ひみつでシアワセ♪なの (した) 「総司なら、ここにいるぜ」 それまでの気苦労から一気に開放された脱力感と、更に近藤先生の激情の迸りをおもむろに受けて、もう精も根も尽き果ててぐったりと声も出ず、今にも畳に突っ伏してしまいそうな総ちゃんを指差して、永倉さんが愛想良く同僚を迎えました。 「総司、土方さんがお前の事を探していたぜ」 何気ない、ひと言。 けれどそのたったひと言で、崩れ伏す寸前だった総ちゃんが、ゆらりと立ち上がりました。 そうして、どうにか身体の全部を縦にすると、今度はよろよろと歩き始めたのです。 「総司・・」 あまりにも頼りない様を案じる近藤先生の声も届かず、まるで何かに取り憑かれたように前だけを見つめ、総ちゃんは覚束ない足取りの歩を止めません。 そうして少しずつ小さくなって行く薄い背を、其処にいる誰もが固唾を呑んで見護っていましたが、やがてその後姿が廊下を曲がって見えなくなると、それまで庭に足を止めていた藤堂さんが、縁まで来て腰の二本を抜き去りました。 「明日の朝までに、豪華絢爛な弁当を用意しろって、急にそんな事を云われてもなぁ」 そのまま座敷に上がりこみ、どうしてその役が自分に回ってくるのかと、ずっとそれをこぼしたかったのか、ここぞとばかりに不満を放つ声に、未だ廊下の先に止めていた者達の目が、漸く藤堂さんに集まりました。 「それ、土方さんに云われたのかえ?」 「良く知ってんじゃねぇか」 八郎さんに図星を指されて、今度は藤堂さんの目が見張られます。 「だがそいつ、他言するなとも、云われなかったか?」 「そういや・・」 永倉さんの進言に、藤堂さんは宙に視線を泳がせ、暫し記憶の淵を探るように難しげな顔をしていましたが、やがてはたと己の失態に気付いて、眉根を寄せました。 ですがそれも一瞬の事で、直ぐに組んでいた腕を解くや、周りの者達を見回し・・・ 「忘れてくれ」 あっさり云って笑った顔には、先程の永倉さんと同じく、後悔も贖罪もこれっぽっちもありませんでした。 「かまやしねぇよ。近藤さんだって、白木屋から招待状を貰った事を忘れちまったんだもんな」 そうだろう?と、同意を求めて見遣った永倉さんに、近藤先生も大仰に頷きます。 「すまねぇな」 「どうって事ないさ」 詫びる言葉の、けれどその寸分も悪そうでない藤堂さんに、これまた呆気ない程簡単に応えたのは永倉さんでした。 さて―― そんな新撰組の秘部の一部始終を、扇子越しに面倒くさそうに見ていた八郎さんでしたが、どうやらその場が一段落したと見届けるや、突然すらりと立ち上がりました。 「帰るのかい?」 「忙しくなるからねぇ」 見上げて問う永倉さんへ、何処か楽しそうな八郎さんのいらえが返ります。 そうなのです。 土方さんと総ちゃんが、明日から嵯峨野へ暑気払いに行くと知るや否や、何の迷いも躊躇も無く、それがごくごく当然のように、八郎さんは自分の同行を決めたのでした。 木陰の清流に総ちゃんと二人で足を浸し、現の暑さを、まるで違う世のもののように感ずるのも一興。 はたまた、月も朧な夏の夜、身に纏うは渡る風の透かし衣。 意地の悪い戯れに、華奢な身の、闇に白く舞う姿こそ至福の宴。 緩む頬を、分からぬように扇子で隠し、八郎さんは楽しい明日へと想いを馳せます。 ですがそうと決まれば、もうこんな処で悠長に構えている暇(いとま)など、一時たりともありません。 さっさと帰り、明日への仕度に取り掛からねばならないのです。 「邪魔したな」 八郎さんは見上げている者達に、にこやかな一瞥をくれると、片方は懐に、もう片方の手は扇子でひたひたと袷の当たりを打ちながら、もう振りかえる事もせず、ゆったりとした足取りで敷居を跨いだのでした。 「けどよ・・」 その八郎さんの背を、何の感慨も無く見送った四人でしたが、ふと思いついたように籐堂さんが呟きました。 「何だ?」 気さくに聞く永倉さんに、藤堂さんは、さも難しげな顔を向けました。 