総ちゃんのシアワセ♪ 風邪ひいてシアワセ♪なの




廊下の向こうの隅にちらりちらりと動く人影を見て、島田さんは今日も溜息をつきました。
仕様が無くちょっと怖い顔を作くってもう一度そちらを見ると、柱の陰に隠れるようにしていた総ちゃんは、気付かれてはっとし、でもすぐにしょんぼり項垂れてしまいました。
そんな姿を見ると流石に胸が痛みましたが、ここは一番鬼にも蛇にもなって近藤先生の言付を守らなくてはなりません。
でも島田さんは忠義と人情の板ばさみで、大きな体を小さくすぼめたいキブンでした。


土方さんが珍しく風邪を引いたのは二日前のことでした。
田坂さんはくしゃみを連発する土方さんの顔を一瞥しただけで、心配で心配でもう瞳を滲ませている総ちゃんに『そのうち治るよ』と、すごい診立てをご披露しました。
流石に近藤先生の見込んだお医者さんだけあります。
呆気にとられている総ちゃんなど目に入らないように、田坂さんは『そうだ』と慌てて近藤先生の所に行くと、
『くれぐれも沖田君を土方さんに近づけてはいけません。もしも風邪がうつったら土方さんの菌だけに大変なことになります』
と、それはそれは低い声で、とっても厳かに言いました。
近藤先生も田坂さんのあまりの真剣さに、さもありなんと、つい大きく頷いてしまいました。
けれど総ちゃんに土方さんの元に行かないと約束を守らせるのは、それこそ土方さんを伊東さんと仲良くさせるよりも、ずっとずっと難しいことです。
そこで色々考えた挙句、近藤先生は総ちゃんを近づけないように、土方さんのお部屋の周囲に、島田さん、山崎さん、吉村さんを配置し見張らせているのです。

そんな訳で、迷惑極まりないなのはこの三人でした。
総ちゃんは朝に昼に晩に、よくも懲りずにと思う程に、土方さんに一目会いたいとお部屋の近くをうろうろしています。
もとより近藤先生の選んだ三人、総ちゃんが縋るような視線を送っても、びくともするようなものではありません。

でも山崎さんは総ちゃんの眼差しから、咄嗟に目を逸らせて思います。
(沖田はんと目ぇを合わせたら負けや。知らんふりして吉村の方、向いとこ)
吉村さんは首を傾げて素朴に思います。
(なしてあげな副長がいいべ。そんでも恨まれるのも辛いべから島田さんの方、向いとご)
島田さんは大きな体で幾度目かの溜息を吐きながら律儀に思います。
(あんまりむげにして泣かれても切ないしのぉ・・ま、あっち向いとこ)
と山崎さんにさり気なく視線を移しました。
三人が順繰りに相手に責任をなすり付け合っての見張り番は、なかなか刺激的でもありました。


さてさて土方さんですが、もともと風邪を引いた位で攪乱する鬼でもありません。
いえ総ちゃんと無理矢理隔離させられて、苛々はつのるばかりです。
それが田坂さんの策略だと信じ込んでいるから尚更厄介です。
その八つ当たりはごく自然に、巡察を終えて報告にやってくる人達に三倍位になって向けられます。

けれどお部屋から聞えてくる、そんな土方さんの常にも増して低く冷たい声が、総ちゃんには風邪の為に調子が悪いのに無理しているように思えて、考えるだけで頬にひとつ零れるものがあります。
早く傍に行って看病したいのに、どうして近藤先生は分かってくれないのでしょう?
土方さんの事を思えば、哀しさだけが総ちゃんの胸を一杯にします。
その時白い障子ががらりと開き、疲れきった顔つきの藤堂さんが出てきました。
見張りの三人は気の毒そうに一瞬視線を投げかけましたが、すぐに他人事のように目を逸らせました。
くわばらくわばら・・・です。

