冬の彼方 それは。 まだ島田さんが監察方で、山崎さんと机を並べ仕事をしている頃の事でした。 黙々と筆を動かしていた山崎さんでしたが、遂にしびれを切らしたように、横の島田に視線を送ると、開け放たれた障子の向こうを見るよう顎をしゃくりました。 そしてそれに気付いた島田さんが、促されるままに顔を向けると、其処には――。 柱の影に隠れて、こちらの様子を窺うようにしている総ちゃんの姿が。 「もう半刻も、あんたが気付くのを、ああして待っておるんや」 山崎さんは手を止めず、同僚の鈍さを、声を低くして責めました。 「半刻っ?」 島田さんは慌てて立ち上がると、あたふたと、部屋を出て行きました。 そうして。 気付いてくれるのを待っていたにも関わらず、いざ正面に立たれれば、俯いた顔を上げられず、恥ずかしげに頬を染め、何やらもじもじと話をしている総ちゃんと、それに、人の良さそうな笑顔で応えている島田さんを見るや、山崎さんは、疲れた溜息をつきました。 「沖田はん、何やて?」 笑顔の名残を浮かべながら戻って来た島田さんに、山崎さんは、次の書類に目を通しながら、一応の顛末を聞きました。 「こないだ、一番隊が捕まえた不逞浪士の隠れ家で、押収した絵草紙があったやろ? それを見た沖田はんが、気に入ってしもうて、もう少し貸して欲しいて云いに来たんや」 「ああ、あれか・・」 「知ってたんか?」 興も無さげに応えた山崎さんに、島田さんが驚きの目を向けました。 「冬の彼方・・、通称、冬カナやろ?」 「ふゆかな?」 「知らんのか?今巷で知らんもんは無い、人気芝居や。 先日押収したんは、それをそっくり絵草紙にしたもんや」 「芝居?」 「その主役をやってる役者が、辺・権儒云うて、優しい微笑みが、女子(おなご)の心を鷲掴みにするとかで、微笑みの貴公子云われておるんや」 「ぺ・ごんじゅん?」 「そや、今じゃ、ごん様ごん様云うて、江戸からかて、ごん様詣でに来る程の人気や」 「知らんかったわ、どないな話や、その、冬カナ」 「まぁひと言で云えば、親の因果が子に報い、紆余曲折の末、漸く初恋の人と結ばれる、冬の彼方には春があった云う筋書きや」 「けど、そないに複雑で、しかも女子受けする芝居に、何で沖田はんが嵌るんやろ・・」 「さぁなぁ。人生ちゅうもんは、どこに落とし穴があるか分からんからな」 さも不思議そうに首を傾げる島田さんに、山崎さんは、気の無い相槌を打ちました。 「けどそれ、嵌るのが沖田はんやからまだしも、他の人間やったら、 あんたもそないに平気な顔してられへんやろ?」 「他の人間って、誰の事や?」 書き終えて、墨を乾かした紙を束ねると、その端を、とんとんと机に当て整えながら、山崎さんはどうでも良さそうにいらえを返しました。 「例えば、局長とか・・」 「ああ、そら、あるかもしれんへんな。あの人、あれで結構情に脆いからなぁ・・。 けど局長の場合は、愛嬌で通るやろ」 「愛嬌なぁ・・」 云われてみればそんな気もして、島田さんは、厳つい顔を涙でくしゃくしゃにし、鼻をすすりながら、愛の物語を読み耽る姿を頭に思い描きました。 「ほな、副長はどうや」 「副長?」 冬カナからは、一番縁遠そうな人物を挙げて、島田さんは深く頷きました。 「嵌れば嵌る、嵌らなければ嵌らない、冬カナかな、・・・川柳の足し位にはするかもしれへんな」 溜息混じりで応えて立ち上がった山崎さんを見上げながら、島田さんも、 「冬の彼方に春が来るなどと、分かり切った事を喜ぶ莫迦が何処にいるっ」 と怒鳴りだしそうな鬼の副長を思い、大きな身を竦めました。 どんなものにでも、嵌るには、嵌るものと、嵌る人との相性と云うものがあります。 総ちゃんが嵌るには、微笑ましいと、つい頬を緩めてしまう美しい愛の物語も、嵌る人によってこうも格差が出てしまうのかと、島田さんは、人の世の向き不向きを改めて垣間見たようで、ふりふりと頭を振りました。 さてさて。 ここは、島田さんの葛藤も知らず、美しい愛の物語に耽る総ちゃんのお部屋。 薄っぺらな背が向かっているのは、小さな文机。 その半分に、島田さんにお願いして借りている『冬カナ』の絵草紙を置き、 もう半分には、それを写す紙。 そうなのです。 総ちゃんは、土方さんの五日間の大坂出張の寂しさに、ぼんやりとした頭のまま、ぱらぱらと捲ってしまった押収品に目をやったが最後、この愛の物語に嵌ってしまったのです。 ですがこれは、押収品、いずれは監察方に返さねばなりません。 そこで総ちゃんは悩みぬいた末、せめて文字だけでも書き写そうと思いついたのです。 けれど、そこは恋する者の身勝手。 主人公の名を土方さん、その相手役の名を総司に変える事は忘れません。 ですが・・・ 筋書きのように、土方さんが記憶を失くしてしまっては、総ちゃんの事も忘れてしまいます。 そんな事は、堪えられません。 そこで、その場は省略しました。 それに総ちゃんは、土方さんが待ち合わせの場に現れなければ、地の果てまで探す覚悟ですから、他の男の人と契りを交わす事もありません。 そう云う訳で、第三者の介入も省略しました。 更に、土方さんの目が見えなくなってしまい、二度と自分の姿を見てくれないなど、考えるだに恐ろしく、深い色の瞳には、うるうると涙すら溜まる始末。 そんなこんなで、そこも省略。 となれば・・・ 総ちゃんのための、総ちゃんによる、総ちゃんの『冬の彼方』は、登場人物が、土方さんと総ちゃんの二人だけで徹頭徹尾終始すると云う、とても単純明快、直截解明な美しい愛の物語に仕上がったのでした。 最後の一文字を書き終え筆を置くと、総ちゃんは、今は土方さんと離れ離れになっている冬の彼方にある春まで、あと幾つ独り寝の寂しい夜を過ごせば良いのかと、瞳を潤ませながら、片方の手の指を折って数えました。 |