お昼寝でシアワセ♪なの  (した)



「お前はそんなに昼寝がいいのかえ?」
しょんぼりとしおれた姿を慰める振りを装い、八郎さんがさり気なく総ちゃんの肩を抱き寄せました。
抜け目無い肌理細やかな愛の抱擁は、春夏秋冬、季節も場所も、周囲の目も、相手の迷惑だって構うものではありません。
けれど総ちゃんは今自分を襲っている哀しみで胸が一杯で、顔を上げる事すら出来ません。
猫の土方さんは八郎さんを胡散臭そうにちらりと片目で見上げはしましたが、自分には関係の無い事はとっくに切り捨てているようで、抱かれている膝の上で又キモチ良さそうに目を瞑ってしまいました。

「こいつ、気楽な奴だな」
その猫の土方さんの様子に、とても気楽な藤堂さんが、少しだけ羨ましそうに呟きました。
「あの・・・」
そんな時、又も島田さんが控えめに声を掛けました。
「言ってみなよ」
これ又さっきと同じように、気配り名人を自負する永倉さんが促します。
「実は・・・。私もよくよく考えたのですが、なにも横にならなくても昼寝はできるのではないのでしょうか?」
島田さんは項垂れている総ちゃんに、遠慮がちに自分の意見を言ってみました。
その途端、総ちゃんの上半身がばね仕掛けの人形の様に起こされ、八郎さんの腕をすり抜けると、猫の土方さんを膝に抱いたまま、あっという間に島田さんににじり寄りました。
「昼寝っ、できるのですか?」
総ちゃんのあまりの必死さに、島田さんは大きく仰け反りながらも頷きました。

「はい。例えばですね、柱にこう・・・」
言いながら、島田さんは後ろにあった柱に、自分の大きな背中をもたらせました。
「こんな風にして、気持ち良い風に当たっていると、私などはつい、うつらうつらしてしまうのですが・・・」
島田さんは本当にキモチ良さそうに、ちょっとだけ目を瞑りました。
「ああ、それなら夜まで寝ちまう心配はねぇな」
永倉さんが顎に手を掛け、さもありなんと、納得気に頷きました。
それまで朝にしおれた夕顔のようだった総ちゃんの顔が、漸く嬉しそうに綻んだかに見えたその時―――――

「・・・だがよ」
今度は藤堂さんの低い声がしました。
八郎さんと、猫の土方さんを除く三人がそちらを向くと、藤堂さんが酷く難しげな顔をして腕を組んでいます。
「それは居眠りって奴じゃねぇのか?」
「・・・いねむり?」
繰り返したのは、小首を傾げた総ちゃんの、小さな小さな声でした。
「そうだ、居眠りだ。だからお前が言っている昼寝とは違う」
藤堂さんは別に島田さんに恨みがある訳ではありません。
ただ思った事を、そのまま口にしてみただけです。
だからと言って、この発言の責任を取れと言われても、其処までは考えていません。

「確かにな・・・」
今度は中庭に目を遣っていた八郎さんが、独り言のように呟きました。
そして皆の注意が十分に集まるのを見計らい、漸くゆっくりと視線を室の中に戻しました。
伊庭八郎、効果的という言葉を熟知し、活用するに些かの隙も無い御曹司です。

「居眠りじゃすぐに目が覚めちまう。所詮転寝(うたたね)だからな」
「すぐに目が覚めてしまうのは、困るのです」
総ちゃんはやっと掴みかけたシアワセの欠片を手放すまいと、八郎さんに詰め寄ります。
「ちゃんと昼寝をして、夢も見たいのです」
それをどうしたら、土方さんにさせられるのか・・・・
総ちゃんの頭の中はその事で一杯で、もう他のものは、どんなちっぽけな事だって入り込む余地はありません。
八郎さんに問いかける瞳には、あんまり必死すぎて滲むものすらあります。
「夢だったら、何も昼寝でなくとも、夜見りゃいいだろう?」
横から永倉さんが不思議そうに口を挟みました。
けれど総ちゃんはその永倉さんに向かい、ぷるぷると首を振ります。
「昼寝でなければ駄目なのですっ」
訴える声は悲鳴に近く、最早悲愴という他ありませんでした。
顔から色をなくし、唇を戦慄(わなな)きに震わせている、壮絶なまでの総ちゃんの姿に、どう云う事情があるのかまでは検討がつきませんでしたが、取りあえず其処に居る誰もが息を呑みました。