その藤堂さんに向かって一目散に駆け寄ったのは総ちゃんでした。
もっともそんな事は総ちゃん以外にする人はいません。
「藤堂さん、あの、あの・・」
総ちゃんはあんまり勢いこんで、なかなか言葉が出てきません。
「土方さんなら元気だぜ」
土方さんに当り散らされて、精も根も尽き果てたように憔悴しきっていた藤堂さんは、総ちゃんの先回りをして面倒くさそうに応えました。
「あの人の風邪を全部吸い取っちまった気分だ」
更に藤堂さんは虚ろに笑いました。
けれどその藤堂さんの言葉に、総ちゃんは弾かれたように顔を上げました。

「藤堂さんっ」
あまりの勢いに気圧されて、何事かと仰け反った藤堂さんに、総ちゃんは身体ごとぶつけるように擦り寄りました。
「お前、相手は俺だぞっ」
咄嗟に自分の口から出た言葉に藤堂さんも、あれ?と思いましたが、それを振り返っている余裕はありません。
総ちゃんが両手で胸元を掴んで揺すっているのです。
「お願いです。藤堂さんが土方さんから吸い取ってきた風邪をうつして下さい」
必死の総ちゃんを、籐堂さんは何が何だか訳が分からず、呆気にとられて見ています。

そうなのです。
問題は土方さんが風邪を引いて、総ちゃんが引いてないことにあったのです。
総ちゃんの頭の中に突如閃いたのは、土方さんと一緒の風邪を貰えば、もう誰に邪魔されることなく、堂々と傍にいることができるという事実でした。
枕を並べて一緒のお布団にくるまって、仲良く風邪をひいていられるのです。
考えただけでも、総ちゃんはうっとりとしてしまいます。

藤堂さんはそんな総ちゃんを見ながら、『土方さんの風邪なら熨斗つけてくれてやる』と思いましたが、総ちゃんに風邪をうつすと近藤さんに文句を言われそうで、素早く身をかわしました。

「総司、悪いな、これは俺が貰った風邪だ。自分が欲しいと思ったものは、人から貰うんじゃなくって、自分で掴み取れ。そうすりゃ風邪だってお前の意気込みを感じて、立派に花を咲かせてくれるさ」
藤堂さんは話している途中から、何だか自分の言っている出鱈目が、すごく正しいことのように思えてきました。
自己陶酔というものは、自分に都合が良ければ良いほど深くはまるものなのです。
でも『風邪が花を咲かせたら、えらい事になるかもしれないな』と、ちょっと思いましたが、もう後には引けなくなって、呆然と見つめている総ちゃんに向かって、大きく頷きました。

廊下に立っているそんな二人の間を、北風が呆れたように吹き抜けました。



さてその夜、総ちゃんは敷かれたお布団の上にお行儀良く座って、さっきからじっと考え込んでいます。
籐堂さんが言った事は尤もなことなのです。
どうしても欲しかったら、それは自分で努力して勝ち取らなければ、神さまだって仏さまだって、総ちゃんの言うことなんか聞いてはくれないかもしれません。
せっかく引いた風邪だって総ちゃんの方が早くに治って、土方さんと又離れ離れにならなくてはならないかもしれません。
そんな事は絶対に嫌です。
いえ引いたと思って喜んだ途端にくしゃみひとつで終わってしまったら、目も当てられません。
せっかく引いた土方さんと同じ風邪に、総ちゃんの身体の中は居心地が悪いと言って出て行かれてしまったら、どんなに悔やんでも悔やみきれません。

そうです。
自分の力で掴み取った土方さんの風邪だからこそ、シアワセになれるのです。
「自分の力で土方さんの風邪を引いて、土方さんとオンナジお部屋で、オンナジお布団で寝なくっちゃ・・・」
総ちゃんは悲愴な決意で、膝の上に置いてあった両手を、ぎゅっと握り締めました。



はたまた次の日・・・・
まだ夜も全部明けやらず、お天道様が顔を出す前の、薄闇にこっそりお月様が居座っている、そんな朝も早くから、総ちゃんは冷たい廊下を足音に気をつけて土方さんのお部屋へと急ぎます。
こんな頃合なら、見張りの島田さん達も眠っている筈です。
誰も来ない間に土方さんを起こして、何としても風邪をうつして貰わなければなりません。

