総ちゃんのシアワセ お天神さまの然印(さいん)♪なの ――ここは北野天満宮の東隣、上七軒の入口にある、美貌の女主梅香さんが適当に切り盛りしている、茶所『梅香』です。 「なぁ、梅ちゃん、あそこに座っておる子、誰や?」 「みっちゃん、相変わらず目ぇつけるのだけは早いなぁ。けど駄目やで。あの子、好きおうた人がおるんや」 「そんなん構へん」 店の隅の緋毛氈の敷かれた台に、ちんまり腰掛けている華奢な姿に目を釘付け、他人さまにどのような事情があろうと知った事では無いとうそぶく客に、梅香さんは青磁の茶碗を大事そうに拭きながら、呆れた視線を流しました。 「名前、教えてぇな」 なぁなぁと、にじり寄る男に、梅香さんは暫らく考える風に宙に眸を置いていましたが、やがてその頬がにんまりと緩み、ゆっくりと視線を戻した時には、口元にはんなりと艶な笑みが浮んでいました。 「教えてあげんでもないけどぉ・・」 「また、そないにいけず言ぅ」 「いけずと違いますえ、うちかて商いですもん。せやし、見返りはきっちり貰わんと」 たかだか人の名前ひとつ教えるくらいで、何も其処まで大仰にする事も無いだろうと思うのは、懸想する事を知らぬ者の侘しい了見。 一度片恋によろめけば、後はもう坂道を転がる雪のつぶてのように、慕う気持ちは膨らみ膨らみ・・・気がつけば、あっと云う間に心の全ては、想う相手の事で隙無い始末。 たった一言のいらえを求めて、縋るような眼差しを送る男に、もうすでに勝利を掌中にしたとばかりに、梅香さんは思わず目を「笑」の形にして、ほくそえみました。 「・・見返りって、どないな?」 それにすっかり呑まれた風に、先程からみっちゃんと呼ばれている客は、梅香さんの顔をまじまじと見、躊躇いがちに聞きます。 「あんなぁ、みっちゃんとこにお参りに来る人、そりゃもう仰山おるやろ?そんでお参り終わったあとの出口を、うちとこの店の前に作って欲しいんや」 「梅ちゃんとこの店の前に?けどそれやったら、横から出て下さい、云う事やんか」 「お参り終わったあとやったら、出口は横でも裏でもええんとちがう?」 「そりゃまぁ、そうやけど・・」 「そしたらみっちゃんとこも、お参りに行かはる人と、終わって帰らはる人がぶつからんでええし、うちとこの店も繁盛するし、一石三鳥やわ。・・・それに」 少しばかり思案している様子の『みっちゃん』に、梅香さんは自分の視線をちらりと目当ての姿に向け、それで相手の目も其方に促すと、もったいぶるように言葉を止めました。 「もし横に出口作ってくれはったら、名前教えるだけやのうて、あの子にみっちゃんのこと、紹介してあげてもええわ」 「ほんまにっ?」 「ほんまですとも。うちかて島原の梅香や。神さん逆手にとって嘘はいいまへん」 島原の梅香さんが、何故上七軒で粋の良い啖呵を切っているのか・・などと野暮な突込みをしないのが、世知辛い世間さまと塩梅良く折り合いつけて、細く長くつつがなく生きて行く、そりゃもう譲れぬお約束。 「な?ええ取引やろ?みっちゃんとあの子の仲は、うちがあんじょう取り持ってあげます」 艶然と微笑む梅香さんに向かい、みっちゃんは条件を呑む覚悟を決めつつも、初め戸惑い具合に髭に覆われた顎を引きましたが、外の梅の花に心奪われている風な、たおやかな姿をちらりと盗み見した瞬間、今度はその躊躇いを、はるか彼方へ飛ばす勢いで、慌てて大きく頷きました。 「総ちゃん、云うん?」 突然気配も無く声を掛けられ、総ちゃんは吃驚して、もう直ぐ脇にまで来ていた髭の男に深い色の瞳を向けました。 「ああ、そないに驚かんでもよろし。なんも怪しいもんと違いますがな、なぁ?」 男はゆったり笑いかけると、横の梅香さんにも相槌を求めました。 