「土方さん、誰と密談するつもりなんだろうな」 「誰でも構やしねぇさ」 腕を組み、訝しそうに首を捻る藤堂さんに、そんな事など端からどうでもよさそうな永倉さんの物言いでした。 「それともお前、土方さんと代わって、仕事をやってやる気でもあるのか?」 「無い」 これ又きっぱりと、即座に返ったいらえには、何事があってもこれだけは揺るがぬ、意志の強靭さがありました。 「其処まではっきり言っちゃ、ちっとは土方さんに悪く無いか?」 藤堂さんの正直過ぎる気質を一応諌めながらも、かと云って自分にも、そんな気はさらさら無い永倉さんが、そのまま何とはなしに近藤先生に視線を送りました。 「そうだ、近藤さん。あんた、たまには土方さんと代わってやんなよ」 世の中には、する人とされる人。 ならば自分は『される人』を贔屓したいと、常日頃それを人生訓としている永倉さんが、近藤先生を『する人』とおもむろに名指しして、話の展開上、誰に頼まれた訳でもない面倒を押し付けてみました。 ところが・・・ 近藤先生は、それに顔を顰めるでも無く、否と応えるでも無く、やおら腕を組むと宙に視線を据え、天井を睨み始めたのです。 そうして暫しそままの姿勢でいましたが、やがてゆっくりと無言で居る者達を見まわすと、厳かに口を開いたのでした。 「確かに、歳にはこのところ隊務を任せきりだ。たまにはあいつの代わりをしてやるのも、又局長の務めかもしれん」 土方さんの肩の荷を少しでも軽くしてやりたいのだと、ひとり悦に入る口ぶりの裏には、嵯峨野での舟遊びへの未練があるとは露ほども出さず、近藤先生は低い低い声で語り終えると、最後は目を閉じ、今までの新撰組局長としての己の怠慢が、痛恨の極みでもあるかのように、ふりふりと頭を振りました。 ――そうして目を瞑りながら。 近藤先生は思うのです。 例え密談の相手が誰であろうと、仮にも自分は新撰組局長近藤勇。 相手にとっても、不足は無いはずです。 それに手に負えない話なら、とりあえず聞く振りをしておいて、後の面倒は土方さんに任せてしまえば良いのです。 ところが。 其処まで思案を巡らせたのは良いのですが、今度は狭い舟の中、見ず知らずの他人とふたりきりと云うのが、何とも息苦しい気がしてきました。 誰か親しい者が一緒にいれば、又気分も軽くなると云うもの。 それならば供を・・と思い、ちらりと室にいる者達を見遣った近藤先生でしたが、皆を連れて行くとなると少々賑やかすぎます。 かと云って誰か一人を名指しするには、贔屓したしないのと、残った者達の間に波風を立ててしまうでしょう。 では総ちゃんだけをこっそり連れて行こうか・・と、四角い顎に手を当て考え始めたその時。 「たまには伊東さんにも、頼めばいいんじゃねぇのか?近藤さん、あんたと伊東さんの二人で、土方さんの面倒を代わってやんなよ」 藤堂さんの気楽な声は、まるで天啓のように、近藤先生の愁眉を瞬く間に開かせたのでした。 「伊東さんか?」 ですがこの妙案に、ぽんと手を打とうとしたその近藤先生よりも早く、怪訝に問うたのは永倉さんです。 「そうよ、伊東参謀よ。あの人、いつか土方さんに取って代わってやるって云っていたぜ。そんなら早速代わって貰っても、文句はねぇだろう?」 普通に聞けばすわ謀反と構える発言も、それはそれ。 さっぱりと云うより簡単な気性の藤堂さんと、厄介ごとには目をつぶると決めて揺るがぬ永倉さんと、長いものにはまかれようと心に誓った島田さんと・・ そして何より・・ 「流石、参謀っ。この近藤、伊東参謀の気組に胸打たれる思い」 ・・・豪快と云うより、大雑把な近藤先生。 この場においても大仰に頷き、適当に賛美の言葉で称えると、見知らぬ相手との談義などと云う面倒は伊東さんに任せると決め込み、自分は涼しい納涼舟の宴へと、さっさと思いを馳せてしまいました。 「それじゃ、そう云う事で決まりだな。