そうなのです。
夜では駄目なのです。
何故かと言えば、夜は夜で、土方さんは総ちゃんが泣き出しても離してはくれず、疲れ果て、いつの間にか泥のように深い眠りに浚われ、気が付けばあっという間に朝で、そんなゆったりとしたシアワセな時など到底望めはしないのです。

土方さんが眠ったのを見届けて、それから自分もその横でゆっくりと瞼を閉じて、そして一緒にオンナジ夢を見て、目が覚めた時にふたり仲良くその余韻に浸る事が出来なければ、総ちゃんの切願する『昼寝』の意味が無いのです。
更に言えば、自分が目覚めた時に、眠る土方さんの顔がくっつきそうに近くにあれば尚良いと、総ちゃんは思っているのです。
そうしたらオンナジ夢から先に覚めてしまった寂しさも、土方さんの寝顔を見ている内に少しずつ薄れて行くのではと・・・・
総ちゃんはそんな風に考えているのです。
そうしてそれを思うだけで、もううっとりとしてしまうのです。
けれど今八郎さんが言った『居眠り』や『転寝』では、その大事な夢さえ見る事ができずに終わってしまうかもしれません。
そんなことは絶対に嫌です。

総ちゃんの瞼には、ついさっき見た、土方さんと猫の土方さんが、ふたりで同じ動きをして仲良く眠る姿が焼きついて離れません。
一度・・・・、どうしても一度だけ。
自分もあの真ん中で、束の間、一緒の夢を見てシアワセになりたいと・・・
胸に秘める想いは、膨らみに膨らみすぎて、その為ならばもう全てを打ち捨てる覚悟の総ちゃんでした。
愛は――――――
夢と錯覚と思い込みの、シアワセな三重奏なのかもしれません。


『たかが昼寝、だよな』
と、藤堂さんは思いましたが、それを今口にすることは此処に居る皆の顰蹙を買うだけの結果になると、流石にその場の雰囲気で察し、咽喉元まで出掛かっていた言葉を、ごくんと奥に引っ込めました。
『長いものにはまかれろって、この間伊東さんが言っていたしな。訳の分からんものには尚更だよな・・・』
と、人の所為にすることも忘れません。

『昼寝・・・・』
永倉さんは考えます。
神道無念流、心形刀流を修行し、そこそこ極めて来た自分ですが、まだまだ世の中には剣の道など及びも付かない、未知なるものが溢れているのです。
人生とは、何と奥深いものであるのか―――
永倉さんは今一度瞑想するように、静かに瞼を閉じました。
ですが永倉さんが自分で考えたのは其処まででした。
考えても埒が明かない、しかも自分にはとんと関係の無いことは他人に振るのが一番です。
厄災は被ってくれる人に任せて、そうしてあくまでも一傍観者として余裕を崩さないのが、江戸っ子の粋ってものです。

世の中には、する人とされる人。
面倒は、かける人とかけられる人。
そう―――
哀しいけれど、その二つの選択しかないのです。
「島田さん」
その『かける方』を躊躇い無く選んで、永倉さんは横の島田さんに笑顔を向けました。
「あんた居眠りじゃない、昼寝をする時ってどんな時だい?」
「居眠りじゃない、昼寝・・・」
島田さんは先ほど精一杯の、総ちゃんへの慰めが空振りに終わった処だったので、今度こそ失敗しないようにと、膝に置いた両手をぐっと握り締め、宙を見据えて考え込んでしまいました。
その島田さんの応えを、総ちゃんのふたつの瞳が瞬きもせずに待っています。

そして―――
実直なだけに思考の限界を超し、顔を真っ赤にさせ汗を噴出している島田さんの暑さを横目でちらりと見、涼しい風を自分と総ちゃんだけに送りながら、八郎さんは思います。


総ちゃんと昼寝。
悪い相談ではありません。
風通しの良い室で、ひんやりとした畳の感覚を肌に楽しみながら、総ちゃんの寝顔を飽かず眺めるのも又夏の一興。
そういう訳ならば、選ぶ室にもおのずと注文が増えます。
あれやこれや脳裏に思い描き、やがて行き着いたのは・・・
『・・あの部屋か』
八郎さんは唇の端に、満足げな笑みを浮かべました。

