MIYAKO U 〜 宮 古
風にのって潮の薫りがした。
ここからは見えないが、海がずいぶんと近いらしい。
「御免ください」
声を掛けても奥から人が出てくる気配はない。
暫く待ったが、時間もあまりないことで、仕方なく引き返そうとしたとき、やっと奥から
人の足音が聞こえた。
「どちらさんでしょうか」
暗い玄関先で訪問人の顔がよくわからないらしく、聞きなれない声に警戒している。
「東京から来た者で、相馬といいます。四年も前になりますが、湾で海戦があったとき、
こちらの方が、流れついた幕軍の仏を埋葬されたと聞いて来ました」
「ああ、・・・そのことでしたか」
外の明るさになれて来客の顔も分かったのか、この家の主らしき中年の男は、
その穏やかそうな顔に初めて安堵の表情を浮かべた。
南に面した風通しのよい客間に通されて、改めてこの家が地元の名主であることを知った。
「流れついた仏さんのことは、私の父親が埋葬しまして、私は直接には知らないのです」
「お父上は?」
「昨年、亡くなりました」
「それは・・・・・申し訳ないことを聞きました」
「いえ、歳も歳でしたし、寿命です。それで、私は丁度そのとき・・・・海戦のあったときですが、
所用がありまして、盛岡に行っておりました。
残されたのが、年寄りと女子供ばかりでしたから、海戦の噂を聞いた時はとるものもとりあえず、戻って来たのですが、
それでも、盛岡からは2日程はかかりますし、家に着いた時には父はすでに仏さんを埋葬してしまったあとでした」
「では、顔とか体の特長とか、そういうものはお分かりにはならないのでしょうか」
「戦で亡くなった方の遺体ですし、女子供に見せるものではないと、父が一人でやったようです」
「そうですか・・・・・」
「けど、仏さんが身につけてなさったものをしまってあります。
いつか、こんな田舎でも、お身内の方は探しに来るかもしれないと、父親がそういいまして、
ひとつだけ、役に立つか立たないのかは分かりませんが、とってあるものがあります」
目を伏せた相馬に、申し訳なさそうに言いながら、主は隣の間にある仏壇から小さい箱を持ってきた。
「これです。ちいさい守り袋ですが」
箱を手にとって開けてみると、汚れた白い生地に「仙台東照宮」の文字が金糸で縫い取られている。
相馬の手がわずかに震えた。
手にしたまま動かない相馬に、家の主はそっと伺うように尋ねた。
「お身内の方の物でしたか・・・」
「・・・・・・いえ、違ったようです」
相馬は伏せていた目をあげて主人に笑いかけた。
「そうですか、探していらっしゃるお人の物ではありませんでしたか・・」
人の良さそうな主は、目の前の男が落胆するのを見るのは忍びなかったのだろう、
正直にほっとした表情を顔に出した。
「ありがとうございました・・・・・」
相馬は静かに守り袋を主人の前に置いた。
ひとつ、ふたつ、世間話をして、帰りがけに、「堀内」という所にはどういったら良いのか、道順とかかる時間を聞いた。
「陽が沈むまでに着くでしょうか」
「ここからだと、三里程の道のりですが、途中から上り坂になります。
急げば陽のあるうちに着くでしょうが、・・・脚はお達者ですか」
心配げに聞く主の好意に深く会釈して、その家を辞すと「堀内」への道を歩き始めた。
春から夏にかけての植物の成長は、時に貪欲にすら思える。
獣道といえるような細い道を、傾きかけた陽のまぶしさに、目を細めながら、
絡まりつく雑草に足を取られないよう、気をつけて歩く。
先ほどの守り袋の軽さが、手に感触として残っている。
自分は、あの守り袋の持ち主を知っていた。
守り袋の最初の持ち主は、仙台額兵隊隊長、星恂太郎であった。
その額兵隊が先陣を務める前日、星は相馬にこの守り袋を寄越した。
「悪いんだけどな、お前、持っていてくれないか」
体つきこそ大きいとはいえないが、強面で迫力のある巨眼で、額兵隊二百五十名を統率する名将が寄越した守り袋は、
あまりに持ち主にふさわしくなく、相馬は呆けたように星の顔を見た。
