「あんたもなぁ、そろそろほんまに先のこと考えなあかんでぇ」

 

叔母の初のくりごとを聞きながしながら、まさは持った手にしっとりとなじむ絹の感触に目を細めた。

「おばちゃん、これお嫁入りの支度やね」

自分の話など少しも聞いていない姪の様子に、毎度のことだと思いながらも、初は小さくため息をついた。

「本願寺の西並びにある線香屋の善観堂さん、あそこの一番下の娘さんのお嫁入り仕度のもんや」

「ほな、大切に縫わせてもらわなあかんねぇ」

まさはまだ織物の感触を楽しんでいるように、うっとりとつぶやいた。

そんなまさの様子に、初は胸の奥にチクリと痛むものを感じたが、いっそう自分を励まして続けた。

「あんたもちゃんとお嫁に行かはったら、こんなんお召しくらい、おばちゃんが幾らでも用意したるのになぁ」

 

まさの父親源治の末の妹である初が嫁いで一年もしないうちに、

はやり病で連れ合いを亡くしたのは、まさが十の歳の冬だった。

以後十余年の月日を初は兄源治の商っている八百屋の手伝いをしながら一人ですごしてきた。

父親とは歳の離れた妹で、叔母といってもまさと一回りしか離れていない初は、

まさにとっては姉のようなものだった。

 

「なぁ、原田はん、江戸に行かはってから何の便りもないんやろ」

「便りの無いのはご無事な証拠や」

「何を呑気なこと言うとるんや、この子は」

「せやかて、江戸のどこに居らはるのかも分からんし・・・。うちは待つしかでけへん」

 

まさはそこでやっと手にしていた織物をそっと畳の上に置くと、

「大丈夫や、おばちゃん。あの人は帰ってくる。ウチには分かるもの」

初に顔を向けて笑った。

 

本当にそう信じているのか、屈託のないまさの笑い顔からは分からない。

だが今日が初めてではなく、こうして仕立物の内職を運んでくるたびに、

何度も同じ説得を繰り返している初にはそれ以上踏み込めない、

それが行った男を待つと決めた、まさの意思の堅さのように思えた。

 

「そんなことよりおばちゃん、もう行かなあかんとちがうの?雨もあがったし」

「へっ?いつの間にあがったんやろ」

「おばちゃんが風呂敷を解く頃には小ぶりになっとったわ」

「そりゃ、知らんうちに長居してしもたわ」

「又、お父ちゃんに叱られるえ」

「ほんまやな。兄ちゃんも最近は歳とらはったせいか気ィが短こうならはったわ」

 

自分を見送る為にタタキから下駄を履こうとしたまさを手で制して、

「けど四月が二回もあったせいか、いつまで経っても雨続きで、ほんま、けったいな年やなぁ」

初は戸口から、もう一雨来そうな湿り気をたっぷりと含んだ雲を見上げた。

その初の後ろにやって来て、まさも同じように空を仰いだ。

 

この年、慶応四年が二月に明治と改められ、閏年で四月を二回経たあとの五月も半ばは、梅雨のもたらす湿り気と、

気温の高さが混じり合って、健康なものでもうんざりとするような蒸し暑い日々が続いている。

 

「江戸にも雨が降っているやろか・・・」

「どうやろうなぁ」

 

気の無い返事をしながら、初は横に並んだまさの小さな横顔を見た。

娘らしいふっくらとしていた頬が、いつの間にか少し引き締まり、

はっきりとした輪郭の横顔に、ひとつ道を決めた女の強さを宿している。

連れ合いを亡くしてから、一人寝の寂しさ辛さに、時に枕を濡らし、

しかし十余年の歳月を、逝った男を忘れられずに女一人で過ごしてきた初だからこそ、

自分と同じ道を歩もうとしている姪の決心が、切なくもあり、また骨の髄にまで滲みて分かりもした。

そんな感傷を振り切るように、初はもう一度、今にも一雨来そうな空に視線を向けた。

 

 

