呉服屋宗ちゃんのシアワセ♪
お彼岸も過ぎたと云うのに、まだまだ都に籠もる熱は胡坐をかいて居座り、秋は名のみの今日この頃。
けれどそんな暑さとて、此処『真選近藤屋』に渦巻く熱気には、尾っぽ巻いて逃げ出す始末。
滑らせた反物を肩に当て、あれやこれや女客の姦しいお喋りで賑わうその店の中を、強面に愛想笑いを浮かべ、腰を低くして泳ぐように奥に行くのは、この近藤屋の主近藤先生。
そうしてようよう辿り着いた先は、算盤片手に帳簿付けに忙しい、番頭の山崎さんの隣。
「宗次郎は、まだ戻らんのか」
「戻らへんから、おらへんのですやろ」
つい先ほどまで女客に向けていた笑みなど、もうすっかり何処かに放り去り、不機嫌この上ない低い声で耳打ちする近藤先生に、此れもまた、毎度の事とばかりに鬱陶しげに応える山崎さんでした。
「島田がついていながら、いったい何をしておるのだ」
「仕方あらしまへんやろ、やっとうの稽古なんやさかい。そのうち戻りますやろ」
主の顔も見ず、帳面に視線を落としたまま、山崎さんは面倒そうないらえを返します。
「なんで呉服屋の倅が、やっとうの稽古をせにゃならんのだ」
それにも負けず、近藤先生の愚痴は続きます。
「坊ちゃんが習いに行きたい云うた時に、旦那はんがええ云わはったからですやろ」
ちらりと視線を流して告げた山崎さんの止めの一言には、流石に近藤先生も、四角い顔を更に厳(いかめ)しくして、愚ぅと唸って黙らざるを得ません。
――かくも話題の主、近藤屋の一人息子の宗次郎は、花も恥らう十五歳。
生まれて直ぐに養子に貰い、花よ蝶よと大事に大事に育てた甲斐があり、それはそれは素直な気質の器量良しに成長したのでした。
ところが、一月前のこと。
その宗ちゃんが、急に近くの剣術道場に通いたいと云い始めたのです。
これには驚いた近藤先生でしたが、三日渋った末、ご飯も喉を通らない程に項垂れる宗ちゃんの姿を見るに忍びず、手代の島田さんの後押しも有り、仕方無し無し、通う事を許したのでした。
そしてその時の宗ちゃんが見せた笑みは、思い起こせば、今でも近藤先生の頬を緩ませる程に、この上なくシアワセそうなものだったのです。
そんな宗ちゃんを目の当たりにし、近藤先生も、下した自分の決断は間違ってはいなかったのだと、己の裁量に満足げに頷いたのでした。
「旦那はん、旦那はんっ」
独り自己満足の悦に浸っていた近藤先生でしたが、不意に耳元で大きな声で呼ばれ、つと其方を振り向くと、山崎さんの呆れた顔がありました。
「坊ちゃんが、帰ってきはりましたわ」
その言葉に慌てて視線を店先に向けると、客達の視線から逃れるように、大きな島田さんの陰に隠れて、土間の片隅を此方にやって来る、華奢な身があるではありませんか。
それを見止めた近藤先生はやおら立ち上がり、いそいそと小走りに駆け寄りました。
「お帰り宗次郎、さぞ腹が空いただろう?馬頭饅頭を買ってあるよ。ささ一緒に食べよう」
近藤先生は、島田さんを押し退けんばかりの勢いで、背中に隠れている宗ちゃんを促します。
ところが。
いつも嬉しそうに頷く筈の宗ちゃんが、今日はいらえも返さず、それどころか曖昧に瞳を伏せてしまったのです。
「どうしたのだい、宗次郎?何処か具合でも悪いのかい?」
問うても微かに首を振るだけで、俯いたまま此方を見ようとしない宗ちゃんに、近藤先生も思わず身を乗り出すようにして問い質します。
「宗次郎、黙っていては分からないよ」
更に宗ちゃんの肩を掴もうとしたその手を、大きな島田さんが、咄嗟に我が身を盾にして阻みました。
「あの、旦那さま。坊ちゃんは、その・・今日のやっとうの稽古で、ひどく汗になりまして・・きっと先に汗を流したいのではと・・」
そうでございますね、と、自分よりも遥かに小さな宗ちゃんを背中越しに見下ろし、島田さんは同意を求めます。
その声に促されるように、おずおずと見上げた宗ちゃんでしたが、何やら含んだ島田さんの目と合うと、慌ててこくこくと頷きました。