「俺の家は代々神職でな、俺は家を飛び出して好き勝手をやっている放蕩者だ。
が、この度の戦ではさすがに二度と生きては帰られないと思って、今生の挨拶に実家に行った。
その時、家を継いで神主をやってくれている養兄が、もって行けと寄越した。
いらないと突っぱねる訳にもゆかず貰ってきたが、神仏を祭る家業を放り出してきたこの身が、
今更その加護を受けるのは、それこそ罰当たりってもんだ。夢見も悪い。そこで、
おまえ、持っていてくれないか」
そう言って、むき出しそうな大きな眼を細めて笑った。
そして、星から相馬に渡った守り袋を、相馬は、最後になる持ち主に、あの日、渡した。
あの日・・・・・
すっかり陽が落ち、暗くなってから、宮古湾まで敵艦を偵察に行っていた土方と野村は回天丸に帰って来た。
すでにその前に、陸にいた二人は山田湾に停泊中の二隻の軍艦に合図の狼煙をあげている。
それを受けて回天丸と、第二回天丸(高尾丸)は出陣の体勢に入っている。
月明かりしかない甲板に腰を下ろして、野村は饒舌だった。
「おまえ、何をそんなに興奮しているんだよ」
ともすれば前後の見境なく突っ走る野村を抑えるのは相馬の務めだ。
「俺、副長より先に死んだらいかんと思った」
野村の胸の内がわからなくて相馬は暫く黙って、野村の興奮を聞いている。
「相馬さん、死んだら、いかんのです。生きて戦わねば、いかんのです」
「今迄だって、戦ってきたじゃないか。この先だって、ずっと戦わねばならないんだぞ」
「そうです、けど、俺、忘れてました。戦は勝たなければならんのです」
「・・・・・・・」
何を今更こいつは言っているんだ。
そんな相馬の視線を感じたのか、野村は一寸怒ったように、顔を赤らめた。
「相馬さん、俺、近藤先生が処刑されてから、自分でも気づかないうちに、戦に死に場所を探していた。
生きていれば生きているほど、どんどん取り残されて行くようで・・・。
何時の間に焦って死に急いでいた」
相馬は何も言わない。ただ、野村の顔を見つめている。
近藤処刑の夜、相馬は野村を求めた。
否、近藤処刑を阻止できなかった自責の念に絶えられず、方向を見失って、精神だけが爆走してしまった自分を、
野村が受け止めてくれたと言うのが正しいのかもしれない。
強固に抵抗するその中を、強引に突き進み征服する。
絶えがたい苦痛から、背に廻された野村の手が渾身の力で、相馬を抱きしめる。
高みに達して一瞬、果てたあと、野村の上に脱力しながら正気に戻り、
初めて、まだ自分がいる野村の中が暖かいと知った。
疲れ果てた精神が、穏やかに癒されゆく暖かさだった。
海中を漂う浮遊感にも似て、自分の心がその中に静かに解けて行くのが分かった。
征服したのではなかった。野村の中で、解けて一緒になった自分がいた。
そして、狂気から救い上げてくれた野村に感謝する自分ではなく、
野村を、己の一部のように慈しいと思っている自分がいた。
「相馬さん、人の話を・・」
「聞いているよ」
不満そうな野村の顔があって、相馬は苦笑した。
「おまえ、突っ走ると何しでかすか分からんヤツだからな。いや、突っ走りぱなしだな。
お陰でお前が死に場所を探しているんなら、そこが俺の死に場所にもなりそうだ」
痛いところを突かれて野村は言葉に詰まる。
そんな野村を、相馬は愉快そうに眺めていたが、
「そうだ」
軍服の上から腹に巻いていた兵児帯をさぐり、
「いいものをやるよ」
その間から、小さい袋を取り出した。
「守り袋?」
「前に、星さんがくれたんだよ。お前にやるよ」
「星隊長から貰った、そんな大切なもの、相馬さんが持っていなきゃ」
「いいよ、お前が持っているほうが役に立ちそうだしな。それに・・・・
生き抜いて勝つって決めたんだろう。」
野村は暫らく手の中の小さい袋を見ていたが、顔を上げ、相馬を見た。
「では、俺が、守り袋の分まで相馬さんの弾除けになります」
底抜けに明るい笑顔だった。利かん気な顔に、笑いを残しながら、
