総ちゃんのシアワセ♪ 
             恋の道でシアワセ♪なの (むすび)




「何だえ?」
総ちゃんの様子に、傍らの八郎さんと、田坂さん、それに正面に座していた道真公と玄海さん、更に室と廊下の際に座り込んでいた、一等後ろの永倉さんまでもが、何事かと、刀を持つには、少々頼りなさ過ぎる華奢な手元を覗きこみました。
・・・ですが。  
その途端、道真公と玄海さんを除く三人が、一斉に眉根を寄せ、おもむろに顔を上げると、まじまじと総ちゃんを見つめました。
けれど当の総ちゃんの魂は、とっくに夢路に彷徨い出てしまったようで、深い色の瞳はうっとりと鍔を見つめたまま、瞬きもしません。


「あんた、止めてやらなかったのかえ?」
やがて八郎さんが、そうしてやるのが、人の道から外れようとしている者を諭し戒める、周りの人間の努めだと云わんばかりに、責める言葉に深い溜息を籠めて、一さんに批難の視線を送りました。
「止めたさ、二度」
「だが三度目には、頷いてしまったのか・・」
一さんの素気無いいらえに、田坂さんが、それに負けて諾と承知してしまった事が、何よりも罪深い選択だったのだと暗に告げ、そのまま峻厳な面差しで腕を組むと、難しげに宙を睨みました。
その後ろから永倉さんが、悪趣味・・と、喉元まで出かかった言葉は何とか胸の裡に仕舞いこみ、これ以上は、見ざる云わざる聞かざるに、ついでに知らざるも付け加えると決めるや、さりげなく元座っていた位置に戻り、先程と同じように胡坐をかきました。
そして今見た事を早々に脳裏から切り捨てる為に、ふりふりと、二度三度頭を振りました。

けれど、その三人三様の反応とは又別に――

「あのぉ・・・」
刀の鍔を、じっと覗き込んでいた道真公でしたが、幾度か首を傾げた後、やがて夢見心地の総ちゃんに、恐る恐ると云う体(てい)で声を掛けました。
「これ、どう云う意味か、よう分からんのやけど・・」
太い指で指した其処には、皆が眉間に皺を寄せなければならなかった、その元凶が・・・

そうなのです。
今総ちゃんが、頬擦りせんばかりうっとりと見つめている、梅の花を形どった鍔には、その縁に読み取れるか否かの細かさで、何やら文字らしき細工の意匠が凝らされていたのです。
そしてその文字を、道真公は、ようよう繋げて読んで行ったのですが、どうにか読み終えた挙句の問いが、先程のものだったのです。

「そのままなのです」
ですが相手の声と顔にある不審には、全く気付かぬのかそれとも頓着無いのか、まるで謡うように呟く総ちゃんに、道真公は又も怪訝に目を瞬かせます。
「あのぉ・・けどそのまま、云うたかたて、うちには何も意味が無いように思えるんやけど・・・
しれば迷い、しなければ迷わぬ・・やろぉ?そんで・・」
「恋の道、ですがな」
どう頑張っても理解に苦しむのか、今一度繰り返したは良いものの、やはり途中で詰まってしまった道真公の脇から、誇らしげに後を続けたのは玄海さんでした。

「しれば迷い、しなければ迷わぬ恋の道。・・・しなければ迷わぬと分かっている恋の道も、ついついしてしまうのが、人として生まれついた者のやっかいな業。せやったら、して迷い、そうして迷ったら、仏に縋りなはれ。迷うたかて縋り処があれば、安心して幾度も恋が出来ますやろ?・・・この句ぅは、そないに云うてますのや。一見当たり前のようやけど、人の世の無常と仏の道の奥深さが、たった五七五の短い言葉の中に、てんこ盛りに籠められてますのや」
ここぞとばかりに胸を反らせ、更にそうする事で、己の説法により重みを持たせる為に、玄海さんは声を落として仰々しく告げると、語りの最後に、句の彫られている鍔に向かい合掌しながら、うやうやしく坊主頭を下げ、これでもかと有り難さを強調しました。
それに習って、唯ひとり総ちゃんだけが、深くこうべを垂れました。
そうして暫し鍔を拝んだ後、ゆっくりと顔を上げるや・・・
「あのね、この間、太物屋さんから、とても立派な刀を頂いたのです。それでね、一さんのお知り合いの小間物屋さんにお願いして、この刀に相応しい句を鍔に細工してくれる職人さんを、紹介してもらったのです」
蒼味が勝った白い細い指で、いとおしそうに何度も鍔に触れながら、それが漸く出来上がってきたのだと、返す言葉も見当たらず、無言の行を強いられている周りの者達に、嬉しそうに語る総ちゃんの深い色の瞳には、感動のあまり滲むものすらあります。