それを聞いた近藤先生は、厳(いかめ)しい顔の眉根を寄せました。
「そんなに汗をかいたのなら、早くに云わなくては駄目ではないか。風邪など引いたら一大事。早く風呂に入っておいで」
近藤先生の言葉に、宗ちゃんは安堵したように頷くと、小さな背を見せて、小走りに奥へと消え行きました。
ですが――
「ちょっと待ちなさい」
その宗ちゃんを追うべく、頭を下げて踵を返そうとした島田さんを、近藤先生の太い声が止めました。
大きな背をびくりと震わせ、それから恐る恐ると云う体(てい)で、ゆっくりと振り向いた島田さんの目に、腕組みをした近藤先生の難しげな顔が飛び込んで来ました。
「・・あの」
「宗次郎だが」
島田さんが何をか問おうとしたその声を、近藤先生の強い口調が遮りました。
「最近どうも様子がおかしいのだが、お前は何か知ってはいないかい?」
「・・様子が、おかしいとは?」
どぎまぎしながらも、島田さんは白を切ります。
「何と云うか・・そう、何やら物思いに耽っているような、それでいて落ち着かないような・・実は先日も馬頭饅頭を買いに行こうと誘ったのだが、食べたく無いと云って部屋に籠もってしまった。それにここの処益々食も細くなり、これではやっとうの稽古になど、心配で心配で遣る事が出来ん」
ふりふりと首を振る近藤先生に、島田さんは一生懸命に何かを云おうとするのですが、自分の心の臓が早鐘のように打っているので、口だけがぱくぱく動いて、言葉が出てきません。
「旦那はん、島田を行かせんと、坊ちゃんが困りますやろ」
ところが捨てる神あれば拾う神ありで、島田さんの窮地を救ったのは、帳場から掛かった山崎さんの声でした。
「おおそうだった。早く風呂を沸かすように、云ってやっておくれ」
直前まで抱いていた懸念など、何処吹く風のようにころりと忘れ、山崎さんの意見に、近藤先生も慌てて頷きました。
訳は分かりませんが、どうやら同僚が困り果てているらしいと、遠目で判じた間の良い助け舟に、島田さんが縋るような感謝の眼差しを送ると、山崎さんは、又もちらりと向けた目線だけで、『早よう行け』と促しました。
さてさて此方は、そんな出来事など露知らぬ宗ちゃんの部屋。
そぉーと障子を開けて島田さんが姿を現すや、それまでそわそわと落ち着かなかった宗ちゃんの面輪に、得も云えぬ嬉しそうな笑みが広がりました。
それを見た島田さんも、先ほどまでの気苦労も何処へやら、つられるように頬が緩みます。
「・・おとっつぁまは?」
「大丈夫でございましたよ」
きっちりと障子を閉め、そうして宗ちゃんの前に端座すると、少しばかり不安そうに問う瞳の主に、島田さんはにこやかに笑いかけました。
「良かった。・・あのね、今日は左の肩なのです」
心底安堵したように呟くと、宗ちゃんは細い指で懐から大事そうに『石田散薬』と書かれた紙の包みを取り出し、それを島田さんに手渡しました。
「まだ痛いから、さっきおとっつぁまに触られたら、どうしようかと思った」
ちょっとだけ困ったように笑いながら、自分の胸元を肌蹴けて素肌を曝した宗ちゃんの後ろに、島田さんも慣れた風に回りこみます。
ですが薄い背の、透けてしまうのでは無いのかと思われる白い肌に、くっきりと残る幾つかの痣を見るや、あまりの痛々しさに島田さんは眉根を寄せ、遂には目までをも逸らせてしまいました。
「島田さん?」
その気配に気づいた宗ちゃんが振り向くと、島田さんは大きな手の太い指で目頭を押さえ、男泣きに泣いているではありませんか。
「あの・・あの、・・島田さん・・」
宗ちゃんは吃驚して、島田さんに詰め寄ります。
「・・坊ちゃん」
島田さんはゆっくりと目頭を押さえていた手を離し、おろおろと狼狽する宗ちゃんを、赤い目で捉えました。
「もうこのような事は、お止めください。あの薬屋から薬が買いたければ、この島田が行李ごと買い上げて差し上げます。ですからわざと人様に打たれて、打ち身の薬を買うなどと馬鹿げた事は、これきりにして下さい。・・でなければ島田は、島田は、・・これ以上傷だらけになる坊ちゃんのお姿を見るにしのびません」