「総司じゃないか、こんな朝早くから何処に行くのだ?」
そっと通り過ぎたとばかり思っていたお部屋の障子ががらりと開いて、近藤先生が顔を出しました。
近藤先生が毎日この時刻に起きだして、拳骨を口の中に出し入れする練習をしているのを、土方さんに会いたいが一心の総ちゃんはすっかり忘れていたのです。

「・・・あの・・」
何と返事をして良いのか分からず、おどおどと下を向いてしまった総ちゃんを見て、近藤先生は溜息をつきました。
「歳の処へ行ってはいけないよと、あれほど言っているのに、どうしてお前は言う事を聞けないのだ?」
ここで優しい顔をすると、総ちゃんはいつまでたっても土方詣でを止めないと思った近藤先生は、いつもよりちょっぴり怖い顔で言いました。
「・・・すみません」
蚊の鳴くより、小さな小さな総ちゃんの声でした。
近藤先生もそんな総ちゃんを見て、何だかジンと胸が痛みましたが、ここで情に流されてはいけないと、一度ふるふると頭を振りました。

「それにそんなに心配をしなくても、歳の風邪はもう治るだろう」
近藤先生は、総ちゃんを慰めるように言いました。
その言葉に、総ちゃんは伏せていた顔をおもむろに上げました。
「土方さん、風邪が治っちゃうのですかっ?」
総ちゃんは思わず声が大きくなってしまいました。
「あと一日辛抱すれば、明日には会うことができるよ。だからそれまでぴよちゃんと遊んでおいで」
さり気なく自分の渡した愛玩動物の存在を押し付けながら、近藤先生は優しく総ちゃんに笑いかけました。
けれど総ちゃんの心は今大きな衝撃を受けて、何も考えられません。

そうです。
風邪が治ってしまったら、総ちゃんは土方さんと一緒のお布団にくるまって、枕を並べて寝ることができなくなってしまうのです。
実は土方さんと一緒にお布団にくるまる時は、総ちゃんはなかなか寝かせては貰えないのです。
もうくたくたで、泣いて嫌ですと言っても離してはくれないのです。
疲れ果てて泥のように眠り、気がつけばいつも朝でお日様は高く、慌てて自分のお部屋に戻るのです。
そんな訳で総ちゃんは、一度でいいから素敵な夢を見ながら、土方さんの腕の中でゆっくりと眠ってみたいと常々思っていたのです。

土方さんだって風邪を引いていれば、きっと大人しく寝てくれます。
目覚める度に、くっついてしまいそうな近くに、土方さんのお顔があったらどんなにいいでしょう。
あんまり嬉しくって、幾度も目を瞑ったり開けたり・・・きっと数え切れない程繰り返してしまうでしょう。
思うだにシアワセな光景に、総ちゃんの瞳はもう、うるうるしてしまいます。
けれど土方さんの風邪が治ってしまったら、そんな夢もあぶくの様に弾けて儚く消えてしまいます。
総ちゃんはお部屋に帰りなさいという近藤先生の声も聞こえない位に呆然としたまま、ふらふらと元来た方向に戻ってゆきました。


ところが世の中に愛より強いものはありません。
それに神様は気紛れに、とんでもない思い付きを何の前触れも無く、人の心に閃かせます。

廊下の曲がり角まで来ると、それまで見るも寂しげに項垂れていた総ちゃんが、はたと気付いたように顔を上げ、やおら駆け出しました。
勢いのまま走って、とりあえず一番近い永倉さんのお部屋の前に来ると、声を掛けることも忘れて障子を開けました。

永倉さんは音のした方を、一度頭だけ捻って見上げましたが、総ちゃんだと分かると、またすぐに反対側を向いて知らぬ振りを決め込みました。
永倉さんは保身という言葉を知っています。
こんな時の総ちゃんには係わらない方が得策だと、かねてからの学習の成果が無意識に『総ちゃんは今ここにいない』と、永倉さんの頭の中に刷り込ませました。