それは二条城にある一室で、畳を何十枚も敷き詰めた広大な部屋を、更に幾つも幾つも連ねたその奥に在り、必要ならば御簾を下ろしておけ、鴬張りの廊下の煩さも其処までは及ばず、世俗とは遠く隔たり、まるで別世界のような静けさを醸し出す事ができます。
総ちゃんと二人で昼寝。
眠りにあれば共に見る夢の仕合せ、目覚めて現にあれば触れる肌の温もりの仕合せ、誰にも邪魔させず、二人まどろみの中での秘め事・・・・
其処まで楽しく想いを巡らせれば、最早行き着く先は『実現』という二文字しかありません。
そうなると、やはり場所はあそこより適した場所は無いでしょう。
けれど生憎、其処には先客がいます。
『どいて貰うさ』
八郎さんは何の躊躇いも無く、即座に『上様』を切り捨てました。

伊庭八郎、欲しいものは奪うと決めて為す術に、些かの容赦もありません。
愛はこそは―――――
空前絶後の個人主義なのかもしれません。


「・・・どんな時・・・どんな時と、言われましても」
ですが八郎さんとは天と地程もかけ離れた処で、遂に混乱を極めてしまった島田さんの口からは、我知らず念仏のような独り言が零れます。
「涼しい処に限るわなぁ」
そんな島田さんの災難など全く知った事では無く、八郎さんが楽しい思考に捉われたまま、扇子を片手に何気なく呟きました。
「そうです、そうでした、そうなのですっ」
思いもかけない助け舟に拾われた島田さんが、八郎さんに向かって大きく、満面の笑みで幾度も幾度も頷きました。
「昼寝はやはり、風通しの良い、涼しい処でなくてはする気が起きません」
やっと開放された難題に、島田さんの顔から今度は安堵の汗が滴ります。
「違い無いわなぁ」
八郎さんは島田さんを助けたつもりは更々ありませんでしたが、こうして感謝の眼差しを向けられれば、あっさり受け取るのが人の世の礼儀と、心地よい風を胸元に送りながら、殊更大仰に頷きました。


「・・・涼しいところ」
自分自身に向かって呟いて、総ちゃんは一生懸命にその条件に合った処を頭に思い描きます。
本当は、この土方さんの部屋が良いのですが、此処ではすぐに人が来てしまいます。
夢の入口に足を踏み入れかけた・・・、と思った途端、誰かに邪魔をされたら目も当てられません。
思っただけで哀しくなってしまいます。
風通しが良いとなると・・・・
やはり広い処でしょうか?
それからそれから、更に他の人に邪魔されない静かな処となれば・・・・
「あっ」
突然総ちゃんの脳裏に、とある場所が閃きました。
「涼しい処が見つかったのかえ?」
笑みを浮かべて問う八郎さんに、総ちゃんは嬉しそうにこくこくと頷きました。
そしてもうすでに心は此処に無いという風に、瞳はうっとりと、陶酔の色を帯び始めました。

そう――――
遠く魂を夢の世に飛ばしてしまった総ちゃんの瞳に、今映っている唯一のもの。
それは西本願寺のあの、広い広い本堂だったのです。
其処は数え切れない程の畳が敷き詰められ、特にその奥の、仏像が安置してある裏辺りは真夏でもひんやりと氷室のように涼しく、門徒さん達も中々足を踏み入れません。
正に、昼寝をするにはうってつけの場所なのです。
それに仏像の裏ならば、仏様だって折角お邪魔したお客さんを無碍にもできず、素敵な夢を見せてくれるかもしれません。
自分の願いが遂に本当のものになるのだと思うと、総ちゃんはそれだけでどきどきしてしまいます。


漸く全てが円満に終わり、今日一日の無事を金毘羅様に感謝して仕舞いにできると島田さんが安堵の息を吐いたその時、
「けど・・・」
又しても藤堂さんの声がしました。
これまでの経緯から、この藤堂さんの一言こそ、自分を奈落の底に突き落とす元凶だと身に染みて学習した大きな体が、びくりと強張りました。
島田さんがまるで災難そのものを見るように、恐る恐る藤堂さんに目を向けると、当の本人は腕を組み難しげな顔をして、何やら思案している様子です。
疫病神と貧乏神が仲良く鼻歌なんぞを唄い、気楽に此方に走って来るような錯覚に、島田さんは一瞬固く目を閉じました。
そんな島田さんの苦しい胸の裡など知る由も無く、やがて藤堂さんがゆっくりと口を開きました。

