総ちゃんのシアワセ♪ 島田さんの災難♪なの
ここは総ちゃんのお部屋が良く見える廊下の曲がり角です。
辺りはじきにお天道さまがまいどっ!と威勢良く昇ってきそうに明るくなってきました。
けれどそんな活気づいた朝の光の中で、島田さんはとっても困っていました。
そもそも事の発端は、昨夜近藤先生に呼ばれたことにあったのです。
島田さんが『なんだろう?』と首を傾げながらお部屋にゆくと、厳しい顔をした近藤先生が腕を組んで宙を睨んでいたのです。
『すわ、事件か』と、島田さんは大きな体を緊張で硬くして、近藤先生の前に居住まいを正しました。
すると近藤先生は、
『総司が最近朝飯を食べる余裕が無い程に寝坊をするようだが、こんなことは嘗て一度も無かった事なので一体何が原因なのか探ってほしい』
と、さも大事な秘密事のように、島田さんを近くまで呼び寄せると小さな声で打ち明けたのです。
朝ごはんか惰眠か・・・・
確かに難しい選択ですが、今まで朝ごはんに顔を立ていた総ちゃんが、惰眠の方を贔屓するようになったからと言って、さほど大げさなことでは無いのでは?と島田さんは思いました。
けれど忠義一徹律儀の人、島田魁です。
主君と仰ぎ、必ずや身を挺してもお仕えすると決めた近藤先生が、眉間にしわを寄せ、強面をさらに難しげに歪めて悩んでいるのを目の当たりにしては知らぬふりはできません。
島田さんは口を真一文字に結び、大きく頷きました。
『島田魁、必ずやその原因を突き止め、近藤局長の顔(かんばせ)を安堵の色で染めてみせましょうぞ』
と、大見得切ってしまったのも後の祭り。
やはりその場の雰囲気に呑まれ情に流されやすいこの気質をどうにかしないと、いずれ我が身を滅ぼす事になるかもしれないと、島田さんはまだ冷たい朝の空気の中で、ひとつ溜息を漏らしました。
そのときです。
総ちゃんのお部屋の白い障子が、そぉーと静かに開きました。
島田さんは思わず大きな体を無理矢理小さくちぢこめて、柱の影に身を隠しました。
総ちゃんは音を立てないようにお部屋を出ると、島田さんとは反対の方向へと走り出しました。
その後を、これまた足音を立てないように追いながら、島田さんは思います。
みんなもまだ眠っているこんなに朝早くから起き出すのならば、どうして朝ごはんに間に合わないのでしょう?
もしかしたら最近の朝ごはんの中に総ちゃんの嫌いなものでもあるのでしょうか?
いえいえ、もともとあまりご飯を食べない総ちゃんです。
ついついその前にお菓子を食べ過ぎて、ご飯が入らないという事も考えられます。
だとしたらお菓子を断つよう、先に説得しなければなりません。
でもそんなことを言ったら総ちゃんはきっと哀しむでしょう。
『この際説得は顔色ひとつ変えずにやり遂げるに違いない山崎に任せる他ないか・・・』
島田さんは早足で、総ちゃんの薄っぺらの背を見失わないように気をつけながら、自分に災難が降りかからないように、ありとあらゆる傾向と対策を巡らせます。
島田さんに後をつけられているとも知らない総ちゃんは、誰も使っていない日当たりの悪い北側のお部屋の前まで来ると其処で一度立ち止まり、あたりを伺うように見回しました。
島田さんが咄嗟に体を隠したのは勿論のことです。
けれど島田さんはさっきから大きな体を隠そうとするたびに、ひどく難儀していていました。
『やはり自分は監察向きではなかったのかもしれない。配置換えは正解だったかな』
と、そんなことを思っているとき、総ちゃんがふわりと縁から庭に降り立ちました。
何をしているのか島田さんが目を凝らしていると、そのまま縁の下を覗くように屈みこみ、今度は何かを引いているようです。
やがて総ちゃんのか細い二つの腕がずるずると重そうに、大人が行水できそうな位に大きな盥を引っ張りだしました。
盥には一杯の水が張られていて、時々しぶきが上がります。
総ちゃんは出し終えただけで、はぁはぁと荒い息をして、額に浮かんだ汗を手の甲で拭っています。
これには島田さんも仰天しました。
いったい総ちゃんは何をするつもりなのでしょう?