けれど無意識の保身も、傍迷惑な愛には敵いません。
「永倉さん、永倉さん、あの・・」
控え目な声の割りには大胆に、永倉さんの被っているお布団を思いっきり剥がすと、それでも後ろを向けた侭まだ抗う永倉さんの背中を、総ちゃんは一生懸命に揺すりました。
「一体何だってんだ。まだお天道さんが顔を出さねぇうちに起き出しちゃ、お天道さんの立場ってもんがねぇだろうっ」
それが都合の良い理屈だとは、永倉さんは少しも思ってはいません。
けれどそんな理屈の更に上を行くのが、勘違いな究極愛なのです。

「土方さんに水を掛けて下さい」
総ちゃんは一向に振り向いてくれない永倉さんの背中に、まるで泣きそうな声で言いました。
「・・・分かった、分かった・・・水でも湯でも掛けて・・へっ?」
やっと上半身を起こして振り返った永倉さんは、流石に吃驚して総ちゃんを見ました。
「お前、熱でもあるのか?」
ぴたっとおでこに手を当てられて、総ちゃんはそれならばどんなに良いのに・・と、思わずにはいられません。
いつもはうんざりする程出る熱も、今回は総ちゃんの言うことなんか全然聞いてはくれないのです。
今まで散々身体を貸してやっていたのに、こんな時に恩返しをしてくれない薄情な熱にも咳にもくしゃみにも、もう頼ることは諦めました。
総ちゃんは自力で土方さんに風邪をうつして貰うのだと、堅く心に誓ったのです。
愛は限りなく奪うもの、そして底なしに滑稽なものなのかもしれません。

「水掛けるって・・お前、一体何を言い出したんだ?」
迷惑この上ない状況で、無理矢理頭を覚醒させられて、永倉さんは布団の上に胡座をかくと、諦めたように総ちゃんに問い掛けました。
「土方さんの風邪がもうすぐ治ってしまうのです」
総ちゃんは、永倉さんに詰め寄らんばかりです。
「そりゃ、めでてぇことじゃねぇか」
と言いながら、本当は嘘を言っている自分に、永倉さんはちょっと後ろめたい気がしましたが、世の中には『本音と建前』というものがちゃんと存在するので、有難く『建前』の方を使わせてもらうことにしました。
「でも治ったら困るのです」
「どうして?嬉しいの間違えじゃねぇのか?」
不思議そうに見る永倉さんに、総ちゃんはぷるぷると頭を振りました。
「治っちゃったら・・・」
一緒のお布団で眠れなくなる・・そう言いかけて、総ちゃんはハタと口に両手を当てました。
そうです。
幾らなんでも一緒のお布団で眠りたいがゆえに、土方さんの風邪不平癒の祈願をしているなどとは、流石に総ちゃんでも言えません。

「どうでもいいが、めでてぇ事に水掛けるなんて真似は俺にはできねぇよ。よそ頼みな」
永倉さんは本当は『土方さんに水を掛ける度胸』を生憎持ち合わせていなかったので、少しほっとして叉お布団を被って寝てしまいました。
永倉さんの背中を、総ちゃんは寂しそうに見ています。
でも少しもこっちを振り向いてくれない様子に、漸く諦めたように立ち上がると、しょんぼりと歩き始めました。
その足音を聞きながら、永倉さんは全然自分は悪くないのに、何故かすごくいけない事をしている気分になって、お布団から首を出すと、ちらりと総ちゃんの方を見上げました。

人の幸、不幸なんていうものは、案外こういう気の迷いから生じるものなのかもしれません。
視線をやったその時、何とまだ未練たっぷりで振り返った総ちゃんと目があってしまったのです。
その哀しそうな瞳にあって、永倉さんは咄嗟に知らない振りを決め込もうとしましたが、自分でも判らないうちに出てしまった言葉は・・・
「伊庭ならその位やってくれるぜ」
と云う、とんでもない責任転嫁でした。