「そうやなぁ、怪しいもんとちゃう・・云うのも違うんやけどぉ。まぁええんと違う?」 「又そないにつれんことを・・」 「そやかて、みっちゃん人やないんやもん」 「今日び神さんよりも、人の方がよっぽども怪しいわ」 「こないに仰山お寺はんや神社はんがあれば、ひとりふたり怪しい神さんかていてはるやろ?」 「そこいらの神さんと、一緒にせんといて」 やんわり微笑む梅香さんと、不満そうな男の応酬が、これまた果てなく続きそうになったその時―― 「・・あの」 それまで唖然と二人の会話を聞いてた総ちゃんが、遠慮がちに小さく声を掛けました。 「なにっ?」 懸想した相手の声を耳にした途端、不機嫌面だった男の顔に俄然光明が射し、いそいそと身を乗り出すようにされて、その分総ちゃんは、仰け反りながら身を引きました。 「あの・・人で無いって?」 自分を舐めるように見ている男に、総ちゃんの不思議そうな瞳が向けられます。 「あんなぁ、この人これでも神さんやねん。其処の・・」 男より先に応えた梅香さんが、右手の人差し指を外に向け、総ちゃんの視線を其方へと促しました。 「北野天満宮ゆうとこの、神さんなんやて」 「これでも云うんは失礼とちゃう?うちは菅原道真云う、誰かて知ってはる、学問なら他所さんの追随を許さん立派な神さんやで」 「・・すがわらのみちざね?」 「知ってはる?」 小さく漏れた呟きを聞き逃さず、嬉しそうに問うみっちゃんに、総ちゃんは今ひとつ躊躇いがちに頷きました。 ですがいきなり古典に名を連ねる人物が、目の前の髭面の男ですと云われたところで、ああさいですかと、諸手をあげて信じるお目出度い人間が一体何処にいるでしょう? どうにかこうにか総ちゃんもその例外では無かったようで、あまりに信じ難い驚きに、深い色の瞳を瞠ったまま見上げるばかりで、言葉も出ません。 「なぁ、横に座ってもええ?」 ですがそんなことはお構い無しの、みっちゃんこと菅原道真公は、云うが早いか返事も待たず、総ちゃんの横に無理やり腰を下ろしました。 「みっちゃん、見てみぃ。あんたがあんまり強引やから、総ちゃん吃驚してはるわ」 「堪忍。けど総ちゃんは、ほんま梅の花にも負けへんなぁ」 梅香さんの辛辣な意見に、一応詫びの言葉を口にするものの、そんな事など何処吹く風の道真公は、更に総ちゃんとの間を縮めます。 「あんたはそないな風やから嫌われて、太宰府くんだりにまで飛ばされたんやで」 その様子を見て、梅香さんは溜息混じりに頭を振りました。 「あ、それ云わんといて。ほんまっ、思い出しただけでも胸糞悪いわっ」 「あの・・」 「なにっ?」 これ以上出来ないと云う程に仏頂面を作った道真公でしたが、不意にかかった総ちゃんの声に、咄嗟の切り替え宜しく、すぐさま顔中の肉を緩めて振り返りました。 「あの・・本当にお天神さまなのかな?」 むやみに人を疑ってはいけないと、常々近藤先生から言い聞かされている総ちゃんですが、今自分にくっつきそうに近寄っているのが、世間さまに『お天神さん』と慕われる北野天満宮の主とは、やはりどう考えても信じられず、おずおずと見上げる瞳が不安と疑心に揺れ動きます。 「それはほんまらしいわ」 ところが、改めて名乗ろうと胸を反らせかけた道真公を差し置いて、それに応えたのは梅香さんでした。 「せやし、学問所の試験がある時期は、みっちゃんもえろう忙しいんや」 「学問の神様やからなぁ。どいつもこいつも、最後はうちとこに一遍に頼ってくるよって、えろうしんどいわ」 両手を肩のあたりにまで上げて、ふりふりと頭を振ったあと、文句を云いながらも、頭に被った烏帽子が落っこちそうになる程、道真公は胸を反らせました。 