それは・・・・

総ちゃんがまだ宗ちゃんだった頃のお話です。
ある日お使いに出た宗ちゃんが、お日様もつれなくさよならしそうに日暮れ、帰る足を急がせていると、ふいに風が吹いて頭のずっと上の木の枝をざわわと揺らしました。夕暮れのこんな頃合に誰もいない大きな木の下で、宗ちゃんの足は思わず竦んで止まってしまいました。
でもこんなことで怖がっていたら土方さんに笑われてしまいます。
それどころか意気地なしは嫌いだと言われてしまうかもしれません。
ぷるると一瞬頭を振り、風の騒がせた枝の方を思い切って見上げると、宗ちゃんのふたつの瞳が淡く白い何かの色にふさがれてしまいました。

「うわぁ・・・」

けれどそれはすぐにうっとりと、溜息に変わりました。
そうなのです。

風は通りすがりにちょっとだけ悪戯をして、櫻の花びらを、まるで天から降らせるようにはらはらと舞わせて行ったのです。
宗ちゃんは仄かな色合いの花弁を、一杯に首を反らせて上に向けた顔に、宙に高く伸ばして開いた手のひらに、瞳を瞑って捉えようとしました。
柔らかいそれは少しだけ湿り気を帯びしっとりと冷ややかで、けれどその分優しく宗ちゃんの頬に肌に触れます。

けれどふと宗ちゃんは瞳をあけました。
こんなに花が散ってしまったら、櫻の木はどんなに寂しいでしょう。
不安になった心で高い木を仰ぎ見ると、まだ枝はきまぐれな風の余韻を残して時折先の方を揺らします。

「・・・あのね、花がみんななくなっちゃったら寂しく無いの?」
宗ちゃんは応えがある筈も無いと思っても、不思議と櫻に話しかけたくなってしまいました。

そのときです。
またも一陣の風が宗ちゃんの頬をなぶるように吹き抜けました。
咄嗟に目を瞑り、肘を曲げた腕でそれを凌いだ宗ちゃんに、何処からか低い声が聞こえてきました。

--------花が散ってもまた新しい若葉が生まれるのだよ
若葉が大人の葉になり、やがて冷たい風に紅く色が変わり地に落ちても実は残るのだよ
そうして裸のままで凍てる季節を遣り過ごし
けれどまたぬくい風にのって実はほころび花は咲くのだよ--------

声はうたうように、遠くからとも近くからとも聞こえてきます。

「・・・それじゃあ櫻はずっと変わらずにここにいるの?」

宗ちゃんはどういう訳か怖いとも思わず、姿が見えない声の主に聞きました。
宗ちゃんは暫く応えが返るのをじっと待っていましたが、今度はいつまでもいつまでもずっと静かな沈黙だけが其処にあります。
宗ちゃんはまた独り残されたような寂しさに、少しだけ哀しくなって顔を俯けました。

その時またまた二枚か三枚のほんの僅かな花びらが、上から舞って来て宗ちゃんの肩に降りかかりました。
宗ちゃんにはそれがやっと貰えた櫻の返事のように思えました。
もう一度天を振り仰ぐと、今度はもう少し沢山の櫻が金色に染まった陽の中で、表を見せ、裏を見せ、まるで舞うを楽しむかのようにはらはらと散ってゆきます。
それを宗ちゃんはいつまでもいつまでも立ち尽くしたまま、うっとりとみつめていました。

 

 

枝の先がたわわにしなるのは、今年は欲張って実をつけすぎたのか・・・
花の重さに櫻の木は少し困ったように溜息をつきました。

そんな時です。

「・・・櫻さん、櫻さん」

下の方で呼ばれて視線を落すと、何処かで見た事のある少年が木を見上げています。
少し大人になっているけれど、この少年には確かに見覚えがあります。

さて誰だったか・・・櫻は気難しげな顔をして思い起こそうとしました。
あれは・・・
そうそう、もうずいぶん前のことです。
花が散ってしまえば寂しくないかと、自分の事を案じてくれた少年です。

---------どうしたのだい?

掛けた筈の言葉は上手く通じただろうか・・・
櫻はらしくも無く心配になりました。

「あのね、もうじき土方さんが帰って来るのです。それで此処で待っていてもいいかな?」

あの時と同じように、少年は優しげな瞳を瞬いて見上げてきます。

---------土方さんとは?

はて、そのような名前を聞きはしなかったが・・
櫻は自分の記憶が悪くなったのではないかと、一生懸命思い出そうとしました。

「土方さんはね、ずっとずっと遠い処にいるのです」

--------それなら待っていても帰りは何時になるか分からないだろう?

自分の問い掛けに、しおれたように瞳を伏せた少年の寂しそうな姿が櫻の胸に辛くせまります。

---------待っていても良いけれど、その人間は此処にお前がいることを分かっているのかい?

慌てて付け加えた一言に、少年の顔がえもいわれぬ喜びにほころびました。
それはまるで自分の身にある蕾が花に変わる様に似ていると、櫻の木は思いました。

「あのね、本当はもう土方さんを待っている心しかないのです。それでね土方さんが探しに来た時に姿が見えないと心配するから・・・だからお願いがあるのです」

--------心しかないと言うのかい?

不思議そうに見下ろす櫻に、少年はこくこくと頷きました。

--------それでもわたしにはお前の姿が見えているが・・・
まぁ長いこと生きていれば不思議なこともあるものさ

それよりお前の願いというのはなんなのだい?

櫻はそれ以上探るのでもなく、少年に語りかけました。

「・・・えっとね、心しか無いから土方さんには分からないでしょう?だからこの心に櫻の花びらを一杯積もらせてほしいのです」

--------それを目印にさせるというのかい?

少年は更に嬉しそうに大きく頷きました。

「きっとね、見つけてくれると思うのです」

少年の笑顔に、櫻もそんなものかな・・と、何となく思ってしまいました。
思えば、今年は花が重くて難儀しているのです。
枝を震わせて花を散らせればずいぶんと軽くなるでしょう。
それに少年が喜んで、その土方とやらも助けてやることができれば一石二鳥というものです。
案外に、良い考えなのかもしれません。


---------それでは少しだけ目を瞑っておいで。お前を淡い色の花びらで覆ってしまうよ

少年が黒曜石の深い色に似た瞳をそっと閉じるのを見届けると、櫻はひゅうっと合図の口笛を吹いて風を呼び起こしました。

 

はらはらはらはら・・・・・

 

総ちゃんを隠してしまうかのように、花は散り続けます。
いつか積もった花びらが風に吹かれて飛んで行ってしまっても、どうか土方さんが見つけてくれますように・・・
胸の前で合わせた両の掌に願いを込めて、総ちゃんは祈ります。


はらはらはらはら・・・・

・・・・そんな思いも埋めてしまうかのように


はらはらはらはら・・・・・

櫻はいつまでもいつまでも音も無く舞い散ります







                 瑠璃の文庫