盆踊りでシアワセ♪なの (した)



「中身を変えるぅ?」
あまりと云えばあまりに突飛すぎる八郎さんの提言に、玄海さんの声が上ずりました。
「読経って奴の響きは重いだろ?」
「そんなん、当たり前や」
だからこそ聞かされる方は、意味は分からずとも、何となく厳かな気分になるのであって、それが無ければ有り難味も半減するとばかりに、玄海さんの物言いには、智慧を働かせぬ者への嘲りがありました。
ところが。
「だから悪いのさ」
そんな挑発など歯牙にもかけず、それどころか八郎さんは、もう鼻でせせら笑うのすら面倒そうに、呆れ顔でため息をついたのでした。
「それを小気味のいい文句に変えて、声を一段高くして唸ってみな。そうすりゃ節回しが軽快になる分、多少は踊り易くなるだろうよ」
「・・小気味のええ、文句・・」

――確かに。
念仏の中身をすり替えるなど、思いもよらない発想ではありましたが、坊主達の合唱で安上がりにすませようと云う魂胆の玄海さんにとっては、目から鱗。
忌々しい恋敵の策とは云え、これには食指を動かさざるを得ません。

「・・節回しが軽快になる、小気味のええ文句云うたかて、どんなんのがありますのや」
そうとなれば問う声に、ついつい次なる欲が見え隠れしてしまうのは、世の常人の常坊主の常。
「そうさな、例えば・・」
「例えば?」
ごくりと喉をならし八郎さんを見る細い目が、他人さまの妙案に棚からぼた餅を期待し、無理やり大きく開かれます。
同じように、愛弟子の暑気当り平癒の為に何とか盆踊り大会を盛り上げたいと願う近藤先生も、元々が賑やか好きな永倉さんも、そして律儀が災いして、成り行き上この話題から抜け出せなくなってしまった島田さんも――。
皆が固唾を呑んで、八郎さんの言葉を待ちます。
けれどただひとり総ちゃんだけが、魂を何処かに飛ばしてしまったかのように、相変わらず畳みにくっつきそうな程に、前屈みでうな垂れたままでした。
ところがっ。

「土方さん・・、あの人の川柳だが・・」
周囲の注目を一身に集めた八郎さんが、焦らすようにゆっくりと口を開き、そして言葉を発したその刹那――。
このままでは折れてしまうのでは無いかと、近藤先生が案じていた総ちゃんのか細い首が、ばね仕掛けの人形の如く跳ね上がるや、今の今まで抜け殻のようだった様が信じ難い素早い動きで、細い縁取りの面輪が、八郎さんに向けられたのです。
けれど当の八郎さんは、そんな総ちゃんの一挙手一投足を、ちらりと視界の端で捉えはしましたが、直ぐに先を待つ男達に視線を戻したのでした。
そうして、
「あの川柳を、繋げてみたらどうだえ」
畳んだ扇子を口元に持って行き、それはそれは恩着せがましい一言を告げたのでした。

「梅の花、一輪さいても・・てやつか?」
「そう、あれだ」
それは妙案っ、と膝を打つには首を傾げざるを得ない句である事を知るだけに、流石に訝しげに問う永倉さんに、八郎さんは、いともあっさりと頷きました。
「そんなん出来ますかいなっ。川柳を念仏の中身にして盆踊りで唄ったやなんて、他寺(よそさん)に知れたら西本願寺の威光にかかわりますっ」
更に永倉さんの躊躇に追い討ちをかけるように、玄海さんの慌てふためいた一喝が、この案を即座に却下しました。
 
 其処は西本願寺の僧正さま。
門徒衆の心は縄手で縛り付けても引き止めたい、けれど他寺へ張った見栄も、そんじょそこらの槍や鉄砲で破れる代物ではありません。
そうとなれば算盤勘定と虚勢とを天秤にかけ、担いだ棒が傾いたのは後者の方だったのです。