「・・・八郎さん?」
呟いた総ちゃんの顔に、お日様があたったような笑みが広がりました。
そうです。
確かに八郎さんなら、その位朝飯前にやってくれるかもしれません。
「永倉さん、ありがとう」
総ちゃんは永倉さんに駆け寄ると、仰け反る永倉さんの両手を掴んでお礼を言いました。
そうして呆気に取られている永倉さんの事なんて、もう眼中に無いという風にお部屋を飛び出すと、急いでお玄関に向かって走り出しました。

その姿を永倉さんは暫らくぼぉっと見ていましたが、『夜が明ける前にはこんなこともあるもんさ』と、到底信じられない解釈を自分に強いて納得させました。



総ちゃんは所司代屋敷の門を潜ると、ちょうど其処にいた門番さんに、
「八郎さんを呼んで下さい」と、はぁはぁと白い息を吐きながらお願いしました。
総ちゃんの必死すぎる様子に何事かと驚いた門番さんは、あたふたと八郎さんを呼びに走ってくれました。

八郎さんはすぐにやって来ました。
「なんだえ?こんなに朝早くから」
いつも余裕の八郎さんは、今朝も扇子を口元に当ててゆったりと奥から姿を現しました。
ですが総ちゃんを見た途端、流石の八郎さんも、あんぐりと口をあけてしまいました。
そうなのです。
総ちゃんはあんまり急いで来たので、まだ薄い単の夜着を纏っているだけで、おまけに走ってきたので裾も乱れがちです。
八郎さんはこれが早朝で人目が少ない事であったことを感謝し、深夜自分ひとりの前で繰り広げられた光景でないことに、舌打ちしたい気分でした。
「八郎さん、お願いです」
そんな事にはお構いなしの総ちゃんは、八郎さんに駆け寄りました。
それを臆しもせず当たり前のように受け止めるところが、八郎さんの、伊庭八郎たる所以です。
「こんな寒いところで話はごめんだぜ。温(ぬく)い処で聞こう」
八郎さんは早速総ちゃんの肩を抱くと、自分のお部屋へと連れ立って歩き出しました。

その二人の後姿を見て門番さんは、『訳が分からないけれど一応の解決は見たらしいから、そのうちいつもと変わらない朝が来る』と思い、さっさと忘れて又お仕事に勤しむことにしました。


「それでお前は何のようだえ?」
流石に寒さで震えている総ちゃんの為に、せっせと火鉢の炭を強く熾しながら、八郎さんは聞きました。
「あのね、土方さんが風邪を引いて、それで水を掛けて欲しいのです」
総ちゃんはあんまり焦って言ったので、途中の説明をすっ飛ばしてしまいました。
けれどそれをどうとも思わないのが八郎さんです。

「水だけでいいのかえ?塩も撒いといた方がいいんだろ?」
そんな事は殊更何でも無いように、さらりと笑顔で言ってのける八郎さんは、総ちゃんにとってやっぱり頼りになる人です。
「どうせかけるなら朝の寒いうちがいいだろう。じゃあ早いとこ行くかえ?」
総ちゃんは本当に嬉しくなって、幾度も頷きました。
そのときです。

総ちゃんが小さなくしゃみをしました。
「ほら見ろ、そんな薄着じゃいけねぇよ。俺がぬくめてやろう」
八郎さんは待っていたとしか思えない素早さで、総ちゃんの肩を抱き寄せました。
けれど総ちゃんは『暖まるのは土方さんのお布団の中』と決めているので、ぷるぷると首を横に振りました。
またまたそのとき、総ちゃんの背中を悪寒が走りました。
「あれ?」
ほっぺたに手をやると、少し熱い気がします。
そのうち、くしゅん、くしゅんと、くしゃみが止まらなくなりました。
「・・・風邪だ」
八郎さんに向けた総ちゃんの顔に、満面の笑顔が広がりました。