「あんたが、仲を取り持ってやったのか」
「仕方が無いだろう」
その総ちゃんからさり気なく目を逸らし、小声で責める八郎さんに、批難の的となった一さんも、聞き取れぬ程の低い声で、物憂げに応じます。
「だがその職人も、良く頷いたものだな。・・・職人なら職人としての、矜持も意地もあっただろうに」
この仕事を引き受けてしまったが故に、其処で職人としての終(つい)を迎えてしまったと云わんばかりに、田坂さんが、相手への同情を禁じえない風な、深いため息を漏らしました。
「俺とて直前まで止めたさ。が、紹介されて出向いた先で、渋る職人を前にして、あの坊主の説法を、一言一句違(たが)える事無く、あいつは語り始めた。・・・その内昼も過ぎ夕になり、心身ともに疲れ果てた相手がとうとう根負けし、がくりと首を項垂れ、遂に諾と頷いた。だがあいつはその様にすら気付かず、陶酔しきったように、とうとうと語り続け、もう相手は承知したと、俺が肩を掴んで振り向かせて教え、其処で漸く話を止めた」
淡々と経緯を語りながらも、一緒に付き合わされていた、自分の忍耐の時をも同時に思い出したのか、凡そ感情の変化と云うものを見せない、一さんの怜悧な横顔が、一瞬苦渋に歪みました。
けれど・・・
説法を仕舞いにしろと告げた時、向けられた深い色の瞳に宿る、寂しげな色を見たその瞬間、何だか自分が酷く無体を強いている、悪者のような気分に陥り、もう少し続けさせてやっても良いかと、一瞬でも思ったとは決して口には出さず、一さんは、己の気の迷いを胸の奥深くに封じ込めました。

「捻りもなけりゃ中身も無い句を商売にした、あの説法を朝から夕まで、・・か?」
そんな胸中までは流石に知らず、無言で頷く一さんにちらりと視線を送ると、遣る瀬無い溜息をひとつ吐きながら、八郎さんは思います。

まぁ、過ぎてしまった事を、あれこれ云った処で、今更どうなるものでもありません。
何より、一緒に巻き込まれて難儀したのは一さんで、自分では無いのです。
それに総ちゃんがあれだけ喜んでいるのですから、わざわざ其処に水を差し、好き好んで敵役になる事もありません。
と、其処まで考えるや、八郎さんは早々に思考を切り替え、正月から想い人のシアワセそうな笑顔が見られれば良しと、全てを、懐深く受け止める事にしました。
そのまま、くだんの鍔を付けた刀を、それはそれは大事そうに胸に抱き、うっとりと玄海さんの説法に耳を傾けている総ちゃんの、白くか細い項に視線を止めるや――
「正月の余興には、上々だろうさ」
ぱちりぱちりと扇子を鳴らし、八郎さんは、鷹揚に呟きました。
いえどうせならば、上様ご用達の店(たな)で作らせてみたら、もう少し意匠を凝らせて面白かったかもしれぬと・・・
戻った余裕は、そんな方向にまで思いを馳せさせ、手にしていた扇子が、その無念を晴らすかのように、はらりと開かれました。