「幾ら涼しいと云っても、やはりそれだけじゃ駄目だろう」
其処にいる全ての人間に意見するような、重々しい声が室に響きます。
「それじゃあと何が要るってんだ?」
永倉さんは別段どうでも良いと思いましたが、折角藤堂さんが時をかけて考えた風だったので、それが日々の生活を円滑に支える秘けつと自分の裁量に満足しながら、『一応聞いてみる』という姿勢を見せました。

「あとは?」
総ちゃんも、藤堂さんを必死の声で促します。
何しろこれ以上は望むべくも無いという、昼寝に最高の場所を見つけたのです。
更にこれに『他にも必要なもの』を準備万端用意すれば、総ちゃんの願いの成就は、お日様が西から昇ったって揺るがない確かなものになるのです。
総ちゃんは逸る胸の鼓動を抑え、固唾を飲んで藤堂さんの次の言葉を待ちます。
「・・・・もうひとつ必要なものは」
藤堂さんは一度目を瞑り、そして今度はそれを静かに開くと、ゆっくりと視線を一巡させました。
「心の隙よ」
厳かに、それでいて其処に突っ込むものを寸座に断つ鋭さで、応えは待つ者達に返りました。

「隙ねぇ」
永倉さんが自分の顎を片手で撫でながら、繰り返します。
ここで『そんなこたぁ当たり前だ』と言う顔を露骨に見せないのが、やはり永倉さんの永倉新八たる所以です。
「なるほど・・・」
島田さんは流石に藤堂さんだと正直に思い、大きく頷きました。
八郎さんはさんざ引っ張っておいてやっと出た結論がこれかと、ある種の驚嘆さえ覚え、籐堂さんのしたり顔をつくづくと見ましたが、すぐに口直しのように、総ちゃんへと視線を移しました。
「隙がなけりゃ、気持ち良く昼寝することなんざできないぜ。眠気ってのは、心にできた不意をついてやって来るもんだ」
藤堂さんは周囲の反応に満足し、更に自分の講釈に浸りながら続けます。

「・・・隙」
総ちゃんの唇が微かに動いて、それはそれは小さな呟きが漏れました。
ですが瞳は茫然と見開かれ、視線は虚ろに定まりません。
それもその筈です。
何しろいつも一分の隙も緩みも、ついでに綻びも見せない、常に完璧な土方さんなのです。
隙を作るなどと言うのは、金輪際無理な相談です。
それでも一度心捉われてしまった素敵な夢は、総ちゃんから離れません。
一度だけ。
そう、一度だけ、どうしても土方さんと昼寝がしたいのです。


「どうしたのだえ?」
またまた項垂れてしまった華奢な背に、八郎さんは問います。
それに総ちゃんは力なく首を振りました。
土方さんの隙を見つけろなどと、誰にお願いしても叶う筈がありません。
それでも神さまも仏さまも、時々気紛れに救いの手を差し伸べてくれるものなのです。
「・・・俳句」
それまで周りの人間が声を掛けるのも憚れる憔悴しきった様の総ちゃんでしたが、一言発すると、弾かれたように不意に顔を上げました。
「あの、あのっ・・」
総ちゃんは其処にいるみんなを、焦れるように見回しました。
「俳句は隙なのかな?」
本当は『句を捻っている時に隙はできるのですか?』と聞く筈だったのですが、あまりにも急く心で勢い込んだので、総ちゃんは言葉の前後を思い切り素っ飛ばしてしまいました。
それを不審とも思わず、又も難しげに顔をしかめるのが籐堂さんです。
「・・・俳句が隙と言われれば」

そう言われてみれば、何となくそんな気もします。
古今東西名句と言われる句を思い浮かべても、別段何処を飾って素晴らしいと思えるものも思い当たりません。
いえむしろ、『古池や蛙飛び込む水の音』などという句などは、何処から見ても聞いてもそのまんま。
それに蛙が水に飛び込む音をわざわざ聞き耳立て筆を取るなど、余程暇がなくてはできないでしょう。
「確かに・・・暇が無くっちゃできねぇよなぁ」
藤堂さんは宙を睨んで呟きました。
その藤堂さんの応えを瞬きもせずに待っていた総ちゃんの顔に、みるみる喜びの色が広がります。