「ま、そう云う事や。みっちゃんが怪しいもんと違う云うんは、うちが太鼓判押すわ」 梅文様の帯をぽんと叩いて、梅香さんは案ずるなとばかりに、総ちゃんに笑みを向けました。 ちょっとやそっとでは有り得ない話にすっかり動転し、ひたすら大きく瞳を瞠ってばかりの総ちゃんでしたが、そう云われてよくよく相手を観察すれば、なるほど、確かに以前山南さんに見せてもらった、昔絵巻の中に出て来る菅原道真公に似ているような気もします。 そしてそうなればなったで、常ならば、馬鹿げた話と一笑に付す事柄も、一旦本当なのだと思い始めれば、今度は歴史に名を馳せる有名人にまみえた奇跡を、至極単純な喜びに変えてしまうのは、ごくごくありふれた日常に生活する者の哀しい性(さが)。 おまけに顔なじみの人間が太鼓判を押すとなれば、あとは一直線に、棚からぼた餅のようなこの僥倖を、夢と覚めやらぬよう素直に受け止めるのみ。 総ちゃんもそのご多分に、少しだけ引っかかっていたようで、それまで何処か臆する風だった視線が、いつの間にか畏怖と憧憬を交えた色に変わり、道真公に向けられました。 ですがそれもほんの少しの間の事で、総ちゃんははたと気付いたように、道真公ににじり寄りました。 「あのっ・・お天神さまにお願いがあるのです」 「お天神さまやなんて、他人行儀な事云わんと、みっちゃん云うてえなぁ」 他人に相違ない道真公は、太い眉毛の下の目を、絹糸のように細くして頬を緩めました。 「・・うちも総ちゃん、て呼ぶよって・・」 そうして聞き取れない程小さな声で、もじもじと付け足しました。 「あほくさ」 その様に、ちらりと冷めたい視線を流した梅香さんの呟きだけが、夢と現の境をはっきり線引きします。 「あのね、これに・・」 ですが自分のお願い事に頭が一杯の総ちゃんは、そんな事など気にする余裕など何処にも無いようで、慌てて胸の袷から細い指で懐紙を取り出すと、それを両の手の平に乗せて道真公に差し出しました。 「これに、名前を書いて欲しいのです」 「名前?うちの?」 不思議そうに問う道真公に、総ちゃんは真摯な眼差しで、こくこくと頷きます。 「みっちゃんの名前なんて書いて、どないするん?」 あくまで、蚊帳の外の傍観者に徹すると決めていた梅香さんも、流石に問う声に訝しさを隠せません。 「あのね、この紙にお天神さまに名前を書いてもらって、近藤先生に上げたら、きっと喜ぶと思うのです」 まるでこれ以上素敵な思いつきは無いとでも云う風に、総ちゃんはうっとりと、花が綻ぶような笑みを湛えました。 そうなのです。 近藤先生はこれで結構な有名人好きで、世間に名を轟かせる人物にまみえる機会がある度に、直筆で名を書いてもらい、それを掛け軸にしたり、時にはその人の手形足型まで取らせて貰い、宝にしていたのです。 そして常々、いつか上様と今上天皇のお手になる何かを頂戴したいものだと、馬頭饅頭を食べる手を止め、溜息混じりに総ちゃんに夢を語っていたのです。 そんな近藤先生ですから、もしも菅原道真公おん自らの筆で名を書いて貰った懐紙をお土産にすれば、どんなにか喜んでくれる事でしょう。 本当は短冊か半紙の方が良いのですが、咄嗟の事ですから、其処の処は持ち合わせの懐紙でも、近藤先生とて許してくれる筈です。 何しろ『今は亡き』正一位太政大臣菅原道真公なのです。 そう云う意味では、上様だって今上天皇だって敵いません。 今まで実の親以上の慈愛を注いで育ててくれた近藤先生に、やっとひとつご恩を返せると思うと、総ちゃんの瞳がみるみる露に覆われます。 「確かに・・・近藤はんは、喜ぶかもしれへんなぁ」 梅香さんは右の人差し指を頬に添えると、少しだけ目線を上にして、案外単純な人情家である新撰組局長の、厳つい四角な顔を思い浮かべました。 