「相馬さん、一緒に戦おう。一緒に戦って、生きて、それから・・・・」
途中まで言いかけたところで、慌しい足音が近づいた。
「相馬さん、野村さん、機関室に集まって下さい。出航します」
闇の中を、緊張が走った。
機関室には、司令官荒井郁之助、艦長甲賀源吾、フランス人教官二コールをはじめ、
土方率いる新撰組、彰義隊、神木隊が集まっていた。
集められた「切り込み隊」の面々には、白襷と白鉢巻が手渡された。
土方もこの海戦に臨んで、新撰組の中から人選して精鋭の部隊を編成している。
「ただ今から、出航する」
荒井の声が闇を震わす。
時間にして八ツ半ば(午前3時頃)、回天丸は錨をあげ、敵艦隊の停泊する宮古湾に向けて、山田湾を出航した。
第二回天丸がそのあとに続く。
途中、この榎本新政府軍にとって悪夢とも言える出来事が起こった。
第二回天丸のエンジンが故障したのである。荒井は攻撃断念か、続行かを迫られた。
「回天丸だけで決行する」
今、敵艦「甲鉄」を奪わねば、やがて箱館は官軍の脅威にさらされる。
荒井が下した判断は、もう後にはひけない崖っぷちに立たされた幕軍の事情があった。
後方に小さくなりゆく第二回転丸を残して、回天丸はその船体を北に向けて走り続けた。
七つ頃(午前四時半頃)回天丸は、艦内の全ての灯りを消すと、
その影だけが動いているかの様に静かに宮古湾に進入した。
「敵艦、発見っ」
見張台の新宮の声が明けやらぬ夜を裂く。
相馬は額に巻いた白い鉢巻をもう一度きつく締めなおす。
野村は腹に巻いた兵児帯の上に手を当てる。
黒い小さな鉄の塊が、肉眼でも艦の形に認識できるまで近づいた。
張り詰めた緊張と、沈黙の中、鞘から刀が抜かれる。
抜き身の放つ刃の光だけが鈍く反射する。
マストに掲げられた米国旗が、日章旗に代わり、
自分の心の臓の音だけが五感を支配したとき
荒井の甲高い声が、
「アポルタージュッ!」
闇をつんざいた。
戦いはものの半時もせずに終わった。
敵艦「甲鉄」への接舷は失敗に終わり、反撃にでた官軍艦に備え付けられたガットリング砲の威力の前に、
回天丸はなす術なく後退し、箱館に向け疾走した。
完全な敗北であった。
あの時・・・・・
上り坂になった草に覆われた道を、痛み出した左脚を引きずるように昇りながら思う。
接舷を繰り返し、失敗し、もはやこれまでと、
「作戦中止っ!全速後進っ!」
荒井の叫ぶ声を聞いたとき、脚に火箸をあてられたような熱さが走って倒れた。
左脚を槍が貫いている。
その槍を引き抜こうとした時、艦が大きくゆれた。
回天丸は、逆に面舵をいっぱいに切って、甲鉄から離れようとしていた。
「野村っ、野村がっ、野村がまだだっ!」
血が流れる脚を引きずって、砲弾と槍が飛び交う甲板の上を海に向かってにじり寄る。
白い煙で視界が遮られて、額を打ち抜かれてすでに息をしていない甲賀に突き当たる。
その屍を乗り越えて、必死に海と艦とをへだつ柵にたどり着く。
柵につかまって、遥か下になる「甲鉄」艦の甲板を探る。
野村は追ってくる敵に対峙しながら回天丸の縄ハシゴを掴もうとしていた。
「のむらぁっ!」
大砲の轟音の中、かすかに聞こえたのか野村が上を向いて相馬を見た。
相馬は必死に柵から手をのばす。
その手に捕まろうと、自分の手を高く伸ばした時、野村の背をガットリング砲の砲弾が貫いた。
瞬間、世界は朱色に覆われ、
相馬の視界から、野村が消えた。
引き摺る足が先ほどより重くなる。海戦で痛めた脚だ。
(守り袋なんか、いつまでも持っているなよ。海の中で離せよ。
たまに律儀に、なれないことなんかやるから・・・・・・)
草が足に纏わりついてうっとおしい。
(お前だって分かっちまったじゃないか)
上り詰めると平坦な草地に出た。荒くなってきた息を一度深く吐く。
すでに傾いた陽光に照らされ、眼下に開けた蒼い海が金色になっている。
(ここからお前は甲鉄艦をみたのか・・・)
あたりを見回すと、草の上に腰を下ろして海を見た。
あれから・・・・