島田さんの視線など全く気づかない総ちゃんは、汗を拭い終え息を整えると、盥の中をとても嬉しそうに覗き込みました。
その中にあるものが、総ちゃんの背中に隠れて島田さんには見えません。
島田さんが色々に想像していると、総ちゃんが突然すっくと立ち上がりました。
そして島田さんがあっと言う間も無く、今度は庭の奥に駆けて行ってしまいました。
姿がすっかり見えなくなると、島田さんはそっと盥に近寄りました。
けれどその中を覗いた瞬間、島田さんの大きな背中が魚(ぎょ)っと仰け反りました。
そうなのです。
盥の中には、それはそれは目つきの悪いタコが、八本の足をくにゃくにゃと忙しそうに動かしていたのです。
島田さんは立ち竦んだまま、暫し言葉を忘れて盥の中のタコを凝視しています。
ですが流石新撰組の島田魁、幼い頃から伊達に苦労を背負ってきた訳ではありません。
こんなことで怯んでいたら、金毘羅神社にその息災をお願いしてある、国に残してきた恩ある養子先島田家のおっかさまが泣きます。
一度ぶるるっと頭を振り気を取り直し、よくよくタコを見ると、なんだか誰かに似ているように思えます。
「誰やろ・・」
島田さんはついお国訛りで呟いてしまいました。
「ああっっ!」
思い出して島田さんは、両手をぽんと打ちました。
そのまま暫くタコの魚相(ぎょそう)に視線を釘付けていましたが、やがて茫然と呟きました。
「副長・・」
そうです。
タコは紛れも無く、土方副長に似ているのです。
いえ、似ているという言い方はもう当てはまらないでしょう。
酷似している・・・いえいえ、そのまんま、すでに化身・・
島田さんの頭の中を、色々な形容がくるくるくるくる回ります。
誰がどう見ても、お近づきにはなりたくない魚相に、苛々しているように忙しく休み無く動かす八本の足。
誰も行かない日当たりの悪い北側のお部屋の縁の下に副長がもう一匹いるなどど、屯所内に知れたらえらい事です。
隊士達の間に広がる動揺の深さ大きさは、想像に難くありません。
島田さんはこの事を、自分の胸一つに納めておけるうちに、総ちゃんを説得してタコを処分しなければならないと決意しました。
「〆るときは酢か・・・」
その時の壮絶な覚悟を思うと、背に奮えが走ります。
副長に酷似していて、総ちゃんがあんなに嬉しそうな眼差しを送るタコを食べてしまう・・・
とても自分にはできません。
島田さんは両の掌を握り締めて、ぎゅっと拳を作りました。
けれど自分以外の誰かにやらさねばならない事なのです。
自分ができないのならば、人に押し付けるしか術はありません。
いっそ吉村あたりに何も理由を明かさず、秘密の内に酢だこにさせる、という手もあります。
あとで知った吉村は己の為した事に戦慄するでしょうが、すべては新撰組の為なのです。
島田さんはちゃっかり自分は保身に回り、後は都合の良いように考えている事に気がつきません。
それでも島田さんの胸の裡は、総ちゃんへの裏切りと同僚への申し訳なさで千々乱れます。
と、そのとき・・
庭の奥から、ぱたぱたと走り来る足音が聞えてきました。
またも島田さんは慌てて、今度は咄嗟にタコの盥を隠してあった縁の下に、ぎゅうぎゅう体を押し込めました。
案の定、足音の主は総ちゃんでした。
島田さんが縁の下に腹ばいになって外の様子を見ていると、総ちゃんは盥の前に座り込み、タコにむかって嬉しそうに笑いかけています。
その笑顔に、丁度昇ってきたお天道さまの陽があたりきらきら輝いて見えます。
「あのね、今日は甘えびもあるのです」
総ちゃんは盥に向かい話し掛けながら、何やら手にしていた木の箱の中から、細い指で薄い桜色の甘えびを掴むと、タコの目の前に持ってゆきました。
それをタコは一本の足の先をチョイト丸めて、総ちゃんから奪うように取り上げると、瞬く間もなく口に持っていってしまいました。
島田さんはじっと見ていて、何と慇懃無礼なタコなのかと、少し腹が立ちました。
礼節を重んじる島田さんには、タコが総ちゃんを『餌を貰って感謝する風も無く、いいように使っている』としか見えなかったのです。
そんな島田さんの憂いをよそに、総ちゃんは更に箱から『あさり』を取り出しました。
