OOGAKI FILE VOL.1
2001年夏、どういうことだか行ってしまった大垣。
島田魁伍長、野村利三郎、市村辰之助・鉄之助兄弟知るうちに、どうしても行きたくなってしまった大垣。
ウチの田舎を走るJRの電車のプレートが「大垣」行きになっているだけで、「伍長がワタシを呼んでいる」とあらぬ妄想まで生まれる始末。
・・・・・・・・・いいの幸せだから。
遂に我慢できなくなって、新幹線に飛び乗ってしまったのが、コレデモカッ!ってくらいクソ暑い夏の日でした。
名古屋経由で東海道線、進行方向は西。
旅の最初は伍長のふるさと、岐阜市雄総(おふさ)地区です。
・・・・・イエ、駅に降りてから気がついたんですけどね、ここいらは毎年埼玉あたりと「本日の最高気温」を争っている
有数の灼熱地方だったんですねー。
いや、もう、そんなことすっかり頭からとんじゃっていて、や〜ん!・・・・・じゃねーよっ!!
あつい、アツイ、暑いっ!
「心頭滅却すれば火もまたすずし」・・・・とか誰かいってたよなぁ。・・・人間じゃねー。
とか思いきりぶつくさいいながら駅の観光センター(これがキレイだったの!)のお姉ーさんに「雄総行きのバスってどこから乗ったらいいんでしょうか」と聞いて、丁寧に書いてくれたメモを頼りにバスセンターの中をウロウロしながら、「ながらバス」の「雄総行」に乗り込む。
どうやら伍長の故郷は終点まで乗っていいらしい。・・・・寝るよ。
えっとですね、島田魁伍長は岐阜県厚見郡雄総(現・岐阜市雄総地区)の庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれたということで、何の知識もないまま勢いだけで雄総に向かってしまったんですねぇ。(いつものことだけど)
鵜飼で有名な長良川を渡ってしばらく行くと道は細くなり古い家並みが点在する集落に着きます。「公民館前」の次が「雄総」で終点。その終点にもうすぐ着こうかという時に、運転手さんがやおら振り向いて(こらぁ!前むいて運転しろぉ!)
「お客さん、何かあんの?この先」
・・・・・・・・んなこたぁ、こっちが聞きたいわいっ!
バスの中はワタシ一人だったし、珍しい観光客が気になって仕方がなかったらしい。 まぁ、めったによそ者が来るってところではなさそうだしなぁ。
護国之寺 近藤家代々の墓(多分・・)
終点、「おふさ」でバスを降りると、目の前が伍長の近藤家代々之墓がある護国之寺(ごこくしじ)。(あ、ネットでHPあるよ)
但し、伍長のおっとさまは藩の(尾張藩)御用木材流木の責を負って自刃、おっかさまもすぐにその後をおって自害。伍長十三の時の出来事だそうです。
さて、この護国之寺・・・・・階段キツイのなんのって。
ようよう登りつめて社務所のようなところで(お寺の場合なんていうのかね・・庫裏?)案内を乞うと、若奥様風の女性がかけていた掃除機のスイッチを切って出てきてくれた。すみませんねぇ。
「あのぉ、こちらの代々のご住職さまのお墓の裏手に近藤家代々のお墓があるってお伺いしたんですが」
「近藤さん?ああ、山の上のご住職の墓地の裏にふるぅ〜いお墓がありますねぇ。けど、どこの近藤さんか分からんですよ。
お墓参りもだぁ〜〜れも来んし、お花があがっとるのも見たことないですしねぇ」
「はぁ・・・」
(まぁねぇ、近藤伊右衛門家は伍長のおっとさまの代で途絶えたらしいしねぇ・・)
けど、何っ?!今、山の上って言わなかったっ?!こっ、これ以上登るのっ!!!
暫くボー然。でもそこは立ち直りが早いのだけが取り柄のワタシ。
気を取り直して、藪蚊にさされながら、GO!GO!
そんな私の背中から若奥様の声・・・・・
「あのぉ、山の上にお墓、昨日の雨と風で倒れてるかもしれませんよぉ」
・・・えっ?昨日の雨??ウチの田舎はお星様ぴっかぴかでしたけど・・
でも、でも・・・・・え?ええっ?!えええっーーー!!
ぼっ、墓石が倒れてんのっ???
生まれついてこの年までとにかく、お化けとかこの世にあらざるものに関してはもう、大が付くほどの苦手!でも、オタク魂は強かった!
倒れた墓石の中からゾンビ風の伍長のご先祖様なんかにお目にかかれたらご挨拶位しないとねぇ・・・
なんて半ばマジに思いながら、ひぃひぃ言って山の上の奥の院まで到着すると、その向かって左手にご住職様代々のお墓が。
で、近藤家代々のお墓ってのはその裏って聞いてたんだけど・・・・これがまたたくさんで。(お蔭様で墓石は倒れもせずに全部上向いてたんですけどね)おまけに古いものですでに刻まれた文字は風化して読めない状態。これじゃ、近藤家のかどうか分かんない!