土方さんには、近藤さんと伊東さんが代わるから、あんたは休んでくれって云って来てやるよ」 「いや、待てっ」 身軽に立ち上がろうとした永倉さんを、しかし近藤先生の、突然の大声が止めました。 「歳には、まだ伏せておいた方がいい」 「だがちゃんと云ってやらねぇと、土方さんも無駄足になるだろう?」 「いやいや、歳はあれで中々伊東君とは仲が悪い。それが代わるなどと云ったら、ヘソを曲げてしまうだろう事は必定。そうなれば、いつもあいつの不機嫌に付き合わされる総司までもが、辛い思いをしなければならない」 それが不憫なのだと、己の企てを見事遂行する為に総ちゃんを出汁に使う事を、少しだけ後ろめたく思いながらも、近藤先生はあたかも苦しい心情を吐露するかのような低い声で告げると、無骨な指でそっと目頭を押さえて見せました。 「じゃ、どうすればいいんだ?」 折角自分が思いついた妙案を、此処で反故にするのは口惜しいとばかりに、藤堂さんが不満げに訴えます。 「考えたのだが・・・」 ところがそれを待っていましたとばかりに、然して考えてもいない近藤先生が、身を乗り出しました。 「直前まで黙っていて、舟に乗り込む間際でわし達が姿を現し、今日の処は任せろと説いたらどうだろう」 「確かに、それもひとつの手だな。けど暑い中、押し問答するのも面倒だろう?いっそ有無を言わさず、先に乗り込んだ方が勝ちってのはどうだ?」 低く抑えた声で語る近藤先生に、又も無責任な案を、永倉さんが打ち出しました。 「案外・・、それが得策かもしれねぇなぁ。何しろ舟は一隻しかねぇんだろ?早いもの勝ちってのが、誰もが納得する道理だろうよ」 理にも道にもならぬ解釈を、あたかも尤もげに云う藤堂さんに、此処は局長として勝ちを譲れぬ近藤先生も、峻厳な眼差しで頷きます。 そうなのです。 何が何でも納涼舟の醍醐味だけは、例え長年苦楽を共にしてきた身内の土方さんにも譲る訳には行かないと、近藤先生の思い込みは、既に此処まで揺るがぬものになっていたのです。 「誰が舟を奪うか・・要は気組みの問題と云う事か」 「・・一度きりの勝負。確かに、武士として、これ以上潔いものも無かろう」 とことん外れた方向に話が進んでいるのにも気付かず呟く藤堂さんに、近藤先生も宙を睨み、裡に滾る熱い思いを迸らせます。 「暑いからねぇ」 その二人に、どうでも良さげに応えた永倉さんの語尾が、喧しいだけの蝉時雨に呑まれて消え行きました。 さて此方は、八郎さんの陰謀も、近藤先生の策謀も知らず、シアワセを噛み締めながら、土方さんと一緒に夕餉を囲んでいる総ちゃんです。 「箸が動いていないぞ」 そんな総ちゃんを叱る土方さんの声にも、明日からの嵯峨野行きを思えば、何とはなしに浮かれが走るのを隠せません。 けれどその土方さんの言葉すら耳に届かず、総ちゃんの瞳は、うっとりと遠い一点を見つめたまま、瞬く事もしません。 そうなのです。 総ちゃんは、今自分の力で掴んだシアワセに酔い、身も心もすっかり夢路に行ってしまっているのです。 父とも代わらぬ近藤先生に嘘をつき、そうして辛苦の茨で苛まれる時を経て、漸く手にした嵯峨野行きなのです。 晴れて明日からは、寝ても覚めても土方さんと二人だけの時を送ることが出来るのです。 胸を破ってあふれ出てしまいそうなシアワセに、月の光の朧な所為ばかりではなく、みるみる瞳が潤んで来るのを、もう総ちゃんは止める事が出来ません。 至福の時は―― もうすぐ其処まで、やって来ているのです。 さてもさても、同じ朧な月明かりの下、此方は縁に出て雲行きなんぞを見ながら、楽しい明日に思いを馳せている八郎さんです。 涼しい木陰で、着かず離れず総ちゃんとする昼寝の妙。 せせらぎに浸す、華奢な足の、白に映る水瀬の彩。 思えば、自ずと口元が緩みます。 ですが八郎さんは更にもう一ひねり、何か興をそそる遊びが無いかと、先程から思案しているのです。 どれもこれも思うだに楽しい、艶と粋と情緒たっぷりの、文句のつけようの無い計画なのですが、それでもここは都の夏。 