やはり俳句を捻る時は、暇という心の隙が無くてはならないのです。
ならば常に隙の無い土方さんも、俳句を捻る時だけは――――
土方さんとの昼寝が、にこにこしながら目の前で足踏みしているシアワセな錯覚に、高鳴る鼓動を鎮めようと総ちゃんが胸に手を当てたその時。
「ならあの人なんぞは隙しかないんだろうよ」
八郎さんが事も無げに、総ちゃんの確信を現のものに変えてくれました。
「土方さんかい?」
永倉さんが尤もそうに、八郎さんに相槌を打ちました。
「あれだけの川柳を捻るなど、尋常の思考じゃ中々できないことさ」
八郎さんは扇子を開いたり閉じたり、ぱちりぱちりと音をさせながら、物憂げに眉をひそめました。
「暇と隙を持て余し、尚且つ、あの人は世俗の恥なんぞとっくに捨てているのさ」
土方歳三と云う人物を彼岸に置いて、此岸から遠くを見るように目を細め、淡々と語る八郎さんの言葉を、夢路に行ってしまった総ちゃんはうっとりと聞き入ります。


総ちゃんは思います。
風通しが良くて涼しく、人に邪魔されない静かな場所、それはもう他に無い位に素敵な処を見つけました。
有り得ないと思っていた土方さんの心の隙も、あの尊い句を捻る時だけには見つけることが出来るという事も、奇跡的に分かりました。
そうして本堂で俳句する土方さんの心にふとできた隙に、心地よい風と共に眠気が忍び込んで・・・
さっきのように肘枕で眠る土方さんと、まるまって眠る猫の土方さんの間に少しだけ、自分も入れてもらって・・・・
総ちゃんはその光景を思い描いただけで、瞳がうるうるしてきます。

ところが。
シアワセの余韻に浸りきっていた総ちゃんに、又してもその行く手を塞ぐものがあったのです。
今は土方さんが好きな梅もありません。
はたきの音をつい止めさせる鶯だって鳴きません。
昼寝をする頃合には、もうすっかりお天道さまは高く、菜の花の簾に昇る朝日も拝めません。
それに何より、土方さんの句は――――
作って下さいと言って、『では』と、そう簡単に出来る程安っぽいものではないのです。
金色の仏像と遜色なく並び、衆生に有りがたがられる、それはそれは尊い句なのです。
おいそれと捻って貰える筈がありません。
ですがやはり、それはそれ。
良くしたもので、捨てる神あれば、拾う愛在り。
又も暗澹とした思いに沈んだその時、突然総ちゃんの脳裏に射しこむ一条の光が・・・・
「・・・あまど」
我知らず小さな呟きが漏れた時には、みるみる瞳に明るい光が宿りました。
そうなのです。
近藤先生が良く屯所の雨戸と言う雨戸に座右の銘を大書しているのを、総ちゃんは思い出したのです。

近藤先生は常々『こうしてあちこちに、忘れてはならない事を書いておけば、それを見る度に、どうしてもそうせねばならないキブンになる』と言っていたのです。
だとしたら、本堂の雨戸に土方さんの句を書いておいたらどうでしょう・・・・
いえ、それは駄目です。
雨戸は夜にならないと閉められません。
それでは昼寝に間に合いません。
それならば・・・・
そうです、畳と云う手があります。
畳に土方さんの句を書いておけば、座った途端に句を捻らなければならないキブンになるかもしれません。
更に其処でもう一押し、句を捻って下さいと一生懸命お願いすれば・・・・

―――シアワセは
もうすぐ目の前で手招きしています。
愛は。
信じる者に、とことん都合の良い解釈を許すものなのです。
そして愛とは。
常軌を逸してこそ初めてそれは、愛と呼べる代物になるのです。