ただ、ここに眠っているのは伍長のお祖父さんの代まで。自刃したおっとさまとおっかさまはこの近藤家代々之墓に葬られることを許されず、村の共同墓地に葬られたそうです。
御用材流木の罪って、そんなに厳しいものだったんでしょーか。
なぁ〜んて考える前にもう、足ガクガク。木陰に座り込んで(近くを歩くアリさんの大きいことったら、まぁ)眼下に蛇行する長良川の対岸を見る。ちょうど、そのあたりが、伍長のおっかさまの実家、川島家のあった日野地区のはず。(地図によれば)おっとさま、おっかさま自害後、伍長が姉・弟(こちらは芋島地区の親戚に引き取られたそうです)と別れ、ひとり引き取られたところ。ぼんやりと対岸を見ていると、伍長が米俵両手に抱えて運んでいる姿、見えるみたいでした。えっほ、えっほ。・・・・はぁ、伍長すっき。
いいかげん「近藤家代々之墓」を探し疲れて階段を降りる。
先ほどの若奥様に、「村の共同墓地」への道順を聞いてみる。ちなみに「お墓はみな無事のようでしたよ」との報告も忘れない。つくづく律儀なワタシ。
でも、奥様ったら墓地の存在をご存じない。もしかしたら、もうないのかも・・・。せっかくここまできたのにぃ!と不安に駆られていたら・・・神様っているんですねぇ!
「昨晩の雨」でなぎ倒された枝の伐採をしていたおじさん!話を聞いていて、
「共同墓地ならね、公民館の横の近藤さんのとこまがってまっすぐ」
おじさんに、ありがと、ありがとの大洪水を浴びせて言われたとおり、公民館の横の近藤さん目指してGO!
でね、公民館の近くに近藤さんが・・・・・いっぱいあるの。だいたいさっきから目に付くのは近藤さんの他に二つくらいの苗字だけ。
そーなんですね。地方にありがちなその辺みんなご親族御一党さまってヤツなんですね。
方向音痴なワタシ(だいたい動物的カンだけで生きてるような人間ですもん)おんなじ所をくるくるくるくる回りながら、それでもどうにか着きました!「村の共同墓地」
伍長のおっとさま、おっかさまは代々之墓に葬られることを許されず、この共同墓地の一角に戒名無しで「南無阿弥陀仏」のみを刻んだ墓に眠っているということ。
「戒名無し、南無阿弥陀仏のきざまれた墓石」ってことで、結構ラクチンに見つかると、タカをくくっていたワタシでした。ハイ。
ところがっ!墓石はみんな「南無阿弥陀仏」だらけっ!!
・・・まったく、冗談にもなんない。いや、いっそ冗談なら笑って過去にできる。
・・・けど、あるのはギンギンにお空で笑うお日様だけ。
南西角地、日当たり抜群!環境最高のこの墓地のお墓の軍団の中から、いったいどうやって一つを探せっていうのよっ!
それでもひとつひとつ墓石に刻まれた文字を読もうと立ち上がったのは、すでに人ならざるオタク神のワザとしか、今思うと考えられない。
探し始めて15分くらい・・・・すでに解読が不自由な程の摩滅した墓石の中に、「天保十二年八月」の文字を見たときは暑さも忘れる程、感動しました。
新撰組スキスキ歴はダラダラ長いけど、こんなに真面目に足跡探したの初めてだもん。
天保十二年八月二十五日、御用材流木の責をとり、父伊右衛門が自刃、すぐに母が後をおって自害、島田魁十三歳、姉十五才、弟は四歳。
家は没収、土地を追放されるまで、伍長はこの土地を走り回り、豊かな自然に育てられたのでしょうね。
兄弟がそれぞれの親戚に引き取られ、離れ離れになる前に、伍長はこの墓前に香華を手向けにきたのでしょうか。
その後、伍長は母親の実家川島家に引き取られ、やがて尾張藩遠藤家へ奉公へあがり(伍長十九位らしいです)遠藤家の江戸勤務となり、
坪内道場で剣をみがき、(この時、この坪内道場で後に新撰組二番隊隊長となる永倉新八とであうことになるらしいです)その後、縁あって生まれ故郷に近い大垣藩島田才の養子となります。やがて、脱藩。京都に上り、暫く後、結成間もない新撰組に入隊(永倉新八の関係からというのが一番自然だと思うけど)、以後最後新撰組流転の最後の地、箱館まで戦いを共にし、官軍に下ってのちも、新政府に仕官することなく、再び京にもどり西本願寺の守衛として七十三年の人生を閉じます。
身長六尺(約181センチ)目方は四十五貫(約168キロ)の巨漢と言われた島田伍長。
頑なまでに新撰組隊士として、その生涯をまっとうした生き方にどうしようもなく惹かれて飛び出した盛夏の旅でした。
申し訳ございませんが、プラウザの『戻る』でお帰り下さい まいど♪