桃 源 窟 土方さんはツルハシを握る手を休めると、諸肌脱ぎの首に巻いてあった手拭で、滝のように噴出す汗を拭き拭き後ろを振り返りました。 そうして、蝋燭の灯かりの下、此方を向こうともせず、黙々と絵草紙を捲っている薄っぺらの背に視線をやると、もう幾度目かの重い息をつきました。 ――確かに、総ちゃんに対しては夜昼無く穴を掘っていた自分ですが、まさかこんな処で巌に穴を掘るハメになろうとは。 そもそもこの考えも及ばなかった事態に陥ったのは、長州に出張した近藤先生から、岩国に足止めをされて暇だから遊びに来るよう、総ちゃんに文が届いた事から始まったのでした。 その文を見た土方さんは、幕府軍の腰抜けどもの陣頭に立ってやると、すぐさま美味しい建前を作り、翌日、意気揚々と総ちゃんとふたり、西国街道を下ったのでした。 むろん、宿場宿場での甘美な夜が、策士土方歳三の思惑どおりに更けて行ったのは、云うまでもありません。 ところが。 そうは問屋が卸さなければ、 まして他人のシアワセなんざ見逃しちゃくれないのが、世間さま。 旅もじき岩国と云う段に差し掛かった頃、ふとした事から手にした絵草紙に、総ちゃんが身も心も嵌ってしまったのです。 それは全九巻からなり、地の底深く暮らす王さまが、ある日因縁の皇子と巡り逢い瞬く間に恋に落ちるや、他人さまが蒙る迷惑などどこ吹く風、水琴窟で末永くシアワセに暮らしましたと云う、どう贔屓目に読んでも、眉ツバものの物語でした。 そんなこんなで。 今ふたりがいるここは、平清盛も守護神として崇めていたと云う神々の聖域宮島。 美しい夕日が、満ち潮に立つ鳥居を更に朱深く染め、その美しさにうっとりと浸ってしまった総ちゃんは、あろう事か、ここに洞穴を掘り、物語の主人公達のように、土方さんと暮らしたいと言い出したのです。 これには土方さんも少々眉根を寄せましたが、『ずっとふたりでシアワセに』と云う言葉には満更でも無く、何より、うるさい恋敵どもから総ちゃんを切り離す事ができると一石二鳥を企むや、遂にツルハシを握ったのでした。 ですが・・ その、愛ゆえの肉体労働も、早三日目。 「おいっ」 一向振り返らない無い背に、苛立ち混じりの声が飛びます。 それもその筈。 総ちゃんは、神さまがヤキモチを焼いてしまえば折角の計画も邪魔されてしまうかもしれないと、この三日、土方さんに手も握らせなければ、身体にも触れさようとしないのです。 ならば少しでも早く洞窟を仕上げるよう手伝えと思うのが、世の常人の常。 その分には、土方さんも例外では無かったらしく、少々口調が尖るのは人ゆえの哀しさ。 けれど・・・ 「少しは手伝え」 と、直球勝負に出てみれば、 「病弱なのです・・」 と、潤んだ瞳で見上げられて返る、変化球。 どこでこんな小技を覚えてきたものかと、天を見上げ溜息をつき視線を戻せば、薄っぺらの背は、早うっとりと絵草紙の世界にたゆたうている始末。 更に。 「総司、総司・・」 と、呼ぶ声は、紛れも無く、今は岩国にいる筈の、新撰組局長近藤勇その人。 「あんた、長州はいいのか」 厳つい顔をほころばせながらやって来る友に、あからさまに顔を顰めて問えば、 「軍が動いたら、先頭にたてばいいのだと、伊東参謀が云っていた。 抜け駆け、乗っ取りは、彼の得意とする処だ」 と、聞いて呆れる、お気楽な返事。 しかも。 「そんな事よりも、総司、まだかい?」 そわそわと揉み手をしながら、絵草紙から目を離さない総ちゃんのご機嫌を伺う様は、まるで難しい年頃の娘にどう接して良いのか分からない、不器用な親爺そのもの。 その近藤先生に返す総ちゃんのいらえも又、 「まだなのです」 と、気の毒な程の、素っ気無さ。 実は近藤先生、くだんの絵草紙にどっぷり嵌り、最後の巻を読みたくてうずうずしているのですが、総ちゃんと来たら『ふたりでシアワセになりました』と云う処を、擦り切れるほどに読み、読んでは涙しの繰り返しで、なかなか貸そうとしないのです。 「おうっ、そうだった。お前に頼まれたものを買って来たぞ」 それが釣る魚の餌のように、近藤先生はポンっと手を叩くと、なにやらごそごそと風呂敷包みを解き始めました。 その途端。 それまで夢うつつだった総ちゃんが、弾かれたように顔をあげ、近藤先生の手元に視線を釘付けました。 「探すのに手間がかかったぞ、なにしろ室町時代の名匠、土方(どかた)十四郎の手による村麻紗面だからな。値も張った」 唐草模様の風呂敷から覗いたソレを手に取ると、近藤先生は誇らしげに胸を張りました。 ですが――。 白い頬を紅潮させ、喜びに瞳を潤ませると信じて疑わなかった予測をたがえ、総ちゃんはソレを見た途端、呆然と瞳を見開き、やがて・・・ 「・・お面っ・・、じゃなくって・・、仮面っ・・なっ・・のですっ・・」 嗚咽混じりのか細い声が、近藤先生の勘違いを哀しげに責めたのでした。 そうなのです。 水琴窟で、皇子と仲良く暮らす王さまは、とても美しい顔をしているのですが、その半分を、冷たい皮の仮面で覆っているのです。 それが物語には欠かせぬツボなのですが、総ちゃんは、土方さんのお顔を隠してしまうのは嫌だけれど、でもそうしなければ物語にはならないと悩んだ末、途中まで筋書きを知っている近藤先生にお願いして、皮の仮面を買ってきてもらう事にしたのです。 で、その仮面が、今近藤先生の厳つい手に妙に似合う、ソレ。 ――暫くの、気まずい沈黙のあと。 「どこのドカタトウシロウが作ったって?えっ?そのひょっとこ」 鬼の新撰組副長土方歳三の、ツルハシより重く、氷室より冷たい声が、まだ一尺も掘り進んでいない洞窟イッパイに響き渡りました。 |