ていたのかもしれない。

 

 

そこまで考えた時、もし、自分がいなくなったら、

相馬はどうするのだろう・・・・・ふと、思った。

 

自分が死んで、もう相馬の背を支える者がいなくなた時、

相馬はまた狂気の中に入って行こうとするのだろうか。

その時自分はもう、相馬の悲しみを受け止めてやることはできない。

死んだら、自分はもう相馬を抱きとめてやることはできない。

 

否、武士として戦の中に身を置くのなら、どちらがいつ死んでも不思議はない、

 

 

 

詮も無い考えだ・・・・・、

何で、こんな事を思ったのだろう。笑って打ち消そうとしたとき、

 

 

「情けのない話をしたな。俺もこんな話をしたのは初めてだ」

歳三の声に現実に引き戻された。

 

「野村、お前は戦を放り出して逃げることに納得が行かないだろう。それもよし。

だが、俺は生きる。生きて、勝つ。負け戦で命は落とさない。今負けても次は勝つ」

言い切って腰をあげ、再び敵艦を見据える歳三の顔に感傷の色はない。

 

「俺は勝たねばならない。勝って朝敵とされた汚名をそそがねばならない。

俺がやらなければ近藤さんや先に死んだ者達は、永遠に汚名をきせられたまま歴史に残る。

生きた者は勝って、死んでいった者の汚名を晴らさねばならない」

 

 

 

歳三はそのまま利三郎の横を通り抜け、もう海は振り返らない。

 

利三郎は歳三の後姿を瞬きもせずに凝視する。

 

これが、この土方歳三という男の正義なのだ。

初めて間近で知った歳三の信念に利三郎は圧倒される。

 

戦に出て死ぬことにはむしろ憧憬すら覚える。

人は潔いと称えてくれるだろう。

だが、敗北の屈辱にまみれながらも生き延びて再び戦う方がどんなに強い心がいることか。

 

この男は常にそうして戦ってきたのである。

利三郎は一種畏敬の念をもって歳三の端正な横顔を見つめた。

 

 

 

「野村、行くぞ」

 

歳三は馬の横腹を蹴ってもときた道を走り出した。

利三郎は正気にもどり、慌てて後を追う。

追いながら思う。

 

自分は馬鹿だった。

戦に臨みながら、いつの間にかそこに死に場所を求めていたのかもしれない。

背中を追われるように、死に急いでいたのかもしれない。

 

そして、一番大事な事を忘れていた。

近藤が処刑された夜、誓ったではないか。

 

絶対にこのまげられた事実を過去に残すまいと、その為に勝って汚名をそそぐと。

死んでいった仲間の汚名をそそぐ為に、もう一度戦う為に、

あの時、利三郎は相馬を受け入れ、共に生きる事を選んだのだ。

自分自身の胸の中に、今度こそ、その誓いを忘れまいと刻みながら、歳三に遅れないよう必死に駆け抜ける。

 

 

 

 

 

先程の辻まできた時、歳三が馬を止めた。

 

「お前の信念に反するだろうが、もう一度よくこの地理を頭に叩き込んでおけ」

「はい」

「やけに素直だな」

「俺は戦います。けど、むざむざとは死にません」

利三郎は、今度ははっきりとした意思を持って、まっすぐに歳三を見た。

 

潔い若さがまっすぐに歳三を見据える。

歳三は少しもそらさず、その利三郎の視線を正面から受け止める。

そしてよく通る、張りのある声で告げる。

 

 

「野村、生きて箱館へ戻れ。生きて次の戦に勝て。新撰組副長命令だ」

「はい」

 

背筋を伸ばして副長命令に聞き入る。

久しく聞かなかった新撰組副長命令。

全身が震えるのを感じてもう一度背筋をシャンと伸ばして胸を張る。

そうしてその勢いのまま馬を駆って、もう迷わず、自分が戻るべき道を走る。

 

 

 

 

 

途中、祭の神峠と記されているそう高くない、丘といって良いほどの山の上で歳三は止まった。

山田湾に停泊中の味方に合図の狼煙をあげる為だ。すでに辺りはすっかり暗くなっている。

 

「この狼煙をあげたら、出陣の合図だ。戦は始まる」

 

