総ちゃんのシアワセ
      鼈之力不及-すっぽんのちからおよばず-でシアワセ♪なの




 「ほんま、最近は世知辛うてあきまへんわ。この間なんか、久々に、賽銭箱に一両投げ込んだ奴がいるぅっ、と思うた途端、そいつ、釣りをくれ云うて、宮司のとこへ行きましたのや」
「釣り?」
 黒々とした口髭から漏れた溜息に、綻び始めた梅を見ていた背が振り向きました。
「へえ、釣りですわ。三分釣りくれって、云うて来ましたのや」
「ほな最初から一分だけ入れといたらええやろ…、けったいなやっちゃな」
「それが、釣銭持ち合わせて無かったよってしゃぁない云うて聞きませんのや。結局、ごねてごねて、三分持って行きましたわ」
「ま、時代が時代やし、仕方がないんとちゃうか?」
「流石、木皇大神(いまきのすめおおかみ)はんは、心が広おすなぁ」
「いつもの平野はんでええがな」
 軽く手を振り座敷に戻ってきた客に、みっちゃんこと菅原道真公は、急須から注いだ茶を勧めました。それを見た大神さんの顔が曇ります。
「酒、無いんか?」
 無粋なもてなしを咎めた声が、あからさまに不満げでした。
「さっき云うたように、賽銭箱が潤いまへんのや。そんでこのままやったら、神仏組合に出した予算書も下方修正せなあかん云うて、宮司が節約令出したんですわ」
「あんたんとこ来たら、酒飲めると思うたのになぁ」
 云い訳を耳に素通りさせ、大神さまは、渋い顔のまま呟きました。
「この位ならまだましな方ですわ。昨日なんか、参道に寝ている牛を起こして、お客の顔舐めさせる、ちゅうのはどうですやろ、って云い出おって、止めるのに難儀しましたんえ。大体、置物の牛がにゅっと立ち上がって顔舐めたら気色わるうて、皆、逃げ出しますわな」
「けど学問所の試験受ける輩は、藁をも縋る思いやろ?だったら、絵馬なんぞより、なんぼもイケるかもしれへんよ、その、ひと舐めナンボの商い。酒飲めるんやったら、やってみる価値はあるやろ。それにしてもあんたの処はええわ、学問の神様っちゅうウリがあるよってな。ウチとこは今一つ地味であかんわ」
 湯呑に手を伸ばしながら、平野神社の大神さまは、ふりふりと頭(かぶり)を振りました。と、その時。不意に、大きな影の下敷きになった感覚に、大神さまはぎょっと目を上げました。