もう三歩進んで二歩下がるなどという、まどろこしい前進の仕方を実践してはいられません。
総ちゃんはすっくと立ち上がりました。
もちろん、猫の土方さんは胸にしっかりと抱いています。
「あのね、土方さんが戻ってきたら、お寺の本堂に来て下さいと伝えて欲しいのです」
それだけを精一杯の早口で告げると、呆気に取られている四人などすっかり眼中に無い様に、猫の土方さんを抱いたまま部屋を飛び出しました。
それを見届けて、やれやれと、今度は八郎さんがゆっくりと立ち上がりました。
「土方さんが戻ってきたら、総司は二条城へ貰っていったと伝えてくれろ」
そしてそのまま、互いに順繰りに視線を送り合う三人には一瞥もくれず、八郎さんは総ちゃんの後を悠然と追い始めました。



残された三人に、暫しの沈黙が流れます。
やがて八郎さんの背がすっかり見えなくなると、漸く藤堂さんが口を開きました。
「総司は土方さんに、本堂へ来いと伝えろと言ったよな」
「そのまま言やいいんだろ?」
永倉さんは、至極当たり前のように応えました。
「それが良いです」
島田さんも大きく頷きました。
「けど・・・・」
そこで藤堂さんは眉間に皺を寄せ、険しい顔を作りました。
「伊庭は今、総司を二条城へ貰って行くからそう伝えろ、と言ったよな」
「だから総司が言った事だけを伝えりゃいいんだろ?」
永倉さんは籐堂さんの言い分をさらりと半分で遮って、しかし断言するような強い口調で応えました。

八郎さんが総ちゃんを二条城へ連れて行ったなどと告げたら、土方さんの不機嫌は火を見るよりも明らかです。
聞き捨てる事、聞かなかった事にする方が、世の為人の為そして一番に身の為という事が、生きている内には侭あるということを、永倉さんは熟知しています。

「そうです。副長には沖田さんが本堂へ来るようにと言っていたと、それだけを言えば良いのです」
島田さんも怖い程真剣な面持ちで、それはそれは低い声で、藤堂さんを見据えて説きます。
世間には絶対に係わってはならない事があることを、最近島田さんは身を持って知るようになったところなのです。
それは自分を振り回すだけ振り回し、重石をつけて水に沈められるような酷い疲労感だけを後に残し、その実根源となったものだけが、まるで何事も無かったかのようにシアワセに去って行くのです。
・・・・時折自分を襲うその正体が、『愛』と言う名に冠された、ただの傍迷惑だとまでは、島田さん自身も気づいてはいません。

ですが二人の無言の勢いは、訳が分からないけれど籐堂さんを凄い迫力で気圧し、有無を言わさず頷かせるのに十分でした。


「いい風だな」
頷きはしたものの、まだ合点が行かない藤堂さんを横目で見ながら、永倉さんが『さっきまでの事はすっかり忘れました』とでも云う涼しい顔で、庭に視線を向け、気持ち良さそうに目を細めました。
「本当に・・・」
島田さんも応えながら、『少しうつらうつらしたらもっとキモチが良いだろうな』と、ふと『昼寝』を思い出した自分を慌てて叱咤しました。
そうして『忘れてしまうこと』が、己のシアワセと―――
島田さんはゆっくりと瞼を閉じました。






一方―――
総ちゃんは西本願寺の本堂へと急ぎます。
重い猫の土方さんを抱いて走る額には、うっすらと汗が滲んできます。
けれどその疲れとて、もうすぐ掴める昼寝と云う名のシアワセへの誘(いざな)いだと思えば、苦労も即座に喜びに変わります。

一刻も早く本堂へ行って・・・・・
それから急いで畳に土方さんの句を書いて・・・・
あとは猫の土方さんと、土方さんがやって来るのを迎えるばかりです。
息を切らせて走らせる所為ばかりではなく、鼓動は今にも心の臓を破らんばかりに高鳴ります。
目の前に、両手を広げた総ちゃんのシアワセが待っているのです。


その総ちゃんを、八郎さんは焦る風でもなく追います。
本人が本堂だと言っていたのですから、何も汗かく必要はありません。
本堂に何をしに行ったのか、そんな事には頓着はありません。
総ちゃんを掴まえて、それから二条城へと連れて行く為だけに、八郎さんの足は歩を刻みます。
愛は――――
何を押し退けても、自分の事情だけをいの一番に優先させるものなのです。
それでもそこそこ急がないと、せっかく二人で昼寝をする良い場所を見つけたというのに、お天道さまが傾いて日が翳ってしまいます。
そうしたらあっという間に夜になり、せっかくの昼寝の意味が無くなります。
ですが、ま、そうなればその時の事。
いえ、返ってその方が余程に楽しいかもしれません。
果てぬ常闇の仕合せに思いを馳せる八郎さんの頬が、ゆっくりと緩んでゆきます。
そうそう、それならばやはり御簾は下ろしておいた方が良いかもしれません。
それでも用心の為に、何か人除けの札でも・・・
其処まで考えた時に、ふと八郎さんの胸に妙案が浮かびました。
「・・・あれでも貼っておくか」
少しばかり苦々しげに、八郎さんは呟きました。