「そないなこと、お安い御用や。なんぼでも云うてえなぁ」 道真公は、云うが早いかあっと云う間に袖を襷で纏め上げ、これまた斜めに吊っていた矢立てから筆を取り出すと、四方に墨を飛ばさんばかりの勢いで、総ちゃんから懐紙を奪い上げました。 そして総ちゃんは固唾を飲み、梅香さんはどうでも良いように見守る中、菅原道真公おん手で、白い懐紙に墨蹟鮮やかな文字がしたためられようとした、今正にその時―― 「あっ、そや」 突然、道真公の筆を持つ手の動きが、独り言と共に止まったのです。 「せっかくやから、うちの作った有名な和歌を書いたらどうやろ?それとも漢詩かてかまへんで?うちの作った和歌や漢詩はあんまり素晴らしすぎて、後世のもんがそれはそれは恭しく拝み奉ってる位や」 「・・和歌?」 総ちゃんの呟きに、道真公は大きく頷きました。 「そや。例えば・・」 そこでもったいぶって一旦言葉を止め、仰々しく咳払いをして喉の調子を整えると、 「東風吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」 一分の遠慮も謙遜も憚りも無く、最初から最後まで徹底的に自己陶酔だけに終始して、それはそれは高らかに詠み上げるや、道真公は誇らしげに総ちゃんに視線を戻しました。 ところが―― 総ちゃんは感嘆の溜息をつくでも無く、羨望の眼差しを送るでも無く、何の変化も見せず、暫し道真公を見上げていましたが、やがてふと何かを思い出したように、外にある梅の花を見遣ると、細い面輪にうっとりと、夢見るような笑みを浮かべたのです。 「あの・・なんぞ可笑しいことある?」 これには流石の道真公も、何か様子が変と感じ、不安そうに尋ねると、再び視線を戻した総ちゃんの形の良い唇が、嬉しそうに綻びました。 「あのね、それならば、土方さんの句を書いて欲しいのです」 「土方・・?誰やそれ?」 「あんたの恋敵や」 気色ばむ道真公の後ろから、梅香さんが残酷な補足を親切に入れました。 「・・こいがたき?」 「そや。総ちゃんのええ人や」 「何やてっ」 梅香さんが声を落として囁いた途端、道真公の眉毛といい、口髭といい、顎鬚といい・・・とにかく逆立てられるもの全てが、怒髪天を突く勢いで跳ね上がりました。 「土方かなんか知らんが、うちに敵う和歌なんぞ、だぁれも書けへんっ」 学問の神さまと崇め奉られ、今じゃすっかりお茶の間にも其れで定着している尊い自分と云えど、何処の馬の骨とも分らぬ素人の和歌より劣るなどと面と向かって云われた日には、癇癪のひとつふたつ起こしたくなるのは至極当然とばかりに、道真公の文句は尽きません。 しかもそれが恋敵の手によるものとなれば、男、菅原道真の矜持にも係ります。 「あのね・・」 ですが何処の世にも上には上がいるもので、総ちゃんはそんな道真公の怒りなど全く気がつかぬ風に、胸の袷から、今度は懐紙ではなく細く畳んだ紙片を取り出しました。 「・・これなのです」 蒼が勝った白い指で大事そうに開いた其処には、くねくねと、確かに文字らしきものが這っています。 そうして何事かと怪訝に覗き込む梅香さんと道真公を他所に、総ちゃんは自分の手の平にある短冊に視線を落とすと、か細い項から耳たぶまでをもほんのり朱に染めて、瞳を伏せてしまいました。 その一瞬の艶やかな変化を見逃さず、道真公の喉仏も、つられてゆっくりと上下します。 「土方はんの句ぅやないの。総ちゃん、あんたこないなもんを、いっつも後生大事に持っているん?」 梅香さんの声にある呆れた調子など端から横にのけて、総ちゃんは嬉しそうにこくこくと頷きました。 