島田さんが怪訝に見ていると、総ちゃんはそのひとつをまたまたタコに与え始めました。
けれど総ちゃんの腕は二本。
タコの足は八本。
どうがんばったところで次から次へのタコの要求に間に合う筈もなく、総ちゃんはもう額にうっすら汗を浮かべてあさりやら甘えびを、せっせとお給仕しています。
それなのにタコときたら寄越すのが遅いとばかりに、こんなに可愛げの無い生き物がこの世にいるのかと思うほどのふてぶてしさで、偉そうに総ちゃんに次なる獲物を催促するのです。
咄嗟に飛び出して手伝いたい衝動を、島田さんは寸での処で堪えました。
ここで姿を現せてしまったら、せっかく今まで極秘裏に行動した努力が水の泡です。
態度の大きなタコへの義憤に燃える島田さんでしたが、タコを見る総ちゃんの様子にふと気付き不審げに首を傾げました。
いつの間にか総ちゃんはタコに餌をやり終え、屈みこんだ両膝の上に肘を置き、頬杖をついてタコを見つめています。
その様がなんともシアワセそうで、島田さんにはうっとりとタコに魅入られているとしか思えないのです。
けれどそんな総ちゃんなど見向きもせず、タコはまた好き放題にくねくねと盥の中で足を動かし始めました。
実は・・・・
このタコは、総ちゃんがキヨさんに連れられて錦市場にお買い物に出かけたとき、魚屋さんの前で偶然見つけて一目惚れしてしまったタコだったのです。
その時あまりの魚相の悪さに、『えらい憎たらしいご面相やわ・・』と、キヨさんに買って貰うことができなかった総ちゃんは、その後一人でタコを買い求めに行ったのです。
大体が人を食ったような大きな態度のタコです。
お持ちかえり用の蛸壺に入れて貰って帰る道々、タコは中で頓着無く暴れるので、ただですら重い壺は益々重さが掛かり、総ちゃんは幾度も途中で休まなくてはなりませんでした。
けれどそれすら総ちゃんには、いつも強引な土方さんを彷彿させるのです。
屯所についた頃には腕はしびれ、もうくたくたで一歩も歩けないような有様でしたが、総ちゃんの心はいっぱいのシアワセに溢れていました。
苦労すら悦びに変えてしまう土方さんは、総ちゃんにとってはやはりすごい人なのです。
あれから三日・・・。
総ちゃんの朝は土方さんに良く似たこのタコのお世話とともに始まっているのです。
いつまでもいつまでもこうしてタコの一挙手一投足・・・いえ、八挙手八投足を見て一日を過ごす事ができたらどんなにいいでしょう。
けれどお仕事をしてこないと、伊東さんにまた意地悪を言われてしまいます。
総ちゃんは願いの叶わぬ哀しさに、ふと寂しげに溜息をつきました。
丁度その時、朝を告げる鐘の音が聞えてきました。
そろそろ他の隊士さんたちが起きはじめる頃です。
総ちゃんは、はっと気づいたように立ちあがると、慌ててまたタコの盥を戻し始めました。
水を零さないように押し戻す方が、引っ張り出すよりも難しいものです。
総ちゃんは腕に渾身の力を籠めて、盥をもとあった縁の下に隠しました。
突然目の前に盥が迫ってきて、島田さんは思わず腹ばいのまま、後ずさりしてしまいました。
もうすぐタコと嫌でも正面切ってご対面・・・という間際まで追い詰められ、探索も最早これまでかと目を瞑ったとき、ようやく盥の動きが止まりました。
去ってゆく総ちゃんの足音を聞きながら、島田さんは大きな安堵の息をつきました。
さて少し余裕の戻った処で、改めて盥の中に目を向けると、タコは一度ちらりと島田さんを見ましたが、あとは『お前なんぞ知らんわ』と言う風にそっぽを向いてしまいました。
かえすがえすも、態度の大きなタコです。
島田さんは『こんな可愛げのないタコは見たことも無いっ』と憤りましたが、ふと『そういえばタコを可愛げがあると思って、今まで一度でも見たことがあっただろうか・・』と気づき、それまでの自分の観察眼の甘さにそっと唇を噛み締めました。
思いがけないところで、『タコは可愛くない』と既成概念を作ってしまっていた自分の過去の省みることができ、大いに反省をしていた島田さんでしたが、はたと肝心の使命を思い出し、大急ぎで縁の下から出ると、総ちゃんはもう後姿を見せて庭の奥に消え行こうとしているところでした。