ですが――。
もうこれしきの事には動じない、太い神経の人間達とは違い、其処はお天神さまと、千年の余も恭しく奉られてきた神さま、道真公。
そうそう簡単に、ああ、さいですかと、納得するには見栄も矜持もあります。
昨春に引き続き、又しても己の常識の範疇を、大きくはみ出た句に遭遇し、けれどそれを理解しなければ、学問の神さまの沽券に関わると、鍔に施された文字を、睨みつけるようにして、道理を引っ込め無理を押し通そうとしていたその時。

「あのね・・」
又しても、総ちゃんの柔らかな声が掛かりました。
「この句は、奥深いだけではなくて、とても太っ腹なのです」
「ふとっぱら・・?」
次ぎから次ぎへと、混迷の度を増す事態に、流石に道真公も気弱な風に目を瞬かせます。
けれど云った当の総ちゃんは、嬉しそうに頷いたものの、句の持つ素晴らしさを伝えるだけ伝えれば、それで満足だったようで、心は再び夢路に戻ってしまい、その後の言葉が続きません。
「恋の道を、仏の道や甘味の道・・こないな風に臨機応変に、いろんなもんに置きかえる事が出来ますのや。せやし太っ腹で慈悲深い句、云いますのや」
その総ちゃんに代わり、ここぞとばかりに胸を反らせたのは玄海さんでした。
「せやしうちとこでは、このありがたぁい句ぅを、本堂の仏像の横に安置して、毎朝毎晩皆で唱和してますのや」
更に、例えそれがお天神さまであろうが人さまであろうが、そんな事には構わず、玄海さんは声を静かにして、道真公に仏の道を説きます。
ところが。
神さまも人さまも、何が幸いするのか、この世は全く摩訶不思議。
何とっ。
「臨機応変なぁ・・」
道真公は、その一言がひどく心に引っかかったようで、素早く呆然の体を抜け出すと、今度は思案げに宙を睨みました。

「学問の道ってのに、置きかえてもいいんだぜ?そうすりゃ、あんたんとこも使い回しが出来るだろう?」
その道真公の胸中に、不意に去来したものを簡単に見透かし、八郎さんが神さまを煽ります。
「この句ぅの素晴らしい処は、よう分からんからこそ、説きようによっては、あたかも其れがほんまもんのように思わせてしまうとこですのや」
しかも玄海さん自ら、何やら意味ありげな視線を道真公に送り、商売繁盛の奥の手を、ちらりと垣間見せるのです。
「ほな、うちとこにもええかもしれんなぁ・・・しれば迷い、しなければ迷わぬ学問の道・・やろ?そんで、して迷うたら・・」
「学問の神さんに縋りなはれ、て云うことですわ」
ぽつりと漏れた呟きの後を、悠然と引き受けたのは、玄海さんの囁くような耳打ちでした。
「・・学問の、神さんに縋りなはれ・・?それやったら、迷うて最後に縋れるのは・・縋れるのは・・」
しばし口の中でぶつぶつと繰り返していた道真公でしたが、やがて一筋の光明に導かれたかのように、ぽんと手を打つと顔を上げました。
「うちの事やんかっ」
「何がだえ?」
「学問の道に迷うたもんが、縋るところに決まってるやんか」
どうでも良さそうに入れた八郎さんの相槌に、即座に断言して宙に向けた小さな双つの眸には、己に課せられた使命を、今こそ全うする時が訪れたのだと云わんばかりの、確乎不抜たる強い信念がありました。
そして周囲の呆れた視線など目に入らぬかのように、道真公は、そのまますっくと立ち上がると、大きく息を吸い込むや・・・
「しれば迷いぃ しなければ迷わぬぅう 学問の道ぃい」
朗々と、声高々に句を詠み終え、更にその余韻も消えぬうちに・・・
「迷うて、皆うちに縋ればええ。学問の神さまのうちに、縋ればええんや」
ひとり悦に入り感慨深げに呟くと、己の目頭を熱くするものを、無骨な指でそっと拭い去りました。