そして。 その総ちゃんに、暫しうっとりと視線を止めていた道真公でしたが、梅香さんの今の言葉で、これが恋敵の筆による句だと知るや否や漸く現に戻り、急いでもう一度短冊に目を向けました。 「誰の句や知らんが、小賢しいわっ。学問の神さんのうちが寸評したるっ」 ところが・・ 「梅の花一輪さいても・・・梅は・・・・梅?」 勢い込んで詠み始めた道真公でしたが、段々に声は小さくなり、仕舞いに到っては、それは消え行くように宙に離散してしまいました。 やがて不思議を通り越し、どんなに頑張っても最早理解不可能の事態に遭遇して気弱になった二つの目が、シアワセそうに微笑む総ちゃんに、控えめに向けられました。 「あの・・これ、どう云う意味なんか、よう分らんのやけど・・」 「そのままなのです」 遠慮がちに問う道真公に、白梅をほんのり紅梅に交じらせたような淡い色の唇から、すぐさま明快ないらえが戻りました。 「そのまま・・云うたかて・・」 「そのままやから、そのままなんと違う?」 更にこれまた素っ気無い解説が、梅香さんからも返ります。 「二輪咲いたかて桜にも桃にもならんし、梅は梅やろ?」 「せやけど・・」 確かに梅香さんの云う事は、まったくもってその通りなのです。 けれどそれはそれ、曲がりなりにも学問の神さまとなれば、あまりに当然すぎる事を、何の飾りもつけず、捻りもせず、そのまま句にすると云う神経が、計り知れないのです。 「あんたの和歌より、何ぼも分りやすくてええんと違う?」 「失礼やなっ」 「せやかてほんまやもん。なぁ、総ちゃん」 梅香さんの同意を求める声に、当の本人を目の前にして、本当を云って良いのかどうか、・・総ちゃんは戸惑いに揺れ、遂に瞳を伏せてしまいました。 「ほら見てみぃ。総ちゃんかて、ほんまを云うに云われず困ってるわ」 「総ちゃん、ほんまのこと云うて。うちの和歌の事どう思う?」 叡智の俊英ともてはやされ、早千歳。 けれどもうこうなれば、神さまだって人さんだって、恋に悩み、切ない溜息つくのは同じこと。 いえいえ、なまじ学問一筋だっただけに、そのつけが恋に対する不器用にまわり、懸想する相手には空振りばかりの、みっちゃんこと道真公は、一目惚れして想う人のいらえを求め、心の臓の高鳴りを抑える事が出来ません。 「・・あの」 「なにっ、云うてっ」 「あの・・・もしも風が吹かなかったら、・・梅の花は咲かないのかな?」 どうしたら良いのか迷いながらも、感想はと求められてそれを返さないのは、神さまに対して大層罰当たりな事と思い、総ちゃんはおずおずと道真公を見て問いました。 「あ、そりゃそうや。そんでもし吹いたのが南風やったら、みっちゃん、あんたどないするん?」 総ちゃんの着眼の鋭さに、梅香さんも然もありなんとばかりに、ぽんと手のひらを叩き、納得げに頷きます。 「東風云うたら春風やんか。そんで春風吹いたら忘れず花つけてぇな、うちがいないかて怠けたらあかんで、云う和歌や。南風やったら、春風とちゃうわ」 そんな事も分らないのかと云わんばかりに道真公はふんと横を向き、これだから凡人は困ると、烏帽子の載った頭をふりふりと振りました。 「あんなぁ。みっちゃんの、そう云うところがあかんのや」 ですがそれを見た梅香さんは、ほとほと呆れ果てたように、深い息をつきました。 「どこがあかんのや」 「みっちゃん自分以外の人間は、みんな阿呆やて思うてるやろ?」 道真公に視線を向けて、梅香さんは有無を言わさぬ強い口調で諭します。 「そないなことは・・」 「思うてる。それに自分がいなくても花をつけろやなんて、えらいえばってるわ。総ちゃんもそう思わへん?」 