「何やねんっ、急に」
 突然縁に駆け出た道真公へ飛んだ文句でしたが、当の本人には届いていないようで、無言の大きな背は、落ち着かない視線を当たりに巡らせ始めました。
「道真はんっ、どないしたって、聞いてますやろっ」
「総ちゃんですがなっ、総ちゃんの匂いがしますのやっ」
「誰や、その総ちゃんって」
「ああもう、静かにしとってっ、総ちゃんの匂いが消えてまう」
 問う声に応えるのももどかしげに、道真公は広い庭を見渡します。そうして巡り巡らせていた視線が、一点で止まると――。
「総ちゃんっ」
 梅の木の下、慎ましやかに立つ華奢な姿に向い、縁から飛び降りました。
 ところが、次の瞬間――。
 走り出そうとした道真公の足が、不意にたたらを踏み、前につんのめった体が勢いのまま転げたのです。
「何しはるねんっ」
 束帯から出ている下襲を踏まれたのはあきらかで、道真公は、怒鳴り声と共に後ろを振り向きました。人の恋路を邪魔する奴は、先輩神とて容赦しないのは、古今東西恋する者のお約束。ところが罵声を浴びせられた大神さまは、どこ吹く風と云った涼しい顔で、ひらりと身を躍らせ庭に下り立つや、驚きに目を瞠っている総ちゃんに、ゆっくりと近づきました。
 そうして。
「平野神社の、木皇大神(いまきのすめおおかみ)です」
 フルネームで名乗ると、「貴方が、総ちゃん?」と、大神の威厳を最大限に活用し、厳かに微笑んだのでした。
「ちょっとぉっ、大神はんっ、どいてや」
 恋の道に、先輩後輩もありません。
 道真公は大神さまの前についっと体を乗り出すと、蕩けるように目を八の字にしました。
「総ちゃんっ」
「あ、お天神さま」
 見知った顔に会って安堵したのか、総ちゃんの顔にも笑みが浮かびます。
「またぁ、お天神さまやなんて。そないな他人行儀な云い方。…みっちゃんって云うてって、いつも云うてるやんかぁ」
 みっちゃんこと道真公は、もじもじと恥ずかしげに、チラッと総ちゃんに目を遣りました。そのみっちゃんを、大神さまはずいっと押しのけると、
「うちの事は、イマちゃんと呼んでや」
と、慈愛に満ちた眼差しを向けたのでした。ですが、はいそれじゃぁイマちゃんと、初対面の者を呼べる筈もなく、総ちゃんは、取りあえず、お知り合いのお天神さまを見上げました。
 誰?と問う不安げな瞳で見つめられれば紹介しない訳にも行かず、道真公は、渋々隣人に目を遣りました。
「この人、うちとこの裏の平野神社の神さまやねん。平野はんには四人神さまがおるのやけどな、その一の神殿の神さん」
「元々から大神やよって、人が神様になった道真はんとは、ちょっと格が違いますけどな」
 と、さり気にブランドを自慢する割には、「イマちゃん」とフレンドリーな呼び名にも拘らない大神さまは、胸を張りました。
「総ちゃんは、うちに会いに来てくたんですわ。いくら大神さまかて、邪魔せんといてや」
 その大神さまに、道真公は、牽制するように、忌々しげな目を向けました。
「そないに固いこと云わんかてええやんか。人類皆兄弟、仲ようせなあかん」
「けど、うちら神さんですやろ?」
「いちいち細かいなぁ。それより、総ちゃん、あんたホントにこの…」
 云いかけて、大神さまは、ちらりと髭に埋もれた隣人を見上げました。
 そして、
「道真はんに会いに来はったん?」
 と、疑わしげに問うたのでした。
「あのね、土方さんが上七軒で仕事をしているのです。だから終わるまで、ここで待っているのです」
「上七軒で仕事ぉ?」
 面妖な声の二重奏が、初春の陽だまりを隈なく浴びている庭に響き渡りました。
「上七軒云うたら、そこの花街やんか。花街で仕事云うたら…」
 それは大神さまの、素朴な発言でした。ところがその途端、総ちゃんの瞳に、寂しげな翳が差しました。これには大神さまも何かを察したようで、少しばかり眉根を寄せました。
「土方って、誰や、そいつ」
 傍らのお道真公に、そっと耳打ちした声が尖ります。
「云いたかないけど、総ちゃんの、コレですねん」
 道真公も声をひそめ、面白くなさそうに小指を立てました。
「これ?」
 同じように小指を立てた大神さまに、道真公が渋い顔で頷きます。
「ええ男か?」
「うちには負けますわ」
「ほな、ええ男やな」
 難しげに呟いた声に、道真公が不貞腐れたようにそっぽを向きました。
 と、その時。
「あのね…」
 そんなひそひそ声のやり取りに、思いつめた声が割り込みました。
「近藤先生も、土方さんも、お正月はもてなしで忙しいのです。…上七軒とか、島原とか、…祇園とか…」
 胸に重石が沈んで行くように、声は段々にしぼみ、やがて言葉が途切れると、じわりと瞳に滲んだものを隠すように、白い面輪は伏せられてしまいました。

――上七軒、島原、祇園。
 そう、そこは誰もが知る花街。白粉の匂いに咽び、紅の唇が艶な言葉を紡ぎ、白い指が密やかに絡む、男と女の桃源郷。仄かな灯の向こうに見え隠れする、禁断の園。
 とまぁ、花街と云えば、この程度の事は、誰もが馳せる想像。
 そんな街に恋しい人が居るとなれば、今総ちゃんの心は、張り裂けんばかりに切ない筈。
 伏せたままの面輪は中々に上げられず、眩いばかりの陽を浴びている薄い肩は、その薄さゆえに、打ちひしがれた痛々しさを強調しているようで、二人の神さまも掛ける言葉が見つかりません。

「道真はん、あんた、何か云って慰めてやってぇな。うち可哀相で、見ておれんわ」
「大神はんかて、何かええ知恵ありまへんのか?神さまの先輩ですやろ?」
「そないに云うたら、あんたかて学問の神様やんか?神さんが、神さん頼ってどないすんねん」
「こないな時ばっか、学問の神様云われたって…。うち貰い泣きしそうや。大神はん、この通り、あとで酒おごりますよって、よろしゅうお頼の申します」
「使えんやっちゃなぁ」
 拝み倒され、大神さまは、渋々、総ちゃんに視線を戻しました。
と、その刹那――。眼に飛び込んできたのは、折れてしまいそうに、白く細い項。
(あかんっ)
 強く目を瞑ったものの、その像は瞬時に瞼の裏に焼きついてしまったようで、大神さまは、あかんっ、あかんっ、あかんっ、と三回胸の裡で唱えるや、ごくりと生唾を呑み、己の煩悩を鎮めました。そして神の身であっても尚消し難い、恋と云う名の業の深さに、改めて瞠目したのでした。
 とまぁ、そんな葛藤は軽い咳ばらいに隠し、大神さまは総ちゃんの前に立つと、ようやく口を湿らせました。

「総ちゃん、あんな、男云うもんは、ホンマしょうもないもんや。この人だけやと、想うもんがおっても、綺麗なべべ着たおなごに云いよられれば、ちょっと位つまみ喰いしたかて分からんやろ、云う気も起る。大体、男ちゅうもんは、種蒔くのが仕事やよってな。まぁ、それも、本能っちゅうもんやろ。けどうちは違うでっ。うちは総ちゃんと添い遂げたら、絶対他のおなごには目もくれん。総ちゃんを放っておいて、上七軒で鼻の下伸ばしとる男なんぞとは、愛の深さがっ……」
 腫れものに触れるように優しく説き始めた声が、次第に熱を帯び、いつの間にか愛の告白に変わりかけた、と、その時――。
 ぐいっと引かれた袖に、大神さまは、乱暴に後ろを振り返りました。
「何やねん」
 ここぞと云う時に水を差され、声を尖らせたものの、道真公の渋い顔が促す先に視線を遣れば、其処には、白梅のような頬に一筋伝わった雫を、手の甲で拭ういじらしげな姿が……。