そうなのです。
八郎さんは今、土方さんのあの句を、御簾の外のあちこちに貼る事を思いついたのです。
奇奇怪怪な川柳を、人除けとして御簾に貼り付ける。
人と云うものは、己の理解の範疇を超えた出来事に対面した時、自ずと係わりを避けようと、知らぬふり、見ぬふりを決め込むものなのです。
「係わりたい奴なんぞ、いないわなぁ」
八郎さんは、独り満足げに頷きました。



「ほんま、坊主に夏は酷やわ・・・」
玄海僧正さんは、庫裏に向かう足を急がせながら、頭にかいた汗を手ぬぐいで拭き拭き、お天道さまの酷な仕打ちに顔をしかめました。
けれどその歩みが、ぴたりと止りました。
「・・・沖田はんやないかぁ」
それまでの文句を、途端に満面の笑みへと変えたのは、目に飛び込んできた総ちゃんの姿でした。
ところが。
何やら慌てて本堂に向かって駆けてゆく薄っぺらの背を追おうとしたその時、やはり視界の端に束の間の仕合せの代償のように、見たくも無い姿が入って来ました。
玄海僧正さんは、お腹の中で『ちっ』と舌打ちすると、素早く営業用の『徳の高いお顔』になり、八郎さんにやんわり微笑みかけました。
何しろ何処で門徒さんが見ているか分からないのです。
身の綻びだけには、くれぐれも気をつけねばなりません。

「これはこれは伊庭はん、今日もお暇そうで羨ましゅうおすわ」
「この暑さに、坊主も難儀な商売だな」
玄海僧正さんの、お天道さんの陽をまともに照り返している頭を見て、八郎さんはさも鬱陶しげに眉根を寄せました。
玄海僧正さんが、『ほんま、こいつらに一度礼儀っちゅうもんを説法してやりたいわっ』と、これまたお腹の中で毒づいたその時―――――
遠くから木魚の音と、経を唱える厳かな声が聞こえて来ました。

「ああ、叉あないにつまらん経を唱えとるわ・・・」
玄海僧正さんは、八郎さんの事も、何処で見ているのか分からない門徒さんの事も忘れ、忌々しげに其方へと顔を向け、独りごちました。
「つまらん経も商売道具だろう?」
八郎さんは、痛いところを全く他意なく突いてきます。
「それじゃあきまへんのや。今日び、門徒はんに飽きられず、満足して貰おう思うたら、ありきたりの経では足りまへんのや」
玄海僧正さんの目は、俄かに算盤を弾く商人のそれへ変わりました。
「それならうってつけの経があるぜ」
「どないな?」
玄海僧正さんは、胡散臭そうに聞き返しました。
「あのカルタの句。例の、あんたが仏の道だの人の道だの、色々に置き換えて使えると説法しているあれだ」
「ああっ!」
八郎さんの言葉の終わらぬ内に、玄海僧正さんがぽんと手を打ちました。
「あれなら般若心経の代わりにしても、何の遜色もあらへん」
「おまけに分かりやすくて、とことん奥が深いと来ている」
「そやそや」
玄海僧正さんは、これで叉更に門徒衆の人気を一身に集められると思うと、頬が緩むのがとまりません。
「何よりも・・・」
ここでもったいぶって、八郎さんは一度言葉を止めました。
玄海僧正さんも、思わず息を呑んで次を待ちます。
「総司が喜ぶ」
「沖田はんが喜ぶ・・・」
止めの文句は玄海僧正さんの胸に、鉛よりも重く打ち込まれたようです。
繰り返した顔が、陽を撥ねる頭よりも明るく輝きました。