けれどそんな玄海さんの事情など、何処吹く風。
「梅の花一輪さいてもうめはうめ、人の世のものとは見へぬ桜の花」
八郎さんは二つの句を繋げたものを、低めの、そして艶のある声で、読経もどきの節回しで器用に唄い終えるや、端正な面に満足げな笑みを浮かべたのでした。
「悪くはねぇな。だが合いの手も入れた方が良かねぇか?りんと太鼓だけじゃ寂しいだろう。合いの手が入りゃ、唄も盛上がるぜ」
しかもその声に釣られたか、永倉さんまでが並々ならぬ興を示し始め、座敷に身を乗り出す始末。
「合いの手ねぇ・・」
更なる提言に、当てた扇子で二度三度、軽く顎を叩いて思案していた八郎さんでしたが、突然、猛烈な勢いで此方に寄って来る気配に、この時を待っていたとばかりに其方へと双眸を向けました。
そして視線が捉えたものは――。
立ち上がる間も惜しむかのように、前のめりになりながら膝で進んで来る総ちゃんの姿だったのです。

「あのっ・・あのっ・・」
「なんだえ?」
焦りが先走り、上手く言葉に出来ない総ちゃんをしかと受け止め、寸分の違いも無く己の思うままに運び行く筋書きに、八郎さんは胸の裡で高笑いを禁じ得ません。
「あのねっ、うぐいすや、と云う句があるのですっ・・」
ですがそんな八郎さんの思惑など知る筈も無く、総ちゃんは急(せ)く心は、伝えたい話の前後を思い切り省いてしまいました。
「箒(ほうき)だったか、それとも雑巾だったか・・、そいつがどうのこうのと云う奴かえ」
「はたきなのです、それでねっ・・」
「合いの手に、其れを使えと云うのかえ」
焦燥を宥めるように、先回りして問う八郎さんに、総ちゃんは大急ぎで頷きます。
「そりゃ、いいかもしれねぇなぁ。梅の花一輪さいてもうめはうめ、だろ?で、人の世のものとは見へぬ桜の花と来て、其処で、はたきの音もついひやめるソレソレと、合いの手だ。どうだ?」
試しに口にした永倉さんの渋い喉に、総ちゃんも、それはそれは嬉しそうに、幾度も幾度も頷きます。
けれど・・・

「総司・・」
そんな総ちゃんの悦びに、水を差したのは他ならぬ八郎さんだったのです。
そして薄っぺらの肩を優しく捉え自分の方を向かせると、八郎さんは憂いを籠めた眼差しで、不思議そうに見上げる深い深い色の瞳を見つめました。
「だが其れをやっちまったら、西本願寺の威光に係わるそうだ。世知辛い現世(うつつよ)を生きて行かねばならない衆生に、せめて一夜の極楽を楽しませてやろうと、寺もあれこれ頭を捻ったのだろうが、それでも同じ此岸の土俵じゃ、義理に縛られ諦めざるを得ない事情があるのも又浮世の理(ことわり)。お前も辛いだろうが、其処の処は分かってやってくれろ」
 興奮で仄かな朱に頬を染めた総ちゃんの面輪が、語っている途中からみるみる硬くなるのを目の当たりにしながら、包み込むような柔らかな声音で諭す八郎さんの顔(かんばせ)も苦しげに歪みます。
なまじ思いもかけず掴みかけたシアワセの尾っぽだけに、逃した時の衝撃は元の何十倍、いえ何百倍にも大きくなって跳ね返ると云うもの。
呆然と言葉を失くし、大きく見開いた瞳に八郎さんを空ろに映し出したまま、総ちゃんは息をも止めてしまったかのように、もう身じろぎもしません。

「総司っ・・可哀想に・・。だが、伊庭君の云うとおりなのだよ」
更に薄い背を後ろから抱くようにして語りかけたのは、近藤先生でした。
「確かにここで、歳のあの俳句を世間に披露出来れば、鬼と恐れられている新撰組も、ああ、あんな冗談にもならぬ句を作る輩がいる、案外に気の置けない集団ではないかと誤解も解ける事だろう。だがそれで嫌々寺領をお貸し下さっている僧正殿にご迷惑が及んでは申し訳がたたん。ここはわしに免じて堪えておくれ」
愛弟子のあまりの落胆の様に、声が震えるのも憚らず、近藤先生は熱くなった両の目頭を、節くれだった親指と人差し指でぎゅっとつまみました。
そんな師弟からゆっくりと移した視線を、八郎さんは、今度は玄海さんへと向けました。