島田さんは慌ててそれを追いはじめました。
急がせていた足が急に止まったので、『そんな事は聞いていない』上半身が、文句を言わんばかりに前につんのめりそうになるのを島田さんは漸く堪えました。
そしてふと辺りを見回すと、そこはもう西本願寺の境内でした。
朝の説法会が始まるのでしょうか・・・
山門を潜って、わらわらと善男善女が本堂に向かって歩いて来ます。
その人達の中に、総ちゃんの薄い背があります。
「・・・何するつもりやろ」
島田さんは木陰に隠れて移動しながら、どうにも答えが見つからず、傾げた首が縦に戻りません。
その島田さんも何となく人の流れに押されて、気づいた時には本堂に上がり込んでいました。
しまった・・・と思った時には、もうとっくに手遅れです。
歳月は人を待ってはくれませんが、後悔は更にやってしまった過去に意地悪く知らんふりするものです。
「・・・あっ、島田さん」
柔らかい声が、後ろから掛かりました。
恐る恐る振り向くと、総ちゃんが門徒衆の邪魔にならないように、一番最後の列の隅っこに、ちんまり座っています。
隙を作って探索を見破られてしまった己の不甲斐なさを、島田さんは一瞬堅く目を瞑って罵倒しました。
「あのね、今から玄海僧正さまのお話が始まるのです」
けれどそんなことは露程も知らない総ちゃんは、覚悟を決めて隣にやって来た島田さんに嬉しそうに語り始めました。
「玄海僧正さん・・ですか?」
総ちゃんは笑顔のまま、こくこくと幾度も頷きます。
島田さんは、又しても考え込みました。
玄海僧正さんは西本願寺の偉いお坊さんです。
その説法会に、総ちゃんは毎朝出ているのでしょうか?
近藤局長からは、『間借りしているうちは、くれぐれも粗相のないように』と言われてはいます。
もしかしたらその手前、付き合いの良い総ちゃんがお話を聞きに来ているのでしょうか?
けれどそんなことは一言も聞いていません。
大きな目と鼻と口をとても難しそうにしかめて島田さんが考え込んでいると、緋の袈裟をつけた玄海僧正さんが、それはそれは厳かにやって来ました。
その瞬間、本堂の中は水を打ったように静まり返りました。
そんな玄海僧正さんを見ながら、『人間落ち着く処に落ち着けば、どんな坊主だろうがそれなりに見られるもんだな』と島田さんはとても失礼な事を、まったく悪気無く素朴に思いました。
さてさて玄海僧正さんのお話が始まって早、四半刻・・・
足の痺れにどうにも難儀している島田さんは、端座した上半身を右に動かしたり左にずらしたり、なんとか苦痛を遣り過ごそうと必死でした。
今この痺れ切って感覚の無い足に触れられたら、自分は言葉では到底現せない苦悶に堕ちるでしょう。
それは丁度あのタコがくにゃくにゃと踊り狂う様と似ていると、ふと島田さんの頭の中に先程の情景が蘇りました。
その時・・・・
決して現実にはしたくなかった悪夢が、島田さんを襲ったのです。
それまでの耐え難きを耐え、忍びがたきを忍んで踏ん張っていた努力を、いとも簡単に断ち切るかのように、横の総ちゃんの身体がことんと島田さんに当たったのです。
その刹那、島田さんの目が、まるで零れてしまうのではないかと思うほど大きく剥かれました。
そして口は真一文字に結ばれ、痺れた足はそのままに、上半身だけが一瞬タコのようにくねりました。
・・・呻吟の時は僅かのものだったに違いありません。
けれどそれが鎮まるのを耐える間は、果てなく続くと思わせるものです。
どうにか悶絶の時を終え、ひとつ深い息をつくと、島田さんは元凶だった横の総ちゃんに視線を向けました。
人さまの事情など知らず、総ちゃんは微かな寝息をたてて、キモチ良さそうに島田さんに寄りかかって眠っています。
それを見ているうちに島田さんは、自分の苦しさは一応喉元も過ぎた事だし、とりあえず総ちゃんの安眠を邪魔せずにすんで良かったと、三度目の安堵の息をつきました。
思えばお天道さまが漸く昇る頃から起き出して、あんな重労働をしたのです。
ここで眠くならない方が不思議と言うものです。
適当な処で起こして朝ごはんにつれて帰ろうと島田さんが思っていると、それまでちょっとやそっとのことでは目覚めそうになかった総ちゃんの瞳が、ぱちりと開きました。