大好きな句が読経で流れるのを聞いた総ちゃんは、きっと感激して、あの深い深い色の瞳をうるうるさせ、自分に感謝することでしょう。
もしかしたらその時、甘い約束のひとつやふたつしてくれるかもしれません。
それを思えば最早自分に為すべき道はただひとつ―――
玄海僧正さんは、即座に実行に移す事に決めました。

「ほな、さっそく伽藍に行って、今の経止めさせて、あのありがたい尊い句に変えてきますわ」
言うが早いか、とても『僧正』という肩書きとは思えない俗っぽい素早さで身を翻し、読経の流れる伽藍に向かい、玄海僧正さんは緋色の衣を棚引かせて走って行きました。


八郎さんはその姿を見送ると、やおら踵を返し、今度はさっきよりもずっと早く、本堂への足を急がせます。
こんなに暑い時に、さらに鬱陶しい読経であの句を聞くなど、本当にとんでもない事です。
それが始まらない内に、さっさと総ちゃんを連れて此処を出なければなりません。
玄海さんに焚き付けたのは、確かに自分です。
ですがその結末まで享受しようという気は、八郎さんにはさらさらありません。

「駕篭を拾わなくっちゃならねぇな」
とても大切な事を、ふと思いついたように八郎さんは立ち止まりました。
二条城まで歩いて汗になるのは真っ平です。
八郎さんはさっきまでの全ての事を、二歩進んですっぱりと斬り落とすと、あとは楽しい楽しい総ちゃんとの昼寝に、一足飛びに思いを馳せました。



他方―――
土方さんは不機嫌の当たり処のように、ぎしぎしと音を軋ませ、大股で廊下を歩いています。

火急の件だと騒ぐ近藤さんの処に不承不承行ってみれば。
何と近藤さんは総ちゃんのぴよちゃんを脇に置き、『最近総司にぴよちゃんよりもお気に入りの愛玩動物が出来てしまったようだが、それは自分が与えたぴよちゃんよりも愛しいのだろうか』と、それはそれは深刻な面持ちで、土方さんをすぐ傍らまで呼び寄せ、他に漏れないような低い声で相談を持ちかけたのです。
そんな事で『報告』という大義名分の元に名を借りた、総ちゃんとの大切な二人だけの時を邪魔されて、土方さんの怒りは絶悪調に治まりません。


憤りの収まらぬ勢いのままに床を鳴らし、漸く自分の部屋に着くと、そこには―――

「おいっ、総司はどうしたっ」
静寂を無遠慮に破る怒声に、キモチ良さそうに寝そべりまどろんでいた永倉さんが、迷惑そうに片目だけを開けました。
その横で藤堂さんは鼾をかき、ちょっとやそっとの事では起きそうにありません。
「寺の、本堂に行くってよ」
永倉さんは其れだけを言うと、面倒くさそうに背中を向け、また眠りに入り込んでしまいました。
島田さんは柱にもたれてぼんやりした視線を、一度は土方さんに向けましたが、永倉さんの言葉に『それに間違いありません』と云う風に頷くと、これもまたキモチ良さそうに目を閉じてしまいました。
土方さんは苛立たしげに昼寝にうつつを抜かす三人を見下ろしましたが、これ以上は何を問いただしても埒が明かないと知ると、ひとつ舌打ちをし、総ちゃんを探す為に踵を返しました。

玄関を出た土方さんに、寺の方角から、いつもよりも張りのある声で読経が聞えて来ます。
「坊主が気張って経を読んでどうするっ」
吐き捨てるような低い低い怒声が、妙にそれに和して重なりました。


お天道さまは天高く、今はほっと息をつける日陰も無い広い境内に、総ちゃんの姿を探して土方さんは目を凝らします。
更に歩を進めるその耳に、読経の声が否応なしに大きくなります。

土方さんは、ずんずん寺に近づきます。
読経も、どんどん大きくなってゆきます。

やがて・・・
綿々と続くそれが何を云っているのか、判じられる程に大きくなって―――
一際かまびすしく蝉時雨が降り―――
土方さんの足が、ぴたりと止まり。



いつの世にも・・・
誰かのシアワセの分だけ、誰かにその分の災難を。
神さまも仏さまも、ちっとも匙加減などなさらず、公平に振り分けられるものなのです。
そう。
誰かのシアワセと、誰かの災難を、いつもいつも隣り合わせに―――

                             ちーん。







   
          おあとも先も無いようで。。。とほほ・・・


        
   



                   瑠璃の文庫