「そう云う訳だ。総司には後で俺が十分に言い含めるから、あんたも今の話は忘れてくれろ。あの川柳を使えば、さぞや総司が喜ぶと思ったが、確かにあれは他所に出せば必ず恥をかく代物だ。そんなものを使ったら、あんたの立場も無かろう」
 しみじみと説く八郎さんの口調はどこか侘しげで、近藤先生に支えられなければ、今にも倒れてしまいそうに項垂れてしまった総ちゃんの姿と相俟って、縁に腰掛けている島田さんの胸にも、それはそれは切なく染み入こんで行きます。
そして遂には目の奥をじわりと熱くしたものを、手の甲で汗を拭う仕草に似せて、島田さんは何とか誤魔化したのでした。
「そうさなぁ、云われてみりゃ、あれは仏像なんぞの前で披露するもんじゃぁねぇ」
そうなれば永倉さんも、然りとばかりに頷きます。

ところが――。
皮肉な事に当の玄海さんの耳は、今誰の言葉も届かず、頭の中は猛烈な勢いで損得の算盤を弾き始めていたのです。

大体が、総ちゃん目当てで企てた盆踊り大会。
それに欲をも絡ませた結果が、三味線弾きや笛吹きの代わりに弟子達に念仏を唱えさせれば、懐をも潤うと目論んだ次第。
けれど念仏の内容をあの川柳にするのならば、坊主達の合唱はそのままに、三味線引きや笛吹きを外から呼ぶ必要も無く、全てが身内で賄える訳です。
しかも総ちゃんは、川柳を繋げた唄が流れる事を切望しているのです。
男が上がって、懐も潤う・・・
正しく、一石二鳥とはこの事。

ちらりと総ちゃんを垣間見れば、向けられている瞳は潤み、縋るような眼差しが、世俗を捨てきれない身に狂おしく突き刺さります。
ああ、これぞ、至福の一瞬。
玄海さんは高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、静かに室の中の者達を見回しました。
そうして――。


「今、ここに・・・」
云いながらゆっくりと右の手の平を、左の胸の辺りに当てると、
「御仏が来はって」
半眼の体(てい)で、厳かに語り始めたのでした。

「梅の花一輪咲いてもうめはうめ・・ええ句ぅやないかぁ。二輪咲いても桜にはなれへん。どないに頑張っても、梅は梅、桜にはなれへんのや。それは人かて同じや。どないに足掻いても人は人。せやったら浮世を忘れて、今宵一夜は心行くまで楽しゅう踊りなはれ。桜の花の句ぅかて同じや。人の世のものとは見へぬ桜の花。・・この世では決して見れん極楽浄土への美しさを、この句ぅは深ぁあい憧憬を込めて詠(うと)おておるのや。けど所詮は叶わん現(うつつ)の希(のぞみ)。なら、せめて踊り明かす事で堪えなはれ。・・・一見簡単なように見えて、こないに奥の深ぁーい句ぅは滅多にあらへん、大事にせなバチが当たるでぇ、と、そう云うて行かれはりましたのや」

 勿体ぶった調子で語り終えるや、ありがたいお導きを尊ぶかのように、玄海さんは厳かに合掌しました。
そしてその説法に、感極まった総ちゃんだけが、白い頬にはらはらと零れ落ちるものを拭おうともせず、同じように両の掌を合わせると、深く深く頭(こうべ)を垂れたのでした。
更に。
そんな総ちゃんの健気を目の当たりにした近藤先生が、堪え切れずに太い嗚咽を漏らし始めると、今度は島田さんが、己の目と鼻から滴り落ちるものを、お天道さまを睨むようにして偶(ぐう)と耐えました。
ですが此処まで感動過多に走りすぎる者達を見ていれば、其処で足踏みする人間も、ひとりふたり出てくるのは致し方が無い事。
座敷の中の情景を見渡しながら永倉さんは、もしもこれが現のものになったのならと・・・
ふと引き戻された現実に、暫し愕然としていましたが、やがて誰にも気づかれないようにさり気なく室の中に背を向けると、何も聞かず何も見ず何も知らなかったのだと自分に言い聞かせ、容赦の無い夏の陽射しに顔を歪めました。
そして――。