驚く島田さんの視界の中で、総ちゃんはそのままばね仕掛けのように身体を起こし、元のとおりきちんと端座しました。
それは本当に島田さんが、えっと思う暇も無い、一瞬の出来事でした。
島田さんが又も訳の分からない総ちゃんの行動に、今度こそ目を白黒させているその時、玄海僧正さんの一際高い声が聞えてきました。
「・・・せやさかい、この寺に安置してあります、金色(こんじき)のおカルタさまは・・」
島田さんは、一瞬の内に思い出しました。
そうです。
忘れもしないあの土方副長の句を札にしたカルタの事を、玄海僧正さんは言っているのです。
島田さんはとっくに忘れ去ろうと努力していた過去を、またも喉元に突きつけられて、背中に冷たい汗が滴るのを止められません。
「たとえばおカルタさまの中の一句・・・知ればまよい知らねば迷わぬ恋の道・・。これを仏の道、門徒の道に置き換えてみなはれ。どないな言葉を持ってきても、この句はその道の道理を奥深く説いてますのや。結局人は同じことを繰り返さはる。これはもう現世と来世を結ぶ輪廻にも似てますわ・・ほんまにありがたいおカルタさまです」
玄海僧正さんは、うやうやしく手にしたおカルタさまを高く掲げながら、ちらりちらりと総ちゃんに視線を移すことも忘れません。
まだどきどきしている島田さんが、動揺する自分を律してそっと横を見ると、総ちゃんの唇が丁度花が綻ぶように少しだけ動いています。
何やら呟いているその言葉を聞こうと島田さんが耳を澄ますと・・
「・・・おカルタさまは、のちの世にも、またその後の世の人々にも尊ばれて・・」
総ちゃんは島田さんの存在などすっかり忘れて、うっとりと言葉を紡いでいます。
これは・・・
島田さんは愕然としました。
総ちゃんは玄海僧正さんのお話を、まるで一緒に輪唱するように呟いていたのです。
きっと毎朝毎朝ここに来て、この件(くだり)を暗誦してしまったのでしょう。
いえ、ここの部分だけを、総ちゃんは聞きにやってきていたのです。
愛とは・・・
寝食すら押し遣っても、いの一番に大きな態度して存在を誇張できるものなのです。
夢心地でシアワセそうな総ちゃんの横顔を見ながら、島田さんは『これで朝ごはんに間に合えというのが無理というものや・・』と、大きな背中をまるめて、もう幾度目かの小さな溜息をつきました。
朝ごはんに総ちゃんが間に合わない訳は分かりました。
けれどそれをどうやって近藤先生に報告したら良いのでしょう。
あれで近藤局長は中々に、可愛いもの好きなのです。
あんなタコを見せたら即刻酢で〆ろと言い出すでしょう。
そしたら総ちゃんの哀しむ様は如何ばかりのものか・・・
朝ごはんどころか、昼も夜も食べられない程に心痛めるに違いありません。
まだまだシアワセの余韻に浸る総ちゃんを見ながら、その時を想像するだけで島田さんの胸はきりりと痛みます。
忠義と情の間で苦悩する島田さんが、あまりの辛さにつと視線を逸らせたとき、どこか遠くから朝の物売りの声が聞こえてきました。
どうやらそれは魚屋さんのようです。
「・・・甘えび」
ふと無意識に呟いた島田さんは、もうすでに総ちゃんのタコの餌を心配している自分の心に、まだ気付いていません。
土方さんのカルタを語る玄海僧正さんのお話に、其処にいるすべての人がうっとりと耳を傾けているように見えるのは、もちろん総ちゃんの錯覚です。
愛は盲目どころか現にあるものの色形すら自分の思うとおりに変えてしまう、ステキなステキな薬味(えっせんす)なのです。
「・・・タコの足は八本で・・ひぃふぅみぃ・・」
一本の足に二回づつ与えても、甘エビは十六匹いるのです。
島田さんは結構な出費だなと呟くと、少し痛い懐を考えて眉根を寄せました。
朝ごはんよりもタコとカルタを贔屓して夢の世界に行っている総ちゃんと、義理より情を贔屓して現で算術に頭を悩ます島田さんと・・・
勢いづいて昇ってくるお天道さまが、どちらにも平等に金色の光を降り注ぎ始めました。
おあとがよろしいようで♪
瑠璃の文庫
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