弁 慶




「違うっ、違うのですっ」
悲鳴のような必死の声に、何事かと、近くを歩いていた隊士さんの足が止まりました。
そして恐る恐る声のする方を見ると、そこには、まるで芝居の見得を切るように、
前方へ手の平を突き出し、顔中に汗を浮かべた片足立ちの近藤局長と、
その手の上げ具合を懸命に指導している総ちゃんの姿が――。

そうなのです。
総ちゃんは今日、八郎さんに連れられて、南座へお芝居を観に行ったのです。
出し物は、勧進帳。
そしてその弁慶にいたく感動してしまった総ちゃんは、屯所に戻るなり、
お帰りと厳つい笑顔を向けた近藤先生を廊下へ引っ張り出し、
買い求めた弁慶役者の錦絵を広げ、この通りをして欲しいと、潤む瞳で見上げたのです。


――左の手を高く上げ、右手には杖を持ち、隈取の目を剥いて、大見得を切る弁慶。

確かに・・・
男義と強さを象徴したような立ち姿には、近藤先生とて、惹かれぬ訳ではありません。
それに何と云っても、総ちゃんがこれ程に切願するのは、
この役をやれるのは、自分を置いて他には無いと云う事なのです。
そう思った瞬間、すっくと立ち上がった近藤先生は、
身も心も、既に弁慶そのものになっていたのでした。


そんなこんなで。
錦絵を真似た、近藤先生の勧進帳が始まったのですが・・・

世の中と云うのは、とんだ喰うもの喰わせもの。
絵姿を真似れば良いと思っていた近藤先生に、
なんとっ、総ちゃんの、厳しい駄目出しが待っていたのでした。
しかも思もよらぬ総ちゃんの行動は、時が過ぎる程に過激になり、
錦絵と少しでも違えば、鋭い指摘が飛び、ようよう満足して貰えたと思ったのも束の間、
そのまま、早一刻以上も同じ姿勢をとらされ続けているのです。

流石にそれだけ長い間片足立ちしていれば、床を踏み締めている感覚は疾うに無く、
顔と云わず、背中と云わず、冷や汗とも油汗とも云えぬ汗が廊下にぽたぽたと滴り落ち、
最早これが限界と、男の矜持も捨て去り、
「総司・・、そうそろ足を下ろしていいかい・・?」
と、ようよう問えば、
「駄目なのです」
と、うっとりと見上げる瞳と、つれなく返るいらえ。

「しかし、もう足が・・」
「あのね、土方さんに見せてあげたいのです」
「歳に・・?」
大汗にまみれた厳つい口が、訝しげに呟いた途端、こくこくと、総ちゃんが頷きました。
ですが・・・
――だとしたら、自分がやらされているのは、単に、歳に勧進帳を見せたいがため・・?
近藤先生の裡にふと兆したのは、得も云えぬ不安でした。
と、その時。

「土方さんっ」
ひときわ高い総ちゃんの声が、近藤先生の耳を打ちました。


まるで行く手を塞ぐように、廊下の真ん中で見得を切っている近藤先生と、
その横にちんまり端座している総ちゃんの前まで来ると、
土方さんは漸く足を止め、友の異形を、冷めた眼差しで一瞥しました。

「あのね、今日八郎さんに、勧進帳を観に連れて行って貰ったのです」
そんな土方さんの視線には頓着無く、
それはそれは嬉しそうに、総ちゃんは土方さんに語りかけます。
「・・伊庭と?」
それに土方さんは、大仰に眉根を寄せました。
「そうなのだ、それで総司はいたく感動し、
今弁慶をやれるのは、わししか居ないと云うのだ」
滴る汗を拭いもせず、近藤先生はここぞとばかりに、
自分の胸の不安を都合の良い様に置き換えると、豪快に笑い飛ばしました。
ところが。

「弁慶だと?あの無能な参謀の事か?」
土方さんはやおら唇の端を歪めると、皮肉な笑みを浮かべたのでした。
「・・無能・・?」
「そうだ、考えてもみろ。
まっさらな勧進帳を一言一句違える事無く諳(そら)んじられる頭があったら、
関所なんぞで足止め食う前に、逃げる方法くらい幾らでも見つけられる。
義経も無能な家来を持ったがために、痛い思いをして損したな」
とんでもない、けれど鬼の副長と恐れられる切れ者らしい発想に、
小さな目を丸くした近藤先生に、土方さんはふんと自慢げに鼻を鳴らすと、
今度は呆然と見上げている総ちゃんに視線を移しました。
「桃尻屋が、北座の芝居券を二枚寄越したが・・。伊庭と南座に行ったのなら、これはいらんか」
懐から出した紙を、ちらちらと見せながら告げる土方さんの言葉に、
総ちゃんの瞳が大きく見開かれました。
「何でも、異国の芝居だと云うが・・」
その総ちゃんの様子をしかと横目で確かめるや、土方さんは分からぬようにほくそ笑むと
「まぁ、ほかに見たい奴もいるだろう」
つまらなそうに云い置き、ゆっくり踵を返しました。


「・・総司・・」

咄嗟に立ち上がり、土方さんを追いかけようとした薄っぺらな背に、心細げな声がかかります。
それに躊躇いがちに振り返った総ちゃんでしたが、哀しそうな瞳で近藤先生を見詰めると、
二歩三歩後じさり、やがて縋るような視線を吹っ切るように、後ろを向け走り出しました。

やがて、近藤先生の耳に聞こえてきたのは・・・

「土方さんっ、あのね、本当は、北座のが、見たかったのですっ」
無情とも云える、残酷とも云える、一言。



――ゆらりと、前につんのめる体を持ちこたえ、とっとっとっ、と、切りたくも無い見得を切りながら、
ひとり廊下を渡る近藤先生の姿は、正しく弁慶の十八番、飛び六方そのもの。

とっとっと、はぁ、とっとっと、とっとっとっと、とっとっと。
とっとっと、とっとっと、はぁっ、とっとっとっとっと・・・・







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