折角ならば風情までをも楽しみたいと、もうひとつ欲を出した処で、何の罰があたりましょう。 「・・・夏ねぇ」 何か適当な風物詩が無いものかと呟いたその寸座、ふと閃いた妙案に、八郎さんはぽんと手を打ち頷きました。 「送り火、か・・」 言葉にした途端、もう八郎さんの脳裏には、闇に点る火の文字を映す深い色の瞳が、その壮大さ美しさに驚きに瞠られる様すら、現のもののように描かれます。 「いっそ土方さん川柳を、ばらばらにして五山に点してやれば、総司も喜ぶな」 大文字に『梅の花』、鳥居形に『一輪』、妙法に『咲いても』、船形に『梅は』、左大文字に『梅』・・・ 「ひぃ、ふぅ、みぃ・・丁度ぴったりか」 一瞬だけ脳裏に浮かんだふてぶてしいご面相を即座に消し去ると、八郎さんは恋敵の禊まで引き受ける己の懐の深さ、気風の良さに満足し、天に有る、ぼんやりとした月を見上げました。 「明日か」 そうして楽しげに漏れた呟きが、朧な月明かりに消え行きました。 はたまた此方は、近藤先生のお部屋。 室の真中に、腕組みをして端坐しているその姿は、声を掛けるのも憚られる厳しさがあります。 暫しそうして静謐の時を送っていた近藤先生でしたが、やがて硬く瞑っていた目をゆっくりと開くと、腹の其処から吐き出したような深い息を漏らしました。 ――眼光鋭いあの無二の友に真剣勝負を挑むのは、後にも先にも、これが最初で最後になるでしょう。 だが果たして自分は、あの竹馬の友に先駆けて納涼舟を奪い、川下りと云う夏の妙を楽しむことが出来るのか。 いえいえそんな一瞬の弱気こそ、既に負けの証。 この夏を生かすも殺すも、全ては納涼舟奪取、ただひとつに掛かっているのです。 近藤先生は己に喝を入れるべく、やおら右の手を拳骨にすると、それを口の中にいれては出し、いれては出し・・・ 夜明けと共にやって来る緊張の時に備えて、平常心を取り戻すべく繰り返し始めました。 そして此方は、伊東参謀のお部屋。 中央に座している伊東さんに、これ又端座したまま膝を詰めるのは、弟の三樹三郎さんです。 「兄上、こたびの一件。もしや土方の陰謀では?」 「あの男の事だ、それも有り得無くも無い。が、近藤局長は、あくまで土方に内密でとの事だった。・・いや、もしやあの二人・・」 「仲たがい、でございましょうか?」 ふと過ぎった疑念を口にした伊東さんの先を、篠原さんが引きうけます。 「だとしたら、面白い」 それに返したいらえと共に、伊東さんは、愉快そうに唇の端に薄い笑いを浮かべました。 「確か藤堂君は、土方に取って代わる大事な仕事・・と、云っていましたな」 立派な体躯を少し前屈みにした服部さんの、秘密を告げる声が、くぐもります。 「左様。私にしか出来ぬ仕事と、しかと、そう云った」 伊東さんの白皙に、満足げな笑みが広がります。 「ならば兄上、近藤局長が土方に内密の仕事を持ちかけたこの事実こそ、既に新撰組は兄上の掌中にあると思って、間違いありますまい」 ようよう日の目を見る兄の前途を喜び、目頭を熱くしている弟に、伊東さんは鷹揚に頷くと、視線を宙の一点に据えました。 「・・全ては、明日」 そうして己を鼓舞するように発した声が、周りを取り巻く男達に緊張を走らせました。 ――何処もかしこも、オンナジように照らす、月明かりの下。 相変わらずお箸を止めたまま、うっとりと土方さんを見つめている総ちゃんと。 送り火の文字を変える手回しに、余念も抜かりも無い八郎さんと。 竹馬の友に如何に先駆け納涼舟を奪うか、その一瞬勝負の英気を養うべく、口へ拳骨を出し入れし、精神統一を図る近藤先生と。 おのが野望の達成を目前にして、身を震わせる伊東さんと―― そうして皆がそれぞれの思惑に勝手に入り込んでいるその様を、くすりと笑ったお月様が、流れてきた雲にいそいそとお顔を隠しました。 |
『堕ち』は見事につけましたが・・とほほ
おあとがよろしーよーで。。
瑠璃の文庫