ボロボロになった回天丸で箱館につき、足の治療もそこそこに自分は尚も戦い続けた。
あの時、野村は確かに自分の視界から消えた。
だが、自分は泣きもせず、叫びもせず、狂いもしなかった。
視界が朱に染まった瞬間、自分の心は一切の感情を切り捨ててしまったのだろうか。
今、自分は語り掛けられれば相槌を返し、笑いかけられれば笑い返す。
不思議だった。何故、自分は笑えるのだろう。
所詮、俺はこんな人間だったのか、そんなふうに思った。
箱館に帰って転戦してすごし、だが、情勢は悪化の一途を辿った。
五月に入り、敗戦が目前に迫っているのが誰にも分かった。脱走する兵も多くなってきた。
五月十一日、煮え切らない榎本、大鳥に業を煮やし、土方は元新撰組隊士をはじめとする、
たった五十名の兵を引き連れ最後の決戦に挑んだ。
払暁の出陣の前、土方は相馬を一人呼んだ。
「相馬です」
「入れ」
土方はすでに洋装の軍服の上に陣羽織を着ていた。
「この戦、最後になるかもしれないな」
端正な顔に薄く笑いを浮かべる。
「相馬、もし、俺がお前より先にやられたら、新撰組を頼む」
一瞬、何のことか分からず顔をあげる。
「俺が先に死んだら新撰組の指揮はお前がとれ。俺が亡き後、お前が新撰組を引っ張ってゆけ。
おまえがどのような道をとろうがいい。お前の判断に任せる。
二度とは言わない、新撰組を頼む」
強い意志のまなざしと、いっそさばさばした物言いが、自分に否定の言葉を許さないように思えた。
一瞬沈黙したのち、
「はい」
まっすぐに土方を見て応えた。
「じき、出陣する。隊列を整えろ」
一礼し、踵を返してドアに手を掛けたところで、
「相馬」
呼ばれて振り向いた。
「つらい役目を引き受けさせてしまったな」
そう言った土方は、相馬が初めて見る笑い顔をしていた。
戦闘準備に入ろうと、歩きながら、野村の声が頭をよぎった。
『相馬さんは、なんでも堪(こら)えすぎる』
新撰組が後陣ばかりを務めさせられるのに腹を据えかねた野村が、陸軍隊の春日に突っかかり、
あわやとなったが、星ら周りの者に諌められ事なきを得た。
無鉄砲さを叱る相馬に、野村は、そう口を尖らせて言った。
「お前は辛抱が足りなさすぎるんだ」
「違いますよ、俺は我慢しなければならないことと、我慢してはいけないことを分かっています。
相馬さんは我慢してはいけないことまで堪えてしまうんですよ」
「偉そうなことを言うな」
そうは言ったが、確かに自分にはそういうところがあるかもしれないと思った。
だからこそ、野村の向こう見ずな一本気さに惹かれるのかもしれないと思った。
「相馬さん、怒る時には怒る、我慢してばかりは駄目です」
どこからそんな根拠が出てくるのか、目の前で胸を張って自分を正当化しようとしている、野村の理屈に相馬は苦笑した。
(ほんとうになぁ・・そうかもしれんな、野村。俺は又、大変な役目を引き受けてしまったようだ)
明けゆく空は今日も雲ひとつなく、澄み渡りそうだった。
この日、昼近くに敵陣突破を試みた土方は馬上で腹に弾丸を受け、夕刻、その波乱の生涯を終えた。
まだ息のあるとき、目を閉じたまま、傍らに控える相馬に、聞き取れぬほどの低い声で伝えた。
「・・・・俺にかまうな。お前が決めろ」
最後の新撰組副長命令だった。
臨終を見守る相馬の胸の中に広がる闇が、又ひとつその色を深くした。
一人では絶えがたい程、重く、苦しいのに、それでも涙は出なかった。
そのまま、相馬率いる新撰組は、永井玄蕃らと弁天崎砲台に立て篭もった。
だが、連戦による疲労と、それがことごとく敗戦であることの精神的脱力感と、
食料の不足とで、兵はすでに限界を超していた。
篭城はこれ以上不可能である。
永井は相馬と協議の上、先に敵軍から申し入れられていた「降伏勧告」を受け入れることを決めた。
五月十四日夜、降伏受入の前に、相馬は榎本に報告の為、単独で五稜郭に向かった。
榎本はじめ、大鳥もこの「降伏受入」反対だった。
現状を見ず、抵抗を主張し、熱弁を振るう五稜郭幹部達を、