「大神はん、あんた、救いを求めてきたもんの傷口に、唐辛子とわさび刷り込んでしまいはったなぁ…」
 案外に不器用な先輩に、道真公は遣る瀬無い息をつきました。
「大体、大神はんは活力生成、源気の神様ですやろ?それが、心が傷つているもんから、活力も精気も奪ってどないしますのや」
 と、そこでもう一度溜息を吐きかけた道真公でしたが、まてよと、顔を上げました。
 そしてぽんっ、と手を打つと、
「そやっ」
 絶妙に得た閃きを、そのまま口から出したような大きな声に、総ちゃんの濡れた瞳が驚きに瞠られました。
「大神はんのその力、反対につこおたらええんやっ」
「反対?」
 訝しげな声に、道真公は大仰に頷きました。
「そや、反対ですわっ。あの土方から精力抜いてしもうたらええんですわ。そしたら、あいつは花街行っても、おなごの相手はできませんやろ?総ちゃんは安心していられるわ。大神はん、あんたはんかて神さんや。活力入れられるなら、抜くことかてできますやろ?」
「でけんことも無いけど…。なんや神さまの職務として、ちょっと後ろめたいなぁ」
「さっき、ウリがのうてイマイチ地味やって云うてはったけど、活力抜く云うんは、浮気癖の亭主を持つ女房達に、案外、受けるかもしれまへん」
 そう云われればそんな気もして、大神さまはちょっとだけ沈黙しました。
「…賽銭箱かて、潤いますえ」
 そんな心裡を見透かせたような、道真公のダメ押しでした。
 どきりと道真公を見た大神さまに、道真公は、にやりと笑みを浮かべて頷きました。
 そして何より…。
「大神さま、お願いですっ」
 とどめの一言は、総ちゃんの潤んだ声でした。
 惚れた者の縋るような瞳に見詰められ、是と応えられない神さまが、いえ、男がいるでしょうか。
「総ちゃん、そないにうちの事…」
 愛は究極の勘違いと自己陶酔。
「まかしといてやっ」
 どんと胸を叩いたその瞬間。大神さまは、もう誰にも止める事の出来ない、盲目の愛に突っ走り始めたのでした。
 そしてその横で道真公は……。

(伊庭やろ、田坂やろ、それから…、あ、斎藤。あいつの形代にも大神はんの護符貼り付けて、精力抜いた方がええな。いっくら愛しておっても、ちゅう、だけじゃなぁ…)
 ひぃ、ふぅ、みぃと指を折りながら、くすりと笑った口ひげが、嬉しそうに動きました。
(そうして総ちゃんは、うちの腕に……)
 今年こそ棚から牡丹餅を思い、道真公の頬の肉が、くにゃりと垂れました。
(七福はん、今晩あいてるやろか)
 前祝いの支度を頭に描きながら、道真公は、潤む瞳で大神さまに合掌している薄っぺらな姿を、穴のあくまで見詰めていました。







 膚と膚を隙間なく合わせた土方さんの腕の中。
 夢から帰るのを惜しむように、総ちゃんはゆっくりと瞳を開けました。
 そうして土方さんがとろとろと眠りについているのを見届けると、空いている片手を伸ばして、布団の下から小さな紙を取り出しました。それには、「鼈之力不及(すっぽんのちからおよばず)」の文字が。
 そうなのです。その紙こそ、大神さまから貰った、浮気封じの護符だったのです。
 暫しそのその文字を見詰めていた総ちゃんでしたが、土方さんが身じろぎすると、素早くそれを逆さにし、布団の下に戻しました。そして何事もなかったかのように、又土方さんに寄り添い、瞳を閉じました。

 そう、総ちゃんは思ったのです。
 もしも土方さんの精力が減退してしまえば、確かに、云いよるおなごに目移りする心配は無くなります。ですがそれが自分にまで及んでは、本末転倒。目も当てられません。そこで三日三晩考え抜いた末思いついたのが、
――護符を反対にすれば、精力は増幅する。
 と云う、妙案だったのです。

 世の中、何事も表と裏は一体。だとしたら、精力減退の護符も逆さに願えば、精力沸騰になるに違いありません。
 そしてその思いは、どうやら御利益に預かったらしく、今総ちゃんの身体に余すことなく散らばっているのは、紅の土方印。 
 そのシアワセの余韻に酔うように、白い頬が、ほんのりと朱く染まります。

 土方さんは、明日も接待。
 今度は「精力減退」が威力を発揮してくれますよう、総ちゃんは蒲団の下の護符に、そっと手を合わせました。









初春から、どんだ駄噺のお目汚し、ご勘弁願います(^^;





瑠璃