目の前で繰り広げられる展開を、既に大して興もなさそうに見ていた八郎さんは、早総ちゃんとふたりで過ごす、二条城での夢幻の一夜への段取りに、思考を回転させ始めていたのでした。
取り敢えず、明日の宿直(とのい)に当っている者達に、自分が代わってやるとこっそり耳打ちすれば、皆喜んでお役目を放棄してくれるでしょう
ですがどうにも行き場も、引き取り手も無い人間がひとり。
さてそれを、どうするか――。

「・・まぁ、ひとりくらい居た処で、邪魔にゃならないだろうさ」
城の主である上様を居候と決め付け、八郎さんは、少しばかり面倒げな渋い顔を作りました。





「誰かおらんかっ、正念っ、知念っ」
真上から突き刺すお天道さまの陽を、坊主頭で受け止めた玄海さんの大音声が、耳を劈く蝉時雨すら押しのけて境内に響き渡ります。
その声に、何事かと慌てて庫裏から出てきた正念さんと知念さんの姿を見つけた玄海さんの足が、漸く其処で止まりました。

「何やっとんのやっ、はよう皆を本堂に集めんかっ」
いきなりそう怒鳴られても、訳の分からぬ二人は互いに顔を見合わせ、そしてそれを遠慮がちに玄海さんに向けました。
「ええいっ、分からんやっちゃな、今から盆踊り大会の唄を皆で練習するんやっ」
「盆踊り大会の唄・・ですやろか?」
更に混迷の度を増す内容に、問う知念さんの声もだんだんに小さくなります。
「そうやっ、念仏の中身を、あのありがたい句ぅに変えるのや」
「句ぅ?」
「そや」
あまりに突拍子も無い言葉に耳を疑い、素っ頓狂な声を上げた二人に、玄海さんは大きく頷きました。
そして・・・
「梅の花ぁ一輪咲いてもうめはうめぇ、人の世のぉものとは見へぬぅぅ桜の花・・・ああ、ええ句ぅやぁ」
玄海さんはひとり悦に入ったように目を瞑り呟きましたが、直ぐに其れを開き、呆気にとられている二人に視線を戻しました。
「そんでな、途中で、はたきの音もついやめるソレソレ云うて、合いの手も入れるんや。そないにすれば軽い調子になって、踊りやすうなるやろ?どや、念仏かて中身を変えれば立派に盆踊りを盛り上げてくれるのやっ」
拳を振り上げんばかりに力強く訴える玄海さんに、知念さんは、『中身変えたら、念仏やなくなるんと違いますか?』と、喉元まで出掛かった疑問を寸での処で堪えました。
「せやし、こないな処で足を止めている暇はないんやっ、早よう皆を本堂に集めてこれから特訓やっ。ひとりも脱落させんよって、覚悟しぃやっ」
荒い鼻息が吹きかかりそうな勢いに気圧され、慌てて庫裏に向かって走り出した正念さんと知念さんの後姿を苛立たしげに見、自らも足を急がせようとした、と、その時――。

「あっ・・、唄にはサビ云うもんがつきもんやなぁ」
ふと過ぎった思いに、踏み出しかけた玄海さんの足が止まりました。
「そやっ、あれをサビに、うちがひとりで唸ればええんや」
ですがすぐさま追って浮かんだ妙案に、左の手のひらを右の拳でぽんと叩くや、
「すれば迷いぃ、しなければ迷わぬぅう、恋の道ぃい」
奇妙な節回しをつけて唄い終わると、満足げな笑みを浮かべたのでした。
そうして暫しその余韻に浸っていた玄海さんでしたが、ゆっくりと瞼を閉じると、つい先程まで縋るように自分を見つめていた想い人の姿を脳裏に描いたのです。