きつく断言し、意見を求める梅香さんに、総ちゃんがどう云う反応を示すのか、道真公は恐る恐る視線を横へと流しました。 「あのね・・土方さんの句は、風が吹いても吹かなくても、梅は梅なのです。それにそのままなので、とても分りやすくて、誰でもすぐに覚えてしまうのです」 ところが総ちゃんは、もう道真公の和歌などすっかり念頭から消え去ってしまったのか、形の良い唇はただひたすらに、土方賛歌だけを紡ぐに終始します。 「確かになぁ・・、下手に小細工して難しゅうするよりも、単純で皆が覚えやすいのが一番かもしれんなぁ」 さもありなんと呟く梅香さんに向かい、総ちゃんは、それはそれは嬉しそうに幾度も頷きます。 それどころか、語る内に心はすでに土方さんの事で一杯になってしまったのか、深い色の瞳は、今は其処にいない相手を見つめるように、うっとりと潤み始める始末です。 「総ちゃんは単純なのが好きなんっ?」 詰め寄る道真公の叫びも届かず、今が盛りと花をつけている梅の木に、まるで夢見るような視線を送り、総ちゃんはもう振り向こうともしません。 「誰もおつむ使うて考えなあかん難しいのよりも、簡単で分り易い方がええに決まっとるわ」 その様を、呆然と見つめる道真公の耳に、梅香さんの現の教訓が、幾重にも木霊して響きます。 「・・総ちゃんは・・単純の方が好き・・」 はらはらと舞うひとひらの花びらが、総ちゃんの細い首筋に沿って弧を描きながら後ろへと伝い流れ、やがて落着いた先の項の白さにごくんと生唾呑み込んだ道真公の呟きが、うららかな春の陽射しの中にぼんやりと零れ落ちました。 ――その夜。 月輪の光にぼんやりと浮かんでいた白梅も、そろそろ宵闇に紛れて姿を隠そうするこの頃合。 昼間の賑わいが嘘のようにひっそりと静まり返った社殿の、その一番奥まった室で、先程から道真公は文机に向かい、筆を動かしては直ぐに止め、止めては又動かし・・・ 一体どれ程こうして同じ事を繰り返しているのか、数えるのにも疲れ果て、それに否応無しに付き合って控えている従僕は、主に分らぬように、そっと欠伸交じりの溜息をつきました。 「でけたっ」 と、突然主の背中が歓喜の叫びとともに、跳ねるように飛び上がり、勢いのままやおら後ろを振り返りました。 「なぁ、これどうやっ」 「・・はぁ」 喜び勇んで、まるで踊るような足取りでやって来た道真公が見せた紙に、律儀な従僕は、形ばかりの視線を向けましたが、其処に書かれているものを見た瞬間大きく眸を開き、そしてすぐさま手の甲で両目を擦ると、今一度墨蹟鮮やかなそれを凝視しました。 そうして暫し視線を釘付けていましたが、やがてゆっくりと顔を上げ、自分の主をまじまじと見つめました。 「ええやろ」 奇奇怪怪な眼差しを受けても、そんな事は物ともせず、道真公は胸といわず腹までをも反り返らせ、誇らしげに従僕を見下ろします。 「東風吹かば、匂い寄越しても寄越さんでも梅は梅。主なしとて春は春」 朗々と謳い上げる主を、従僕は口を『唖』の字にして、ただただ見上げるばかりで世辞の言葉の最初も出てきません。 「今日び小難しい和歌は駄目やねん。万人受けするんは、単純すぎるくらいに分り易いのがええねん。世の流行すたりはちゃんと心得ておかな、此処かて大宰府かて後世まで奉られるんは難しい御時世や。せやし、神さんかて胡坐かいておったらあかんのや」 宙を睨み、力強く言い切る道真公の声だけが、静まり返る広い境内に響き渡ります。 「・・総ちゃん、気に入ってくれるやろか」 そうして独り演説の余韻のように、そのまま握った拳を胸元に当てると、道真公はほんの少し頬を染め、恥らうようにぽつりと呟きました。 おあとがよろしいようで。。。とほほ 瑠璃の文庫 |