上げる間際、歳三は自分に、又、利三郎に確認するように低くつぶやいた。

利三郎も無言でうなずく。

 

 

狼煙は細く白い煙を上げてまっすぐに暗い宙にあがり、

沖に停泊する回天丸、第二回天丸に出航の準備を促した。

 

 

 

 

 

端船を回天丸の真下までつけると上から縄梯子が下ろされる。

縄梯子に手を掛けた歳三の背を見ながら、利三郎は何かを言わなくてはならないと思う。

だが、それが何なのかわからない。

焦りにも似たものが邪魔をして、余計に言葉を見つけられない。

 

 

この人は、戦ってきた。生き残ったものの責任として、戦い続けてきた。

だが、自分も相馬も共に戦うと、そう伝えたかった。それが上手く言葉にできない。

 

常に一人で戦い続けた歳三より先に死んではいけないと思った。

先に死んでしまえばまたこの人は、一人で戦い続けなければならない。

 

どういえば良いのか想いあぐねているうちにも歳三は昇り始めようとしている。

 

 

「副長っ!」

考えるより先に出た。

 

 

「俺は死にません」

 

何故、こんなことを言ったのかわからない。

けれど、利三郎には他にどんな風に言えば良いのか分からなかった。

 

歳三は振り返り、まるで怒っているように顔中の筋肉を緊張させている

利三郎の心の内を尋ねるかの様に見ていたが、

やがてその見事な二皮重の目を細めて笑うと、

今度こそしっかりと揺れる縄梯子を両の手で掴み、振り返らず昇って行った。

 

 

 

 

自分も後に続いて昇りながら、あふれる胸の内の思いをたった一言の言葉にすると

案外こんな単純なものになってしまうかもしれないな、そんなことをぼんやり思って、

艦の柵につかまろうと右の腕を伸ばしたとき、それを力強く引っ張る者がいた。

 

相馬だった。

相馬は何も言わず利三郎をひっぱりあげようとする。

艦の柵をはさんでお互いの目の位置が一緒の高さになったとき、利三郎はその目を見て笑った。

 

 

「相馬さん、俺は死なないよ」

 

相馬は怒っているような、泣いているような顔をして、一瞬掴んでいた手の力を緩めたが、

次には先程よりずっと強く利三郎の腕を掴んで思いっきりデッキの内に引っ張り入れた。

 

 

「イタイ、イタイよ、相馬さん」

ふたり一緒に転がるように倒れこみながら、利三郎は声を立てて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

翌三月二十五日未明、一隻の艦が全ての灯りを消し、静かに宮古湾に入ってきた。

回天丸であった。

 

マストには米国の旗を掲げ、そろそろと進み、やがて甲鉄艦を至近距離に捉えると、

やおら異国の旗は日の丸に変わり、甲鉄艦目掛けて一気につき進んだ。

 

回天丸は今だ明けやらぬ夜のとばりを自らの大砲の轟音と白い煙で押し開き、

ここに宮古湾海戦の火蓋は切って落とされた。

 

 

 

戦いはものの半時もかからず終わりを遂げた。

回天丸は火を噴きながら、遅れて来た第二回天丸の信号に答えることもできず、北の海を全速力で疾走した。

 

 

 

回天丸の死者、艦長甲賀源吾、新撰組野村利三郎、他二十一名、

負傷者、フランス教育官ニコール、新撰組相馬主計、他二十数名に及ぶと記録されている。

 

第二回天丸に乗船していたフランス人教官コラッシュは、

回天丸に乗り込み負傷した同僚ニコールと後に江戸の牢で再会した際、ニコールは、

「宮古湾海戦で敵は油断しているどころかすでに戦闘態勢にあり、攻撃の時期を逸していた」

と語っていたことを、その手記に記録している。

 

榎本新政府軍にとって得るものはなく、失うものはあまりに大きな海戦であった。

 

                   

海戦後すぐに甲鉄艦をはじめとする官軍艦八隻は、回天丸を追うように箱館にむけて出航した。

 

 

 

 

 

 

 

 

激しく短い海戦が嘘のような静けさが湾にもどった。

 

      

 

オレハ死ニマセン・・・・・・

 

 

 

 

遅い春の陽光を受けて海はおだやかに凪はじめた。

 

       

                                   了

 

 

 

               花咲く乱れ箱