修行で辿り着くのは、諸行無常のつれない道。
ならばせめてこの世の恋の道で辿り着くのは、永久(とこしえ)に変わらぬ極楽浄土でありますようにと・・

「・・沖田はん・・」
今にも張り裂けそうな想いに昂ぶる胸の裡を切ない吐息に籠め、玄海さんは、恋しい人の名をそっと呟きました。




 庫裏の賄い場から、転がるように床に上がりかけた正念さんの動きが突然止まり、そしてその背に、先を封じられた知念さんが勢いのままぶつかりました。

「何やねん、急に止まったら危ないやないかぁ」
「堪忍。・・それより、頼みがあるんやけどぉ・・」
おでこをさすりながら不満を訴える知念さんに、正念さんはもじもじと上目遣いに友を見上げました。
「何や?はようせんと僧正さまに叱られるでぇ」
「その事なんやけどぉ・・。あんなぁ、合いの手のとこ、うちに譲って貰えんかとおもうて・・」
「はたきの音もつひやめる、ソレソレ・・云うとこかぁ?けどなんで?」
不思議そうに尋ねる知念さんでしたが、当の正念さんは、ぽっと頬を赤くして俯いてしまいました。
「ああっ、正念はん、合いの手で目立って、もしや沖田はんとええ約束でけたらって、期待してはるんやろ?」
「そないに大それた事思わんけどぉ・・。けど、次の日、合いの手を聞いてくれはった沖田はんが、声をかけてくれはったらええなぁって・・そないに思うたんや」
「隠さんでもええって。うちと正念はんの仲やないかぁ。よし、それやったらうちもひと肌脱ぐでぇ。皆にはあんじょう云うておくよって、盆踊り大会の合いの手は、正念はん、あんたがお気張りやっしゃ」
お天道さまよりも真っ赤になって、あばた顔を恥ずかしそうに伏せ頷く正念さんに、知念さんも友の恋の成就の一旦を担ごうと、任せとけとばかりに己の胸を叩きました。



******************



と、云う訳で。
あれから一夜が明け、今は遠くの山々を黄金色に染める陽が、一日の終わりを教える頃合。
本来ならば苛烈な夏の陽の、呆気ない程にすとんと落ちる様が、早次の季節の到来を感じさせ、何とはなしに寂しさを掻き立てる筈の夕暮れ。
ところがその侘しさも何処へやら、この西本願寺に至っては、櫓を組み立てる金槌の音と、夏を惜しみ降りしきる蝉時雨と、更にそれらに負けんとばかりに張り上げられる読経の声とが三つ巴となり、耳をつんざくような喧騒の坩堝と化していたのでした。
そしてその中を、新撰組屯所へと、舟を降りてから一度も足を止める事無く一直線に向かう広い背を、障らぬ神に祟りなしとばかりに無言で追っているのは、監察方の山崎さんでした。


――公務で土方さんについて大坂に下ったのが、一昨日の事。
金銭の交渉相手である大坂の豪商、桃尻屋の主が折り悪く腹下しを起こし、対面を一日延ばして欲しいと、その連絡を受けたが運のつき。
それがこの鉛のように重い疲労を我が身にもたらす元凶になろうとは、如何に鋭い観察眼と勘の持ち主である山崎さんとて、到底知る由も有りませんでした。

 苦々しい渋面を作りながらも、一旦は相手の願いを聞き届け、交渉を一日延ばすと承知した土方さんでしたが、その温情も一刻持ったのか、持たなかったのか・・・
次第に苛立ちを増してくる様は、室の隅に離れて座していても、手に取るように察する事が出来ました。
そうして、山崎さんにとって、そんな針の莚の時がどれ程続いた事でしょう。
やがて昼も近くなろうかと云う段になり、船宿の二階の格子窓に肘を置き、不機嫌この上ない風情で外を見下ろしていた土方さんが、無言のまま、すっくと立ち上がったのです。
どちらへっ、と掛ける声も届かず、肩を怒らせた背はずんずん廊下を行き、その後を必死に追った山崎さんでしたが、乗り込んだ駕籠の着いた先は、思った通り、交渉相手の桃尻屋の店先。