 原田佐之助は、昨年までこの京の町の警護を預かっていた新撰組の幹部であった。

その新撰組も時勢の波には逆らえず、京を離れ伏見に下ったのが昨年の末。

佐之助が新撰組と共に京を離れると知った時、初は正直のところ安堵するものがあった。

佐之助が本当に姪のことを好いて大切にしてくれていたのは分かっていたが、

所詮武士と八百屋の娘の縁談である。

まして、佐之助は毎日が白刃の下をかいくぐる新撰組に居て、明日の命すら分からない。

姪の女としての先の幸せを思うのならば、この別れがいい機会なのかもしれない。

         だが初の思惑をよそに、まさは新撰組が伏見に下るという日の朝、佐之助を送り出すと、

佐之助がまさの為に借りていた家を引き払い、それまでよりもずっと小さい、

台所と、それにつづく三畳と六畳の二間しかない、今のこの裏店に越してしまった。

          初めからそうするつもりだったのだろう。

驚いて口も利けずに居る初や両親を尻目に、
         「旦那はんはなぁ、戦にいかはるんぇ。ご無事でお帰りやしたら、そりゃほんまこんなにありがたいこと

あらへんけど、そうばっかりやないやろ?片手無くされはるかもしれへん。

目ぇが見えなくならはるかもしれへん。

けど、どんなになられはってもええ。ウチのとこ帰って来てくれはったら。

そやから贅沢なんかでけへん。たぁんと貯めて旦那はんが戻らはるまで待つんや。

辛抱と違うんぇ。旦那はんのお帰りを待ってる、そう思うだけでここらがこう、なんやあったこうなるんや」

そう言いながら自分の胸のあたりをそっと押さえて笑った。

      それでも部屋が二つあるのは佐之助が戻ったときの為の、せめてもの贅沢と許してくれと

冗談めかして笑う姪を、それ以上反対することもできず、初は複雑な思いで見るしかなかった。

そんなことがあってからすでに半年が経つ。

 

 

「おばちゃん」

まさの声に俄かに現実に引き戻されて、初は少しあわてた。

「どないしたん」

「ちょっとぼんやりしてしもうて・・・いややなぁ、陽気のせいやろか」

 

相変わらず雲行きは怪しい。

 

「ほな、もうほんまに帰らんと・・・、戸締り気をつけるんぇ」

「うん、おおきに。縫い終わったら持って行くよってに」

「そうしぃな。たまにはお父ちゃんやお母ちゃんに顔みせなあかんで」

 

もう一度空を仰ぐと、来る時には開いてさして来た傘を畳んだまま手に持って、今度こそ初はまさの家を出た。

その少し丸い初の背が角を曲がって見えなくなるまで見送ると、まさは静かに戸をしめた。

 

 

 

初に出した湯呑み茶碗を片付けながら、まさは勝手続きのこの三畳がひどく広く感じた。

 

「いやや、人恋しくなってるんやろか・・・」

いつのまにか忍び込んでいた自分の心の弱さを、ふと垣間見たようで、あわててそれを

振り切るように、まさは小さく頭を振った。

 

何気なくやった視線の先に紫の風呂敷に包まれた、出来上がった仕立物があった。

表通りのに出てほんの数間先の小間物屋の奥方から頼まれていた着物だった。

初が来る前に届けようと思っていて、その初が思ったよりも早くに来たのでそのままになっていた。

 

「雨が叉降らんうちに届けんと・・・」

気を取り直して風呂敷包みを腕に抱くようにかかえると、まさはもう一度下駄を履いて戸口のところまで戻った。

 

細く戸を開けた時に俄かに雨が振り出した。

「いけずな雨やなぁ・・・」

空は先程よりずっと明るくなっている。

雨を降らせている雲の合間から時折明るい陽射しすらもれる。

一時の雨らしい。

それでもまさはそのまま動こうとせず、降る雨を眺めていた。

 

「遣らずの雨・・・っていうんやろか・・」

 

 

 

いつだったか佐之助が、新撰組の屯所に戻る時刻になっても腰をあげようとしないことがあった。

そういうことは初めてのことで、まさはとまどいながらも

「だんなはん、お戻りの時刻に遅れますぇ」

そっと声を掛けてみた。

 

だが佐之助はまさの問いに答えず、格子の桟に肘をかけて外の雨を見ていた。

 

「だんなはん・・・」

もう一度呼ぶとやっとこちらをむいて、

「まさ、雨がよ、俺に帰るなって言ってるとは思わねぇか」

茶化すように笑いかけた。

 

「子供みたいなこと言わはって・・・」

朝の膳の用意をしながらその声を聞いて、まさは小さく笑った。

 

その笑い声に、佐之助は立ち上がってまさの後ろにやってくると、

おおい被さるようにして、まさの背中を抱いた。

 

「だんなはん、重うおすえ」

「まさをつぶしてやろうか」

「もう、てんごばっかり言わはって・・・」

声を出して笑うまさの背を抱いたまま佐之助はしばらくそうしていた。

 

いつもと違う佐之助に、何か心に重いものがあるのだろうかと、まさは思いもしたが、あえてそれを口にせず、

また、佐之助もすぐにいつもの佐之助にもどって屯所へと帰って行った。

 

 

佐之助が帰った深夜、新撰組ではかねて思想の違いから袂を分けていた伊東一派の粛清が始まった。

伊東の元には佐之助の江戸からの仲間、藤堂平助がいた。

佐之助の話の中にはよく藤堂の名前も出てきたし、まさもその顔は何度か見たことがあった。

不器用な位にまっすぐな男だと、佐之助が話していたのを覚えている。

その藤堂平助がこの夜、佐之助達新撰組と敵味方に分かれて刃を交わし、討死にしたと知ったのは、

月も変わって師走に入ってからだった。

 

その冬初めての雪が降った夜、まさの酌で杯を重ねながら、

「馬鹿みてぇにまっすぐに向かってきやがった」

杯の酒を飲み干すでもなく、ぽつりぽつりと話す佐之助の手に、

掛ける言葉も無く、まさはそっと自分の手を重ねた。

 