まるでからくり芝居を見ているような、冷めた感情で相馬は見つめていた。
これ以上の話し合いは無理と、榎本達と袂に背を向け、五稜郭を後にしようとしたとき、
「相馬さん、伊庭先生がお呼びなのですが・・・」
見慣れた顔に呼び止められた。
田村銀之助だった。
暗い廊下で相馬が出てくるのを待っていたのだろう。
この、まだ顔に子供といえるような幼さを残した少年は、養父の看病がてらここ、五稜郭に残っている。
先月二十日に重傷を負い、療養中の伊庭の部屋へと、相馬を案内しながら、銀之助は呟くように尋ねた。
「新撰組・・・あした、降伏するのですか」
新撰組入隊後の短い歳月は、この少年にとって、何とめまぐるしく人生を変えてしまったことか。
たった、十を二つ三つ出たばかりの、本当に子供だった少年が、時の流れに翻弄されながらも、
いつの間にかそこから逃げずに、現実を見据えて享受し、二本の足でしっかりと立っている。
「・・・・降伏する」
静かに答える相馬の横顔を、銀之助は一瞬振り仰いで、その顔をくしゃりと歪ませた。
相馬はその頭の上にぽん、と手を置いた。
「新撰組隊士だったものな・・・、すまない、報告が遅れた。悪かったな、銀・・」
みっともないと、一生懸命堪えたが、目の中で涙を溜めるのも、顔中の筋肉を硬直させて泣くのを堪えるのも、
もうできなくって、そのまま顔に手をあてて銀之助は泣いた。
子供の様に泣きながら、でも、頭にある相馬の手は、なんだかずっとこうしていて欲しいと思った。
それがどうしてだかわからず、余計に涙が出た。
「失礼します、相馬です」
奥まった一室のドアを叩いて中に入ると、伊庭は洋式の寝台に上を向いて横たわっていた。
ほんの暫らく見ないうちに人が変わったと思うほど頬の肉が削げている。
涼しげな目元と整った鼻梁だけが、闊達で瀟洒だった伊庭の面影を残している。
「忙しいとこ、悪かったな」
顔だけを横に向けて話し掛ける声は苦しげだが、伊庭は相馬に笑いかけた。
「土方さん・・・・死んだんだろう」
相馬は一瞬息を呑んで伏せていた目を上げた。
「いつのことだい、・・・昨日かい、おとついかい・・・」
伊庭は相馬の視線を捕らえて逸らさせない。
言葉は静かだが、嘘は許さないと言う強い目をしていた。
「・・・三日前のことです。敵の関門を突破しようとして、腹に銃弾を受けられました。
なくなられたのは夕刻のことです」
伊庭は目を閉じると、相馬に向けていた顔を戻して上を向いた。
「そうか・・三日前か・・・・・、それにしても宗の字のヤツ、待ちきれなかったのかね、
ちと、早すぎやしねぇか。なぁ・・」
昔馴染みに語りかけるように、だが、誰に話すようでもなく、呟いた。
相馬は暫らく机上のランプの灯が映す伊庭の横顔を黙って見ていたが、
一礼しそのまま部屋を出て行こうとした。
「相馬さん・・・、もうひとつ、悪いんだがね」
伊庭の声に呼び戻されて振り向いた。
「灯を、消していってくれねぇか」
「はい」
ランプの乗っている寝台横の机まで来て、何気なく見たその上に、白い包みを見つけた。
薬包だろうか、けげんな顔の相馬に
「モルヒネだよ」
上を向いたまま、淡々と答えた。
「もう・・・腹かっさばく、力・・・・ねぇからなぁ・・」
苦しげな息の下から、喉の奥だけで、くくっと笑った。
相馬はランプの灯をそっと消すと、もう一度、闇の中で仰臥している男の矜持に、
深く頭を垂れて一礼し、静かに部屋を辞した。
暗い廊下を歩きながら響く自分の乾いた足音が、もう枯れてしまった感情のようだと、
ぼんやりと思った。
翌、十五日、弁天崎砲台は、取り巻く敵軍に使者を送り、単独「降伏」した。
相馬は自ら、新撰組の歴史に幕を下ろした。
降伏勧告を受け入れる使者を送り出し、砲台裏手の草に覆われた空き地に一人出た。
その上に腰を下ろして、空を見る。
(終わったのだ・・・・)
梅雨の季節が無いと言う、この北の国の空は抜けるほど青かった。