 突然の新撰組副長のお出ましは当然店の者を慌てさせ、主は只今腹下しでと・・、しどろもどろの言い訳も聞かず、ゆるりと笑った顔(かんばせ)は、端整が故の凄味が、後の言葉を呑み込ませるに十分すぎる迫力で、蒸し暑いその場の気を、氷室の其れへと一変させ、相手を縮み上がらせたのでした。

 さてさてこの桃尻屋。
元々がしまり屋で、金の交渉となると、あれやこれやと逃げの一手で、今までにも散々、のらりくらり交わされていると云う経緯があり、このままでは埒が明かぬと焦れた土方さんが、遂に今回自ら登場と相成った次第だったのです。

そんなこんなで。
店の者は元より、山崎さんの制止すら振り切り、我が物顔で奥へと進んだ土方さんが向かった先は、やはり主の居室。
どうやら好きな桃を食べ過ぎて腹を下しているとは嘘では無かったらしく、ぷっくりと桃のような体格の桃尻屋の主は、ぐったりと床に伏しておりました。
ところが土方さんは黙ってその枕元に座りこむと、やおら懐から巻紙を取り出し、其処に書かれている内容を、主の耳元で怒鳴りつけるように読み始めたのでした。
其処には・・・

無期限催促無しの無利息で借りる算段になっていた莫大な金子の額と、桃尻屋はそれに文句無く同意する旨が記してありました。
それらを息つく暇も無く一気に読み終えると、土方さんは、今度は主の厚い耳たぶをひっぱり、良ろしいですなっ、と一言、がなり立てるような大音声で、半ば意識の朦朧としている相手に念押ししたのです。
更に。
頷いたのか、或いはがくりと首を垂れたのか、其処は判断つきかねる主のまぁるい手首をむんずと掴むや、腰の小刀を抜き、何処に関節があるのか分からないぷくりと太い親指の腹に、ほんの僅かに傷をつけ、それをぎゅぅと紙に押し付けて交渉成立証の血判としたのです。
そしてその一部始終を唖然と見守る者たちの視線などお構いなしに、土方さんは表情も変えず、無造作に其れを懐に仕舞い込んだのでした。
そうして――。
「病中にも関わらず、主殿にはご協力感謝する。お大事になされよ」
にこやかに笑みを浮かべ立ち上がるや、精も根も尽き果て、ぐったりと床に伏した主などもう見向きもせず、蹴散らすように踵を返したのでした。

流石、鬼の副長。
切れ者と、巷での噂を少しも違わぬの鮮やかな手並みでした。
けれど・・・
これが総ちゃんとの再会を一日遅らせたが故に、土方さんを憤怒させてしまった結果なのだとは、桃尻屋の主以上に疲れ切った面持ちで後に続く山崎さんだけが知る真実でした。




とまぁ、京では京で、大坂では大坂で、昨日はそんな経緯があった訳ですが・・・

「何だ、あれは」
西本願寺の外にまで聞こえて来る騒がしい音に、漸く立ち止まった土方さんが、背中を向けたまま問いました。
「何でも寺で盆踊り大会を催すのだとか、・・そのような報告を受けていますが」
「盆踊り大会だと?」
舟を降りてから初めて後ろを振り向いた土方さんが、被っていた笠の端を指先で上げ、あからさまに眉根を寄せました。
「・・門徒衆の為の、寺の行事でしょう」
「うるさい事を」
ちっ、と舌打ちするや、一度止めた足を、今度は更に大きく踏み出した土方さんでしたが、その脳裏には、最早手を伸ばせば触れ得る程に間近にいる、想い人の姿しかありません。