最後は溢れる思いに、語尾を震わせて訴える島田さんに、けれど宗ちゃんは、寂しげにふるふると首を振りました。
「・・あのね、本当に怪我をしていなければ、駄目なのです。そうでなければ薬は売れないと、薬屋さんが云ったのです」
そうしてしょんぼりと項垂れる総ちゃんの姿を見る島田さんの胸の裡に、今度は薬屋への怒りが沸騰します。
「だからと云ってこのように毎日毎日、もう一月も打ち身傷を創っていては、そのうち坊ちゃんの身体が壊れてしまいますっ」
ただですら病弱な宗ちゃんなのです。
それが良くもまぁ今日まで頑張って来られたものだと、島田さんは胸が熱くなりながらも、情に流されてはいけないと、必死に宗ちゃんを諌めます。
実は島田さんには、近藤先生には言うに云えない秘密があったのです。
それは一月前、店の前を通り過ぎた、それはそれは目つきの悪い薬売りと、宗ちゃんの瞳がたまたま合った事が発端だったのですが――
元々愛玩動物を可愛いと見定める審美眼には、首を傾げるものがあった宗ちゃんでしたが、その薬屋の目つきの悪さは尋常ではなく、島田さんがしまったっと慌てた時にはもう既に時遅く、宗ちゃんはうっとりした瞳で、ふらふらとその男の後に着いて行ってしまったのです。
そしてその宗ちゃんを追い、近藤屋から数町先の伊庭道場で、何やら怪しげな薬を手際良く売り捌いている男を漸く見つけた時、もうひとつ、島田さんの目が映し出したのは、其処の道場主の息子八郎さんに、入門を頼み込んでいる宗ちゃんの姿だったのです。
それから早一月。
こうして宗ちゃんは、毎日毎日わざと人様の竹刀を身に受けては、行商に来る薬屋から薬を買い続けているのです。
稽古が終わった後、門人達に鮮やかな弁舌で薬の効用を説き、見事な手法で売りつける薬屋の姿をうっとりと見つめ、そうしてもう荷も仕舞い掛けた最後に、漸く薬を下さいと、蚊だってもう少しまともに鳴くだろうと呆れる小さな声音で、俯いたまま顔も上げられずに告げる宗ちゃんのいじらしい姿を目の当たりにする度に、覗き窓の格子を握り締めた手に力を籠めて、島田さんは幾度泪したことでしょう。
ですがそれもこれも、もう限界です。
島田さんは目頭を熱くするものを無骨な手で拭うと、きっと顔を上げました。
「坊ちゃんっ、私はもうっ・・」
「宗次郎っ」
ですが大きく息を吸い、己を鼓舞しての決意は、最初の一言を告げる間も許されず、やにわに開かれた障子と共に放たれた大音声に、あっと云う間もなく呑みこまれてしまいました。
「・・旦那さま・・」
声も喉に張りついてしまったのか、掠れた声で呆然と呟く島田さんを除けると、近藤先生は勢い余って滑り込むような格好で、宗ちゃんに詰めよりました。
その宗ちゃんは驚きが勝りすぎ、零れんばかりに瞳を見開き、身じろぎする事すら忘れたように固まっています。
「宗次郎っ、お前今日、八郎さんに打ち込まれて怪我をしたのだって?何処が痛いのだい?えっ?」
近藤先生は、宗ちゃんの薄っぺらな肩を掴んで揺すり、問い質します。
「そうだっ、こんな事はしちゃおれんっ、島田っ」
そうして息をも止めてしまったかのように、慄きにいる当の本人の様子などお構い無しに、独り舞台の続き宜しく、島田さんを振り返りました。
「田坂先生を呼んできておくれ、ああ、若先生じゃなくて、大先生の方だよっ。早くしておくれっ」
これがご婦人方を相手に絹織物を商う店の主かと、誰もが疑う、そのあまりの形相に気圧され、ごくりと生唾を呑み込んだ島田さんが、慌てて立ち上がったその時――
「宗次郎はいるかえ」
すらりと開いた襖から姿を現したのは、他でもない、伊庭道場の御曹司八郎さんでした。
つづく かどうか分からない・・
花咲く乱れ箱
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