そうなのです。
いつもあんなに好き勝手傍若無人に振舞っていた、咳もくしゃみも熱も、やっとみんな総ちゃんの身体に帰ってきてくれたのです。
そしてそれこそが、自分で掴んだ勝利だったのです。
風邪さえ引けばもう怖いものはありません。
これで大手を振って土方さんと一緒にいることができるのです。
総ちゃんは熱でぼおーとなってきた頭で、土方さんのお顔を一杯に思い浮かべます。
何だか周りがぼんやりと滲んで黄昏色に見えるのは、シアワセすぎるせいなのかもしれません。

そんな総ちゃんの額に触れて、あまりの熱さに流石の八郎さんも慌てました。
ぼんやりとした虚ろな瞳で、まだシアワセの中にいる総ちゃんを抱え上げて走り出して行く先は、もちろん御典医さまの処です。

八郎さんは考えます。
ついでに二条城の一室に総ちゃんの病室を作って、それから看病の為に休暇願いも出さなくてはなりません。
総ちゃんの食事は、最初はお粥がいいでしょう。
けれどお粥だけでは精がつきません。
それなら鰻を入れた雑炊を取り寄せた方が良いかもしれません。
それからすっぽんの鍋も・・・いえ、それはいけません。
総ちゃんの風邪が、あんまり早く治りすぎても八郎さんにはつまらないのです。
とにかくお城の一室で、総ちゃんを看病しながら一緒に暮らす日は、一日も長い方がいいに決まっています。
治さずこじらせず・・・この妙が何とも大切なのです。
愛は限りなく奪う、そして惜しみなく押し付けるものなのです。

総ちゃんを抱っこして走りながら、八郎さんはあらゆる算段をしてそれらを瞬時に取りまとめます。
いえいっそ御典医様を味方につけて、一緒に江戸に連れ帰っちゃうという手もあります。
総ちゃんを腕に抱えて、今八郎さんはとってもシアワセな中にいました。

急に上がってきた熱で、何が自分に起こっているのかもう分からない総ちゃんは、ふわふわ雲の上にいるようなキブンの中でとってもシアワセでした。
霞む視界のむこうで、土方さんが仏頂面で突っ立っています。
あと少しで土方さんの元に辿りつけるのです。

「・・・風邪の神さま、ありがとうございます」
又今度という機会もあるかもしれませんから、そこの処はきっちりとお礼を言うと、総ちゃんは瞳を閉じて、シアワセなシアワセな夢の中に入ってゆきました。



さてさてその頃土方さんのお部屋には、もう半刻近くも伊東さんが、初めて見る機嫌のいい土方さんの相手をさせられていました。
さっきから土方さんは信じられない事に伊東さんを、これでもか、これでもかという位に誉めちぎっているのです。
最初は何か魂胆があると警戒していた伊東さんも、段々悪い気はしなくなってきました。
今では何だか土方さんが少しだけ良い人の様にも思えるから不思議です。

その土方さんは目の前の伊東さんを、昔薬を売り歩いていた時に、誉めちぎっていいキブンにさせてやって薬を買わせた女だと必死に自分に思いこませ、よくもまあ出てくると呆れる位に賛美の言葉を次々にご披露しています。

それもその筈です。
実は風邪は最後の治癒段階に突入しているのですが、治りかけこそ人にうつしやすいのです。
土方さんは風邪を引いたと分かった瞬間に、絶対伊東さんにうつしてやると心に決めていたのです。
その日を待って長い長い三日・・・・。
総ちゃんとも隔離され苛々が最高潮に達した今朝、ついに密かな企ては実行に移されたのです。
あと半刻位目を瞑って一緒にいれば、風邪は完全に伊東さんへと引き継がれるでしょう。
そしてすっかり良くなった自分は、さっそく総ちゃんを呼んで・・・。
伊東さんにはいつにも増して過酷な仕打ちを、総ちゃんとは三日分の愛の抱擁を・・・。

土方さんは今伊東さんへの誉め言葉を、立て板に水のように口先だけで並べながら、総ちゃんの顔を思い浮かべて、とってもシアワセなキブンの中にいました。

そして・・・・。
持ち上げられるだけ持ち上げられた伊東さんも・・・。
まだ堕とされる時を知らず、やっぱりシアワセな中にいました。



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