あの朝まさの背に覆い被さりながら、だが決して体の重みを押し付けてこなかった

佐之助の優しさが、まさには切なく辛かった。

 

 

 

新撰組が伏見に下るという朝、送り出すまさに佐之助はいつもと何の変わりもなく背を向けた。

やがて少し歩いて立ち止まると振り向いた。

怪訝な顔をするまさに、

 

「行ってくる」

笑いかけると、今度は二度と振り返らず歩き出した。

 

 

 

 

「行って、来る・・・そうお言いやしたもの。きっと帰ってきはる・・」

 

けれどもうひとつ心の奥で、まさは佐之助が戻ってこないことを知っていた。

 

佐之助の腹にあった切腹の跡の傷。

からかわれて若気の至りの勢いで切ってしまったという傷跡をみせながら、

「死にぞこねの佐之、って言うんだぜ。ざまぁねぇな」

佐之助は少し照れくさそうに笑いながら話した。

 

だが佐之助はもう二度と、死に損なうことはないだろう。

負けても、負けても、死ぬまで戦い続けるだろう。

自分の夫、原田佐之助はそういう男だ。

それを知りつつ待ち続けると決めた自分の矛盾に、敢えてまさは目をつむった。

今はただ、待ちたかった。

 

 

 

いつの間にか雨はあがり、雲の切れ間からは夕焼けすらのぞきはじめている。

 

 

「旦那はん・・」

ぼんやりとその空を見ながら、自分の口から思わずぽろりとこぼれた言葉に、まさは慌てて口元を押さえた。

 

『旦那はん』

この言葉を口にしたら、きっと自分は泣いてしまう。

佐之助が恋しくて、寂しくて、切なくて、泣いて泣いてくずれてしまう、そう思っていた。

だから弱い心の重石として、この言葉に封印していた。

 

だが・・・・、

泣いてしまうはずの自分の頬を濡らして流れるものは無かった。

その代わりに、胸の一番奥深い所にぽつんと灯がともったような温かさを感じた。

それは不思議な感覚だった。

小さくともった灯の温かさは少しづつ、まさの胸の中全部を包み込むように広がって行く。

 

信じられない思いで、

「旦那はん」

そっと胸に手をあてて、もう一度呼んで見た。

 

先程よりも、ずっと強く確かに温かいものが広がる。

 

「戻らはるかもしれへん・・・」

胸に広がった温かさが、まさに待つ希望の強さをくれた。

 

しばらくそうして胸に手をあてたままその余韻を感じていたが、

やがて戸口にくるりと背をむけて、まさは台所に小走りに向かった。

米びつからいつも佐之助が来る時炊くのと同じように、五合の米を取り出して研ぎはじめた。

米を研ぎ終わると、買い置きの青菜をきざんでお浸しを作る。

ひととおり準備ができると、酒の肴がないことに気付いた。

 

(今日、戻らはるわけでもあらへんのに・・)

まさは自分のやっていることに思わず苦笑した。

だが、今は佐之助の夕餉の準備を続けたかった。

 

 

空はすっかり晴れたらしく、勝手場の僅かな明り取りの窓から差し込む西日の強さに思わず目を細めた時、

外で物売りの声が聞えた。

 

まさは急いで奥の六畳まで来ると、箪笥の奥から巾着を取り出した。

そのまま踵を返そうとして、箪笥の上の小さな市松人形と目が合った。

たったひとつ、佐之助にまさがねだって買ってもらったものだった。

 

「アホなこと、してるやろ」

人形に向かってはにかんだように小さく笑いかけると、まさは先ほどよりも急いで戸口に向かった。

閉めていた戸を勢い良く開けると小走りに駆け出した。

 

慌てた勢いで水溜に足を取られて撥ねた水が着物に飛んだのを気にもとめず、

まさはただ、物売りの声の聞こえる方角に向かって走りつづけた。

 

 

 

 

 

 

 

この日、明治元年五月十五日、江戸にも朝から細い雨が降っていた。

大村益次郎指揮する東征軍二千の兵は、上野寛永寺にたてこもった徳川慶喜の側近や旧旗本達を中心とする

彰義隊に総攻撃をしかけた。

戦いはものの半日も経ずして終わった。彰義隊は壊滅し、生き延びたものは敗走した。

官軍は彰義隊戦死者の屍の後片付けすら許さず、屍はそのまま放置された。

その彰義隊戦死者の中に、原田佐之助がいた。

  

原田は、北に転戦すると主張する近藤勇、土方歳三達と袂を分けて尚、旧幕臣の意地を貫き通した。

細く煙るような雨が、動かぬ者を弔うように、音もなく降り続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 走りながら、じっとりと肌を湿らせる気は、やがて額に玉のような汗を作った。

雨が上がれば、もうすぐ隣に新しい季節が来ている。
      それを教える強い日差しに、まさは目を細めた。

 

 

 

 

                                             了

 

 

 

              翡 翠