それを見上げながら田坂さんは、神さまも人さまも、幸せと云うものは、自分の激しい思い込み次第で、如何様にも作る事が出来るのなのかもしれないと、幸不幸の核にあるものの、実はとても単純な簡単さを、ふと垣間見た気分でした。
更に一等後ろの敷居際で、事の成り行きを無言で見ていた永倉さんは、室の中の者達とは他人を決め込むと引いた一線を、より太く深くし、おもむろに視線を庭へと移しました。
そして。
今繰り広げられた全ては、最初から無かったのだと己に言い聞かせ、長閑な初春の陽射しに、いとおしげに目を細めました。


「じゃ、あんたも本殿に、この句を大書して飾ったらどうだえ?いやいっそ、守札の中身を学問の道に変えた句にしたら、買った奴は、たとえ迷った処で、縋り処までついて来る親切な守札だと有り難がるぜ。迷って難儀したいと思う奴なんざ、いないだろうからな」
なぁ?と、いつの間にか如才なく薄っぺらな肩を抱き、覗き込むようにして同意を求める八郎さんに、総ちゃんは深く深く頷くと、潤む瞳で道真公を見つめます。
「あ、それ、ええ考えやなぁ。そしたら学問の道で迷うても、其処から唯一救ってやる事のでけるうちの事を、皆もっと尊敬するわ」
その総ちゃんの熱い眼差しを受け胸震わせながら、一石二鳥のこの案に、道真公も満足げに頷きます。
「あ、そやっ。絵馬にも、全部この句を書いとったらどうやろ?そんでその横に、迷ったらお天神さまに縋りなはれって付け足しとったら、そりゃ親切やろ?そないな優しい神さんやったら、書いた願い事も成就さしてくれるやろう思うて、皆、絵馬も守札も仰山買うてくわ」
更に浮かんだ妙案に、道真公は、太い眉毛も口髭も顎鬚も、取り敢えず下げられるものは全部下げ、己の先見の明に、惚れ惚れと目を細めました。
その姿を見ながら――。

どうにも突っ込みようの無い句を美味しく解釈し、立ち直るが早いか、今度は早速商売に結びつける抜け目の無さに、神さまも世知辛いご時世だと呆れつつも、絵馬になった恋敵の川柳が、鈴なりに掛けられている図を想像し、それはそれで又面白いかもしれないと、田坂さんはひとり片頬を緩めました。
そして、その田坂さんの横では――。
「しれば迷い、しなければ迷わぬ学問の道・・・。ほんま、何にでも使える、奥深い句ぅや・・」
玄海さんも今一度、あたかも有難げに繰り返すと、遂にはお天神さままで仏の道に導いた己の度量と裁量に、西本願寺史上最年少での大僧正の地位も間近、いえいえ、既に掌中にしたも同然と、密かにほくそ笑みながら、燦然と室に満ちる光華の中で、眩いばかりに坊主頭を煌かせました。
更に――。
「ならば明日は、その絵馬でも見に行ってみるかえ?」
楽しげに誘う八郎さんに、潤んだ瞳のまま、総ちゃんもこくこくと頷きます。

天満宮に参拝に来た人達に、うやうやしく手を合わせられる、土方さんの句。
仏さまばかりでは無く、神さままでをも、その奥の深さ、大雑把さで唸らせる、素晴らしい土方さんの句。
西本願寺の本堂に、金色(こんじき)の仏像と並び奉られ、そして今又、北野天満宮の本殿に飾られ皆から奉られる、土方さんの尊い句。
思っただけで総ちゃんは、瞳を覆うものが頬を伝うのを、もう堪える事が出来ません。
本当に、何て素敵なお正月なのでしょう。
ついさっきまで、土方さんのいない寂しさに萎れていたのが、嘘のようです。