すいこまれそうな空をみているうちに、その視界が滲んだ。何かが頬を伝って、それが手の甲に落ちたとき、
初めて、相馬は自分の流した涙だと気が付いた。
(今ごろ・・・何だよ・・)
そう思ったが、涙はあとから、あとからあふれる。
自分を持て余しながら、そのまま流れるに任せていたが、
(俺は、泣きたかったのかもしれないな。
泣かなかったのではなくて、泣けなかったのかもしれないな・・・)
ふと、そんな風に思った。
一瞬、風が頬をとおりすぎるとき、
『相馬さん、堪(こら)えては駄目です』
野村の声が聞こえた。
必死に堪えても、嗚咽が漏れた。
(馬鹿・・野郎・・・)
何に対して、誰に対して・・・・、あるいは自分に対して。
もう、何も考えられなかった。
たまらなくなって、そのまま突っ伏した。
草いきれの中、むせかえりそうになりながら、声をあげて泣いた。
見つめる海は、宙の闇と一緒になってすでに境ははっきりしない。
降伏後、江戸に送還され、実刑後新島に流された。
二年に渡る遠島生活で島の娘と結ばれた。新しくやりなおそうと思った。
だが、いつも、何をやっても、すべてを砂の上に築いているような心元無さを感じていた。
釈放され、東京と名を変えた江戸に戻され、偶然に宮古湾で一緒に戦った神木隊の元隊士と会った。
その時、宮古で海戦のあと、流れついた旧幕軍兵の遺体が、地元の人間によって埋葬されたことを知った。
その後の行動は、無我夢中で自分でも良く覚えていない。
そのまま宮古まで来ていた。だが、すでにその時、ある覚悟は出来ていたのかもしれない。
飛び出すとき、妻のマツには何も伝えなかった。
宮古に着いた時も、これからのことも。
許して欲しいとか、すまないとか、これからの自分のとる行動を考えれば、傲慢な願いだと思う。
(そろそろ、時間が無いな・・・)
一つだけ東京から身に着けて来た風呂敷の中から、脇差を取り出す。
着物の前をはだいて、左胸の当たりをさぐる。
あばらと、あばらの間。
心の臓まで一突きにするには骨にあたることを避けなければならない。
介錯なしに腹を切るのだ。とどめは正確にささねばならない。
闇の向こうで野村が怒っているような気がした。
「怒るなよ、俺はお前を追っかけたかったんだ。ずっと、ずっとそうしたかったんだ」
野村に語りかける。
「我慢するなって言ったのは、お前じゃないか」
語りかけながら、脇差を鞘から抜く。
「お前、一緒に生きようって言っただろう。それにな、約束を違えたのは
・・・・・・お前が先だぞ」
瞬間、腹に焼け付くような感覚が走った。
初老のその男が、小動物に仕掛けた罠をいつものように見るために明け方草地に着いた時、
目の前に広がる凄惨な光景に硬直し、次には膝が震えてきた。
時間をおいて、少し自分を落ち着かせると、すでに息はしてはいないではあろうが、
前に突っ伏したまま動かない仏の側に恐る恐る近寄った。
腹を切って、急所を突いて、事切れるまで、かなりの時間がかかったのは、周りに広がる血の量でわかる。
生きていなければ流れない血である。
だが、今、男が見る仏の顔に苦悶の表情はない。
半分開いた目の中の瞳孔は光を吸い込んでも返さない。
男はその目に自分の掌をかざした。
そっと手をはずすと、そこには驚くほど穏やかな顔をした若い男が目を閉じていた。
とにかく、村の誰かにしらせなければ・・・そう思って、今来たばかりの道をもつれる足でとって返す。
その時、何気なしに海を見た。
すでに陽は昇り始め、空の色と海の色とを分け始めた。
(今日もいい天気になりそうだ・・・)
一瞬思ったその考えが、今見た現実とあまりにかけ離れたのもであるのが、
なんだかひどく罰当たりのような気がして頭を振ると、今度は急いで村への道を駆け下り始めた。
幾たびか春が巡り、すでに海戦の面影はどこにもない。
草の上に伏した相馬の背の向こうに、静かな海が広がる。
イッショニ生キテ、
ソレカラ・・・・
強くなりはじめた朝の光を撥ねて、
深く、浅く、海は空の蒼を映しはじめた。
了