――明日に帰営が延びると書いた文を受けた総ちゃんは、どんなに落胆したことでしょう。
案じてくれるなと強がりを云っても、想い人は元来が病弱な身。
もしかしたら衝撃のあまり、床に伏してしまっているかもしれません。
そうと思えば進める足も、自ずと勢いを増します。

「・・総司」
胸の奥で言葉にするそれだけで、土方さんの裡には熱い血潮が滾ります。


 斜めに射す陽の中、己の行く手を阻むものは一切容赦しないとばかりの勢いで遠くなって行く背が、視界の中で、みるみる小さくなるのを見届けながら、山崎さんは、これから始まる夜への畏怖を、深い深い吐息にまじらせました。
――見ざる、聞かざる、知らざる。
結局のところ、それが一番つつがなく世を渡るのに長けた処世術なのかもしれません。
山崎さんは小さく頭を振ると、棘の道への、重い重い一歩を踏み出しました。





さてさて。
まさか土方さんが直ぐ其処まで帰ってきているなどとは露知らず、朝から止まない胸の高鳴りは今や最高潮に達し、そんな心の臓を抑えるように、総ちゃんはそっと左の胸に手を当てました。

 何しろ今宵の盆踊り大会は、数え切れない人々が、土方さんの句に乗りながら、手を振り足を上げ踊り明かすのです。
皆が土方さんの句を口ずさみ、一夜の桃源郷に酔いしれるのです。
中には感激のあまり涙する人も、きっと少なくないでしょう。
土方さんの、あの素晴らしい句が数多(あまた)の人々の生きる糧となるのです。
ああ、なんて素敵な一夜なのでしょう。
総ちゃんの白い頬が、興奮でほんのり朱に染まります。

――猫の土方さんには、昨日のお詫び方々、尾頭付きの鯛を持って一緒に踊りませんかと誘ってみたけれど、煩そうに啼かれただけの、つれない返事を貰ってしまいました。
けれどそのふてぶてしさすら土方さんを彷彿させずにはおかず、総ちゃんは鯛を咥えて素早く去る後ろ姿をうっとりと見送ったのでした。
「・・鯉の土方さんにも、蛸の土方さんにもご飯をあげたし・・」
至福の時を心置きなく過ごせるように、総ちゃんは慎重に指差し確認を行います。
そして万事ぬかりが無いと分かれば、あとは夢のような一夜の始まりを待つばかり。
と、その時・・・

・・・梅の花一輪さいてもうめはうめ

夕暮れを憂えるように降りしきる蝉時雨を潜り抜け、遠くから、読経ともつかぬ軽快な旋律が聞こえてきました。

「あっ・・」
その瞬間、大きく瞠られた深い色の瞳が、声を運んできた風の方へと向けられました。
そうして微かなそれを聞き逃すまいと、総ちゃんは息をも詰めて身体中の神経を耳に集めます。

人の世のものとは思へぬ桜の花・・・

まだ十分に中天の熱を孕んでいる風の中、総ちゃんの瞳が、これから始まる盆踊りで、賞賛と敬慕の嵐を浴びるに決まっている土方さんの句へ思いを馳せ、夢見るようにうっとりと細められました。
究極愛とは。
結局のところ、徹頭徹尾自己満足と倒錯に終始する、甘美な、そして世にも残酷な勘違いに他ならないのかもしれません。


盆踊り大会が終わって夜が開ければ、土方さんが帰ってくるのです。
ならば、今宵見る夢は、うつつが夢。
覚めて見るのも、うつつが夢。
そう、夢の舞台はすぐ其処までやって来ているのです。

・・・梅の花一輪さいてもうめはうめ、人の世のものとは思へぬ桜の花・・

そしてその夢への階(きざはし)となる声が、段々に大きくなり・・・

「・・はたきの音も・・ついやめる・・」

 尽きぬ想いを鎮めるかのように、自ら合いの手を紡いだ小さな声が、ほんのり桜色を混じらせた唇から、ちょうど花びらが風に戯れに舞うように、恥ずかしげに、けれどとてもシアワセそうに、うっとりと零れ落ちました。













                  おあともオチもありませんようで・・・とほほ






瑠璃の文庫