「総ちゃん、うちとこに来てくれるんっ?せやったら、うち学問の道の句を大書して、今から本殿の真中に飾って来るわっ」
云うが早いか、道真公は束帯の衣を翻し、悦び勇んで踵を返そうとしましたが、けれどふとその動きを止め、おもむろに総ちゃんを振り返りました。
そして。
「あのぉ・・」
つい今しがたまでの勢いは何処へやら、ちらりと総ちゃんを上目で捉えると、言葉を詰まらせてしまいました。
「うちの書いた守札、総ちゃん、貰うてくれるやろか?」
そして一瞬の躊躇いの後口を開くと、もじもじと、まるで蚊の鳴くような小さな声で、漸くその先を続けました。
「・・それだけは、その鍔の句と同じ、恋の道のにしようと思うんやけどぉ・・」
更に。
総ちゃんみっちゃんと名を並べ、金糸銀糸で刺繍した袋に納めて、自分もお揃いで身につけるつもりだとは云わず、恥ずかしげに付け足しました。
そんな道真公の胸中までは露知らない総ちゃんは、迷いも躊躇いもなく、それはそれは嬉しげに頷きます。
お天神さま御自らの手になる守札を見せたら、有名人好きの近藤先生は、どんなに喜んでくれる事でしょう。
父とも慕う大切な近藤先生に、お正月から恩返しが出来ると思うと、それだけで総ちゃんの胸はシアワセで一杯になるのです。
まるで梅の花が一遍に綻んだような笑みを向けられ、見つめる道真公の頬も、呆(ぼう)と、紅く染まります。
けれど・・

その様を横目で見ながら、一さんは――。
傍迷惑な一途こそは、この世で一番の無敵なのかもしれないと、これから起こるひと悶着に巻き込まれざるを得ない己を思い、ひとり夢路を漂っているシアワセそうな横顔にちらりと視線を送ると、現に生きねばならない人としての、遣る瀬無い息をつきました。
更にその一部始終を、背中で聞いていた永倉さんは・・・
近藤さんと土方さんの今日最後の仕事は、上七軒での初接待だと、お供に駆り出された島田さんが云っていたのを、ふと思い出しましたが、幾ら隣でも、土方さんが天満宮に寄る事は無かろうと、否、例えそうであったとしても自分には関係の無い事なのだと、一瞬でも過った危惧を、即座に脳裏から消し去りました。
そうして。

「いい正月だよな・・」
改めてこれまでの一切を記憶から葬り去るや、全ては今からが始まりなのだと、そう自分に言い聞かせる為に声にして呟き、最初からやりなおすように、麗らかな初春の陽に彩られる庭に向けた目を細めました。





さてさて。
そんなこんなの西本願寺新撰組屯所からは少しばかり離れて、此処は、みっちゃんこと菅原道真公の寓居、北野天満宮のお隣にある花街、上七軒。
今宵の接待の為に用意された座敷の中には、近藤先生、土方さん、島田さんの三人が、予定よりもずいぶんと早くについてしまい、迎えるべき客を待つ暇を持て余していました。

「歳、よい正月だな」
厳(いかめ)しい強面に、人の良さそうな笑みを浮かべた近藤先生が、傍らの土方さんを見遣りました。
「あんたにはな」
ですがその土方さんは、指一本分だけ開けた格子窓の外に視線を向けたまま、無愛想な不機嫌面を崩しません。

それもそのはず。
昨夜、何処と無く気の抜けた西本願寺の除夜の鐘を聞きながら、腕に抱いた総ちゃんと互いの温もりを分かち合い、至福の時を過ごしたのも束の間。
シアワセそうに眠る面輪に、後ろ髪を引かれる思いで床を抜け出したのは、まだ夜も明けやらぬ薄暗い頃合。
それからこっち、いつ終わるとも知れぬ形ばかりの挨拶廻りに、一体どれ程の無駄な時を費やした事か。
さても今頃想い人は、ひとり寂しく何をしているだろうと、もしや自分を恋しがり泪しているのではなかろうかと・・・
そんないじらしい姿を、閉じた瞼の向こうに思い浮かべるたび、胸かきむしられるような焦燥に駆られ、土方さんの苛立ちは、もう極限にまで膨れ上がっていたのです。
それでも仕事は、未だ自分を解放してはくれません。
何処にもぶつけようの無い怒りを持て余し、忌々しげに眉間を寄せ、ふと視線の位置を変えれば、其処には、冬を全く感じさせぬこんもりとした杜が――。
その木立が北野天満宮だと即座に察するや、土方さんは、室の隅に控えていた島田さんを、顎をしゃくる仕草だけで呼び寄せました。
それに気付いた島田さんが、はて何かと、遠慮がちに膝を進め近寄ると、土方さんは懐から取り出した財布から、一分金を手渡しました。
「隣で、大吉を引いて来い」
「・・大吉・・でしょうか?」
大きな体で、おずおずと聞く島田さんに、土方さんは鋭い目で是きはしましたが、相変わらず無言のままです。
その一分金を両の掌で受けながら、島田さんは考えます。

大吉を引いて来いとの言葉は、それは即ち、大吉だけを持って来いと云う事で、だとしたら、小吉や吉を引いても駄目で、凶などもっての他で、大吉が出るまで引き続けよとの意図を、暗に含んでいるのだろうか・・・
けれどもう既に夕刻。
お御籤も残り少なく、もしも大吉に辿りつくまでに、そのお御籤自体が無くなってしまっていたら・・・
それはやはり命令を遂行出来なかった咎で、隊規違反になるのだろうか。
ならば、大吉を引き当てぬ限り、行き着く先は切腹。
お正月早々、島田さんの額には、冷たい汗が滲みます。
ところが、流石はお正月。
捨てる神あれば、拾う神あり。
使命遂行の難しさに身を堅くし、深い熟考に陥っていた島田さんの手の平にあった一分金が不意にが浮き、軽くなったその感覚に、はたと気付いて目を上げれば、其処には相変わらず仏頂面の新撰組副長の顔が。
「やはり、俺が行く」
云うなり立ち上がった長身を、近藤先生も島田さんも、呆気に取られて見上げていましたが、そんな視線などお構いなしに、土方さんは廊下へ出、ぴしゃりと襖を閉めると、もう振り返りもせず室を後にしました。


 人の顔貌(かおかたち)すら、克明に映し出しそうな程に磨き込まれた、黒光りする茶屋の廊下を歩きながら、土方さんは思います。

御神籤は、例え大吉でも、その中に待ち人来たらずの文句があっては、意味が無いのです。
まして恋ならずでは、元も子も無いのです。
必ずや、全てが良しの大吉でなければならないのです。
そうなると他人に行かせるのでは、心許ないものがあります。
やはりここは一番、この土方歳三自らが出向いて、愛しい想い人との幸先を祝う大吉を、必ずや引き当てねばなりません。
と、そろそろ辺りが茜色の夕景に染まる中、意気込みも新たに進めていた足が、不意に止まりました。
そしてそのまま土方さんは、行く手に開ける杜に視線を投げかけるや、懐手にしていた右手を、顎に当て替えました。
そう云えば――。

北野天満宮は学問の神、菅原道真公を祭る神社。
何より、自分が愛でる梅の花の名所。
ならば想い人との行く末を、寿ぐ句にして絵馬に書き、梅の木に吊るして来るのも、又新春ならではの一興。
そして蕾がほころび、梅の香がむせ返る程に境内を満たすようになった頃、それを総ちゃんに見せたら――
深い色の瞳は驚きと悦びに見開かれ、瞬く間に朝露のような水膜に覆われる事でしょう。
やがてその瞳から、花弁よりも滑らかな白い頬に、ひと滴の露が滑り落ち、同時に自分に向けられる、花にも勝る想い人の笑みは、どんなにか艶やかに、我が世の春を彩ってくれることか。
その様を、まるで今現のもののように思い浮かべるだけで、胸の裡は、しかと満たされるのです。
他の追随を許さぬ己の鋭い閃きに、土方さんはひとり満足げに頷くと、それを即座に実行に移すべく、おもむろに先への一歩を踏み出しました。



 
「輔清さま、御神籤と守札の中身、みなあの句に変えてきましたけど・・」
「ご苦労さん、そんで絵馬の方はどないした?」
「へぇ、あっちも絵の横に、漏れなく書き足してきましたわ」
「ほな、これで全部できたと云うことやな」
輔清と呼ばれた初老の男は、背伸びをしたままの格好で返事をし、よいしょと、何やら大きな紙を、大儀そうに掛け終えると、上っていた台座から足元を気にしいしい、ゆっくりと降り立ち、漸く相手を振り向きました。
「あの・・輔清さま、あの句ぅで、ほんまにええんでしょうか?」
けれどやって来た男は、掛けられたばかりの紙をちらりと見上げ、そして直ぐに輔清に視線を戻すや、おずおずと、遠慮がちに問いました。
「仕方あらへんやろ、道真さまが、どないしてもそうする云わはって聞かんのやから。こうしとけば、絵馬やら守札が、飛ぶように売れるて云うんやけどなぁ。・・・ほんまかどうか分からんけど、まぁ、これで賽銭箱が潤うんやったら、それでええとするしか無いわ。この本殿かて、修理せなあかんとこばっかりやのに、昨今何処の大名も、懐具合が渋いよってなぁ・・贅沢云うてたら、きりが無いわ」
これも世知辛い浮世を、細く長くつつがなく生き延びて行く為の術だと云わんばかりに、輔清は頭をふりふりと振り、深い溜息をつきました。

「あ、そや」
と、その吐いた息の白さも冷気に消え行かぬ内に、大切な事を忘れていたとばかりに、輔清が白髪頭を上げました。
「これでええか、一応道真さまに見て貰わんとあかんわ、何処行かれたんやろ・・」
「道真さまなら、境内の一等大きな梅の木の下にいましたえ」
「梅の木?又どないしてそんなとこに・・」
「何でも明日来るお客はんが、えらい大事な人で、そんでその人と、どないしても梅の花を見るんやて云うて、梅の木を睨んでましたわ」
「梅の木睨んだかて、花は咲かんやろ」
「咲かぬなら、咲かせて見せよう梅の花・・とか、ぶつぶつ云うてはりましたわ」
「どっかで聞いた事のある台詞やな、誰やったかいな」
宙に向けた目を細め、輔清は、それが何であったのかを、思い出すかのようにしていましたが、束の間の沈黙のあと、見事な八の字の鼻髭が揺れました。
「・・・ああ、あれか・・。太閤はんを云いなぞった、あの不如帰かいな」
やがて漏れたのは、然して遠くも無い昔を懐古するでもない、億劫そうな呟きでした。
「けどあれよりは、なんぼも分かりやすうて、ええんと違いますか?」
「確かになぁ・・」
そうして、遠慮がちに掛かった声に応えながら、胡乱に見上げた視線の先には・・・
『しれば迷い しなければ迷わぬ 学問の道』
と、大書された句が、まだ乾き切れぬ墨に光を跳ねさせ、燦然と輝いていました。

「何やもう、世間の流行りすたりも、千年も経つとよう分からんわ」
暫し無言でそれを眺めていた二人でしたが、輔清が、その千年の時を一足飛びにするような、深い深い溜息を漏らしました。
「ほんまですなぁ」
ですが・・・
それに同調するかのような呟きが、隣の男の口からも、遣る瀬無く零れたその時――。
折から射し込む茜色の陽を背負い、ゆっくりと此方にやって来る人影がひとつ。
「誰か来たで」
「こないな夕方に、物好きな参拝客もいるもんですなぁ」
「あの句が流行りやて云うご時勢なら、夕方詣でる物好きかているやろ。賽銭箱さえ潤うたら、それでええわ」
「そら、そうですわ」

 そんな会話が為されているなど露知らず、本殿に向かう土方さんの足が、大吉の御神籤を必ずや掌中にし、それから総ちゃんとの恋の道を寿ぐ句を書いた絵馬を、一番枝振りの良い梅の木に吊るさんと、気が急(せ)く分、俄かに早くなります。


招かざる客と、迎える神さま――。

その両者に、今年最初の夕日が、満遍なく金色の陽を降り注ぎ始めました。









おあとがよろしいようで・・・今年も、相変わらず、とほほ。。。







瑠璃の文庫